2015年10月22日

天地創造の神と日本人の信仰心


 天地創造の神と日本人の信仰心




                          2015年9月25日

    西九州伝道所 佐々木正明


はじめに


プロテスタント・キリスト教が日本に入ってきてから、もう150年以上になりました。私がクリスチャンになってからでさえ、すでに半世紀をすぎています。でも、とても不思議なことがあります。日本人は何でも上手に、自分たち合うように改良しているのに、キリスト教だけは、ほとんど日本人の手が加えられないまま、ここまで来ているのです。


確かに、一所懸命に福音を日本化しようとして、本来の聖書の教えから少しばかり離れてしまった、無教会主義の試みがありました。死者への想いを大切にする日本人の心に配慮するあまり、本来の聖書の教えをわずかばかり歪めてしまった、原始福音の努力もありました。他にも、日本の文化や宗教に適応しようとして、シンクレティズムの傾向を強くした例もあります。


ところが、聖書を誤りのない神の言葉として真剣に学び、その教えを忠実に保持することを絶対の条件としながら、日本の文化と宗教、そして日本人の宗教心を学び、日本人的な創造性をもって考え、日本人のためのクリスチャン神学を構築し、日本人的なクリスチャン信仰の形態について説こうとする働きが、まだあまり興っていないのです。筆者は、日本の宣教の行き詰まりの大きな原因の一つが、ここにあると考えています。日本人は宣教150年を経てもまだ、西欧人の築き上げた神学を一方的に学ぶだけで、日本人として、自分の目で聖書を読み、理解しようとしていません。日本人のための福音の理解、日本人のための神学の構築が、まだできていないのです。


福音は本来普遍的なもの、全世界のすべての民族を対象としたものです。神は福音を普遍的にするため、イスラエル民族を選び、その中に、救い主を生まれさせられたのです。福音が、イスラエルの文化の折に閉じ込められて、単なる民族宗教に留まってしまいそうになったとき、神はパウロという人物を起して、福音の普遍性を明らかにしてくださいました。福音の普遍性とは、神の救いの計画のはじめから、全民族の救いが目的とされていたことです。日本人の救いも、最初からそこに含まれていたということです。


日本人はイスラエル民族への救いの神学にも、西欧人の救いと信仰形態のための神学にも、留まる必要はないのです。日本人はイスラエル人の救いの「おこぼれ」を頂いて、感動していてはならず、西欧人のために作り上げられた神学の「お古」をもらって、いつまでも喜んでいてはならないのです。福音は、初めから日本人に対するものでもあったからです。だから日本人は、福音を日本人的に理解する必要があるのです


 ただし、ここでもういちど明白にしておきたいのは、日本人のキリスト教を作るということは、聖書の教えを離れて、擬似キリスト教を作ることではありません。日本の文化や宗教の「いいとこ取り」をして、シンクレティズムに陥ることでもありません。あくまでも正当なプロテスタント主義として、聖書の正しい読み方をし、その聖書の読み方の許容範囲内で、キリスト教の日本的なあり方を考えるものです。


この問題について、筆者は今まで様々な機会に語り、また書いてきました。しかし、まだまだ理解されていません。ですからこれからも角度を変え、視点を変えて語り続け、書き続けなければならないと感じています。



T. 日本人の躓き


 日本人がキリスト教に躓いてきた理由はたくさんありますが、その最大のもののひとつは、キリスト教の非寛容性だと思います。日本の文化と宗教に対して、殆どの宣教師、牧師そしてクリスチャンたちは、敵対的な態度を取ってきました。その理由は、聖書が教えるところによれば、神がもっとも忌み嫌われるものが偶像礼拝であり、日本の宗教は、その偶像礼拝に当たるからだというのです。その上、日本の文化と宗教は切っても切れない関係にあるから、日本の文化自体が偶像文化であり、変えられなければならないと主張し、日本人の多くを敵に回しているのです。これは聖書のまったくの読み違いであり、欧米キリスト教の間違いです。でも、今や世界中のキリスト教が、この欧米キリスト教の間違いを、鵜呑みにして受け入れています。そして、多くの国々で不要な軋轢を生み出しているのです。 


18世紀から20世紀初頭までのイギリスやアメリカには、キリスト教文化至上主義という、とんでもない独りよがりの感覚があって、世界中をキリスト教文化に変えてしまおうという、鼻息の荒い宣教師たちも少なくありませんでした。宣教を主目的としていなかった欧米人の多くも、鼻から、日本の文化は下等な文化、劣った文化、神に嫌われる文化と決めつけて、それを学んでみようなどという、奇特な人間はまさに希少生物でした。なかでも、伝統的な千年期後再臨説をとっていた者たちは、世界中がキリスト教文化となった暁には、もっともっと良い世界が実現し、そこにキリストが王として再臨してくださると考えたのです。


宣教に熱心な宣教師はさらに過激で、神道も仏教もそれらに関係する新興宗教もみな、十把一絡げに偶像教として憎み、排斥しようとしました。そのようなキリスト教に、日本人は躓いてしまったのです。さまざまな文化的障害を乗り越えて、やっとキリストを救い主として受け入れることができた日本人たちも、日本の文化と宗教、伝統と習慣の中で、自分の信仰を貫いて生きることには、並大抵ではない困難を感じています。実際、一度キリスト教信仰を告白した日本人の多くが挫折し、心ではキリストに親しみを感じながらも、教会生活を離れてしまったのです。 


U. 基本的な聖書の読み違い

 では、欧米キリスト教は、どのように聖書を読み違えてしまったのでしょう。それは非常に単純な間違いなのですが、あの旧新約聖書という非常に厚い書物を、正しく理解することは困難だという当たり前のことのほかに、そうならざるを得なかった素地もあったのです。


聖書の教えに立つと主張するプロテスタント・キリスト教が発生し、印刷機が発明されて大量の聖書が印刷され、多くの人々が聖書を読めるようになったのは16世紀になってからのことです。それにいたるまでの長い期間に、聖書の教えとはかなりかけ離れたキリスト教、しかもヨーロッパ諸国を支配する程の強大なキリスト教が、すでに出来上がっていたのです。聖書を唯一の権威とするプロテスタント主義が生まれたからといって、彼らの聖書の読み方自体が、決定的に、当時の伝統的キリスト教、聖書の教えとはかなりかけ離れたところがある、それまでのキリスト教の強い影響を受けていたのです。


聖書の権威を主張するプロテスタントの人々は、聖書という書物を、神が、自分たちに与えてくださったものとして、読み解こうとしました。その態度は完全に間違っていたわけではありません。確かに聖書は「広い間接的な意味」では、全人類に与えられたものだからです。もう少し狭めた意味では、クリスチャンたちに与えられたとも言えなくはありません。しかし「直接的には」つまり、正確な宛先は、違います。旧約聖書が与えられたのは、直接的には、あるいは厳格な意味では、あくまでもユダヤ人というひとつの民族だったのです。


新約聖書は、多分ルカ文書を除いては、すべて、ユダヤ人をも含むクリスチャンに向けて書かれたものです。ルカ文書も、同じだと考えても差し支えありませんが、もしかすると、クリスチャンになりかけていた、テオピロというひとりの人物の可能性もあるという程度です。


こういうことを無視して、聖書はすべて全人類に与えられた神の教え、神の戒め、神の命令だと受け取ったのが、ヨーロッパのプロテスタントであり、それをそのまま受け継いだのがアメリカのプロテスタントです。そしてそれが、なんの疑いも持たれないまま、日本に輸入され、そのまま教えられているのです。もちろん、厳密な学問の世界では、聖書に含まれているそれぞれの文書の宛先は注意深く研究されて、「全世界の人々」ではないことがはっきりしています。ところが日常のクリスチャン生活の分野、一般のクリスチャン信仰の世界、あるいは宣教という場では、聖書は「全世界の人々」に与えられた書物なのです。厳密な聖書の研究者であってもそうなのです。


その結果、旧約聖書の峻厳な神のイメージが、そのままキリスト教の神のイメージとなってしまいました。それで多くの日本人に、「優しい日本人の精神風土には合わない」と指摘されているのです。「私のほかに何者をも神としてはならない」と、厳しく命じ、厳重な罰則を適用する神は、八百万の神々を分け隔てなく敬う、おおらかな日本人の宗教心にはふさわしくないと、退けられているわけです。


これはまさしく、とんでもない誤解です。日本人が誤解したのではなく、西欧キリスト教が聖書を読み違え、その読み違えた教えを持ち込んだために起こった、日本人の誤解なのです。偶像礼拝の禁止、ただ、天地を創造した神だけを拝めという命令は、常識をもって、自然な態度で、普通の読解力で、先入観を排して、しっかりと聖書を読むならば、エジプトの奴隷生活から解放されたばかりの、ユダヤ人に向けて語られているということは、明々白々です。


「わたし以外に何者をも神としてはならない」というのは、出エジプト記20章3節の命令ですが、その命令に先立って、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という言葉が(新改訳)、2節に記されている通りです。


つまりこの命令は、400年間に及ぶエジプトでの奴隷状態から助け出された、ユダヤ民族に対して、奇跡に次ぐ奇跡をもって彼らを助け出した神が、お命じになった言葉なのです。「私があなた方を救い出した神だ、だから、あなた方は私だけを礼拝しなさい」という意味です。創世記から始まる、人類とユダヤ民族との関係をよく読み取った上で、出エジプト記を読み、この十戒の部分を読むならば、誰でも、当然、そのような結論になるはずです。


 旧約聖書全体を読むと、イスラエル民族はこの神の命令に背き、しばしば偶像礼に陥っていたことが分かります。神はそのたびに厳しく罰しながらも彼らを赦し、受け入れていかれたのです。この神とイスラエルの関係は、ホセアとその妻ゴメルの実物レッスンとして描かれています。ホセアは神の命令を受け、自堕落な生活をして見るも哀れな状態に陥った女、ゴメルを助け出し、彼女と結婚するのですが、ゴメルは元の生活を捨てきれず、ホセアを捨てて他の男に走り、奔放な生活をくり返しては惨めな姿に陥ります。そんなゴメルを再三にわたって贖い出したホセアは、彼女に言うのです。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫したり、他の男と通じたりしてはならない。私もあなたにそうしよう。」(ホセア3:3) これが偶像礼拝をくり返す民族に対する神の言葉です。ゴメルはあくまでもイスラエル民族です。日本人ではありません。ホセアのこの言葉は、他のどの女にも語られてはいません。ただ、ゴメルにだけ語られたのです。

ところがプロテスタント・キリスト教は、「聖書、聖書」と言いながら、聖書を正しく読んでいないのです。カトリック時代の権威主義を継承して、キリスト教は絶対の宗教である、ほかの宗教はみなダメな宗教、嘘の宗教であると断定してしまってから、その先入観でこの十戒も読んで、日本人にそのまま適用しているのです。その高飛車な態度が嫌われているのです。


素直に聖書を読むならば、旧約聖書が、ユダヤ人に与えられたものであることははっきりしています。そこに書かれている命令や戒めは、直接的には、すべてユダヤ人に向けて書かれているのです。もちろん、それを広く解釈して、いまの私たちにも適用することができる場合があると認めたとしても、直接的には、あくまでもユダヤ人であるという事実を、ないがしろにしてはいけないのです。


創世記から聖書全体を読んで行くと、ユダヤ人という民族は、神の救いを全人類にもたらすための器として、神ご自身によって選び出されたことがわかります。旧約聖書、つまり律法は、そのユダヤ民族が、全人類に神の救いをもたらす器として、ふさわしいものとなっていくために与えられた、教育の書物なのです。神のことも、人間としての生き方も知らなかった、まさに右も左もわきまえていなかった民族を、神の御用に向けて立派に育て上げるための教導書なのです。


旧約聖書、つまり、律法を与えられたユダヤ民族と、律法を与えられていない異邦人の違いは明白です。これを理解しないで、「クリスチャン文化」の中に生まれ育った自分たちを、あたかもユダヤ人であるかのように誤解して作り上げたのが、欧米の神学なのです。彼らは、自分たちこそ、霊的なユダヤ人、真実なユダヤ人であると単純に考えたのかもしれません。霊的なユダヤ人は、血筋によるユダヤ人とは違うのです。霊的ユダヤ人と血筋によるユダヤ人をまったく同一視する神学に、私たちは同調しません。旧約聖書、つまり律法は、血筋によるユダヤ人と、ユダヤ教に改宗して、ユダヤ人として認められた人々に与えられたものであって、霊的ユダヤ人であるとひとりよがりに自認した、欧米キリスト教文化に生まれ育った人々に、与えられたものではありません。


V. パウロが教える律法


パウロは、律法を与えられた者だけに、律法が適用されるということを、しっかりと心得ていました。彼は「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」と語っています。(ローマ2:12)律法を与えられている者と、律法を与えられていない者とには、大きな違いがあるのです。彼はまた、「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われている」とも言っています。(ローマ3:19)


律法を与えられたユダヤ民族と、律法を与えられていない異邦人との間には、明白に、神の異なった取り扱いがあるのです。数々の奇跡を通して、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエル民族は、その体験から、モーセが語り聞かせた神、昔から自分たちの先祖の名を被せて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言い習わして来た神が、ほかのどのような神々よりも力強いと理解しただけでなく、その神に強い恩義を感じたはずなのです。


それが、人間としての当然の心の動きだったはずです。その恩義から、ユダヤ民族はモーセが語った「わたしはある」と自己紹介された神を、自分の神としようと考えて当然です。ところが十戒はさらに一歩踏み込んで、「わたしだけを」礼拝しなさいと命じています。実際のところ、神と呼んで礼拝すべきものなど、他には存在しないのですが、モーセの時代にも、多くの人々は様々な神々を想定し、たくさんの偶像を作って礼拝していました。天地創造の記事が入っている創世記は、この十戒の付与の出来事から少し後に、この神こそ唯一絶対で、ほかの偶像の神々とはまったく次元の異なる、無限の神であることを教えるために書かれたのです。いわば、神の自己紹介です。「わたしはある」とおっしゃるだけでは、とても理解してもらえなかったからです。


 モーセが教えた神が唯一絶対の超絶したお方であり、ほかの神々とは次元の異なるお方だということは、エジプトの奴隷生活からの開放という奇跡的出来事と、天地創造という桁外れの物語を通してやっと理解されるもので、民族として、奴隷解放の奇跡体験をしておらず、天地創造の物語も与えられていない日本人にとっては、理解不可能なことなのです。


 その日本人に、いきなり、「キリスト教の神だけを礼拝せよ」、「偶像礼拝をしてはいけない」などというのは、まったくの見当違いです。ましてや、偶像礼拝を罰する恐ろしい神の裁きを、旧約聖書の物語から語っても、反感を買うのが関の山です。旧約聖書すなわち律法は、ユダヤ民族が神の役にたつ民族になるために、ユダヤ民族に与えられた教導書であって、異邦人である日本人の宗教を裁き、卑しめ、叱責し、破壊するための、断罪の書ではないのです。


 旧約聖書の命令あるいは教えは、それが普遍的な性格を帯びている場合は、当然、現在の日本人にも及ぶものです。しかし日本人は旧約聖書を知らないし、知っていても正しく教えられてはいないのです。日本人に、旧約聖書が教えている罰則が適用されることはないのです。日本人はユダヤ人ではないのです。そういう意味では、キリストがお語りになった、ゲヘナでの裁きも、聞き手がユダヤ人であるという背景で、天地をお造りになった神を信じ、神が絶対に正しいお方であるとも、よく理解していたことを前提にお話になったのですから、日本人に適用されるべきものではありません。


 パウロは「律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅びる」と語っています。旧約聖書という律法なしに罪を犯している日本人は、旧約聖書の律法によらずに、別の律法によって裁かれ、滅びるのです。救われるのではありません。全ての人間は罪人であり、滅びに定められていることに変わりはないのです。キリストの贖い以外に救いはないのです。


 では、日本人を罪に定め、滅びにいたらせる律法はどこにあるのでしょう。それをパウロは「自分自身が自分に対する律法である」と語っています。(ローマ2:14)律法を持たない異邦人を罪に定めるのは、彼ら自身という律法なのだと、パウロは言うのです。日本人が罪に定められるのは、旧約聖書の律法によるのではなく、日本人自身なのだと言うのです。


 パウロはそう語ったあとに、「良心」を持ち出していますが、良心が律法になるのではなく、どうやら、良心もその律法の裁きに関与すると行っているように、読み取ることができます。(ローマ2:15)わずか一回だけの言及ですので、想像に立った解釈をあまり深めるべきではないと思いますが、少しだけ、神学的かつ哲学的な論を進めてみたいと思います。


W. 自分自身の律法となる人間の本性


 プロテスタント神学では、徹底して人間の罪悪性を教えますので、少し違和感を持つ人も多いかと思いますが、人間の本性は、それほど堕落してはいないと考えたほうが、聖書全体の記述に合致します。人間は、自分の能力では「見えない神」を正しく理解することも、正しく信じることも、救いに到達することもできません。そういう意味では、人間の本性は罪のために、救いに対してまったく無力になっています。しかし、神に似せて造られたという本来の人間の姿が、完全に破壊されてしまったのではありません。神の姿をことごとく失い、悪魔の姿になってしまったというのでもありません。


聖書全体を読んで総合的に判断すると、人間には、神に似せて造られた姿が、まだまだ、かなりしっかりと残っています。聖書自体がその事実を前提として書かれ、それを前提として与えられているのです。人間に、神に造られた本性がまったく残っていないとするならば、旧約聖書を正しいものと理解することもできなかったことでしょう。つまり人間は、本能的に善悪の判断をすることも、教えられるならば、正しい神を正しく認識することもできるということです。


人間には神に似せて造られたという、人間の本性がしっかりと残っているのです。神の愛と正しさに似せて造られた人間には、本源的に、あるいは本性的にというべきか、本能的がふさわしいかはともかくとして、人間の本来の性質としての愛と正しさを持っているのです。これはすべての人間に備わっているものであり、人種や文化を問いません。すべての人間が優しい愛の心を持ち、憐れみを感じます。すべての人間が公正を求め正義を追求します。


ところがこの人間の本性は、生まれ育つ環境の中で具体的な姿を現します。日本という国で生まれ日本の文化の中で育つと、日本的な良心を持つようになり、アラブの国で生まれ育つと、アラブ的な良心を持つのです。そして、日本的な良心とアラブ的な良心は、かなり異なったものとなります。それでも、その良心を深く掘り下げていくと、すべての人間に共通な、神に似せて造られた人間性に行き当たるのです。


この、すべての人間に共通な人間の本性、神に似せて造られた人間本来の性質こそが、異邦人の律法なのです。そしてこの律法はまた、ユダヤ人にも共通なものであり、モーセを通して与えられた律法に先立つ、根源的なものであると言えます。モーセの律法も、この万人に共通の律法を前提として与えられているのです。


人間の本性の具体的現れは、生まれ育つ環境や教育といった後天的なものによって、異なった表現をしますし、たびたび、ひとつの文化の良心が他の文化の良心とが衝突し、争うに発展してしまうこともあります。ですから異邦人は、良心によって裁かれるのではなく、良心よりも根源的な人間の本性によって、神に似せて造られている部分によって裁かれるのです。これが、パウロの言う、自分自身ということだと理解するものです。[1]


X. 日本人の良心と神意識


 人間が神に似せて造られたということには、もう一つ非常に重要な局面があります。それは人間が神に似た霊的な存在として造られたという事実です。神に似せて霊的な存在として造られた人間には、霊的なものごとを感じ、霊的な事柄について理解することができるという、ほかのどのような動物にも与えられていない、特別な能力、特殊な本能を与えられています。そして日本人の良心は、この日本人の神意識と深くつながっています。


 日本人の倫理観は、世界中の国々の中で、非常に高いと誰にも認められています。政治的にも社会的にも宗教的にも、実に様々な考えが渦巻く中で、これほど治安が安定し、犯罪が少なく、人々が安心して暮らせる国は珍しいと、世界事情に明るい人たちは口を揃えています。安定したプロテスタントの文化的土台がある、スカンジナビアの国々にさえ劣らないのが、非キリスト教国の日本なのです。


 日本人の何から何まで素晴らしく、日本文化のことごとくが美しいとは思いませんが、たしかに日本人の倫理観は高く、優雅な文化に覆われています。それは、日本人の良心が研ぎ澄まされているからだと言えるでしょう。日本という文化の中で、日本人の良心が育成され、高度な倫理観となっているのです。その日本人の良心を育んだものは、日本人の心の奥に色濃く残っている人間の美しい本性、神に似せて造られた姿です。どこの国の人々にもこれは残っているはずですが、日本人には特にしっかりと残っているからです。


 それは、日本人の心の奥底にある宗教観に、深く関わっています。日本古来の宗教である神道には、本来、偶像がありません。ローマ書1章18〜32節において、パウロは、偶像礼拝に陥った人間に対する、神の激しい怒りと厳しい裁きを記しています。それによると、偶像礼拝に対する神の裁きの結果、人間の本性、神に造られた本来の姿が酷く傷つき、損なわれ、堕落してしまったのです。この堕落は、アダムの罪による堕落、いわゆる原罪に関わる堕落ではりません。アダムの罪のために堕落した人間でも、神に似せて作られている霊的感覚と知性を働かせるならば、当然理解できることなのに、それを理解せず、永遠の神の栄光を朽ちる偶像に代えてしまったことに対する、神の裁きの結果としての堕落です。この倫理的堕落はまさに人類の第二の堕落と言えるものです。


 ところが、いにしえからの日本人の宗教である神道には、本来、偶像は存在しないのです。偶像を作らずこれを拝まない神道的感覚の日本人は、神の偶像礼拝に対する厳しい裁きから、まぬがれているのではないでしょうか。もちろん、日本人の宗教意識に偶像礼拝がまったくないとは言いません。たしかに仏教が入ってきてからは、仏教的な偶像礼拝が浸透しました。しかし、日本人の宗教心への影響は表面的なものにすぎません。ですから神は、日本人に対する裁きを、ほかの民族に対する裁きほどには、厳しくなさらなかったのだと思います。それがために日本人の倫理観は、比較的、高く保たれているのです。もちろん、このような考え方を、聖書の記述から断定することはできませんが、かなりの確率でそのように言えそうです。


 ともあれ、日本人の神道的神意識は、普通に考えられているよりも遥かに高度なものです。実は、日本人が持っている「神感覚」と言うには、言葉上の問題があります。日本人が本当に心の奥で感じ、感謝し、崇め、讃えているのは、「神」ではないからです。神という「下等な表現」では表せない、尊く気高いお方なのです。だから、日本人は平気で「神など存在しない」と言い、冒涜的な言葉も吐きます。通俗化した神道の意識である八百万の神々や、古事記や日本書紀に出てくる神話の神々を、「愚かなもの」として退けます。それでいながら、自分を含めた人間の宗教心、すなわち目に見えなく、気高く、大きく、恵みと、優しさに富み、あらゆる良いもので取り囲み、自分を生かしていて下さるお方を感じている宗教心をことのほか大切にし、宗教の悪口を言うことは控えるのです。


 日本人は神よりも、神々よりも高い存在を感じて、密かにそのお方を崇め、尊び、感謝しているのです。それは、なかなか表に現れてこない感覚で、日本人自身でさえ気づかないでいることが多く、ましてやとても説明できないものです。ところが、多くの日本人と親しく話してみると、これが大多数の日本人の宗教感覚だということが、よくわかります。


 普通の日本人の多くは、神でも神々でもなく、もっと気高く大きな存在を心に感じながら、それを説明できないものと感じています。絵でも像でも言葉でも説明できない存在として、静かに崇めているのです。絵や像による偶像はもちろんのこと、「言葉によって描き出す偶像」とも言える神学さえ排除して、人間の思考能力の及ばない気高く大きなお方を、あえて説明する愚かさを避け、心の感覚のままに崇めているのです。


 日本人は、この気高いお方が、すべての自然物の中に潜んでおられると感じています。その意味では汎神論的ですが、わずかでも通俗化すると、八百万の神々になってしまいます。ところが多くの日本人と話してみると、彼らが感じているのは、すべての自然物に(あるときは人造物にさえ)潜んでおられるお方であり、たくさんの、あるいは複数の存在ではなく、ひとつの、あるいは唯一の存在なのです。


 神道には偶像がありません、言葉の偶像ともなり得る神学もありません。はじめから、大きく気高い存在者を、人間の知力と言葉で説明することなど、不可能だと知っているのです。ですから、日本人は自分の宗教感覚をことばで説明することはしません。神学をとても大切にするプロテスタントから見ると、まさに下等で未発達な宗教と言えますが、本当は非常に高い宗教感覚なのです。低く卑しい存在である「神」を持ち出し、その神を、不完全で足りない人間の知恵と知識と言葉でもって、あたかもまな板の上の鯉のように切り刻み、解剖医のように分析してみせるキリスト教は、まさに下等な宗教なのです。


そのような高度の神感覚をもって、日本人は依代(よりしろ)として神社を建て、祠を作ってきました。ひとたび、依代ではあっても目に見えるものを作ってしまうと、そこからさらに堕落した宗教感覚に陥り、様々な名前の神々が祀られるようにもなりました。しかしそのような神社に詣でる時さえ、日本人はそこに祀られている神々、をあくまでも依代として見て礼拝の対象とはせずに、その背後におられる大きな存在を崇めているのです。そのために日本人は、どこの神社に詣でても、そこに祀られている神々にはほとんど無関心で、自分が感じている大きく気高い存在に向かって、手を合わせるのです。西行法師が伊勢神宮で、そこに祀られている天照大神を拝む代わりに、その背後に存在される目に見えないお方を想い、「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌ったのは、そのような宗教心の現れだと考えられます。


 たしかに神社や祠などを建てる日本人は、かなり偶像に近づく危険を犯しています。御神体などという言葉さえあって、あたかも、偶像となるものがそこに祀られているかのように言われますが、そこにあるのがなんであれ、(普通は何も置かれていませんが、米粒だったり、鏡だったりすることがありました)あくまで依代に過ぎません。依代とは、それを通して神の臨在を示すもので、礼拝の対象となる偶像とは異なっています。この依代は旧約聖書でも認められています。たとえばひと組のケルビムが乗せられていた契約の箱は、半歩間違えば偶像にさえなり得た依代です。中に入れられていたモーセの杖も、マナも、十戒が刻まれた石も、偶像になりやすいものでした。神殿も、かなり危険な依代です。しかしそれらは、あくまでも依代として留まり、神の臨在を示し思い起こさせるものではありましたが、礼拝の対象とはなりませんでした。神道の神社や祠なども、本来はあくまでも依代としての存在なのです。


 私の高校時代の友人のひとりは、お寺の跡取りでした。非常にできた男で、当時すでに父親に代わって檀家を周り、お経をあげ、様々な仏事を執り行っていました。熱心な欧米的キリスト教の信徒であったわたしは、しばしば彼と議論をしたものです。それで私が、「仏教は仏像を拝む偶像礼拝だ」と指摘すると、彼は、「通俗仏教では、たしかに弱い人間性を認容して、仏像を拝むことも許しているが、本当は、仏像はそれを拝む対象にする偶像ではなく、あくまでも依代に過ぎない」と答えたものです。「その仏像に表現された見えない仏の実像を背後に見て、それを拝むのだ」という主張でした。彼の言うことが、仏教本来の教えなのか、彼のお寺の宗派の説くところだったのか、彼というひとりの人間だけの仏教だったのか、残念ながら、大学生になってすぐに亡くなった彼と、話し合いを続けることはできなくなってしまいました。でも、いま思い直すと、彼が感じていた「仏像の背後の見えない仏」は、どうも、仏教のいう仏よりも、なんとなく、日本人の宗教意識にある気高く尊い存在のように感じるのです。


 ともあれ、日本人は、常にこの気高く尊い存在を感じながら生きてきました。しかも、旧約聖書に現された怒りの神、いつでもどこでも、悪い奴はいないかと見張っている恐ろしい神、罪を罰してやまない神としてではなく、優しく美しい自然をもって私たちを包み、あらゆる良いもので私たちを覆って下さる、めぐみ深いお方が、ご覧になっていると感じてきました。そしてこのお方の前に、このお方に喜ばれる正しい生きかたをようと願ってきたのです。それが日本人の良心です。心の奥深くに隠された感覚です。説明のできない感覚です。でも日本人は、何につけ、この感覚によって行動してきたのです。地震の時も、津波の中でも、洪水の場合でも、この良心が行動の規範になったのです。


 日本人は、自分たちも天と地を造られた神に似せて、造られているという事実を知りません。しかし偶像礼拝をせず、神の厳しい裁きをあまり受けておらず、神に似た美しい本性をより多く残しているために、その美しい本性を活かして、非常に良心的に生きているのです。日本人ひとり一人の中にある、律法がそのようにさせているのです。[2]


 日本人の宗教意識の特徴の一つに、礼拝する対象とお願いする対象が異なることが多いとう、面白い事実があります。お願いするのは、人間より少しばかり力がありそうな神、なにかの点においては人間より秀でていると思われる神々です。しかし、それらに祈りを聞いてもらったと思える時でも、感謝こそすれ、礼拝することは少ないのです。人間が礼拝できるのは、目に見えず、絵でも像でも言葉でも表現しきれない、尊く気高く大きく、情け深く、恵みと憐れみに富むお方なのです。ですから、たとえば大伊勢神宮では願い事をしてはならず、ただ、礼拝をするのです。


 「願い事は一段低い神々に、礼拝は気高いお方に」です。気高いお方を感じている場合は、祈願するよりも、祈念する意識が強くなるようです。対象に願うのではなく、気高いお方の前で念じ、誓い、決意をするのです。こうして、曖昧な神の概念から、無神論の感覚に近づいて行くのです。日本人に無神論者が多いのは、唯物的思想からくる無神論に、このような感覚的な無神論が加わるからではないでしょうか。単なる唯物的無神論は、無道徳な生き方につながりますが、日本人の無神論は無道徳につながらない、高い倫理的側面を備えた無神論なのです。


Y. 日本人の裁き

 パウロは、ユダヤ人に与えられた律法によって、日本人が裁かれることはないと、はっきりと語っています。日本人の裁きは、日本人に与えられている律法に照らし合わせて行われるのであって、旧約聖書の教えによってではありません。日本人を出エジプト記20章の十戒で裁くのは間違っています。ところがそれを容赦なくやり続けてきたのが、日本のキリスト教です。西欧で、西欧人の感覚で読まれた聖書から、西欧人の考え方と生活に都合よく組み立てられたキリスト教を、直輸入したままのキリスト教です。


 昔、日本の自動車がアメリカで大量に売られるようになった背後には、日本の自動車メーカーの大変な努力がありました。アメリカの道路状況、交通法規、家族事情などあらゆるものを考慮し、それに合うように改良し続けた結果、それが可能になったのです。ところが、一時は日本人のステータス・シンボルになっていた、大きくて重い豪奢なアメリカの車が、どんどん売れなくなってしまったことがありました。自分たちの車は高品質だと言い、これを買わないのは買わない日本人が悪いと考え、日本の道路事情や交通法規、家族の事情や必要性などをいっさい考慮しない、押し付けだったためです。


 日本に入ってきたプロテスタント・キリスト教は、すでに150年以上経過しているのに、まだ、昔のアメリカの車のように、独りよがりを押し通しているのです。日本の事情をまったく考えず、日本人をまったく学ぼうとせず、西欧の宗教を押し付けようとしているのです。キリスト教は西欧の宗教です。間違った聖書理解で、日本人を高圧的に裁く宗教です。


 西欧キリスト教が、間違った聖書理解で日本人を裁いている事など、日本人は知りません。殆どの日本人クリスチャンも知らないことです。それがキリスト教だと思っています。そして、普通の日本人の多くは、そのようなキリスト教を受け入れることはできないと、判断しているのです。それが、日本人にはクリスチャンが少ないという、明らかな結果となって現れているわけです。たとえ、キリストの教えの高い倫理に感動し、キリスト教神学の高度さに驚いたとしても、自分がクリスチャンになろうなどとは思いません。


 キリスト教以外の宗教をすべて否定し、日本の文化を蔑み、日本人の生活習慣を断罪するようなキリスト教は、日本にあっては、反社会的宗教なのです。地域の宗教行事には参加せず、お葬式にも出ないクリスチャンが、「偶像礼拝に勝った」と証しするごとに、自分は絶対にクリスチャンにならないと決心する日本人がたくさん起こり、自分の身近な者がクリスチャンになることも絶対に許さないと考える日本人が、大勢、現れるのです。


「何をしてもかまわないが、他人(ひと)様に迷惑をかけることだけはするな」というのが、大方の日本人の父親が、子供に与える唯一の教えらしい教えです。他人に迷惑をかけることを最大の悪と考える、「思いやり」の文化にあって、キリスト教は思いやりを欠く宗教として、嫌われるのです。


 とは言え、日本人は自分たちに与えられている律法、神に似せて造られた姿によって、救われるのではありません。律法は生き方を示し、道を教えるものであり、救いをもたらすものではありません。かえって、これに反するものには裁きをもたらすのです。日本人は、日本人に与えられている心の律法によって裁かれます。絶対に救われません。だからこそ、日本人にも福音が必要なのです。

Y. キリストによる救い


 日本人の良心がどれほど研ぎ澄まされていても、日本人の倫理観がどれほど高くても、日本人も罪の中にあり、キリストの贖いを必要としているのです。キリストの贖いの業がなくては、一人の日本人も救われることはありません。そして、日本人が救われる条件は、パウロの時代のユダヤ人が救われたのと、同じ条件です。条件として求められるのは「信仰」です。それ以外にはありません。ユダヤ人もギリシヤ人も奴隷も自由人も、みな、同じ信仰によって救われるのです。


 ところで、ユダヤ人以外の人も、「キリストを信じる」ことによって救われるのでしょうか。新約聖書を読むと、たしかにそのように書いてあります。ところが、そのキリストを信じる信仰によって救われるという、普遍的福音の奥義を説明していたパウロは、突然、話をアブラハムに転じ、アブラハムも信仰によって救われたという事実に、読者の目を向けさせています。アブラハムは信仰によって義とされました。信仰によって救われたのです。


ところが、パウロはなんの説明もしていませんが、アブラハムは、「キリストを信じる信仰」によって救いを得たのではありません。彼の時代には、キリストはもちろん、ユダヤ民族さえまだ存在していなかったのです。アブラハムはユダヤ人でもイスラエル人でもなく、ヘブル人でした。つまり厳密に言うと、アブラハムは律法を与えられたイスラエル人でもユダヤ人でもなかったのです。彼は、律法を与えられていない異邦人と同じ立場にいたのです。


 アブラハムはキリストを知らず、十字架を知らず、罪も、悔い改めも知りませんでした。彼が信じたのは「キリスト」ではなく「神」でした。もしそうだとしたら、いま、異邦人としての日本人、律法を与えられていない日本人も、キリストを知らずに救われることはできないのでしょうか。旧約聖書と新約聖書を通して脈々と流れているユダヤ人の感覚、ユダヤ人の神知識、ユダヤ人の律法の知識、ユダヤ人の罪の意識を前提とした教えは、はたしてそのまま、異邦人に適用されるべきものでしょうか。


 異邦人への使徒パウロは、このユダヤ人と異邦人の狭間で悪戦苦闘しながら、聖霊の導きによって、異邦人のための神学・・・というよりも、普遍的福音の神学を打ち立てました。ところが彼が活躍していた世界は、グレコローマンという大きな枠で括られる文化でした。たしかにユダヤ人と異邦人が対比されたのですが、大きく括ると、グレコローマン文化の中なのです。


 その上、彼が直接伝道した対象のほとんどは、ユダヤ人もしくはユダヤ化した異邦人でした。パウロは神学的にはたしかに異邦人の使徒であり、異邦人のための福音の神学を打ち立てたのですが、彼が採った宣教の手段は、地方の大都市を訪れ、ユダヤ教の会堂を訪ね、そこにいるユダヤ人に説教するというものでした。彼が取り扱った異邦人の大部分は、そのユダヤ人の会堂に来ていた、すでにユダヤ教に強い関心を持ち、ユダヤ教を受け入れてユダヤ人になることも考えていた人たちでした。現在の私たちの宣教対象である日本人のように、ユダヤ教の背景も影響も知識もまったくない文化に育った人たちではないのです。もちろんパウロは、時間さえあればアテネやコリントやエペソでやっていたように、会堂以外の場所でも福音を語っていたのですが、現在の私たちのように、語る相手が常に異邦人という状況とは異なっていました。


 キリストを信じる信仰の話から、なんの前触れも説明もないまま、突然神を信じる信仰の話に飛躍しても、議論が通じる人々を主な相手として伝道していたパウロの理屈を、日本人に当てはめても無理なのです。もちろん思慮深いパウロのことですから、たとえばアテネでの出来事のように、まったくの異邦人に向けて話すときには、それなりに、かなりの考慮をしていることがうかがわれます。


アテネにおいてのパウロは、いつものように「イエスと復活」のことを語っていましたが、語る相手が完全な異邦人群衆であることを見て取ると、話のもって行き方を変えて、イエスについてでも甦りについてでもなく、天地の造り主である神についてから話を始めています。(使徒17:16〜34) ルステラで、ギリシヤの神のひとつであるヘルメスと間違われたときには、積極的に伝道していたわけではありませんが、まったくの異邦人の群衆を目の当たりにして、やはり、天地の創造者である神についてから、話を始めています。(使徒14:8〜18)


 このように異邦人を相手にしていても、ある程度の回心者を得ることができたパウロは、さすがだと思いますが、さらに徹底した異邦人の中では、さしものパウロも、まったく回心者を得ることができませんでした。ローマに連れて行かれる船旅の途中、嵐にあった一行はマルタという島に漂流し、そこでひと冬、3ヶ月を過ごす羽目になってしまいました。御霊に溢れていたパウロはここでも多くの癒しを行い、島の人々から非常な尊敬を受けたと記録されていますが、ひとりの回心者も出ていないようです。はたしてパウロは、マルタ島でもキリストと甦りの話をしたのでしょうか。それとも、天地を造られたお方の話をしたのでしょうか。ユダヤ的な信仰心や物の考え方をまったく持っていない、異邦人に福音を理解してもらうことは、聖霊に満ちたパウロをもっても困難なことだったのでしょう。


 徹底したユダヤ教徒であったパウロは、クリスチャンになったときにユダヤ教を捨てたのではありません。ユダヤ教の理解の上に救い主キリストを理解し、その理解の上にまた、普遍的福音を理解したのです。パウロにとって、キリストを信じる信仰と神を信じる信仰は同じものであり、そこにはなんの亀裂も乖離もなかったのです。パウロの手紙を読んだ初代のクリスチャンたちにとっても、それは理解できたことだったのでしょう。ところが、私たち日本人にとっては、まったく異なるものです。


Z. 神を信じる信仰


 ユダヤ教徒が信じていた天地創造の神を、日本人が信じるのは案外やさしいことであると思います。いままで、それが難しいものとされてきたのは、クリスチャンたちが神の話をする前に、キリストの話を持ち出してしまうことが多かったために、話が神に至る前に、日本人を躓かせてしまったのでしょう。次に、神の話をする場合でも、聞いている日本人の神意識、日本人の宗教心をまったく理解しようとせず、一方的に西洋的福音を語っていたためでしょう。旧約聖書の律法が、誰に対して与えられたのかという、極めて初歩的なことを誤解して、まったくの見当違いに気づかないまま、めったやたらに非難と侮蔑を振り回し、「日本人は偶像礼拝者である」と、叫び続けて来たためでもあるでしょう。


 異邦人宣教には、私たちほどの経験を持っていなかったパウロでさえ、まったくの異邦人聴衆を前にしたときには、キリストの話からではなく、天地創造の神から話を始めています。私たちもそれに倣うべきなのです。キリストの話を最初に持ち出すと、異邦人である日本人の宗教感覚や神意識と、共通部分が非常に少ないために、話がとても難しくなるのです。どうしてもキリストの話を持ち出したい時には、キリストの高い道徳律や愛についての教えを語り、日本人の高度な倫理観との共通土台に立つべきです。十字架の贖い、罪の許しなど、日本人に馴染みのない、不可思議なことについて話し出すと、際限のない混乱の中に踏み込むことになります。


 ところが同じ異邦人でも、神意識、宗教心という意味では、日本人はパウロが宣教したどの民族よりも、高度なものを持っているのです。日本人は、既に述べたように、神道の神学を持っていません。それは神道が低級だからではなく、高尚だからです。日本人の心の奥底にある宗教心は、下等な「神」に対するものではなく、目に見えない、尊く気高く大きく優しく、強く憐れみ深く恵みに富む「存在」に向けるものなのです。ユダヤ民族が、自分たちの神として天地の創造主を礼拝しだした当初は、「神」という言葉を、周辺の民族の宗教の中から探し出し、借用していました。それ以外に方法がなかったからです。数々あった神々の中から、より天地の造り主にふさわしい名前を選び出し、「とりあえず」、「間に合わせ」として用いたのです。それが年月を費やして、よりふさわしい名に変えられて行ったわけです。


 すでに述べたように、「神」という日本語は、何かにおいて人間より幾分高い能力を持っているだけの意味で、日本人が心の奥に感じている、気高く尊い存在を言い表す言葉ではありません。ひとたび「神」と表現されると、それは八百万の神々や神話の神々となり、人間が本当に崇め尊ぶ存在ではなくなってしまうのです。日本人には、心の中に感じ、崇め、恐れ、尊んでいる存在を言い表す言葉、お呼びする言葉がないのです。それにもかかわらず、日本人の宗教心を表す言葉は神道であり、「神」なのです。ですから、それがどのような神であっても、「神」と呼ばれたならば、あくまでも目に見ることも口で説明することもできない、真に尊き存在の依代に過ぎないのです。日本人の多くはおぼろげながら、この気高き存在が、あらゆる自然物の中に潜んでおられると感じ、すべての自然物が依代であるかのよう思っています。あるときはそれらの依代を拝むような間違いさえ犯しています。しかしその実、それらの依代の背後におられる気高い存在を、ほとんど、唯一の存在であるかのようにも感じているのです。言い方を変えると、日本人の宗教心にある存在者は、旧新約聖書に示されている神の姿に、非常に近いということです。


 それは私たちクリスチャンが、欧米で発達した「他宗教排斥」の高圧的キリスト教の態度を捨てて、相手の立場を尊重し、寛容な態度で話し合いを試みるならば、理解してもらえることが多いのです。この日本人の高度な神意識を共通土台にして、私たちは天地創造の神を語り、日本人が心に感じ、良くは分からないままに尊んできた存在こそ、この天地創造の神、絶対の神、聖く、気高く、大きく、強く、恵み深く、憐れみに富む、聖書が教える神であると語ればいいのです。昔から日本人が崇め、祀り、手を合わせてきたお方は、実はこのお方だと教えてあげればいいのです。


 私たちは外国から輸入されてきたキリスト教の神を語るのではなく、昔から日本人が感じてきた優しく恵みにあふれたお方を、改めてしっかりと認識して、感謝しながら、その大きな力と慈しみに信頼すれば良いのだと、語ってあげるのです。すると、多くの日本人は懐かしい気持ちで、あたかも長いあいだ離ればなれになっていた親にでも出会ったかのように、なんの抵抗もなく、違和感も持たず、天地の創造主をあがめるようになるのです。「神」という言葉は、あくまでも翻訳上の仮の名前であって、本当は、口に出すのももったいないお方なのですと説明すれば、日本人の神観にぴったりなのです。


 日本人は、キリストを信じる信仰を理解するには、非常に長い情緒的、感覚的、そして理知的な距離を歩まなければなりません。しかし神に信頼し、崇め、尊び、その恵みと優しさに感謝することならば、本当に、半歩踏み出すだけでいいのです。


 アブラハムは「神を信じて」義とされました。アブラハムはキリストを知らず、十字架についても聞いたことさえありませんでした。しかしアブラハムは、このキリストの十字架の贖いの故に救われたのです。ただ、その救いはアブラハムがキリストを知っていたとか、十字架の意味を理解していたとか、自分の罪を悔い改めたとかいうことには、一切関係なく与えられました。アブラハムがキリストを知らなかったとしても、神がキリストとその贖いのみ業をご存知でした。アブラハムが十字架の事実と意味を知らなくても、神がご存知でした。アブラハムは、自分の罪を悔いて告白したから義とされたのではなく、神を信頼した、神に頼ったから救われたのです。キリストについて理解したからではなく、神に頼ったから救われたのです。救いとは知識の問題ではなく、信頼の問題なのです。神への信頼に対する神からの答えなのです。知識や理解ではなく、暖かい信頼関係が問われているのです。


 ところが、律法を与えられ、千年を超える長い年月をかけて、神に教え導かられて来たユダヤ人に対しては、救い主であるキリストに対する信仰と従順が要求され、キリストの十字架と甦りの後は、十字架の意味の理解と悔い改めが条件とされたのです。より高度に教えられた者には、より高度な条件が加えられたのです。


[. キリストの救いを受け取る


 使徒の働きや書簡を読むと、ペテロやパウロを始めとする弟子たちも、キリストの十字架についての理解と罪の悔い改めを、救いの条件にしていたように理解されます。しかし初代の教会の福音宣教の中にも、福音の理解の進展が見られ、必ずしもキリスト昇天直後に語られた福音の内容が、まったく同じように、いつまでも語られていたのでもないようです。とくに、パウロを通して普遍的福音の奥義が語られると、その理解はもっと深められ、さらに巾の広いものとなっていきました。


 キリストの死と甦りが記憶に新しかった当時は、当然、それが宣教の力であり「売り」でもありました。福音を聴く者の多くも、ユダヤ人かユダヤの宗教を背景に持っていた人々でした。しかし、教会の中に異邦人の数が増え続け、やがて異邦人の数の方が多くなるような事態の中では、強調点が変わっていったのは当然です。まだまだキリストと十字架と復活が福音の中心であり、悔い改めが強く勧められていたとしても、教会の外の宣教の場では、だんだん、天地万物をお造りになり、人に命を与えて生かしていて下さる、大きく、めぐみ深い神の存在と、その神に信頼するべきことに、話の中心が移行していったと考えられます。


 パウロのアテネでの説教はその良い例です。パウロはここでもキリストの死と甦りについて語っていますが、そこに至る前に、天地万物の創造者について語っています。ただ、甦りという福音の中核に話が及ぶと、人々は去ってしまいました。パウロは先を急ぎすぎたのです。


またパウロはここで、「悔い改め」を勧めたかのように言われていますが、(V30)これは少しばかり誤解ではないかと考えます。なぜなら、ここで「悔い改め」と訳されている言葉は、たしかに、紀元前2世紀頃に訳された70人訳で「悔い改め」という意味で用いられ、その後の、ユダヤ人の宗教的文脈では「悔い改め」を意味するようになりました。新約聖書もそういう意味で用いています。ただ、パウロがアテネを訪れたころ、ユダヤの宗教文化に馴染みのない人々の、普通のギリシヤ語では、まだ「悔い改め」という強烈な意味にはなっておらず、もともとの意味の、「考えを変えて」という程度の言葉でした。パウロもここでは、それほど早く悔い改めを持ち出したのではなく、ギリシヤ人たちに、曖昧もことした神意識を横に置いて、つまり「考え方を変えて」、明確な天地の創造者を信じなさいと勧めたと考えたほうが、前後関係に良く合います。


わたしは、イエス・キリストを語らなくても良いと、言っているのではありません。十字架も復活も、罪の悔い改めも、福音の中核です。しかし異邦人に対しては、最初からキリストの話をするよりも、まず、天地万物の造り主である神について知ってもらい、このお方がどれほど豊かに私たちを恵み、太陽を昇らせ、雨を降らせ、作物を実らせ、家畜を育てて私たちを育んでくださったかを、知ってもらうほうが先だと言っているのです。特に日本人はこのようなお方を心の奥底に感じ、良くはわからないままに崇め、尊び、感謝し、祀ってきたのです。


このお方に生かされてきた、ありがたいという実感を強くし、その感謝の気持ちを、誰かわからないお方にではなく、天地の創造者であられるお方にしっかりと向けてもらうことが、何よりも先に大切なのです。食事をするとき、多くの日本人は「いただきます」と言いますが、その言葉を、料理を作ってくださった人や給仕をしておられる人だけにではなく、背後にいる見えない人にも向けて言っています。そして大切なのは、背後にいる見えない人に対してだけではなく、背後におられて作物を実らせ、動物を育て、魚を養ってくださった、目に見えない恵み深いお方に向けて言っているのです。このお方を、天地創造の神と理解し、このお方に向けて、「いただきます」と言えば良いのです。


このお方の恵みをより強く感じ、理解してもらうと、その恵みに対して、はたして自分たちは、ふさわしい感謝と礼拝をしてきただろうかと、反省してもらうこともできます。自分たちの感謝が足りなかったことは、誰でも容易に認めることができます。また、いろいろな方法で僅かながらでも表した感謝の気持ちも、はたして、本当に喜んでもらえ、受け入れてもらえるものであったか、思い巡らせてもらうことも可能です。そして、自分たちの感謝が曖昧であり、余りにも少なかったと思い当たることになります。天と地を造り、私たちに命を与え、良いもので恵み、生かし続けておられるお方に対する感謝としては、いささかおざなりであったことがわかります。自分たちのことばかりにかまけて、大切な天地の創造者をなおざりにしてきたことも、すぐに理解できます。


ですから私たちは、この天地の創造者に謝ること、お詫びをすることを勧めます。充分に感謝しなかった不義理を詫びるように教えます。豊かな恵みに対して冷淡であったことを、親不孝を詫びるように、お詫びをするようにと勧めてあげます。天地を造り、生かしてくださっていたお方に「不孝をくり返してまいりました」と、赦しを乞うことを教えて差し上げます。このようなお詫びの気持ちは、誰かに生かされていると感じ、どなたかに「ありがとうございます」と言いたいと感じている人ならば、だれでも持つものです。それをはっきりと確認して、心の中で感じて来た気高く尊いお方に、申し上げるようにと勧めれば良いのです。欧米から渡ってきたキリスト教では、このことを「罪を悔い改める」と言うのかもしれませんが、伝統的な日本語で言うならば、不義理をお詫びし、不孝を謝るのです。


そこまでお話すると、キリストの必要性、仲保者の必要性もわかってもらえます。日本人は罪の意識よりも、恥の意識を持っていると言われてきましたが、宗教感覚としては、罪や恥よりも、穢れの意識が強いと感じます。目に見えなく気高く聖く大きなお方の前に出るには、自分はふさわしくないと感じる心です。そのため、神社には浄めを象徴する水が置かれています。


ここまで分かってもらうと、キリストの十字架についても、非常に話しやすくなります。キリストの十字架が、なぜ必要だったかということも、それがなぜ、神の愛の最高の表現なのかも、無理なく説明できます。そして、キリストの復活がどれほど素晴らしいことであるかについても、語ることができるようになります。神が整えてくださった救いの道、キリストが完成してくださった救いのみ業を、感動をもって聞いてもらえるようになります。新約聖書的な悔い改めが、日本人にもできるようになるのです。親の財布から100円玉を盗んだことを思い起こさせて、罪の告白をさせるようなやり方ではなく、罪の本質に触れて、罪の告白をさせることができるようになります。


神を信じることで、昔のアブラハムが救われたように、異邦人である現在の日本人が救われるかどうかという問題は、私が本当に論じたいことではありません。実際上、それはあまり重要なことではありません。私たちがどの時点で救いに入るのか、神を信じて救われるのか、キリストを信じて救われるのか、神のみがご存知のことです。


ただ重要なことは、異邦人である日本人には、日本人の宗教心を理解して、まず、天地創造の神について語り、このお方に感謝し崇め信頼することを教えたほうが、キリストの話から話を始めるより、よほどよく理解してもらえるということです。結局そのほうが、圧倒的に早くキリストの十字架の話にも到達でき、正しい悔い改めに導くこともできるということなのです。


普通の日本人に、キリストの十字架と贖い、神の絶対的聖さと人間の罪、悔い改めと赦しなどという理屈を教えても、頭を混乱させるだけで納得してはもらえません。議論に終わってしまうのが関の山です。しかし、日本人が本能的に持っている宗教心に訴え、誰もが感じている目に見えない大きなお方について、情緒的に、感謝と信頼という情の問題として語ると、とてもよく納得してもらえるのです。



結び


今年の春頃になって、私は、このような聖書理解をもとにした伝道を始めました。信徒たちに対しては既に数年前から、少しずつ、これまでの社会に敵対するようなクリスチャン信仰ではなく、社会の妨げにならない信仰生活、家族親族の中で受け入れられる信仰のあり方について語り続けてきました。それはそれで、小さな教会ながら成果を上げてきたと思います。ただ、伝道という面では信徒たちの日常の証に期待するだけで、私自身がこのような聖書理解に立った伝道に、直接取り組む機会はあまりありませんでした。


ところが昨年の末ころから、私に個人伝道の機会が訪れてきました。相手はと言えば、ほとんどが普段教会に来ることができない、病人やお年寄り、あるいは日曜日にも仕事をしなければならない、地方都市とその周辺に住むごく普通の方たちでした。みな、いわゆる過疎化の中で、何につけても保守的な感覚で生きてきた、言うならば、かなり難しい伝道相手で、教会の集いに出席するなどということは、あり得ない類の人たちでした。ところが、キリストを最初に持ってこない私の個人伝道法は、今までとはまったく違う結果をもたらしたのです。


個人伝道をしている6人のうち5人が、まだまだ弱いとは言え、「キリストを信じる信仰」を持つようになりました。先日はそのうちの二人が洗礼を受けました。80歳と78歳の夫婦です。このふたりの洗礼(滴礼)を家で見ていた二人の娘さんたちが、強い興味を持ち、一人は洗礼を受けることさえ考え始めています。これは実現するかどうか、まだ確実ではありませんが、おおいに望みがあります。他にも二人が洗礼を受けようとしています。これらの場合、今までの伝道とは異なって、非常に良く理解してもらえ、受け入れてもらうことができたのです。躓きや妨げになるような議論は、まったく起こりませんでした。


またつい最近、80歳をかなり超えてから救いにあずかり、教会には出席できないまま天に召された、93歳の男性の葬儀を行いました。キリスト教式の葬儀だとは知らずに、数珠を手に参列した300人近くの年配者に向けて、私は語りました。


「ご列席の皆様の中には、○○さんの葬儀がキリスト教式で行われることに、驚いておられる方も多いかと存じまず。また○○さんがいつの間にかクリスチャンになっていたことに、なにか、自分たちの知らない外国の神様を信じて、遠くに行ってしまったかのような違和感を持ち、寂しさを感じておられる方もいらっしゃるかと思います。しかし○○さんは、皆様が知らない神様を信じて、皆様から遠く離れてしまわれたのではありません。


ご存知のように、○○さんは士官学校を出て大陸にわたり、数々の戦闘をくぐり抜けて陸軍大尉にまでなられた方です。終戦後は故郷に戻り、身を粉にして家族を養い、地域の発展のために尽くされたと伺っております。その様な典型的な日本人だった○○さんは、80歳をかなり超えてから、クリスチャンになられました。幼い頃から心の中で密かに感じていた、太陽を昇らせ、雨を降らせ、穀物を実らせ、あらゆる良いもので自分を恵み、祝福してくださっていた、目に見えない大きなお方のことを、聖書という書物を通して、はっきりと知ることができるようになったからです。自分に命を与え、生かしてくださっていると心の奥深くで感じ、良くはわからないまま、密かに手を合わせ、感謝をささげてきた、強く、優しく、気高いお方が、実は、聖書が教えている天と地をお造りになった神様であると、はっきりとお分かりになったのです。そこで、改めてそのお方を自分の神様として認め、『天と地をお造りになった神様、私を生かし恵んでくださったことを感謝申し上げます』と、お祈りするようになっただけのことです。


○○さんは、外国から連れて来られた知らない神様を信じたのではありません。昔から多くの日本人が心の奥深くで感じ、祀り、崇めて来たお方を、改めて、『天の父なる神様』とお呼びして、お祈りを捧げるようになったのです。まるで幼い時に別れたままになっていた、お父さんに出会ったかのように、とても懐かしい気持ちで、『天のお父様』とお呼びしたのです。ですから、○○さんは皆様と違う神様を信じて、遠く離れた人になってしまったのではありません。皆様も昔から、良くはわからないけれど、心の深くに感じて、『ありがとうございます』と手を合わせておいでになった、そのお方を、改めて理解し、信頼し直しただけなのです。


○○さんは、天と地をお造りになった神様をはっきりと信じ、感謝を捧げる人となりました。そしてこの神様から、ご褒美として永遠の命を頂いて、今はもう、苦しみも悲しみも痛みもない、天のみ国に招き入れられて、大喜びをしていらっしゃいます。ですから、○○さんのために悲しまないでください。しばしの別れで、寂しくまた悲しく感じることはあっても、大いに喜んで上げてください。『○○さん万歳』と叫んでください。いま○○さんが残念に思っていることがあるとしたら、それは、最後に皆様にお会いする機会がないまま、旅立ってしまったことです。いま、天のみ国で○○さんが願っておられることは、懐かしい皆様が、同じように天地をお造りになった神様から、永遠の命をいただいて、同じ天のみ国に来てくださることだと思います。」


私が語ったのは、極めてまっすぐな福音です。でも、遺族の方々はとても喜んでくださいました。清楚で短い葬式だったというだけでなく、福音のメッセージに感動されたお年寄りも多かったと伺いました。躓いたり腹を立てたりした人は、「まったくいなかった」とも聞かされました。初七日の代わりに行った「偲ぶ会」でも、同じ観点からお話をしました。遠くから来ておられた長男ご夫妻がとても感動し、次の日曜日には、わざわざ帰宅を遅らせて、私たちの礼拝会に出席してくださいました。この方は、キリスト教にはむしろ強い反感を持っておられたということでした。


私はここで、自慢話をしようとしているのではありません。たまたま、ひさしぶりに伝道が上手くいって、舞い上がっているのでもありませ。また単に、「効果がありそうだから」とお勧めしているのでもありません。本題はどのように聖書を読むかということです。わたしの願いは、聖書が教える本物の福音、普遍的な神の救いについて、より分かりやすく、もっと受け入れてもらえるように語りたいだけです。異邦人である日本人も、はじめから、神の福音の対象者と定められています。日本人も、西欧的な福音理解、ユダヤ的な聖書の理解から脱した、真に聖書的なキリストの福音を聞かされるべきなのです。ユダヤ人のための福音の、「おこぼれ」に与るようではいけないのです。西欧の人々のための福音の「お古」で、満足させられていてもならないのです。






[1]近代に至って、いわゆる伝統的キリスト教文化と言われてきたヨーロッパ諸国における、「キリスト教離れ」が急激に進んでいます。彼らはキリスト教文化の良心が、人間の本性から直接沸き上がってくる、自分たちの良心に合わないことに気づいたのです。本源的人間性から芽生えた彼らのヒューマニズムが、ユダヤ民族に与えられた旧約聖書に基づく、キリスト教の戒律や倫理に調和しないことに葛藤する一方、まったく異なったアジアやアフリカあるいは南アメリカの人々の、本源的人間性から発するヒューマニズムに、より良く調和することを見出したのです。人間にとって心の律法は、モーセが与えた律法よりも基本的であり、原則的であり、本源的なのです。モーセの律法は、ユダヤ民族という枠の中にあってこそ、本来の機能を果たすのです。





[2]日本人の多くが、同じヨーロッパ諸国の人たちでも、しっかりとしたクリスチャン信仰を告白する人たちよりも、キリスト教に縛られないヒューマニストたちに親しみを覚え、共に生きていくことができると感じます。それは、どちらも、本源的人間性を大切にするからです。本源的人間性を大切にする人ならば、どのような社会的、文化的、あるいは宗教的背景に生まれ育った人たちとも、かなりの共通意識を持って、理解し合うことができるのです。旧約の律法がユダヤ民族に与えられたものであり、キリスト教はユダヤ民族の宗教背景から生まれてきたことを正しく理解するクリスチャンは、絶対の神を認めるヒューマニストとして、このようなヒューマニストたちと心を通わし、神について語り合うことも可能です。



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2011年01月21日

聖書が教える性 (8)

 

キリスト教と離婚

 

 キリスト教は離婚を禁じていると思い込んでいる人が多いようです。確かに離婚を禁じている教会が多いのは事実ですが、禁止したからと言って、離婚が無くなるわけではありません。世の中はそんなに単純ではありませし、その混迷した世界に与えられている聖書の教えも、そんなに単純明快ではあり得ません。キリストが離婚に言い及んだ記事を読んでも、それはかなり複雑であったことがわかります。(新約聖書マタイの福音書5313219311 また、使徒パウロの記述を読んでも、それは明らかです。(コリント人への手紙第一71017



 

 聖書の教え、つまり、キリストやパウロや、古くはモーセの律法などを読むとき、気をつけなければならない点がいくつかありますが、その一つは、これらの教えや律法が、罪を犯して惨めな状態にある人間と、その社会に対して与えられているということです。

 



 車や複雑な電気機器を購入すると、マニュアルが付いてきます。どのように使ったらよいか、「あまり親切ではなく」説明してあります。でもあれはまだ新しく、磨り減ってもいない、故障もしていない完全な製品に対する説明で、何か不具合を生じたら修理を頼むように書かれています。

 



 ところが聖書は人間と神との正しい関係を始め、人間同士の関係、社会生活について書かれていて、ある意味で、新製品のマニュアルのようでありながら、大きな違いがあるのです。それは聖書が、断ち切られた神との関係の中、混沌とした社会に生きなければならない、罪によって破壊された人間に対し、そのような実情の中でどう生きるべきかと、教え導く書物であるということです。 

 



 聖書は、一方では神のように完全に生きることが、本来の人間の生きる道であることを教えながら、他方では、それは絶対に不可能であり、この世界に生きる限り、不完全さと罪の中に悲しみ苦しみながら、生きなければならないことを教えているのです。

 



 結婚に関しても、聖書は本来の結婚のあり方がどのようなものであったか、わずかに示していることは示しているのですが、むしろ、断ち切られた神との関係と、壊れた人間関係、そして罪に牛耳られている人間の性質という、現実に対処した結婚のあり方を教え、その中で、離婚の問題も取り扱っているのです。

 



 ですからそれは、油が切れ部品が磨り減り、金属疲労を起こしてしょっちゅう故障する車でも、あそこをとっかえ、こっちをひっかえ、なんとかより良く走らせようと努力するようなものなのです。そんな車の苦労は、今の日本ではあり得ませんが、私がフィリピンの山岳奥地で宣教師をしていたころ、とても道とは言えないような道を
40万キロも走った三菱ギャランは、そのようにして使っていたのです。車を設計した人や実際に製造した人たちが見たら、腰を抜かすような対応と修理をしながら使っていたものです。

 



 聖書は、過酷な悪路の中で長年にわたって無理やりに乗り回された、車の使い方を教えた指導書のようなものなのです。ですから、本来離婚などはあり得なかった人間が、離婚せざるを得ないような状況の中で、いかに離婚を少なくし、より良い結婚を作り上げ、より幸せな家庭を築き、より平和で住みやすい社会にしていくかということなのです。

 


 
 それに対し、離婚は絶対に駄目、離婚は聖書の教えに反している、クリスチャンが離婚をするのは神に対する裏切りである、離婚したものは教会から追放するというような主張をするのは、「分かっていないなー。(ため息)」ということです。どんなに真面目に生きていても、離婚しなければならない状況に、追い込まれることがあります。どれほど立派なクリスチャンでも、離婚が避けられないこともあります。それが浮世です。そのような人たちを裁くのが、聖書の与えられた目的ではありません。

 



 人間は神を神として認めず、神の祝福を失った中で、なおも神を求めて生きずにはおれません。罪のために、本来の理想的人間像は失ってしまいながら、自分の良心に従い、理想に駆られて生きようとします。それは、たとえ罪を犯して神から離れてしまったとは言え、神によって造られたときの「神に似せて造られた人間」本来の姿を、ことごとく失ってはいないからです。

 



 そのような人間に対して、神は聖書を与えてくださったのです。人間が、いくらかでも本来の人間の生き方に近く生きることができるように、そして、本来の神との関係に近づくことによって、神からの新たな命と力をいただいて、まったく新たに作り変えられた者となり、永遠に生きる望みを持つことができるようにと、聖書は与えられているのです。

 


 聖書を、単なる「してはならない」「やってはならない」の羅列のように考えるのは、深刻な間違いであり、大きな損失です。






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2011年01月02日

聖書が教える性 (7)

 


性と差別


 

 人間の歴史を見ると、どこにおいても差別がありました。神はあらゆる意味で人間の間に違いをお造りになりました。本来それは多様性、バラエティであったはずなのですが、すぐさま、人間の罪とそのために混乱した社会のために、差別となって現れてきました。それらの差別の中で、もっとも深刻なものの一つが性差別です。旧約聖書の記述や律法を読むと、性差別はいたるところに見られます。



 

 キリスト教には性差別がないだろうなどと、善意の先入観をもって旧約聖書から読み始めると、いたるところに一夫多妻の話が出て来る上、なにかにつけ女性たちが酷く差別されている状況に驚きます。ちなみに、アブラハムと周辺の女たち、ヤコブを取り巻いた女たちを見るだけで、充分でしょう。それは当時の人たちの間違った習慣だろうなどと、また善意をもって読み進むと、神に与えられた律法までが、また、明らかに男性に有利なように作られているのです。たとえば律法は、明らかに父系社会を保てるように結婚を定めています。一夫多妻は認められていますが、一妻多夫は認められていません。旧約聖書は性差別に満ちた書物です。キリスト教の神は、性差別を認めておられるように考えられます。



 

ところが新約聖書まで読み進むと、まったく異なっているのに驚きます。キリストの教えも行動も、かなり女性を大切にしたものです。ともすれば男性に有利に用いられた離縁状も、キリストは禁止しておられます。(マタイ53132 一夫一婦が基本であることも、認めておられたと読み取ることができます。(マタイ1946)さらにパウロの教えに至ると、男女平等の感覚はもっと進んで、(参照・Tコリント7116、エペソ52233 少なくても原則的には、男も女も平等であるということがはっきりと語られています。(Tコリント111112) とは言え、実際生活への適用においては、パウロもかなり女性に差別的な習慣を認めています。(Tコリント143335、Tテモテ2915



 

これらのことから、聖書に出てくる性差別の容認は、当時の社会の中で広く行われていた性差別に対する神の歩み寄り、神を離れて無知と弱さの中で生きる人間に対する、神の妥協であることが分かります。性差別がまったく行われていない白紙状態のところで、性差別をしてはいけないと教え、それを実効させるのはあまり難しいことではありません。しかし、すでに社会そのものが性差別の上に成り立っているとしたら、性差別を取り除くことは、たとえ男女平等の原則を適用することであるとしても、社会を混乱させ、多くの人間を不幸に陥れます。それよりも、性差別の実情を許容しながら、穏やかに性差別を取り除くほうが現実的です。



 

キリストが離婚を禁じたとき、「モーセは離縁状を渡せと命じているではないか」とそれに疑問を投げかけた人々に対し、モーセが離縁状を渡せと命じたのは、その当時の人々の心がかたくなだったために、それを許したのだと説明しておられます。神はモーセを通して律法をお与えになったとき、心のかたくなな人々に歩み寄って、社会の機能が停止しないように配慮してくださったのです。一夫多妻制にしても、あるいは奴隷制度にしても、神は現実にそのような制度の上に動いている社会を無視して、原則を生のまま適用するようなことはなさいませんでした。だからと言って原則を放り投げてしまったのではありません。あくまでも原則を保ちながら、社会の実情に合わせてその原則を適用しておられるのです。



 

パウロが「女は教会で黙っていなさい」などと差別的なことを言ったのも、あくまでも、社会的実情に適した教えとして語ったのです。奴隷は奴隷として主人に仕えるように命じているのも同じことです。人口の半分以上が奴隷であったと考えられる社会で、奴隷制度は差別である、神のみ心に反していると筵旗(むしろばた)をあげても、それはただ反社会的行為として潰されてしまうだけです。とは言え、そのような状態の中でも、パウロは原則を放棄せず、かえって原則に言い及ぶことによって、ゆったりと力強い、奴隷制度廃止運動を呼び起こす原動力を据え、男女平等の大きな流れを作り出す、源流を掘っていたのです。



 

 私たちは現在の私たちの社会的通念から、歴史の出来事を裁いてしまいます。しかし、ある特定の社会の中で起こったことは、まず、その社会情勢の中で裁かなければなりません。現在の私たちの社会情勢だからこそ、多くの不公平が許されています。真面目に生きている人が損をするような仕組みがたくさん残されています。世界中で、毎年1千万ほどの人たちが飢えで死んでいるかと思うと、片方では大富豪家たちが食い散らかしています。それが、立派な現代の法律で擁護されているのです。時代が変わってから今の世界を振り返ってみる人たちは、この世界をどのように判断するでしょう。



 

 その贅沢に喰い散らかしている人たちの多くは、プロテスタントのキリスト教を信奉している人たちであり、クリスチャンが少ない日本人もその仲間に入っていることに、痛みを感じないでしょうか。

 

                            つづく





 
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2010年12月18日

聖書が教える性 (6)


 

一夫多妻

 

 神が人間をお造りになったとき、男1人と女1

が性的に結ばれて、夫婦になるようにお定めにな

りました。神の人間に対するご計画は、いわゆる

一夫一婦制です。(創世記
21824



 

 ところが、一般の歴史を見ても聖書の記述を見

ても、一夫一婦制はどこでもあまり守られて来な

かったことが明らかです。一夫一婦制が守られな

かったと言っても、そこにはいくつかの形があり

ます。



 

 第一は、社会制度として一夫多妻制を採ってい

る場合です。現代では多くの先進国が一夫一婦制

を採っているために、私たちは一夫一婦が当たり

前だと思っていますが、回教徒の国では一夫多妻

が一般的ですし、回教徒の多い国では回教徒だけ

は一夫多妻が認められているという例もありま

す。また回教徒だけではなくても、独自の文化と

アイデンティティを持っている小部族は、属する

国が一夫一婦制度を採っていても、彼らだけは一

夫多妻が認められている場合も多いようです。私

も、そのような部族の中で働いた経験がありま

す。



 

 旧約聖書を読むとすぐ気付くことですが、イス

ラエルの人々は周囲の人々と同じように一夫多妻

を習慣としていました。神は、元来一夫一婦を原

則として人間をお造りになったのにもかかわら

ず、一夫多妻を許容なさっているのです。それは

罪に陥った人間の道徳心の弱さだけではなく、罪

のために荒れてしまった自然の中で耕作し、(創

世記
31719)生活を営み、社会を機能させて

いく上で、一夫多妻をも認めてやらなければなら

ないところがあったのでしょう。これは弱い人間

への神の歩み寄りです。

 



 産業がある程度発達し、生活が豊かになり、女

性にもそれなりの生活力が認められるようになっ

た社会では、女性の地位だとか権利だとか平等だ

とかいう問題が、大きく取り上げられました。も

ともと、神は男女を平等にお造りになったのです

から、それはそれでよいことですが、社会制度が

未発達で、生産性が低く生活も厳しかった時代や

文化では、男尊女卑とも受け取られる一夫多妻

も、やむをえなかったと言えるのです。

 



 第二は、制度としては一夫一婦制を採っていな

がら、実際生活の上では、一夫多妻制になってい

るという場合です。実際のところはこれが非常に

多いと言えます。以前に、神が結婚とお認めにな

るのは、性交渉の成立だとお話したことがありま

すが、それを思い出してください。たとえ制度的

には結婚していなくても、性交渉が成立すると神

の本来の目的からすると、それは結婚と認められ

てしまうということです。(創世記
11824

Tコリント
616

 



 ただし、旧約聖書の律法を読むと、人間の罪深

さから来る弱さのために、この点においても神が

歩み寄ってくださっているところが、そこかしこ

に見ることができます。たとえば、モーセを通し

て与えられた律法によれば、結婚前の処女が男に

騙されて性交渉を持ってしまった場合、それは必

ずしも制度的結婚に結びつかなくても良いように

決められています。(出エジプト
221617

また、強姦の被害者も結婚したとは認められませ

んでした。(申命記
222529 この律法から

推し量ると、性的な問題に対して律法を実際に適

用するに当たっては、かなりの幅が認められてい

たと考えられます。

 



  また国の制度としての結婚と、事実上の結婚が

あります。たとえば現在の日本では、いわゆる同

棲があります。以前には足入れ婚という習慣も、

かなり多くの土地で行われていました。子どもが

できて、あるいは跡取りができて、始めて、結婚

が成立したと考えられるのです。このような土地

柄においての性道徳あるいは性に対する感覚は、

「男女七歳にして席を同じうせず」の、国家に強

制された性道徳とはかなりかけ離れたものでし

た。明治から昭和初期にかけての男女教育は、徳

川時代の武士階級に向けた儒教教育の名残に過ぎ

ないのです。ですから、日本の歴史の大部分で、

性に対する感覚はとても緩やかでおおらかなもの

だったのです。

 



  三行半(みくだりはん)を手にした女は、自由

に別の男と結婚することができました。三行半と

いうのは、ふつう考えられているような、夫が嫌

になった妻を追い出すための手段ではなく、妻が

夫から解放されて、自由に新しい男を物色するた

めの許可証のようなものだったのです。江戸時代

の銭湯がみな男女混浴であったと聞いて、驚く人

が多いのですが、日本は実におおらかだったので

す。どこの世界でも、制度としての結婚はしてい

なくても、事実上結婚していると認められる場

合、あるいは社会通念上結婚と認められた場合

が、たくさんあったのです。



 

聖書を読むと、基本的に、神は男女の性交渉を

結婚の成立と見做しておられたとしても、社会的

には結婚に至らない場合を認めておられることが

分かります。現実には処女ではない独身女性が、

結構存在したのです。寡婦となった女性、離婚さ

れた女性、無知のために騙されたりして性体験を

してしまった女性、強姦の被害者となった女性な

どです。また、男性側にも似た存在があったこと

でしょう。このような人たちに対して、厳しい一

夫一婦制を押し付けて、二度と結婚生活が出来な

くなるようにするのは、神の律法の目的ではあり

ませんでした。神が喜ばれるのは犠牲ではなく憐

れみです。神は案外、罪深い人間生活の酸いも甘

いもご存知の方なのです。

 



  制度が整った社会では、結婚が公に認められる

ためには婚姻届というものを出し、それが受理さ

れて結婚が成立するのですが、制度が整っていな

ければ、結婚の事実が周囲の人々に認められれ

ば、それが結婚として受け入れられました。イス

ラエルの律法でもそのようなものでした。男女が

交わって結婚が成立したと認められたのです。多

分、未婚の男女が一緒に一つの天幕に入ること

が、結婚の成立と見做されていたと考えられま

す。(創世記
2467



 

日本でも、男女の性交渉が成立することを結婚

と認めていた土地では、「聞き届け役」が襖の隣

で初夜の成立を確認して、親族一同、めでたしと

祝ったという風習が続いていたと言われていま

す。プイバシーを重んじる現代の私たちからする

と、なんとも珍妙な風習ということになります

が、性を淫卑なものと考えずに、かえって人間生

活の基本で大切な一部分と認め、また結婚を単に

男女の結びつきとも考えず、血族社会や地域社会

の重要な出来事をして認めて、祝うという習慣と

考えると美しいものです。

 



  一般に、ピューリタン的傾向を持っている宣教

師たちが、一夫多妻制度の土地に行って起こした

色々な問題が、記録に残っています。クリスチャ

ンになった男性に、第一夫人以外の夫人をすべて

離婚させるように教えたために、離婚させられた

夫人たちはみな生活ができずに、子どもたちもろ

とも路頭に迷う羽目になってしまったとか、そん

なことにはしたくない夫たちと、離婚させられた

くない妻たちが、キリスト教にこぞって反対した

とか、聖書の教えは信じるけれど、宣教師は信じ

ないと宣言する人たちが出てきたと言うことで

す。



 

5人の妻を持っていた族長が宣教師を嘲笑しま

した。「西欧のキリスト教国では、何回も離婚し

ては結婚をくり返している男女が沢山いるようだ

が、それは時間差一夫多妻、あるいは時間差一妻

多夫に過ぎないではないか。俺たちを批判するの

はおかど違いもはなはだしい」



 

私たちはできる限り、神の人間創造の原則に近

い生き方をすべきです。しかし、罪のために弱く

なった人間が作り出した、この混乱した社会に生

きる人々に、もう少し寛容な態度を持ちたいもの

です。神様のように、罪深い人間生活の酸いも甘

いも知って、それらの人たちがより神に喜ばれる

生き方ができるように、願い、助けてあげるべき

なのです。







 
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2010年12月07日

聖書が教える性 (5)


  (長い間、ブログを更新できませんでし
  た。多くの読者の方々にご心配をかけた
  ことをお詫びします。単に、とても忙し
  かっただけです。これから、すこしずつ
  書き足していきます)





 売買のための性

 

 売春は人類最古の生業の一つであるといわれる

ように、性の売買は時と場所を問わず、人類の歴

史上ずっと続いてきたようです。聖書にも幾度も

記されていますが、売春婦については創世記34

章31節が最初の記述で、ヤコブの子どもたちが

成人していた当時、売春婦が良く知られていたら

しく、ずいぶん早い時期です。(聖書では、ふつ

う売春婦を「遊女」と訳しています)



 

 聖書を注意深く読むと、性が子孫を残すための

手段として、また、結婚をした一組の夫婦が互い

に深く知り合い絆を強めるための手段として、良

いものとして神に与えられたことは明白です。と

ころが罪に支配された人間は、この性の自然な用

法、つまり神に与えられた用法を誤って、自分た

ちの欲望を満たすために用いるようになってしま

ったのです。



 

 悪いのは性ではありません。性を目的どおりに

正しく用いることができなくなった人間の欲望

と、その欲望を制御できなくなってしまったとこ

ろが問題なのです。また性の目的を見失って、間

違ったことに利用し始めたことが悪いのです。人

間の罪のもっとも根深いところにあるのは、自分

の欲求を抑えられなくなってしまう弱さです。欲

求自体は自然のものです。でもちょっと油断する

と、それは欲望となり、押さえ切れない強い衝動

になってしまうのです。その衝動が特に激しく現

れるのが性欲と言えそうです。



 

 その押さえ切れない欲望を満足させようという

試みが、結婚という社会制度に結びつかない性の

営みであり、なかでも用の東西を問わず広く知ら

れているのが、現代日本では性産業などと呼ばれ

ている売春です。性の快楽を求める欲望は、しば

しば他の感覚的な快楽と結び付けられ、同時に行

われます。昔から、恍惚感を呼ぶことができる深

い飲酒や激しい舞踏、あるいは今で言うドラッ

グ、つまり興奮剤と共に売春が行われて来たとお

りです。

 



 そこにはまた、宗教的恍惚感も容易に仲間入り

することが出来ました。ですから、世界中の多く

の宗教が性的興奮を重要な要素として取り入れ、

秘儀あるいは奥義といわれるものの中に、性行為

を含んできたわけです。日本にも、昔からそのよ

うな宗教がずいぶんありました。特に、ヒンズー

教の影響を強く残した密教と呼ばれる仏教は、チ

ベット、中国、モンゴルとわたり、日本にも真言

密教の一部としてもたらされてずいぶん物議をか

もしました。

 



 聖書に目を向けると、モーセの時代からパウロ

の時代にいたるまで、イスラエル周辺の異邦人の

間では、神殿娼婦あるいは神殿男娼といわれるた

ぐいの、宗教と結びついた性産業が盛んだったこ

とがわかります。そのような中でイスラエル人

は、神殿娼婦や神殿男娼になりことが禁じられ、

売春から得た儲けを神に捧げることも禁じられて

います。



 

宗教の中に性行為が大切なものとして取り入れ

られたのには、他にも重要な理由があります。人

類の多くがまだ農作物を育て、家畜を養って生き

ていたころ、もっとも大切なことは豊穣でした。

彼らの宗教の多くが豊穣を重んじ、豊穣に関わる

性行為を神聖化して行くのも、ある意味で自然の

成り行きでした。またそのようにして生まれた子

を犠牲にして捧げることにより、豊穣のために命

を捧げるという名目になっていたことすらありま

した。聖書の中にも、豊穣を祈願する人身御供を

示唆すると思われる記述が残され、そのような慣

わしに対する、天地をお造りになった神の怒りと

嫌悪が記されています。



 

神は原則的に、性行為を結婚関係の中で行われ

るものとしてお造りになったのですが、強姦があ

ったり女性からの誘惑があったり、原則どおりに

行かないのが罪に陥った人間の世界です。(創世

34239718)その生身の人間たちの姿

を、隠すことなくそのまま記している聖書は、ど

んな名高い小説よりも人間性を深くえぐった、ま

さに読み応えがある書物です。



 

多くの人が勘違いしているようですが、私たち

の神、天地をお造りになり、人間をお造りになっ

た神は、罪を犯した人間を罰することよりも、む

しろ彼らを助けお救いになることに大きな関心を

持っておられます。性に関する罪も同じです。日

本に伝えられたキリスト教は、ともすれば性に関

する罪を厳しく取り扱うようですが、聖書の神は

意外に物分りの良い、優しく懐の深い神なので

す。



 

売春は神に喜ばれないもの、忌み嫌われるもの

です。売春で得たもうけを神への捧げ物にしては

ならないと言われている通りです。ところがその

一方で、神は売春婦に対してもとても哀れみ深い

お方です。売春婦になるまでには多くの苦しみや

悲しみや、人にはわからない辛いことがあること

を、神はご存知です。血筋で言えばイエス・キリ

ストの先祖に当たる、ラハブという異邦人の女は

売春婦でした。そのようなことが起こるのを、神

はあえてお許しになったのです。



 

イエス・キリストは、売春婦たちに非常に優し

く接し、もっとも救いに近い人たちとして、大切

にお取り扱いになりました。キリストは、それが

当時の貴族や宗教家たちから疎まれ、蔑まれ嫌わ

れて、十字架に付けられる原因の一つになること

をご存知だったのに、決して売春婦たちをおろそ

かにはなさいませんでした。



 毅然として性的過ちに陥らない態度と、性的な


過ちに陥った人や、性的弱さを抱えながら一所懸

生きている人に対し、どこまでも優しく付き合う

態度が大切なのです。
 







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2010年11月13日

聖書が教える性 (4)




 性交渉を表現するために、聖書が主に用いてい

る主な言葉は、「知る」であることはすでに述べ

たとおりですが、聖書には、多分この言葉の意味

と関わりがあるだろうと思われる、面白い記述が

あります。


 

最初の人間であるアダムとエバが神に逆らっ

て、食べてはならないと命じられていた木の実を

食べてしまったとき、彼らは自分たちが裸である

ことに気付き、木の葉で腰の周りを被ったと書か

れています。なぜ、腰の周りを被ったのでしょ

う。隠すなら、木の実を食べた口か、木の実を採

った手であるべきです。



 

キリスト教を騙(かた)るえせ団体には、アダ

ムとエバが腰の周りを被った、つまり性器を隠し

たことをもって、彼らの罪は性に関係するものだ

と言って、独特の性倫理を主張し、団体の中で奔

放な性行為を推奨しているものさえあります。教

祖などの高位の者たちが、人間の罪は性行為から

生まれているのだから、罪のない教祖や高位の者

たちとの性行為によって、罪が取り除かれるのだ

と教え、多数の信徒たちを毒牙にかけているわけ

です。



 

神に背く罪を犯したアダムとエバが、本能的に

取った行動は神から隠れることでした。つまり、

知られたくなかったということです。腰の周りを

被って互いに隠したのも、知られることを恐れる

ようになったためだと考えられます。性行為は

「知る」と表現されているように、互いの人間性

の奥深くまで知り合うことですが、罪を犯してし

まったアダムとエバは、互いに自分たちの奥深く

まで知られることを恥じ、恐れるようになったわ

けです。それで、「知る」ことと関係する性器を

隠すに至ったのでしょう。反対に考えると、当初

の性行為は、単に肉体的な結合で終わるものでは

なく、本当の意味で知り合うという、深みがあっ

たのでしょう。アダムとイブはそれを感じていた

のです。だからこそ罪を犯した彼らは、罪が暴か

れるのを恐れ、知られるのを嫌ったのでしょう。



 

現代の私たちは、あらゆる罪に染まってすっか

り鈍感になり、アダムとエバほどのナイーブささ

えも失ってしまいました。だからこそ、木の葉で

腰を覆ったアダムとエバの行為が、まるで、子供

向けの話のように他愛なく、滑稽に思えてしまう

のです。



 

そういうわけで、聖書が教える性の目的は、た

だ単に繁殖のためだけではなく、一組の男女が社

会の基盤を構成していく結婚を、成立させる機能

を持っていたということです。一組の男女が肉体

的にも繋がりあい、それを通して精神的にも繋が

りあうことであったのです。ただ、罪のために無

感覚になった人間は性を軽んじ、性行為で築かれ

る深い人間的つながりそのものを、破壊してしま

ったと思われるのです。



 

U. 性の間違った用い方




 神は子孫を残す手段として性をお造りになりま

した。また人間の場合は、結婚を成立させ、一組

の男女が深く理解しあい、二人としてではなく、

一体として協力して生きて行くためには、なくて

はならない心の繋がりを作り上げるための、大切

な要因としてお造りになりました。



 
 

 ところがその性が、人間の罪のために人間の心

が歪んでしまった結果、誤った目的のために使わ

れるようになってしまったのです。



 
 

快楽のための性

 



 間違った性の用い方の第一が、快楽だけを目的

とした性行為です。性行為には快感が伴います。

美味しいものを食べると美味しいと感激するのと

同じです。ただし、食べ過ぎるのは間違いです。

人間にはエネルギーと栄養が必要です、そしてそ

の必要を満たす食べるという行為に、神は喜びを

付加し、団欒の要素さえ与えてくださいました。




 神は子孫を増やし、結婚をより親密なものとす

るために性を与え、そこに大きな喜びを加えてく

ださいました。しかし食べる目的をすこしだけは

きちがえ、肥満になる人たちがたくさん出てきた

ように、性の目的をすこしばかり軽んじて、結婚

とは関係なく、快感だけを追い求める人々が、た

くさん出てきました。しかも、食べすぎには豊か

さが必要ですが、性行為には豊かさは関係なくい

つでも可能なのです。快感を得るための、もっと

も身近な手段となったのです。

 


 そのために、人類の歴史は性の歴史であったと

さえ言えるほどになったのです。夫婦間の性だけ

ではなく、結婚とは関わりのない性が氾濫し、人

間社会をそれなりに形作ってきたのです。性は、

人間社会に数多くの混乱と悲劇を生み出してきま

した。しかし憐れみに富む神は、そのような人間

の過ちを厳しく攻め立てて、悲劇だけには終わら

せることは避けてくださったのです。

                                   つづく








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2010年10月31日

聖書が教える性 (3)


  
 性は神がお造りになったものです。ですからク

リスチャンはこれを罪悪視したり、不浄視したり

せず、真面目に、まっすぐに向き合って取り扱わ

なければなりません。特にこれは人間の歴史の中

で、もっとも混乱し、罪悪を生み出し、社会を混

乱に陥れてきた、大きな要因ともなっているから

です。



 
では、真面目に聖書を読む限り、性についての

記述をどのように読み取ることできるでしょう

か。神は、性をいかに取り扱っておられるのでし

ょうか。不充分ながら、調べてみましょう。
  




T.性の目的


 

 神は人間を男と女にお造りになり、「生めよ。

増えよ。地を満たせ」とおっしゃいました。(創

世記
128) これで明らかなように、性の大切

な目的、あるいは機能は、繁殖のためだと言うこ

とができます。動植物の繁殖の仕方は実に多様で

す。でも、いわゆる高等な動植物のほとんどには

性があります。性を持っていながら無性生殖をす

るものもあれば、成長の過程で雄になったり雌に

なったりするものもあります。雌雄同体というの

もあれば、栄養状態で雄にもなり雌にもなるもの

もあります。生物の繁殖は本当に神秘です。とは

言え、たとえば哺乳類のような高等な動物は、み

な、性を持ち性行動で増殖をすます。人間も同じ

ように、性行動によって増殖するように造られて

います。



 
 

 このように観ると、人間の性も繁殖のためであ

ると結論付けてしまいたくなります。ところが、

聖書を見ると、そのようには言えないことがわか

ります。また、人間の性行動を見るとそうではな

いことが分かります。

 



 聖書の記述を読むと、性は繁殖を目的として用

いられているとは言い切れないのです。むしろ、

性は人間の喜び、楽しみとして用いられていま

す。それがちょっと間違うと、快楽のため、欲望

のためとなってしまうわけです。



 

 たとえば、聖書の中にも売春や強姦の問題が論

じられ、いくつもの例が記録されています。これ

は性が、繁殖を抜きにした快楽のために用いられ

て来たことを、聖書も認めていることを示してい

ます。人間は古くから、繁殖のためだけに性を用

いてきたのではないのです。繁殖のためだけなら

ば、神は人間にも、ほとんどの高等動物に与えら

れている、繁殖期をお与えになったはずです。繁

殖期を持たないで、何時でも繁殖行為が可能なの

は人間だけなのか、他にもそのような動物がいる

のか、良く知りませんが、人間は繁殖期を持たな

いで、極めて特殊な性行動をする動物だというこ

とは確かです。



 

 また、聖書が性行為を表現するのに、「知っ

た」という言葉を用いていることには、強い示唆

があるように思います。人間の性行為は「知る」

ことだったのです。知るということが性行為の大

切な目的、あるいは機能だったといえるのです。

知るとは、人間の交わりの中でとても大切な、中

心的な要因です。特に、この知るという行為が男

女の仲で行われることは、男女の非常に深い交わ

りを意味しています。一組の男女が、会話や付き

合いの中で互いに知り合い、精神的なつながり、

心の絆を強くするだけではなく、肉体的にも繋が

って、「知る」という深みの交わりを築き上げる

わけです。



 

 ここに、人間という動物が単に多くの動物と同

様の、ふつうの動物ではなく、特殊な動物である

ことがうかがわれます。人間は肉体と霊とがしっ

かりと結びついた存在なのです。単に動物的な生

命、それを魂と呼ぼうと心と呼ぼうと結構です

が、動物的な知・情・意以上のものを持っている

という証です。聖書を読むと、人間だけが他の動

物と異なった造られ方をしているのに気づきま

す。土を捏ねて形造られ、そこに神の息吹(原語

では霊と同じ言葉)を吹き込まれて、生きる存在

になったのです。人間は霊である神に似せられ

て、霊的な存在ともされているのです。


 


 とはいえ、人間はあくまでも動物です。血と肉

と骨と多くの物質による体を持った存在です。神

に似せて造られてはいても、神のように肉体を持

たない霊だけの存在ではないのです。死後、一時

的に肉体を離れた存在として生きることがあった

としても、やがて甦りのときに完全な肉体を与え

られて、元の、肉体を持つ存在に戻されるので

す。


 


 その肉体的存在でもある人間が、単に精神的

な、あるいは霊的な理解や交流だけによるのでは

なく、肉体的な交わりをも通しても知り合うとこ

ろに、社会を形成する最小単位である結婚が成立

するのです。互いに深く知り合う結婚によって、

社会の基盤が築かれるのです。本来、夫婦間の性

交渉は人間としてのもっとも深い交わりであり、

他のことでは築くことができない性質の交わりで

す。人間の性の営みは、繁殖するという動物的な

目的だけではなく、精神的にも肉体的にも、「一

つ」を形成するための、深く「知り」合う行為な

のです。

 



 人間は、男女が性的にも結合することによっ

て、初めて神がもくろまれた「一つ」になること

ができるのです。「知る」と表現された性行為が

あって、一組の男女が「一つ」と認められる結合

体とされるわけです。それが結婚です。人間は、

やがて天のみ国に迎えられるまでは、つまりこの

世界で生きていく限り、男女が一つとなり夫婦を

基本単位とした世界で生きるのです。そのような

基本単位が不要とされ、繁殖が不要とされる天に

おいては、男女も結婚も存在しなくなるというの

が、イエス様の教えです。

 

 


 姦淫や強姦や婚外交渉の記事がたくさんある旧

約聖書を読むと、「知る」ということが結婚とし

て扱われていることがわかります。たとえ、社会

制度としての結婚は成立しなくても、神の創造の

目的からすると、知ることと結婚は不可分の事柄

なのです。新約聖書のパウロの教えを読んでも、

同様です。パウロは遊女と交わるものは遊女と一

つになると言って、遊女との性交渉が、神の目的

から見ると結婚を成立させることとなると教えて

います。



 
 

 したがって、聖書によると、性交渉は単なる繁

殖の手段ではなく、一組の男女がひとつとして生

きていく上で、欠くことができない交わりを作り

あげる、「知る」という行為なのだと分かりま

す。日常の会話、日常の付き合い、日常のふれあ

いでは到達できない次元での、知ること、より深

い交わりを達成することなのだと理解できます。

結婚とはそのような男女の結びつきなのです。人

間の繁殖は、そのような夫婦間の「知る」行為の

結果として、達成されるべきものだったのです。



 
 

 こうしてみると、聖書によると、性とは結婚生

活のための基本部分を形成するものだと、考えら

れます。結婚とは互いに深く結びつき、協力して

生きていくことです。そこにおいて、知るという

行為が非常に大切な役割を果たすのです。そして

それだけ重要な機能と目的を持った性であるため

に、神は性に快感をお与えになり、性がないがし

ろにされたり、捨て置かれたりせず、知るという

喜びが保たれるようにされたのでしょう。

                   
                 つづく







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2010年10月22日

聖書が教える性 (2)



 歴史が始まってこの方、人間はずっと性の問題

に振り回されてきました。人間性のもっとも奥深

くに関わることだからでしょう。したがって、人

間の罪と救いについて語る聖書にも、性に関係す

る問題がくり返し語られています。ただ、聖書の

記述には、性に関わる出来事の記録が多く、性そ

のものを取り上げて教えるというものはわずかで

す。そのためか、教会はこの問題についてかなり

誤った理解を持ち続けてきました。



 

特に、すでに幾度も述べてきたことですが、日

本の教会の多くが、ピューリタンやメソジストあ

るいはホーリネス系のものである上、儒教の倫理

の受け皿で理解したために、性に関しては、伝統

的に厳格な立場を採ってきたと言えます。これら

の教会の教えは、聖書の教えというよりも、一種

の「キリスト教文化」と考えるべきでしょう。そ

してこの文化は、性というものを、ともすれば恥

ずべきもの、汚らわしいもの、隠して置かれるべ

きものとして取り扱ってきました。そのために、

真正面からこれを取り扱うことが出来ないで来ま

した。



 

一般社会が個人の自由を謳い、性の開放を叫

び、性産業が隆盛を極めるようになっても、教会

はまだ「恐る恐る」という感覚なのです。そのた

めに、現実の問題に対応できず、性の問題に捉わ

れている人たちを的確に取り扱うことが出来ない

でいます。



 

教会がはっきりと理解しなければならないこと

は、性は神によって造られたものであるという事

実です。性は、人間の堕落によって、あるいは罪

によって人間の中に入ってきたものではなく、は

じめから神の創造の一部として存在したことで

す。したがって、性は本来良いものであると考え

なければなりません。人間の知・情・意が、神に

よって与えられたものであり、本来、良いもので

あるのと同じです。問題は、その良いものを誤っ

て用いることです。人間は本来良いものである知

・情・意を間違った方向に用いて、たくさんの悲

劇を作り上げてきました。同じように、本来良い

ものである性を捻じ曲げて使ってきたために、非

常に多くの苦しみを作り出してきたのです。



  一般社会においては、様々な性の取り扱い方が

論じられています。
1960年代のアメリカでは性の

開放が謳いあげられて、小中学校でも具体的な性

教育が行われ、避妊が教えられ、避妊具が配られ

るようになりました。その結果、アメリカでは非

常な性の混乱が起こりました。ところが
1980年代

の終わりになると、アメリカの社会では性に対す

る「保守化」が始まり、いわゆる「道徳教育」が

徹底し、性に関する社会問題はひところの
4分の1

まで減ったという報告もあります。その背後に

は、保守的キリスト教会が真面目に性の問題を考

えて、行動に移したという一面もあります。
 





 色々な意味でアメリカの数十年後を歩んでいる

日本では、アメリカが性に関しては保守化する時

代になって、逆に、アメリカに倣えとばかりに性

の自由化が進みました。性については生物学的に

教えるべきだとか、性は個人の自由に任せるべき

だと主張する「擬似アメリカ文化」の団体が作ら

れ、日本の学校教育にも大きな力を持つようにな

りました。あるいは明治政府に始まる儒教的性教

育からやっと解放されて、日本古来の緩やかな性

観念にもどり、外面だけは近代的な装いを身に着

けたとも言える理現象です。すでにだいぶ前か

ら、小学
34年生頃に図解や人形をつかった性教

育を始め、避妊の方法まで教える学校が多くなっ

ています。ただし、性が人間性の中でどのような

意味を持ち、家庭や社会の中でどのように機能す

るかというようなことには、あまり関心がないよ

うです。そのために、いまの子どもたち、あるい

は若者たちの間では、セックスは個人の自由だと

いう感覚が強いのです。中学生や高校生の間で

も、互いに好きだったら、セックスはしていいと

いうのが普通です。
20歳で性体験のない男女は、

かえって「普通でない」と見られることが多いの

です。



 

こういう日本の現状にあって、私たちの教会

は、聖書の教えに立った性の理解を持って、対応

して行かなければなりません。その第一歩が、性

というものから「汚い」「不潔」というマイナス

のイメージを払拭し、本質的に良いものであると

いう認識を持つことです。その良いものをいかに

正しく、よい方向に用いていくべきかという問題

が論じられ、誤って用いてしまった人や、誤りを

容認している社会にどう対応するべきかが論じら

れるべきです。

 



 性が神によって作られた美しいものであると認

めて、そこから話を進めましょう。聖書は性につ

いてかなりおおっぴらに語っているのですから、

私たちも隠す必要はありません。


 



 神がお造りになったものには目的があります。

当然、性にも目的があります。人間以外の動物の

性は、ごく一部の高等動物を除いては、繁殖のた

めです。そして教会は、伝統的に性を繁殖のため

のものであると理解して、繁殖を目的としない性

行為を積極的に評価することはありませんでし

た。それを端的に現したのが避妊の禁止です。い

まだにカトリック教会では公式に避妊を禁止して

います。それは、繁殖を目的としない性行為を禁

止していることです。避妊というのは性行為の本

来の目的を曲げ、ただ快楽のために用いようとす

ることだと、非難しているのです。



 

確かに、多くの動物の性と性行為からの類推に

よると、繁殖が性の目的であるかのように考え

られます。ただし、それが唯一の目的か、あるい

は第一の目的かと考えると、一般の動物の世界

からも聖書の記述と教えからも、はてなマークが

つくのです。ちなみに、つい最近までは、人間以

外のすべての動物には発情期というものがあっ

て、一定の期間だけ性欲が起こるようになってい

ると言われていました。人間以外のあらゆる高等

動物の性行為は、繁殖のためであると考えられて

いたのです。しかし、サルの仲間を観察してきた

人たちは、発情期以外にも性行為を日常的に行う

サルがいることに気付きました。繁殖とは関わり

のないもので、むしろ「挨拶」に近いものだと考

えられています。


 



 サルの話はどうでもいいといえばどうでもいい

のです。神はそのサルをそのサルとして造り、そ

のサルにふさわしい行動をお与えになったに過ぎ

ません。神は人間にも発情期というものを与え

ず、基本的に、適齢期になるといつでも性行為が

出来るようにお造りになりました。人間が造られ

て間もなく、神は人間を祝福し、「生めよ。増え

よ。地に満ち」とおっしゃったことは、性が繁殖

を目的としていることを強く示唆しますが、人間

に発情期がなくいつでも性行為が出来るというの

は、この祝福に関係があるのかも知れません。




 

ともあれ、性が繁殖を目的としているという理

解は、聖書の教えから言っても誤りではないと認

められます。子どもが生まれたという単純な出来

事を言うのに、聖書はあえて男が女を「知って」

という表現で、性行為があって子どもが生まれた

という事実を、繰り返して記しています。ここか

らも、繁殖に繋がる性行為が重要視されていたこ

とがうかがわれます。ただ、それが唯一の目的で

あると言い切ることができない点に、注意が必要

なのです。









 
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2010年10月20日

聖書が教える性 (1)



 「聖書の神は、性をどのように見ておられるの

だろう?」 このようなことを考えたり言ったり

すること自体が、そもそもクリスチャンらしくな

いと、白い目で見られそうです。



 

一般に、クリスチャンたちの多くが性をタブー

視して、この問題に触れたがりません。ほとんど

の牧師たちも、これを避けて通ります。ですか

ら、教会で性の問題を扱うことは滅多にありませ

ん。「情欲を持って女を見るものは、すでに心の

中で姦淫を犯しているのである」という、キリス

トの教えの間違った解釈に捉われて、(マタイ
5

2730)性欲があることそのものに罪責感をも

って、うじうじと悩んでいるクリスチャン男性が

たくさんいます。私は、どこの誰かは知らない

「クリスチャン」から、よく、電話相談を受けま

すが、その中の多くは、性の問題、特に性欲の処

理に関するものです。クリスチャン同士で話し合

えないし、牧師に相談すると叱られそうだし、と

いうわけで、声だけでどこの誰かを言わずにす

む、電話相談に頼るようです。



 

私も少しばかり常道を逸した牧師ですので、そ

んな相談にはそれなりの答え方をします。先日

も、「自分はクリスチャンなのに、歳頃の女性を

見ると我慢ができなくなる」と嘆く相談者に言い

ました。もちろん、この場合の相談者は男性でし

た。最近はややこしい相談者もいるため、断りを

入れなければなりません。「イエス様は、右目が

罪を犯すならえぐり出して捨てなさい。右手が罪

を犯すなら切って捨てなさいとおっしゃったのだ

から、そうしたら良いでしょう。ついでにあなた

の男性のシンボルを切って捨てたら、もっと良い

かも知れませんね」 しばらく声も出せずにいた

相談者は、ポツリと言いました。「そうですか・

・・・」



 

そこで、続けて言いました。「あなたにそれが

出来ますか?」「・・・・・。・・・・できませ

ん」消え入るような声が帰ってきました。「そ

う。出来ないでしょう? 出来ないからあなたに

は救い主が必要なんですよ。イエス様が十字架で

死んでくださったのは、あなたやわたしのよう

に、どうしょうもない人間のためなんです。せっ

かくクリスチャンになれたのに、まだ情欲を持っ

て女を見てしまうあなたさえも哀れんでくださる

神様に、感謝しながら生きることです。『ありが

とうございます』と、お礼を言いながら生きるこ

とです」



 

性の問題をことさら避けて通ることは間違って

います。性の問題をことさら罪悪視するのも、正

しくありません。先入観を持たず、聖書を広く読

んでみることです。

 



 聖書には性に関わる出来事や問題が、それこそ

たくさん記されています。避けては通ることがで

きない人間の性(さが)だからです。そこに現れ

てくる私たちの神の、性に対する取り扱いには二

つの局面があります。一方はとてもおおらかで、

穏やかで、緩やかなものです。そしてもう一方は

物凄く厳しく、情け容赦のない、ぴりぴりと張り

詰めたものです。どうも私たちの神様は、情け容

赦なく厳しい神として見られることが多いようで

すが、特に、性の問題についてはそれが極端で

す。



 

聖書の神は完全に聖い神です。そのために、ど

んなに立派な人間の高潔さも、神の前では汚れに

汚れたものです。これについて聖書は、かなりど

ぎつい言い方をしています。それは女性が生理の

ときに用いて汚れた布切れのようだと表現されて

いるのです。当時、女性の生理は汚(けが)れた

ものとして忌み嫌われていましたので、これは強

烈な言葉でした。

 



 それにもかかわらず、自分は立派なものである

と思い込んで高慢な態度をとっている人間を、神

は「お前の聖さは汚れた布切れだ」と、徹底的に

賤しめられたのです。キリストが自他共に高潔な

人と認めるような人物には、峻烈な厳しさをもっ

て対応したのは、彼らに、自分たちの汚れを悟ら

せるためだったのです。性の問題に関しても同じ

です。性に関しての神の厳しさは、人間に罪の深

さを悟らせ、彼らにも、自分たちには神の憐れみ

と救いが必要であると、分からせるための手段で

もあったのです。

 


 一方、キリストは自分の罪を自覚し、嘆き、悲

しむ人には、これまた徹底して優しく、彼らを慰

め、受け入れ、彼らのためにこそ神の救いがある

事を示してくださっています。いまさら彼らに罪

を自覚させる必要はなかったからです。性の問題

で罪悪感を持ち、罪意識にさいなまれている人

に、それは罪だと言う必要はないのです。神は罪

人を救うためにキリストを十字架に付けてくださ

ったのですから、救いはあなたのために準備され

ていますよと、教えて上げればよいのです。



 

神にとっては、どれほど清く、高潔な人間で

も、まったく救いに値しない罪人なのです。また

神にとっては、どれほど醜く汚れた人間であって

も、絶対に滅ぼしたくないと思っておられる愛の

対象なのです。どれほど立派でも、救いに値する

ほど立派な人間はなく、どれほど惨めでも、滅び

に入れたいと願われるほどの罪人はいないので

す。ですから、その片一方だけを強調するのは正

しくないのです。

 



 また、罪の問題の中で、性に関することだけを

特別扱いして、ことさら深刻に取り扱うのは良い

ことではありません。他の多くの罪と同じです。

ただ、人間性に非常に強く繋がっていて、取り扱

いの難しいものであることは事実です。そういう

意味では、注意深い取り扱いが必要なだけです。


 



 いま一つ、明らかにしておきたいのは、クリス

チャンたちの性に関する罪悪感の多くは、自分た

ちの文化に根ざした先入観を、教会の教えである

とか聖書の教えであるとか、勘違いした結果だと

いうことです。あるいは牧師も勘違いして教えて

いるかもしれません。特に、独身の女性牧師の場

合にはその傾向が強いようですが、これにはしょ

うがないという面もあります。


 



 ですから、聖書の教えに立った性の理解が必要

です。まず、聖書は性欲を罪悪視していないとい

う事実に、気付いてほしいものです。たとえば先

にも触れた、「情欲を抱いて女を見る」というキ

リストのお言葉は、正しくは「他人の妻を自分の

ものにしたいという欲望を抱いて見る者は」とい

う意味であり、性欲を非難しているのではなく、

むしろ、所有欲に関わるものです。もちろん、性

欲も関わってはいますが、性欲そのものを罪悪視

するのではなく、性欲を誤った方向に持っていく

ことを語っておられるのです。これはモーセの十

戒の中の教えと共通するものです。(出エジプト

2017) またダビデ王が、部下のウリヤの妻

バテシバを横取りしたときに、受けた神のお叱り

にも通じるものです。神は、他に女が欲しければ

与えたものを、なんでよりによって他人の妻を盗

んだのかとおっしゃっているのです。(サムエル

U
1111215


 

性は本来、神が定められた大切なものです。そ

れが正しく用いられるならば、美しく素晴らしい

ものであり、人間に幸せをもたらすものです。と

ころが、罪に捻じ曲げられた人間性のために、性

が誤って用いられるようになり、多くの混乱を生

み出しているのです。


 

神様は食欲を与えてくださったように、性欲も

与えてくださいました。食欲がなくては、人間は

生きて行けませんし、幸せにもなれません。しか

しこの食欲をコントロールすることが出来なくな

り、誤って用いてしまうと、当人にも周囲の人た

ちにも大きな不幸をもたらします。同じように、

神様は性欲を与えてくださいました。これを正し

く用いているなら、それは人間の幸せのために、

非常に大きな役割を果たすものです。ところが間

違って用いると、大きな不幸と混乱をももたらす

のです。

 



 では、神が人間に性を与えた下さった目的はな

んでしょう。性を正しく用いるとはどういうこと

でしょう。おいおい考えて行くことにしましょ

う。














posted by まさ at 10:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

おおらかな日本の性風俗と教会



  私の住んでいる長崎県は、経済や産業、ある

いは賃金などに関わることでは、常に47都道府

県の最下位に近いところにいます。ところが数年

前、ある統計で、長崎県がダントツに一位だった

ことがあって、目を見張りました。それは
10代の

女性の堕胎率です。しかも良く見ると、私の住ん

でいる佐世保市を除いては、どの自治体もみな平

均に近いのです。佐世保市だけが突出して、長崎

県全体の数字を日本一にしているわけです。確か

に、私の小さな働きにも、それに関わる問題が幾

度かありました。


 


  高校卒業時の女子の性体験率が、東京ではま

だ50%になっていなかったのに、長崎県では

70%近くになっていました。これは今後もます

ます加速していくのだろうと思います。社会にお

ける性産業の隆盛、学校における性教育のあり方

など、たくさんの問題が関係していますが、いま

私が取り上げようとしている問題は、このような

状況の中にあって、私たちの教会はどう対応して

いくかと言うことです。


 


   17
世紀の厳格な清教徒や敬虔派の流れを汲む

キリスト教。あるいは、
18世紀のしっかり者のメ

ソジストの精神を受け継ぐキリスト教。さらに
19

世紀の、「罪罪罪罪」と厳しく罪を糾弾し続け

た、ホーリネスの伝統を引き継いだキリスト教。

それが私たちのキリスト教です。ある意味でそれ

は素晴らしいことでしたが、様々な弊害もありま

した。

 



  なにもかも罪と断定し、排斥して寄せ付けな

いのが、私たちの教会のイメージになってしまっ

たのも、弊害の一つです。なかでも性の問題は

「嫌らしいもの」「汚らわしいもの」「触れては

ならないもの」「隠しておくべきもの」として、

教会は忌み嫌ってきました。明治の時代、下級武

士の倫理を受け継いだ「男女
7歳にして席を同じ

うせず」の道徳は、このキリスト教と「仲良し」

になることが出来ました。そのため、キリスト教

には清廉潔白のイメージが付きまとって来たので

す。

 



  ところが、「男女
7歳にして」の倫理は、も

ともと性に関しては非常に「おおらか」であっ

た、悪く言うと「しまりのなかった」日本の文化

の中では、武士階級の建前として僅かの期間存在

しただけで、深く根を張ったものではありません

でした。ですから、ひとたび上から押さえつける

力がなくなると、たちまちのうちに、元のおおら

かでしまりのない性文化に戻ってしまったので

す。現代の日本の性風俗は、そういう意味ではこ

とさら嘆くべきものではありません。ただ、教会

は保守的です。それに命をかけているほどです。

頑固に自分の伝統を守り続けているために、現在

の日本の性風俗の中にあって、対応できないでい

るのです。

 



  教会が性風俗に対して厳格な立場を保持して

いるのは、悪いことではありません。それは必要

でしょう。しかし問題は、教会が正しい聖書の理

解と解釈に立ってそのようにしているというよ

り、ただ自分たちの伝統を守っているに過ぎない

ことです。もう少し言うと、聖書には確かに性に

対して非常に厳しい教えがある一方、あたかも日

本古来の性風俗のように、「おおらか」で「しま

りのない」面も記されています。そのしまりのな

い性風俗を、厳格な神が許し、赦しておいでにな

ったという事実を見逃してはならないのです。。

 



  現在の私たちの教会の多くが神の厳格さを教

え、自分たちの教会もその神のご意思に従って、

厳格な立場を保持していると信じていながら、現

実には、氾濫する性に関わる問題には対応できず

に、ただ糾弾するだけに終わるか、目を背けて逃

避してしまっているのです。伝統に立つあまり、

本来自分たちが立つべき聖書を横に置いてしまっ

たのです。いま、どれほど多くの日本人が、性に

関わる問題で悩んでいることでしょう。教会に相

談に行って、牧師に叱られ、拒絶された人がたく

さんいます。はじめから牧師には相談できない

と、あきらめているクリスチャンがたくさんいま

す。

 


  伝統を大切にしている教会は、私たちの神が

罪に対しては限りなく厳しい神でありながら、あ

くまでも寛容な神であるということを理解できず

にいるのです。神の厳しさと神の寛容の接点が分

からないのです。伝統的に、神の厳しさを教える

ことが出来ても、聖書に立って神の寛容を教える

ことができないのです。

 


 性は、神によって造られた大切なものです。こ

れをどのように取り扱うべきか。いまの日本の実

情の中で、教会はどのように教え指導すべきか、

おいおい考えて行くことにしましょう。

 

                 つづく







posted by まさ at 09:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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