2010年09月06日

文化のはざまで(1)





 アメリカ人たちと持ち寄りの食事会をしまし

た。きれいに飾り立てたケーキも、フルーツサラ

ダもそれなりに楽しいものでした。でもケーキは

「物凄〜〜く甘く」 一切れ食べるのにも苦労し

ました。フルーツサラダは、なんだかきつい香り

が付いていて、・・・・・悪いですが・・・・石

鹸をかじっているような・・・・・・・。

 



 すっぱい胡瓜のピクルスも、たまには悪くあり

ません。でも私にはやっぱり、その横の有田焼の

器に盛られた浅漬の胡瓜と、波佐見焼きのお皿に

乗っていた沢庵のほうがずっと口に合いました。

いつも食べているのになつかしくさえ感じたので

す。大きなガラスのボールに一杯作られた琥珀色

のゼリーより、小さな器にひっそりしている水羊

羹のほうに手が出ました。



 

結構、長い間海外生活をし、色々な国の人たち

とずいぶん広く付き合い、彼らの素晴らしさ、そ

の文化の豊かさ、食べ物の美味しさ、そうそう、

かなり変わった食べ物にも慣れているはずです

が、少し年齢を重ねると、回帰現象が起こるので

ょうか。日本のものが肌にも口にもとても良く合

うようになってきたのです。



 

同じ材料を使っても、まったく違うものに仕上

がります。味も違えば歯あたりも異なる料理とな

り、色合いも形も違う物となります。



 

私は日本人です。日本人のクリスチャンです。

クリスチャンになりたての若い頃、西欧から入っ

てきたキリスト教に、新鮮な魅力を感じました。

でもその西欧臭さが、どうにも鼻についてくるよ

うになりました。ピクルスの胡瓜よりは浅漬けの

胡瓜です。

 



 自分がずっと食べ続けてきたキリスト教が、実

は西欧で味付けられた宗教であって、必ずしも、

キリストが教えてくださった教えそのものではな

いと気付いたのは、宣教師として海外の未開部族

の中で働いて、だいぶ歳を重ねてからのことでし
た。

 


自分が信じて実践してきた聖書の教えも、かな

りのところ、西欧流に読まれ、西欧流に解釈さ

れ、西欧流に適用されたもので、聖書そのものの

教えとは少しばかり違うところがあると思い始め

たのも、宣教師をやめて日本の片田舎にもどり、

小さな教会を始めてからの事です。ずいぶんと理

解の遅い人間です。

  

 

いまの私の願いは、聖書を日本人的感覚で読み

直し、日本人的見方で理解しなおすことです。本

質的なものに変わりはないでしょう。牛肉は牛肉

です。でも料理の仕方で好き嫌いが出来、とても

食いつけない代物にもなるのです。多くの日本人

がキリスト教をちょっとだけかじって見て、眉を

ひそめて吐き出すのは、素材であるキリストの教

えが悪いのでも、聖書の教えがまずいのでもあり

ません。料理の仕方、味付けの仕方が、日本人に

合わず、日本人の文化と社会に馴染まないだけの

ことです。



 


 これからしばらくの間、そのような「文化的つ

まずき」とでも言うべきことを、ぶつぶつとつぶ

やいて行きたいと思っています。日本人にも、キ

リストの教え、聖書の教えを美味しく食べてもら

いたいからです。








posted by まさ at 18:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

民族舞踊


 バリ島で民族舞踊を見ました。女の子たちは飾り

立てられた金色の冠を被り、原色の糸でつむいだ

巻きスカートのようなものをつけ、ぴかぴかの装

飾をたくさん施した胸当てで乳房を覆っていまま

したが、くねくねと曲がる体と際限がないほどよ

じれねじれる腕と指は、女性の曲線の美しさを強

調していました。民族も宗教も違い、踊りの意味

も異なっているとは思うのですが、カンボジアや

タイ、ミャンマーでも同じような踊りを見てきま

した。



 

フィリピンの女性の民族舞踊はまったく違って

いて、からだをくねらせて曲線の美しさを出すよ

うなものは見たことがありません。文明が遅れて

いた小部族の集まりに過ぎなかったこの国は、ス

ペインに統治されて、舞踏や音楽までもスペイン

的な服装とスペイン的なリズムに変わってしまっ

たようです。



 

ブラジルのカーニバルでサンバを踊る女性たち

はまた、まったく別です。全身ほとんど裸に近い

大勢の女性たちが、わずかにからだを覆う部分を

大げさに飾り立て、激しいリズムで躍動します。

肉体の美しさをそのまま謳歌しています。


 

南太平洋の小島に住む、アフリカ系民族の舞踏

を見ました。小さな腰蓑だけで真っ白な砂浜で踊

る、豊かな真っ黒なからだは軽やかに弾み、生き

ることの喜びを思いっきり発散させているように

見えました。これは、私の観たあらゆる踊りの中

で、もっとも感動的でした。



 

北欧やロシアの民族舞踊の女性たちは、国家や

民族がちがってもかなり共通しています。皆美し

く着飾って、極めて大きなからだの動きをします

が、肌が露になるようなことはまずありません。



 

日本の舞踊はといえば、高価ではあってもあま

りけばけばしくない、どちらかといえば落ち着い

た着物を着て、極めて様式化された身のこなしで

ゆっくりと踊ります。ここでも、肌が出るような

ことはありません。

 



 肌が露で、セクシーさをアピールするかのよう

な踊りをする女性たちが、特別に猥らだというこ

とはありません。優雅にまたしとやかに踊る日本

人女性も、肌を見せない北欧の女性も、結構猥ら

なところがあり、あまり変わりはありません。

 



 肌が出るか、裸に近いか、全身着物で隠されて

いるか。それは倫理観によるよりも、灼熱の国か

酷寒の国かによるものです。マイナス
30度にもな

る土地で、サンバの格好で踊れはしません。アス

ファルトが溶けて流れ出す国で、きちっと帯を締

め、トンテンシャンと静かに踊っていたのでは、

たちまち倒れてしまいます。


 

私たちが受け継いできたキリスト教は、長い間

北欧で育てられたキリスト教です。いまでこそ状

況は変わりましたが、ずいぶん長い間、膝小僧ど

ころかくるぶしが見えるだけで、はしたない、猥

らだと叱られる環境でした。その中でももっとも

厳格な、メゾジストというキリスト教の流れを汲

み、さらに清教徒と呼ばれる人たちの考え方を受

け継ぎ、その上に、清潔を強調するアメリカのホ

ーリネスという仲間の影響を、強く受けてきたの

が私たちのキリスト教です。

 



 北欧で育てられ、北欧で組み立てられたキリス

ト教の考え方は、同じキリストの教えを理解し、

同じ聖書の教えを解釈するのでも、北欧の環境、

北欧の生活に合うように育てられ、組み立てられ

ています。それが自然のなりゆきです。それが新

大陸アメリカの自由の精神の中で、ある意味で爛

熟し、日本に入ってきたのです。」


 

日本に入ってきた北欧とアメリカ周りの厳しい

キリスト教は、廃藩置県で行き所がなくなってい

た下級武士階級に歓迎されました。彼らは儒教の

倫理を学んでいたために、厳しいキリスト教を儒

教に勝る教え、儒教の完成として喜んで受けいれ

たのです。でも、儒教とはあまり関わりの無かっ

た一般庶民は「高潔なキリスト教」を見上げるだ

けで、自分たちのものにすることは出来ませんで

した。


 

それで、「キリスト教は立派だ」「でも俺たち

には無理だ」「キリスト教だって一皮向けば中身

はおんなじさ」、ということになってしまいまし

た。裸でサンバを踊る女性も、しとやかに見える

日本の女性も同じ女性。確かにそんなところがあ

ります。


 

大切なのは、文化的表現、文化的飾り、文化的

適用、文化的解釈というものを一旦横において、

できるだけ素直に、キリストの教え、聖書の教え

を理解しようとする心です。表面に現れる文化的

装い、適用などを排除して、キリストの教えその

もの、聖書の教えそのものに、目を注ぐことだと

思うのです。








posted by まさ at 08:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

外車は意外に売れなかった


 外車が垂涎の的だった頃がありました。今では

ちょっと考えられません。若い娘など、外車と見

ただけで「きゃー」と叫んで集まって来たと言わ

れるほどです。ところが、その外車が、実は意外

に売れていなかったのです。高価だったからだけ

ではありません。他にもたくさん理由があったの

です。

 



 外車の多くは左ハンドルでした。これは不便で

す。でも、わざわざ日本のために右ハンドルにし

てくれる会社は、まだありませんでした。「俺た

ちのほうが正しいんだ。お前たちが直せ」という

態度が見え見えだったのです。図体が大きくて、

狭い日本の道を運転するには一苦労でした。車体

が低く、日本のデコボコな砂利道を走るのは辛い

ことでした。車内が広いのは良いとしても、小さ

な日本人には、足が届かないために余計な劣等感

を抱かせただけでなく、何もかも使い勝手が悪か

ったのです。日本の道路交通法に合わないライト

だとかシグナルだとかが付けられていて、買って

から付け直さなければならなかったことさえあり

ました。でも、「先進国」の自動車会社は、「後

進国日本」のために(当時は開発途上国とは呼ん

でいなかった)、それをわざわざ変えようなどと

は思わなかったのです。


 

最近輸入される外車の多くは、日本仕様に作ら

れていて、ずいぶん変わりました。そうしなけれ

ば売れないからです。



 

とても良いものなのに、アメリカやイギリスか

ら輸入されているために、いまだに日本では良く

売れないものに「キリスト教」があります。「日

本人のクリスチャンはなぜ少ないのだろう?」 

これは牧師や宣教師たちの悩みであるだけではな

く、多くの社会学者たちが不思議に思って調べて

いることです。なにしろ、まだ誕生
100年にもな

っていない私の属している団体だけでも、世界の

信徒数は6千万人と言われるほどになっています。

ついこの間までは
5千万人と言っていたのに大変

な勢いです。それなのに、日本ではわずか
1万人

を少し上回るだけなのです。


 

キリスト教はもともとアジアで興った宗教です

が、長い間ヨーロッパで成長したために、その考

え方や習慣や神学などは、決定的にヨーロッパ的

です。ですから、多くの日本人はどうしても馴染

めないのです。たしかに欧米化した都会型の人、

あるいは保守的な自分の土地を離れた若者たちの

間では、このようなキリスト教もいくらかは受け

入れられています。また、留学や仕事で海外生活

をしている多くの日本人が、郷に入らば郷に従え

でクリスチャンになっています。でも自分の故郷

に帰ると、そこでも郷に入らば郷に従えで、あっ

さりクリスチャンを捨ててしまいます。



 

私がまだ宣教師としてフィリピンの未開部族の

間で働いていたとき、カナダからやってきたフィ

ンランド人の同僚がいました。彼の家を訪ねると

必ず、わざわざカナダから持ち込んだ大きな車の

修理をしていました。カナダの気候に合わせて寒

冷地仕様にされていたシェビーのバンは、熱帯の

フィリピンではどうしても旨く走らないのです。

結局彼は、フィリピンの生活に合わず数年で帰国

したのですが、寒冷地仕様に装着された、簡単な

コンピューターシステムを取り扱うことができず

に、滞在期間のほとんどを、車の修理に費やして

しまいました。



 
 聖書の教え自体は日本人にも非常に有益です。

キリストの教えは日本人にピッタリと来るもので

す。でもそれらが西欧の人々の生活習慣、考え方

や文化に合わせて構築されたのが、いわゆる「キ

リスト教」です。それが日本人に合わないのは当

然です。日本人の考え方、感じ方、社会の構造、

生活習慣に当てはめると、大きさが微妙に違う歯

車のように、軋んで、どちらかが壊れてしまいま

す。



 大切なのは西欧文化に適応されたキリスト教で

はなく、「キリスト教」という西欧文化を取り除

いた、「聖書が教える教え」、「キリストが教え

る教え」です。伝統を重んじ変化を嫌うのが大き

な宗教の特徴です。それも重要ですが、いつも正

しいとは限りません。日本に輸入されたキリスト

教も、変化を憎みます。でも、勇気をもってオリ

ジナルの姿に戻ることが必須なのです。

 


 西欧の人々のために作り上げられたキリスト教

を、日本人に無理に買わせようとしている。それ

こそ、日本でキリスト教が受け入れられない、大

きな理由の一つに間違いありません。








posted by まさ at 10:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

癌告知のできない日本人



 友人の女性が、舌に異常を感じて精密検査を受

けました。結果が出る日、彼女は主治医に会って

話を聞いて欲しいと、私に頼むのです。このよう

な場合、夫では信頼できないと考えたからです。

彼女はときどき教会に来るだけで、まだクリスチ

ャンではありませんでしたが、本当のことを知り

たいと望んだのです。




 主治医は、「だいぶ進行している舌癌です。で

きるだけ早く手術をするべきです」と言うのです

が、案の定、夫は「それを彼女に告げるのは酷だ

から、少し待ってほしい」と顔を曇らせました。

「彼女が牧師であるわたしを一緒にお医者さんに

会って欲しいと言ったのは、すぐに本当のことを

知りたいからです。牧師は本当のことを言ってく

れると信じているんですよ。癌ならできるだけ早

く手術をするのがいいのです。遅らせるべきでは

ありません」 隣に座っていた私は、夫を促しま

した。

 

結局、妻に癌の事実を告げることが出来ない、

「情けない」夫に代わって、私が隣の部屋で待っ

ていた友人に告げました。それで彼女は
2日後に

は福岡の病院に行って、手術を受けることができ

たのです。その手術も驚くほど旨く進んで、回復

も早く、一週間後には退院して来ました。舌の奥

のほうを直径
2cmほど切り取ったとの事ですが、

発音にも、食事にも、まったく影響がありません

でした。



 

 いくらかでも聖書の話を聞いていた彼女は、少

しばかり自己を確立した人間になっていたと思わ

れます。それに比べると、夫は極めて日本人らし

く癌の告知をしないで、隠し通そうとしたのです。

その結果、みんなが嘘をつき続け、苦しみ続ける

ことを選ぼうとしたわけです。共に苦しみを担う

という、日本人独特の考え方が背後にあるのだと

思います。思いやりと言う名の甘えを、みんなが

共有しているわけです。このある種の共同体感覚

の甘えが、日本人の自立を阻んでいるとも言えそ

うです。



 

 日本人は、自己確立が出来ていないと、つくづ

く感じることがあります。いつも他人の目を気に

して、こそこそと生きている。ほかの者の意見を

心配して、自分の考えを言うことができない。な

にごとも自分で選択決定が出来ない。周囲の者の

言うことに振り回されるというようなことが、と

ても目に付くのです。日本人の中だけで生活して

いると、それは当たり前で気付くこともありませ

んが、外国人たちと生活と仕事を一緒にすると、

日本人は非常に特異だと感じるのです。



 

 どうやら、自分をしっかり持っているというこ

とと、個人主義は強く繋がっているようです。も

ちろん日本人の中にも、昔から自分勝手と呼ばれ

る個人主義はごくふつうに見られました。でも、

自分を確立しているという意味での個人主義には、

まだなっていないように思います。



 

とはいえ、個人主義のすべてがよいわけではな

く、自己の確立がいつも良いほうに現れるわけで

もありません。私などは日本人の共同体感覚に、

とても美しいものを感じるのです。ただ、私たち

が聞いてきた西欧回りのキリスト教は、非常に個

人主義傾向が強いキリスト教で、日本独特の共同

体感覚に根ざした日本人の心理、考え方、感じ方、

習慣、家族、親族、社会制度などに、旨くかみ合

わないのです。

 

ですからクリスチャンになると、倫理道徳とい

う意味では立派な人間になるのに、社会に反する

人間、家庭や地域でうまく立ち回れない者になり、

はた迷惑で面倒くさい奴になってしまうのです。

日曜日の行事には参加しない。お祝いの席で乾杯

も出来ない。盆が来てもお墓参りにも行かない。

葬式があっても線香も上げない。挙げればきりが

ありません。

 



 西欧回りのキリスト教は、そのようなことに頑

固に立ち向かうことが、クリスチャンとして欠く

ことができない重要事項と考え、それができてこ

そ確立した人間の確立した信仰と考えてことさら

に強調し、それができたクリスチャンを賞賛する

のです。でも、はっきり言って、聖書もキリスト

もそんなことは教えていないのです。







posted by まさ at 17:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

日曜朝の山本さん



 日曜日の朝が来るごとに、軽い後悔を奥歯で噛

みしめながら、山下さんはトースターのパンが焼

けるのを待つようになりました。最近は、定番の

冷えたベーコンエッグをチンするのも面倒になり

ました。本来なら、可愛い盛りの
2人の娘に囲ま

れて、明るくにぎやかな家のはずなのに、かつて

一度だって、独身のころ夢見ていたそんな日曜日

の朝を迎えたことがありません。



 

「クリスチャンの女性はいいぞ」と紹介してく

れた先輩に、恨み言の一つも言いたい気分です。

「絶対浮気はしないし、真面目だし、無駄遣いも

しない。ま、安心だな。その上、何よりも美人

だ。おれも彼女を見てからは、早く結婚しすぎた

と思ったほどだ。これは家内に内緒だぞ」



 

「確かに美しいし、しっかりしている。家のこ

とは任せておいて心配ない。でも何かが面白くな

い。妻が一つだけ年上と言うのは、なんの問題も

ない。でもこの日曜日だ」



 

なんとも味気ないのです。残業につぐ残業とい

うほどではありませんが、結構忙しい会社勤め

で、休みは日曜日だけ。その日曜日、ゆっくり朝

寝坊をして、新妻がトントントンと使う包丁の響

きで目を覚まし、顔を洗ってテーブルに着くと味

噌汁の香りが漂い、子どもたちが「お父さんの寝

坊すけ!」などと言いながら絡み付いてくる。そ

んな家庭を夢見ていたのです。「ちょっと、田舎

臭いけれど、芥子を加えた納豆が出されていれ

ば、最高だ」


 


 ところが結婚してこの方、日曜日の朝に奥さん

の顔を見たことがありません。 最初の日曜日。

「今朝はゆっくり二人で布団の中に潜っていよ


う」と思ったのに、新妻はそそくさと起き上がる

と、軽く化粧をして出かけると言うのです。思わ

ず、「どこに?」と聞きそうになった口のつばを

飲み込んで、・・・・・思い出しました。「私。

日曜日には必ず教会に行きたいのですが、許して

くださるでしょうか?」 上司の設定に乗って彼

女に初めて会ったとき、思いのほか旨く事が運ん

ですんなりと結婚の可能性に話が及び、彼女は確

かにそう言ったのです。彼女の美しさに惹かれて

しまった山下さんは、深く考えもせず、「ああ、

教会ですか。もちろん大丈夫ですよ」と約束して

しまったのです。


 


  毎週の日曜日の朝、新妻は必ず教会に行くと知

って、山下さんは、決して軽いとは言えない失望

感を味わいました。「いちど、たまには休んだっ

ていいじゃないか。俺が休めるのは日曜日だけな

んだ」と、かすかな抵抗を試みたのですが、「日

曜日には必ず、休まずに教会に行くのが私の生き

方です」と、いつもはおとなしく柔らかな物言い

の彼女が、がひどくきっぱりとした言い方をした

ものですから、黙ってしまいました。「何も生き

かただなんて、堅っ苦しいことを言わなくても」

と、出かかった言葉を引っ込めてしまったのです。


 

 それからというもの、妻は日曜日の教会行きを

欠かしたことがありません。子どもたちが生まれ

てからも、一人を胸に抱き、一人の手を引いてい

そいそとでかけます。
10時半から始まるので、9

時過ぎには家を出なければなりません。テーブル

の上に準備された朝食も、最近はトーストにコー

ヒー、ベーコンエッグとサラダと決まっていま

す。



 

とうとう我慢ができなくなった山下さんは、二

人で飲みに行ったとき上司に不満を漏らしたこと

がありした。「いやー。いまだから言うけれど

ね。彼女のご両親も、そのことでは手を焼いてい

てね。その、教会行きがもとで、できる結婚もで

きなかったことが何度もあったらしいんだよ。そ

れで彼女のいとこの夫である俺が、何とかいい人

をと頼まれる羽目になったわけだ」「でも、俺は

お前を騙したつもりはないよ。お前は納得して結

婚したんだろう?」




 

 かくして、山下さんの日曜日の朝は惨憺たるも

のになることが多いのです。妻と娘たちが教会か

ら帰ってくる午後、何となく機嫌が悪くなりま

す。大人げないけれど、隠せないのです。そんな

父親を、娘たちは怖がって上目遣いににらみま

す。だんだん山下さんにも分かってきました。妻

がそこまでかたくなに教会行きを守り通すのは、

日曜日に教会に行かないのは神に対する罪である

と、牧師に教えられているからだと。娘が「お父

さん。日曜日に教会に行かないのは悪いことだっ

て、教会の先生が言っていたよ。お父さんは悪い

人?」と尋ねたことがあったからです。


 


  それを聞いた山下さんは、すっかり教会が嫌い

になりました。大切な日曜日に、自分から奥さん

を取り上げる神様も憎くなりました。俺は絶対に

教会には行かないぞと考えるようになりました。

娘が年頃になる前に、必ず教会からひき離してや

るぞと、ひそかに思うようになりました。



 

パーコレーターから流れ出る香りを、ゆっくり

楽しむ気持ちにもなれないまま、山下さんは、今

朝も冷めたサニーサイド・アップにフォークを突

き立てたまま、三面記事を追っています。



  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 日曜日に教会に行くのは良い習慣です。でも、

日曜日に教会に行かないのは罪であると言うの

は、聖書の教えではありません。長いキリスト

教の歴史のある西欧諸国では、日曜日には教会

に行きやすい社会ができています。それなのに

サボって教会に行かないのはよくないことでし

ょう。でも日本では事情が違います。無理をし

て日曜日に教会に行くことによって周囲の人た

ちに迷惑をかけるよりは、「神様。ちょっと今

日は失礼いたします」と祈って、教会はお休み

するのがいいでしょう。そうそう、牧師に電話

でお断りするのもお忘れにならないように。




 


posted by まさ at 13:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結婚しなかった素敵な女性


 千代さんという、ちょっと古風な名前の女性で

した。私より一回りも歳が上でしたから、想いを

寄せるには至りませんでしたが、遠くから眺めて

いるだけも素敵な人でした。しっかりしたクリス

チャンで、かいがいしく教会で奉仕をしている姿

は清楚で、きっと牧師の奥さんにでもなるんだろ

うなと、思っていたものです。



 

高校を出てすぐに上京し、聖書学校で学んでそ

のまま牧師になり、間もなく宣教師として海外に

出てしまった私が、その女性についての噂を聞い

たのは
30年もあとの事です。彼女はあれから20

近くも教会にいたけれど、とうとう結婚できずじ

まいでした。なみの男性には高嶺の花に見えて、

しり込みさせてしまったわけでもないようです。

彼女がクリスチャン男性以外とは結婚しないと、

親や親戚が次々と持ち込む縁談話をみんな断って

しまったためでした。



 

お祈りしていれば、神様が必ず、最善のときに、

最善のクリスチャン男性を与えてくださると、牧

師や信徒たちに励まされて、熱心で素直な信仰を

持っていた彼女は、祈りつづけたらしいのです。

でも、
40をだいぶ過ぎてから、彼女は突然教会に

来なくなったそうです。ずいぶん後になって教会

の人たちは、彼女が二人の子持ちの男性と結婚し

たのだと知りました。もちろん相手はクリスチャ

ンではありません。



 

彼女が教会に来なくなった当時はともあれ、し

ばらくすると、教会が彼女のために祈ることは耐

えてなくなっていました。もう、彼女を個人的に

知っているクリスチャンは、その教会にほとんど

いなくなってしまった頃、再び、彼女のことが取

り上げられることが出てきました。でもそれは、

信仰を捨てて未信者と結婚した背教者。この世の


欲望に負けて、未信者と結婚してしまった罪人。

決して見習ってはならない悪い見本として、語ら

れていたのです。本当のところ、そのような信仰

の挫折を体験して、教会を去る者が後を絶たなか

ったというのが、実情だったからです。



 

それからさらに10年以上も経ってからの事です。

あるクリスチャンの集会に出席したとき、私はあ

の素敵な女性に再会したのです。
70歳を過ぎてい

ながら、まだあの清楚さに包まれていました。自

己紹介をしましたが、私のことは覚えておられな

いようでした。でも、若い頃、互いに近くの教会

に行っていたことが知れて、話が弾んだものです。


 

40をいくつも越えて独身の女性など、当時とし

ては珍しい存在でした。神様は彼女の祈りに、と

うとう答えては下さらなかったのです。牧師や宣

教師に教えられた通りの、純真な信仰一つで押し

通してきた彼女も、その歳になると、将来が不安

になってきました。両親も年老いてしまい、兄弟

たちもそれぞれの家庭を持っています。彼女はと

ても寂しくなったのだそうです。



 

それで、勧められるまま、10歳近く年上の二人

の子持ち男性と、結婚したのだそうです。でも、

このことはどうしても教会でお話しすることがで

きませんでした。未信者と結婚することは罪で、

信仰の敗北と教えられてきたためでした。彼女の

結婚は、惨めな罪意識と敗北感で始まったわけで

す。



 


  でも夫は優しく、すでに成人していた二人の子

どもも、喜んで彼女を迎えてくれました。彼女は

女性としての幸せの一端と、クリスチャンとして

の敗北感のなかに、自分なりの新しい信仰を見い

だしていました。それは、いわゆる立派なクリス

チャンであることよりも、神の憐れみと許しを感

謝と喜びをもって受け入れ、互いに愛し合って生

きることこそ、神に喜ばれる生き方でなないだろ

うかというものでした。



 

夫と二人だけの生活になってしばらくして、彼

女は夫を誘って大きな町の教会に行くようになり

ました。まったく事情を知らないその教会は、喜

んで二人を迎えてくれました。そして病の床の中

で夫は洗礼を受けて、平安のうちに召されたとい

うことです。



 

再びひとりとなった彼女は、自分の人生は何だ

ったのだろうと考えることがあるそうです。「ど

んなに祈っても、クリスチャン男性の数は、女性

3分の1にも及ばないのですから、神様だって、

すべての独身女性クリスチャンの祈りにお答えに

なるのは、無理な話ですよねぇ・・・・!?」ほ

っとしたのは、彼女の笑いには、少しも暗いとこ

ろがなかったことです。

 



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 
 
聖書には、クリスチャンが未信者と結婚するの

は罪であるという教えはありません。信仰の敗北

だとにおわすくだりもありません。でも、私たち

はそのように宣教師たちに教えられ、宣教師に教

えられた素直な牧師たちの、ほんの少しだけ聖書

を捻じ曲げた説教に慣らされて来たのです。未信

者との結婚を禁じている教会の多くは、外国人宣

教師の影響が強くて比較的新しく、ちょっとだけ

カルト的要素を持ってしまったといえるでしょう。
 




  嬉しいことに、最近はかなりの数の牧師たちが

この誤りに気付いて、正しく聖書を教えているよ

うです。神様の人間に対する基本的なご計画は、

男と女が結婚によって結ばれることです。クリス

チャンであるかないかは、この基本を超えるほど

の重大事ではないのです。






posted by まさ at 22:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月16日

真実と事実 (1)


あくまでも「比較的」の話ですが・・・・・。

日本人を始めとするアジア人は、物事を曖昧に、

ぼんやりと判断します。その点、欧米人はきちっ

と、明確に断定します。日本人が煮え切らない答

え方をすると、欧米人はいらいらしてしまいま

す。日本人は欧米人のきつい線引きに納得できま

せん。これは特に、「嘘と本当」の判断で大きな

違いになって現れます。



 

多くの欧米人にとって、嘘とは事実に反したこ

とを言うことです。でも日本人にとっての嘘は、

そんなに単純ではありません。日本人は、語ら

れた言葉が事実であるかどうかよりも、むしろ語

られた言葉の動機を問題にします。もちろん、こ

れは程度の差の問題です。英語でも、ホワイト・

ライ、「白い嘘」という表現がある通りです。つ

まり善意の嘘という意味です。でも一般的には、

西欧人にとって嘘とは悪であり、嘘をつくことは

罪なのです。それが、日本では社会の円滑油と言

われるほど、だれもが嘘には大切な役割があると

認めています。



 

これは多分、長い歴史に培われた生活習慣によ

るところが大きいでしょう。日本人は長い間、稲

作というもっとも定住性の強い生活をしてきまし

た。その上、四方を海に囲まれ、小さな土地に縛

り付けられ、さらに国境を越えて旅をすることは

極度に制限されていました。大部分の日本人は、

生まれたときの隣人はそのまま死ぬときまでの隣

人という環境の中で、互いに何もかも知り尽くし

て、仲良く協力しながら生きることをもっとも大

切として来たのです。「和をもって貴しとなす」

です。(聖徳太子十七条憲法第一条)そのような

中で、相手のことを思って嘘をつくことは、大切

な思いやりの表現でした。だから日本人は平気で

「俺は嘘つきだ」と言えるのです。


 

でも、移動性の激しい大陸の生活では、和を求

めることはほとんど不可能でした。いつ隣の部

族、隣の民族、隣の国が攻めてくるかわからない

のです。中東の古代帝国やローマ、さらにはモン

ゴル民族の世界制圧を見れば分かるとおり、いつ

なんどき襲われ、蹂躙され、破壊されつくすかも

知れないという、危機感と恐怖の中に生活してい

たのです。隣の民族ならば言葉もいくらか通じた

ことでしょう。でも、何千キロも離れた異民族が

突如、大挙して襲撃してくるのです。自分の家

族、部族、民族、同じ言語を話すもの同士なら

ば、思いやりも通じたことでしょう。心の機微を

察することも、琴線に触れることもあり得たでし

ょう。しかし、彼らは互いにさっぱり分からない

人々、恐ろしく野蛮な敵たちと常に対峙していた

のです。



 

だからと言って、人間はいつも戦っていたので

はありません。悲惨な破壊をもたらす戦いより

は、通商をしたほうが互いに益であると知ってい

たからです。でも、互いに知らない人々が売り買

いするときのことを考えてみてください。背後の

いきさつや目に見えない苦労、家庭の事情や、将

来の付き合いまでも配慮して売り買いすることは

ありません。「ちょっとできは悪いが、あいつの

将来を見込んで買ってやった」だとか、「あいつ

のお袋が長あいだ間寝込んでいるから、多めに入

れてやった」などという思いやりはおこらないの

です。



 

そこで大切なのは事実です。その壷はしっかり

焼かれているか。その布は良く織られているか。

その刀は充分に鍛えられているか。その奴隷の筋

肉は丈夫か。その羊は健康か。みな、事実を見極

めようとします。事実だけが大切で、事実だけが

物を言います。言葉が通じればたくみに売り込み

をします。売るためには悪い品も良いと言いま

す。これは買い手にとっては嘘ですが、売り手に

は良い品であって事実です。こういう嘘は許され

るのです。この場合、騙されるほう、事実を見極

められないほうがが悪いのです。結局、事実を見

定め、事実によって判断するわけですから。



 

一方、移動性が激しいと、旅の恥は掻き捨てと

いわれるように、二度と会うことがない人たちと

の接触が多くなるために、いつも嘘が付きまとう

のも事実です。それだけに、共に住む者たちとの

間では、逆に事実が重んじられるようにもなりま

した。移動性の激しいアラブ系の人々は一般に、

平気で嘘をつくと言われますが、仲間たちの間の

信義は非常に厚く、嘘は、それこそ舌を抜かれる

くらい、厳しく罰せられそうです。

 



 定住性の高い生活の中では、悪い品を良いと言

って売ることはできません。次の日には「お前の

ところで買った山刀は、見てくれだけだ、もう刃

が潰れてしまったぞ」と、突っ返されるのが落ち

です。ですから、嘘をつかないと言う感覚にもい

ろいろあって、細かく説明していたらそれだけで

何百ページの本が出来上がります。ともあれ、一

般的に言えるのは、移動性の激しい生活環境に生

きる人々は、人の心の真実さよりも、事実である

かどうかを大切にし、事実に反したことを言うの

を、嘘と言って嫌う傾向にあるのです。

 



  大陸で移動性の激しい営みを何世紀も重ねてき

た欧米人にとって、生活の中でもっとも大切なこ

とは事実です。生活は事実を軸にして回るので

す。社会は事実を基盤に成り立っているのです。

そのような社会で、事実に反したことを言うの

は、最も憎まれること、もっとも嫌われ、もっと

も蔑まれることとなるわけです。



 

もちろん、西欧人のすべてが移住性の激しい民

族だったわけではないかもしれません。色々な文

化的要素が加わって、複雑に絡み合い、すんなり

と「事実」の文化が出来たわけではないでしょ

う。それでも、日本などと比べると、西欧人は圧

倒的に事実を重んじる人々です。じっさい、一般

的西欧人の多くは、事実と真実とを同じものと考

えているほどです。「
fact と「truth を混同し

ているのです。



 

このような人たちが聖書を読んだら、どんなこ

とが起きるでしょう。多くのクリスチャンは、聖

書は誤りのない神の言葉だと信じています。だか

ら聖書に嘘は書かれていないと信じています。そ

してそれはそれで正しいのです。だから彼らは、

たとえば、聖書の最初に書かれている天地創造の

物語も、真実の物語であると信じて疑いません。

そしてそれも間違っていません。私もそう信じて

います。神様が真実の物語として、とてもとても

大切な真実の物語として、人間にとって非常に重

要な「
truth」として、書き与えてくださったので

す。



 

ただ西欧の人たちの間違いは、天地創造の物語

を「
fact」、事実と理解してしまったことです。

これは嘘いつわりをお嫌いになる神のお言葉だ。

だから真実だ。真実であるとは事実であることだ

となるわけです。しかも近代的に事実を突き詰め

ると、まさに科学的事実、物理的事実となってし

まいます。真面目なクリスチャンの多くが、いま

だに天地創造の物語の細部すべてに至るまで、事

実だと信じて、一生懸命に科学的知識を駆使して

それを証明しようとしています。



 

たしかに創世記の創造物語は神の言葉です。荒

唐無稽な神話ではありません。神の真実、人間を

生かす真実の物語です。しかしそれは事実ではな

いのです。日本人の柔軟な考え方をもってする

と、このあたりのことがなんとなく理解できるは

ずです。ただ残念なことに、西欧的教育を受け、

西欧的指導に慣らされてしまった多くの日本人牧

師は、欧米的教育にならされて柔軟なものの考え

方を失って、真実イコール事実と考えてしまいが

ちなのです。

  


 聖書で言う真実は事実ではありません。事実は

人を生かしませんが、真実は人を生かすのです。

キリストが「私は道であり、真実であり、いのち

である」とおっしゃった通りです。

          
                             つづく








posted by まさ at 15:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真実と事実 (2)


 聖書の天地創造の物語を、嘘だと言う人も本当

だと言う人も、嘘とは事実に反したことという理

解があるようです。事実と言うならば、現代人は

科学的事実を最優先します。だから、天地創造の

物語は科学的に事実かどうか、証明できるかある

いは否定できるかと、実のない議論を際限なく続

けることになるのです。いつまでたっても、科学

的には証明も否定も出来ません。あまりにも人間

能力を超えた問題だからです。


 

天地創造の物語は、神が真実を伝えようとした

物語です。その中には多くの基本的事実が含まれ

ていますが、細部に至るまですべて事実と言うの

ではありません。事実ではありませんが嘘ではな

いのです。それは表現の方式であり、伝達の方法

なのです。今から
3,500年ほども前に生きていた

人々に、非常に複雑で絶対に理解できない出来事

を単純化して伝え、その中で、人間らしく生きて

いくにはこの上なく大切な真実を語ったのです。

3,500
年前に生きていた人に、天地創造の事実を科

学的に、物理学的に正確に語り聞かせたとして

も、何の益もありませんでした。多分それは天文

学も、理論物理学も、地質学も、生物学も飛躍的

に進化した現代にあっても同じでしょう。多くの

一般人にとって、実質的には、円周率を
1万桁暗

記するのと同じように、無意味なことです。神が

創世記の始めで伝えたかったのは、そんな無意味

なことではなかったのです。

 



 神が伝えたかったのは、人間がいかに生きるべ

きかという問題でした。それは現代人と同じよう

に、
3,500年前の人々にも重要でした。創世記に

記されていることは、時代と場所を越えて、人間

にとってもっとも大切な生き方の問題なのです。

まず、当時も今も同じですが、人々は本能的に神

を信じていましたが、その神のことがさっぱり分

からず、犬の神、豚の神、鷲の神、山の神、海の

神と、様々な神々を恐れ、拝んでいました。その

ような人々に、神は、私こそ天地を造った神であ

る、あなた方の神として恥ずかしくない、力ある

神である。他の神々とは比べることが出来ない

神、信頼と怖れと賛美と礼拝にふさわしい神であ

ると、自己紹介をしてくださったのです。

 


 
 これは単なる事実ではなく、人間の生活にとっ

て最も重要な、真実でもあるのです。天地を創造

し、時間と空間と物質を超越した神が存在するだ

けでなく、その神が人間に大きな関心を持ってお

られるというのは、人間の生き方、考え方、価値

観、死生観に決定的に影響する事実だからです。

さらに、この神が自然に秩序を与え、支えていて

くださるという事実も、人間の生活に決定的影響

を及ぼします。自然科学というのは、神が自然を

支えていてくださる法則を学んでいるに過ぎませ

ん。自然科学の恩恵とは、神の法則を学びそれを

利用する恩恵に過ぎないのです。


 

 また、人間も神によって作られていると言う事

実も大切です。しかも人間だけが神に似せて造ら

れていると記されているのです。人間は単なる偶

然の産物、進化の結果で、そこに意味も意義もな

いのではなく、全能の神のご意思によって造ら

れ、目的に従って造られているのです。それは、

愛である神の優しさをたっぷりと受け、また神を

慕って生きることこそ、人間の本来の生き方であ

る事を教えているのです。神に似せて造られたと

いうことは、神と同じ霊的な性質をもち、本能と

して、神を感じることが出来るようにされている

ということで、本能的に神を求めるようにできて

いるということです。ですから、人間はすべて宗

教を持ち、神を求め、祈るのです。それがなくて

は、人間はどんなに恵まれた環境にいて、どんな

に贅沢な生き方をしていても、決して満足するこ

とはできないのです。

 



 さらにまた、人間は愛の神に似せて造られてい

ますから、本能的に互いに愛し合って生きるよう

にされています。人間が一人ではなく、社会を作

って生きる理由です。その社会の最小単位が、一

人の男と一人の女の結びつきである結婚生活で

す。人間は結婚するように造られているのです。

それは単なる肉体的結びつきではなく、人間とし

てのもっと深いところでの結びつきです。

 



 このようなことが、あの創造の物語の中に基本

的事実として記されているのです。しかし、くり

返しますが、細部に至るまで事実が記されている

のではありません。たとえば、様々なものが造ら

れた順番だとか、作られた時間などと言うものに

はほとんど関心が払われていません。そのような

ところを事細かく科学的事実、歴史的事実に基づ

いて語っても、ただ長ったらしくなり、覚えにく

くなり、記憶しづらくなるだけで、当時の人々に

はまったく益がなかったからです。


 

ただし、神が六日間ですべてのものをお造りに

なり、七日目にはお休みになったと言う物語は、

特別な意味があります。これはあえてこのような

言い方がされたと考えられるからです。当時、こ

の創世記と言う書物を与えられた人々は、数百年

にわたって過酷な奴隷生活を強いられてきた人々

でした。それが突然、神によって開放され、自由

を与えられたのです。自分たちで、しっかりとけ

じめのある生き方を始めなければなりませんでし

た。民族としても、個人としても必要だったの

は、けじめのための定め事、生活の枠、あるいは

箍(たが)とも言うべきものでした。

 



 神は、あなた方を奴隷の生活から解放したのは

私である。この私こそ、天地を創造した力ある神

であると自己紹介をし、あなたたちすべてを導

き、必要を満たし、あまたの敵から守ることが出

来る神であると保証を与えた上で、規律のある生

活をしなさいと安息日を定めてくださったわけで

す。安息日とは、すべての労働を休み、神を礼拝

する日として定められた特別な日です。一週間に

一日の割合で肉体を休め、神を礼拝することによ

って、他の動物とは違い、神に似せて造られた人

間としての、豊かな生活が出来るように定めてく

ださったのです。

 



 奴隷として押し付けられた生活をしていたため

に、日常生活の基本的基準がまったく出来ていな

かった人々に、きちっとして基準を与えること

が、神の名を冠せられたイスラエルの人々には、

極めて重要でした。その重要事項を重要事項とし

て伝えるために準備されたのが、六日間ですべて

のものを創造して七日目にお休みになったとい

う、理由付けを設けることでした。

 


 このようなやり方、このような話し方は、イス

ラエルの文化では認められていることであって、

嘘ではないのです。もしも正直ということが、完

全に科学的事実にのっとった表現しか出来ないと

いうことだったら、世の中、味気なくなります。

科学的事実としては地球が自転していても、太陽

東から「昇り」、西に「沈む」のです。
 





 六日間働いて一日休むと言うリズムのある生活

は、現代の日本人などには、非常に大切なことだ

と思いませんか。働きすぎで、社会も個人も家庭

も病んでいるではありませんか。





posted by まさ at 15:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

素敵な独身クリスチャン女性


 アメリカにユタ州というところがあります。モルモン教(末日聖徒イエス・

キリスト教会)の人々が未開の荒地に住み着いて設立した州で、数年前

に冬季オリンピックが開かれた、ソルトレイクシティはその首都ですね。

あんな荒地に住み着いて州まで創り上げるには大変な苦労を重ねたに

違いありません。




 彼らがユタに辿り着くまでも苦難の連続でした。まだ創立されて間もな

かった頃の彼らの宗教は、行くところ行くところで拒絶されて、どこにも留

まることができなかったのです。理由は簡単です。彼らはキリスト教を名

乗ってはいましたが、実際にはキリスト教の基本的教えの多くを否定して

いたために、多くの人々に嫌われてしまったのです。でももっと大きな問

題は、彼らが一夫多妻を実行していたことです。それが、放浪したすべ

ての州の法律に反し、排斥されることになったのです。


 

  当時、女性信徒の数が圧倒的に多かったのに、同じ信仰仲間以外と

の結婚を禁止したことが、一夫多妻制を進めなければならなかった理由

でした。多くの妻を持つのは祝福の証拠だと教えられ、教祖だった人物

は、七人の妻を持っていたといわれています。




  彼らがユタに定住して州を創設して合衆国に加わろうとしたとき、当然

一夫多妻制が障害となりました。そこで彼らは、アメリカ国内では実際の

一夫多妻は廃止し、霊的一夫多妻というなんだか分からない教えを始め

ることになりました。


 どのような宗教でも、創立当初は女性信者が圧倒的に多いようです。と

ても創立当初と言えるほど若くはありませんが、信徒の数から言うと、む

しろ創立当初の状態に近い日本のキリスト教会も、圧倒的に女性信徒が

多い状態です。そして、多くの教会では信徒が未信者と結婚することを

「罪」と断定して禁止しています。罪とまでは教えない教会も、あまりよろ

しくないこと、望ましくないこと、出来るだけ避けるべきことと教えているの

が現状です。




 したがって、教会にはとても素敵な独身女性がたくさんいるのです。彼

女たちは純真で、熱心な信仰者であるために、結婚できないのです。あ

まり純真でもなく熱心でもない女性たちは、教会の教えなどにあまり頓着

せずに、平気で未信者の男性と付き合い、さっさと結婚してしまいます。

そして平気で夫となった人を教会に連れて来たりするのです。そんな夫

婦が、やがてしっかりと聖書の教えを理解して、立派なクリスチャン家庭

を築き上げることになったりするのですから、人生は面白い。


 でも、純真で熱心な女性信徒は、まず、未信者の男性とお付き合いす

ることに罪意識を持ってしまいます。しかし、教会の中には素敵な男性は

おろか、適当な男性さえいないのです。だんだん歳を重ねると、家族や

親戚、周囲の人が黙っていません。それで、仕方なしに、信仰の敗北を

感じながら、勧められた未信者の男性と見合いをし、お付き合いを始め

ることになります。




 お付き合いを始めると、クリスチャンとはいえ適齢期の女性です。男性

の魅力に惹かれてしまいます。それで、いよいよ罪意識が強くなり、自分

が惨めになって教会に行くのも辛くなります。お付き合いを始めた男性を

教会に連れて行ったり、牧師や信徒に紹介したりするなど、とても考えら

れません。信徒たちの非難の目を予期し、牧師の叱責の言葉を覚悟し

て、「敗北の信仰」をさらさなければならなくなるのです。





  こうしてこの心優しい適齢期のクリスチャン女性は、教会に来なくなっ

てしまいます。はじめから罪悪感と敗北感を持って結婚するのですか

ら、長い年月がたっても夫を信仰に導くことができません。それどころ

か、自分の信仰さえ保つことが困難になるのです。そんな姿を見た、他

の真面目なクリスチャン女性は、ますます信仰をかたくなにしてしまい

ます。「私は彼女のような敗北者にはなりたくない。絶対に未信者とは

結婚しない。はじめからお付き合いもしない。もしも、神様が私に結婚さ

せたいとお望みなら、必ず良い男性を与えてくださるはずです」と思い込

んで、ただただ熱心にお祈りするだけで、歳を重ねてしまうのです。かくし

て、どんな小さな教会にも、婚期を過ぎたとてもとても素晴らしい独身女

性が、一人か二人はいるようになるのです。

 クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならないと言う律法も、定

めも、教えも、約束事も、聖書にはありません。もしも聖書がそのように

教えていると言う人がいるなら、その人の聖書の読み方が間違っている

のです。ただ、設立当初の宗教団体は信徒を失うのを恐れて、信徒同士

の結婚を強く勧めるあまり、未信者との結婚を禁止してしまうことが多い

のです。日本に来た宣教師たちも例外ではありませんでした。この異教

文化の日本で未信者と結婚してしまったら、信仰を守り通すのは難しい

と勝手に判断して、信徒同士の結婚を勧めました。それが高じて、未信

者との結婚を「罪」とまで教えるようになったのです。結果として、信仰の

敗北を味わう多くの女性を生み出し、信仰の勝利をもって独身を貫く女性

を増やしてしまったわけです。




 人間は本来、結婚するように造られているのです。結婚は、人間の生き

方の基本であるというのが、聖書の教えです。もちろん、すべての人が

必ず結婚しなければならないというのではありません。使命のため、働き

のため、目的のために結婚を犠牲にすることもあり得ます。偉大な使徒

パウロもそのようにした一人です。でも蟻は蟻のように生き、キリギリス

はキリギリスのように生きるのが正しい生き方です。イソップ物語と違っ

て、聖書はキリギリスが蟻のように生きることを薦めてはいません。人間

は結婚して家庭を持つように、そして子どもを持つように造られているの

です。造られたように生きるのが、人間らしい生き方です。人間は、その

中に生きる喜びを感じられるように、造られているのです。特別な理由が

ない限り、結婚を禁止してはなりません。




 もちろん一般的に言って、人生観や価値観、あるいは生活習慣が良く

似ている人同士が結婚するのが、望ましいでしょう。菜食主義を貫こうと

している人が、肉ばかり食べたい人と結婚すると、日常生活に苦労しま

す。ウインドウショッピングが大好きなクリスチャン女性は、たとえ同じクリ

スチャンであったとしても、緑に囲まれて牛馬の堆肥をかき混ぜながら、

自然に生きることこそ最高だと言う男性とは、結婚しないほうがいいでしょ

う。むしろ、クリスチャンではなくても、同じ生活環境を楽しむことが出来

る人を選ぶほうが賢い選択です。




 もしも、この文章を読んでくださっているあなたが、独身クリスチャン女

性だったなら、どうか、同じ生活感覚を持っている男性、同じ趣味を持っ

ている男性、より多くの共通要素を持っている男性を見つけて、結婚して

ください。未信者でもかまいません。そして幸せな家庭を作ってください。

人間は結婚して家庭を作り、その中で幸せを感じるように造られているの

です。その幸せの中で、自分の信仰を朗らかにお話してください。永遠の

いのちの望みについて、話してあげてください。聖書のお話も、遠慮せ

ず、また意固地にならずお話しましょう。「あなたと一緒に永遠に生きたい

の」と甘えてあげるのです。



 もちろんお付き合いしている間に、てらわず恐れず、自分の信仰につい

て明るくお話し、自分がクリスチャンである事を認めてもらうことが大切で

す。多くの場合、素敵なクリスチャン女性は、一般の男性にとって魅力的

です。お付き合いの段階で、「彼」を信仰に導くことが出来ることも多いよ

うです。「貴女」が未信者とお付き合いしていることに目くじらを立てる、

「貴女」の牧師の事ですか? 聖書を知らない可愛そうな牧師にも、神様

の恵みがあるようにお祈りして上げてください。







 

posted by まさ at 20:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月21日

科学的という文化(1)


 思い出が、みな美しいものになりかかっている

「あの頃」のことですが、私はいつも多くの悪友

たちに取り囲まれて、大声で議論をしていまし

た。ずいぶん馬鹿にされ、揶揄もされ、「憎った

らしい奴」もいたものですが、今となっては、全

体が楽しい思い出です。歳を重ねた人間が、幸せ

に生きられるように、苦しかった過去、辛かった

過ぎ越し方はみな忘れ、楽しかったことだけが何

時までも残るように、神は人間を設計してくださ

ったのだと思うと、嬉しくなります。


 


 クリスチャンになりたてのときから、自分がク

リスチャンになったことを誰はばかることなく公

言し、弁論大会でも、どうどうと聖書の話をして

いましたので、千人近い生徒がいた高校の中で

も、私のことは知れわたっていました。それで議

論の好きな者たちが、いつも私の鼻をへし折ろう

として集まってくることになりました。始めは小

さかった理論闘争の場がだんだん広がって、他の

組だけではなく、上級生や、下級生も加わるほど

になったのです。私の屁理屈にへこまされた者た

ちがさらに本を読み返しては理論武装をしたり、

もっと頭と口の達者なのを連れきたりしたわけで

す。他の宗教の信者も、自称唯物論者も、マルク

スに被れている奴も、当時反キリスト教哲学者で

平和論者として有名だった、バートランド・ラッ

セルに傾倒している女子論者もいました。

 


 
 親しい友人だったのに一番の論敵だったのが、

同じ部活にいた一級上の男子でした。隣町の住職

の息子で、彼との議論はかなり哲学的になったも

のです。京大に入学したその年に、彼は、バイク

の事故で他界してしまいました。「俺は坊主とし

て金儲けして、死ぬ前にはお前のところに行って

クリスチャンになってやる」と言っていた彼が、

私のところに来ないまま逝ってしまったのは、楽

しいことだけが残るはずの記憶の中で、たったひ

とつ、心を疼かせるものです。



 

そのような議論の中で、よくも飽きずにくり返

すものだと思うほど持ち出されたキリスト教批判

は、「非科学的だ」というものでした。当時の世

界の思想の流れからはだいぶ取り残されていた日

本人たちは、科学に絶対の信頼を置くようになっ

ていました。というより、やっと「神風」だの

「大和魂」だのという狭い精神主義から解き放た

れて、西欧ではすでに爛熟期を過ぎていた、科学

万能主義に連れてこられたばかりだったのです。

私の友人たちは、それが
20世紀の後半に生きるも

のの正しい哲学だと、信じて疑わなかったようで

す。「科学的」という時代遅れの考え方が、戦後

の日本に広がっていた文化でした。いまになって

もまだ、同じようなことを言う人たちがいること

には、いささか驚かされますが・・・・・・・。


 

  
キリスト教は非科学的だと言う論点はいくつ

かに要約できました。「目に見えないものは信じ

られない」、「科学的に証明されないものは不確

実であり信じるに足りない」、「処女降誕をはじ

めとする奇跡物語は非科学的である」などが特に

くり返された議論ですが、少しばかりキリスト教

や聖書そのものを学んで議論する者は、「天地創

造の物語は荒唐無稽である」とか、「プロテスタ

ントキリスト教が信仰のよりどころとしている聖

は、非常に古いもので、それが現代に至るまで、

正確に伝えられているとは考えられない」と、ま

るで専門家のような議論さえ出てきたものです。
 



  
当時と比べると、今の科学は格段に進歩してい

ます。進歩すればするほど、真面目な科学者は、

自分たちが理解していないことを理解するように

なり、以前のような断定的なものの言い方はしな

くなりました。また当時、キリスト教は非科学的

だと断じたいくつかの論点は、逆に、論点自体が

非科学的だと分かってきたのです。当時でさえ、

わかっていたのですが、わが論敵たちには分かっ

ていなかっただけのことです。
 



もっとも愚かな「科学的攻撃」は、目に見えな

いものは信じられないという主張です。ほんとう

にびっくりすることですが、つい最近も、かなり

名を知られている評論家が、自分は目に見えるも

のしか信じないと、得意げに語っているのを聞い

てあきれてしまいました。

 


目に見えるものと言うのは、目と言う極めて限

られた能力の器官に捕捉されるものと言う意味で

す。ところが、目と言う器官では捉えられないも

のが、世の中には限りなく存在します。ほんとう

のところ、目に捉えられるもののほうが少ないの

です。網目が
1mの網で3cmの魚を捕まえること

が出来ないのと同じです。網目が
1mでは、鯨か鮫

かよほど大きなものしか捕らえられません。大多

数の海洋生物は網の目をくぐって逃げてしまいま

す。この広大な宇宙の中で、人間の目は
1mの目の

網よりももっと大雑把でありながら、限りなく小

さいです。

 


  そのような目に捉えられない、つまり見えない

ものは信じられないと言うのはまったく非科学的

なのですが、それが非科学的であることさえ知ら

ない人が科学的な議論をしようというのですか

ら、ややこしいのです。



 

現代の科学はもっともっと進んでいます。この

宇宙には、人間の目で捕捉されるものよりも、捕

捉されないもののほうが圧倒的に多いことが知ら

れています。何しろ、いまだに物質であるかどう

かさえはっきりわからないために、とりあえず

「暗黒物質」と呼ばれるものの存在が、大きな謎

として、話題になっている時代です。理論的にそ

れが存在しなければならないと言うことは、すで

80年ほども前から世界中の専門家たちの話題に

なっていて、あらゆる調査が進められています

が、いまだにその存在を実験的には捉えることが

できないままです。これが「暗黒」と呼ばれてい

るのは。ブラック・ホールと同じ意味で、暗黒な

のではなく、実態が皆目分からないという意味で

「暗黒」なのです。

 


 数年前まではこの不可思議な存在、物質かどう

かさえ良く分からない存在が、宇宙の全存在の

96%以上を占めているといわれていましたが、

今は、その中の73%はエネルギーであると、考

えられるようになっているようです。今この面の

研究は、世界中で膨大な費用と人材をかけて競い

あっていますので、次々と新しい考え方や、研究

結果が出され、刻々と変化をしています。日本の

専門家がこの研究に大きな功績をあげる可能性も

あります。でもこんな話は専門家に任せておきま

しょう。




   
私が言いたいのは、神と言う存在は、目に見え

ないと言うことです。また、目に見えないからこ

そ、無限であり、絶対なのです。目に見えるもの

はあらゆる意味で有限なのです。目に見えないか

らこそ、神は目に見える物質の世界を超え、物質

の次元を超越した存在なのだと言うことです。目

に見える神は、聖書で教える神ではなく、私が崇

める神ではないのです。私の神は目に見える神で

はなく、目に見えるものをもお造りになった神な

のです。
 


                  つづく

posted by まさ at 10:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月22日

科学的という文化 (2)


 いろいろな国の人たちと話し合ってみると、日

本人の間には「科学信仰」とでも呼ぶべき宗教が

あることに気付きます。日本人の間でクリスチャ

ンの信仰について話をすると、「科学的に証明さ

れないものは不確実であり信じるに足りない」、

と主張する人が必ずでてきます。他の国の人たち

の間では、ほとんど考えられない現象です。この

ようなところに「科学」を持ち出すことは、まさ

に、日本文化のひとつです。
    



 世界の歴史から見ると、現代の科学的思考の源

流は、ルネッサンスに遡ることが出来ます。そこ

から啓蒙思想、合理主義、自然科学と進み、急速

な科学の発展と共に、科学さえ進歩すればすべて

の物事はうまく行くという、安易な科学至上主義

が出現し、科学信仰が生まれました。この科学に

対する期待は、欧米においては19世紀後半から20

世紀の初めに頂点を迎え、ちょうど現在の日本人の

ように、単純に、科学の未来にばら色の期待を抱

く人が大勢あらわれました。
    



 ところが20世紀に入る頃から、欧米人たちの科

学信仰には、すでにかげりが見え始めていたので

す。特に1929年に始まった世界恐慌と、1939年に

始まった第二次世界大戦は、多くの人々が抱いた

「科学によるばら色の未来像」を色あせたものに

してしまいました。そして1945年、科学の粋を集

めた原爆が大量殺戮に用いられるに至って、科学

への信仰は崩壊してしまったのです。ところが日

本では、逆の現象が起こりました。狭い精神主義

で大戦に敗れた経験から、欧米の科学主義に対す

る憧憬が起こったのです。
   



 西欧に対する羨望と、明治時代に培われた西欧

に追いつき追い越せの精神が、「科学的に証明さ

れないものは不確実であり信じるに足りない」と

言う科学至上主義につながったようです。いまも

この科学至上主義という信仰は、大部分の日本人

の心に定着していると思われます。これは純粋に

信仰ですから、科学的証明がまったく伴わないも

のです。これに良く似たものに、日本人の国連に

対する単純な信仰をあげることができるでしょ

う。
   



 それで、科学的証明を大前提とする科学から、

科学的証明を抽出して捨ててしまった科学信仰が

出来上がり、そのおかしなものをもって、科学を

超越している、クリスチャンの神信仰の正否を判

断しようと言うのですから、ますますおかしなこ

とになってしまうのです。
   



 この世の中のことすべてを、科学で証明したり

説明したりすることが出来ないことを、私たち

は、科学的事実として受け入れなければなりませ

ん。証明も説明も出来ないと言うことが証明され

ているのです。たとえば、つい最近大いに話題に

なっている暗黒物質や異次元の存在は、いまだに

科学的には証明されていません。理論的には存在

すると、ずいぶん前から言われて、何とか科学的

に、つまり実験的に証明しようと最先端の科学者

たちが競っていますが、なかなか思うに任せない

でいるのです。
   



 理論的には、暗黒物質は全宇宙に存在するもの

の96%を超えると言われていますが、それが何

であるかは分かっていないのです。物質なのか物

質ではないのかも分かりません。物質ではない存

在とは何なのでしょう。最近は96%の70%以上

は、多分エネルギーだろうと言われるようになり

ましたが、「エネルギーって、物質なの?」「物

質に関係のないエネルギーって存在するの?」な

どと尋ねられると、もう、私にはお手上げで

す。
   



 私たちが信じている神は、「はじめに天と地を

お造りになった」神です。天と地が存在する前

に、「霊」として存在し、天と地という言葉で表

現された物質をお造りになった神です。また時間

と言う概念も物質と深くかかわっていますが、神

は物質と共にこの時間を造り、時間を超越してお

られる方です。「はじめに」というのはそういう

ことです。私たちの神ははじめから、現代科学の

限界、物質の世界、時間と空間の世界を超越した

存在者なのです。
  



 
私たちの神は「霊」という存在で、次元を超

え、いくつもの次元を支配しておられる方です。

いまの先端の理論物理学の世界では、この異次元

の存在をも、実験的に、つまり科学的に証明しよ

うとして躍起になっています。でも私たちの神は

はじめから、ひとつの次元に閉じ込められる神で

はなく、次元を超越しておられる神です。聖書を

ちょっと読むだけで、私たちの神が次元を超越し

ておられる神であること明らかです。ただ少し前

までは、次元などと言う言い方なかったために、

他の表現が用いられているだけの話です。死後の

世界、天の世界、永遠のいのち、裁かれたものが

行く世界、天使だとか悪霊だとか悪魔だとかの世

界などなど、他にもたくさんありますが、みな私

たちが生きている次元ではなく、異次元なので

す。
  


 
 
その神を信頼して生きるのがクリスチャン信仰

です。それを科学で証明できないから、信じるに

足りないと言うのは、ミミズが自慢をして、お前

はミミズではないから動物ではありえないという

よりも、もっと愚かです。ミミズの全存在をかけ

ても、鯨を説明することは出来ません。



 
 一方、宗教は科学を超越していると言って、

平気で科学的に証明されていることを否定する宗

教もあります。科学的に証明されていることを否

定するのが、宗教ではありません。科学とは、神

が創造したものの存在の法則を見つけ出し、それ

を利用して人類に役立てようとするものです。で

すから、科学が純粋に科学の分野に留まる限り、

私たちの信仰と矛盾しないのです。科学では、神

の存在を否定することも、肯定することも出来ま

せん。それは科学の範疇を超えているからで

す。
  



 
数年前のNHKの番組で、世界的な物理学者が

異次元の存在の可能性を説き、その存在を実験的

に証明しようとしている、国際協力による巨大な

実験施設の話をしていました。たしか、直径9km

のドーナッツのような施設で、その中に電子を飛

ばし、中性子が飛び出して衝突し、陽子が消滅

し・・・・となんだかさっぱり分からない話をし

ていました。ただその話によると、いま私たちの

身の回りに、私たちと同時にまた同じ場所に、違

う次元の世界がある可能性が大きいのだそうで

す。私たちの目には見えず、他のどの感覚にも触

れず、あらゆる科学的実験の目を通り抜け、絶対

に捉えることができない4次元の世界、5次元の世

界が存在し、その中にまた、いまの私たちの世界

とほとんど同じの、3次元の世界が存在するかも知

れないというのです。
   



 ちょっと想像してみてください。そんな話、追

いついていけますか?でも、私たちの神は、はじ

めから、この次元を超越した存在者で、すべての

次元を支配しておられる方なのです。聖書は、明

らかに次元を超えた神について、しばしば語って

いるのです。ちなみに、一箇所だけ引用してみま

しょう。
   



 「神は、その全能の力をキリストのうちに働か

せて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天

上においてご自分の右の座につかせて、すべての

支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世が

かりでなく、次に来る世においてもとなえられ

る、すべての名の上に高く置かれました」(エペ

ソ書120 21節)
    



 科学信仰という時代遅れの信仰が、人々の心に

定着したままの日本文化の中で、科学を超えたク

リスチャン信仰が理解されるには、ずいぶんと時

間がかかるにちがいありません。 
 


 
               
 でも一方、日本人は元々それほど科学的考え方

をしないという事実もあります。特に宗教に関し

ては、非科学的もはなはだしいことを平気で信じ

ています。宗教は非科学的でも良いと感じている

というか、この世には、科学では割り切れない部

分があると認めて、宗教がその一つだと思ってい

るらしいのです。



 西欧のキリスト教は、啓蒙思想や合理主義と戦

い、自然科学と刃を交えるうちに、知らぬ間に、

間違って科学的装いをしてしまいました。その科

学的着物を着たまま日本に入ってきたのが、誤り

だったのかも知れません。
 


                  つづく













posted by まさ at 10:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月23日

科学的という文化 (3)

 
 
 クリスチャンになるとは、非科学的な人間にな

ことであるかのようなイメージがあります。だか

ら悪友たちが、私をへこませようと挑んできた議

論のほとんどは、「科学」に関するものでした。

その中でもくり返して持ち出されたのは、「処女

降誕は非科学的である」という議論でした。思春

期を通って、やっと男女の機微について考えるこ

とができるようになった私たちには、まさに、格

好の話題でした。近くにいた女子学生たちを意識

しながら、わざと大声で議論したものです。
 




 「処女降誕は非科学的である」という、反キリ

スト教的主張は、当時、キリスト教に反対の立場

を取る人たちが、まさに真っ先に持ち出す議論だ

ったのです。つい10数年前も、ある週刊誌に一コ

マ漫画が載っていました。クリスマスの夜、おな

かが大きくなった娘を連れた親父が、相手の男ら

しき若者に怒鳴るのです。「俺に処女降誕を信じ

ろってぇのか!」処女降誕はキリスト教を揶揄す

るのに、手っ取り早い話題でもあったわけです。




 
ところがここ10年ほどは、よほどの時代遅れの

人間以外、処女降誕を持ち出してキリスト教が非

科学的だと非難する人はいなくなってしまいまし

た。何しろ、処女降誕なんて当たり前の時代にな

ったわけですから。科学をもって処女降誕を攻撃

していたのに、その科学が、処女降誕をいとも簡

単なことにしてしまったのです。動物だけにかぎ

らず、植物の世界でも、処女降誕がいたるところ

でおこなわれるようになっています。植物に処女

降誕はおかしな言い方ですが、要するに、めしべ

に花粉を付着させることなしに、結実させること

が出来るようになっているわけです。



  実は、わたしがクリスチャンになりたての頃か

ら、すでに処女降誕の可能性は、科学的に証明さ

れていました。ですから私は、そのことを記した

文献をもって論戦を勝ち抜いたのですが、無精ひ

げが生え始めた論敵たちには、信じることができ

ないようでした。確か、どこかの大学の実験室

で、ウサギの卵子をガラスの針でつついて刺激し

たところ、細胞分裂を始めたという記事だったと

思います。級友の一人がスットンキョな声を上げ

ました。「それじゃ、男の存在価値がなくなるじ

ゃないか!」「お前の存在価値はそんなところに

あるのか!?」間髪をいれず野次も飛んだもので

す。




 
動物や植物の世界ではもう当たり前になったク

ローン技術を使えば、人間でも処女降誕は可能に

なっているのです。ただ、倫理的問題が残るため

に、実際にそれをするのは許されていないだけで

す。ふつうは受精によって、新しい命は男の遺伝

子と女の遺伝子を引き継ぎますが、処女降誕は、

当然、女の遺伝子だけを受け取ることになりま

す。
 



 西欧の、半分だけ科学的を装ったキリスト教で

は、キリストの母マリヤが聖霊によってみごもっ

たのは、人間の罪の性質を断ち切るためであると

言うような言い方がされますが、正しい解釈では

ありません。たとえキリストが、養父ヨセフの性

質を受け継いでいなかったとしても、母マリヤの

性質は受け継いでいたはずです。母マリヤも人間

ですから、罪の性質を持っていたはずです。そこ

でカトリック教会では、母マリヤも罪を持ってい

なかったと主張して、「無原罪懐胎」という教理

を作り上げました。
 




 無原罪懐胎というのは、プロテスタントの人が

勝手に理解しているような、キリストが罪のない

姿でマリヤに宿ったと言う意味ではなく、マリヤ

が罪のない姿で母の胎に宿り、生まれたという意

味です。罪のないキリストを産むことができた母

マリヤは、罪のない女性でなければならないとい

うわけです。でも、こんな理屈を続けていくと、

最初の女性エバまで、罪を持たなかったことにし

なければなりません。
 




 下手に科学的知識を取り入れて、原罪を遺伝の

理屈で説明したのが、そもそも、間違いの始まり

です。でも、科学信仰が頂点にあった19世紀後半

のヨーロッパのことでしたから、しょうがなかっ

たと言う一面もあります。自分がクリスチャンだ

からといって、キリスト教の肩を持つわけではあ

りませんが、思想とか神学にはそんな一面がある

ものです。とにかく、原罪と遺伝はまったく関係

のないものです。原罪とは霊的な次元のことであ

って、物理的な、あるいは生物学的な法則に従う

ものではないのです。
 



 このように、科学信仰が広く行きわたったため

に、キリスト教も一所懸命に、自分たちは科学的

であると主張しなければならなくなったわけで

す。ただ科学が進歩するにしたがって、科学の限

界も見えてくるようになり、以前のような科学信

仰、科学至上主義は影を潜めるようになったのも

事実です。科学は、神の創造物について調べ、そ

の中にある原理・原則を見つけ出し、それを利用

する手段に過ぎないのです。
   






posted by まさ at 11:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科学的という文化 (4)



「富士に腰をかけ、大海を飲み干す」という、

なんとも人を喰ったでかい話を聞いたことがあり

ます。「万里の長城を帯に締め、イタリアを靴に

履いて、オーロラを駆け巡る」などという、大言

壮語もありました。でもどんなにでかい話も、

誇大妄想のたわごとも、聖書の創世記第1章第

1節にはかないません。「初めに、神が天と地

を創造した」と書かれているのです。


 

ただし、聖書の記述は単なる大言壮語や誇大妄

想ではありません。聖書はこれを「信じるべき事

実」として記しています。と言うより、この記述

こそキリスト教信仰の根源、土台、柱なのです。

この記述を信じないでは、キリスト教信仰は成り

立たないのです。



 

難しいことは分かりませんが、「天地」という

言葉で表現されたこの宇宙は、今知られているだ

けでも、
130億光年ほどの広がりを持っていると

言われています。でもこれを単純に、「光が
130

億年かけて行き着く距離」などと考えてはなりま

せん。
130億年かかって地球に届いた光の源は、

130
億年の間、さらに遥か向うに飛び去っている

のです。



 

それだけではありません、そもそも光の速さと

空間は一定ではないのですから、ややこしいので

す。とにかく、宇宙は「ものすごく」大きく、そ

れを言い表す適当な言葉が、科学の時代の現代で

もまだないというありさまです。ですから専門の

天文学者にたっぷりと時間をかけて説明してもら

って、難しい数式を教えられても、私などには皆

目見当もつかないのです。




 
創世記の1章1節は、そのような無限の宇宙の

始まりを、書かれた当時の人たち、つまり今から

3500
年ほども前に生きていた人々に、もっとも

わかり易く、覚えやすく説明しているのです。当

然、
21世紀の私たちに理解しやすい科学的言葉

で、覚えやすく説明されたのではありません。あ

くまでも、当時の人々にとって非常に大切で、な

んとしても知ってもらわなければならないことが

書かれたのです。


 

現代人なら、「テラノサウルスやトリケラトプ

スはどこに?」とか、「マンモスやネアンデルタ

ール人はどうした?」と尋ねるかもしれません。

「太陽が作られる前に、光があったのはどうして

?」と言った子どももいました。でも自然科学的

な興味も必要性も感じていなかった当時の人々に

は、そんなことはどうでもよかったことでした。



 

創世記の第1章の天地創造の物語は、当時の人た

ちにとってどうでもよかったことが書かれている

のではありません。神がどのようにして、どんな

順序で、どれほどの時間をかけて、天地をお造り

になったかというようなことを説明する記録でも

ないのです。人間がどのような生き方をすべきか

と言う、非常に重要なことの基本を教えたもので

す。それなのに知的探求を崇めて止まない、「科

学的という文化」に汚染された現代人が、科学的

アプローチで理解しようとしてしまったのが、そ

もそもの間違いというわけです。



 

この書物が与えられた、当時のイスラエル人が

生きていくうえでもっとも大切だったのは、自分

たちをエジプトの奴隷状態から開放してくださっ

た神を、しっかりと知り、この神だけを信頼して

生活するということでした。イスラエル人たち

は、長い奴隷生活のために、自分たちでけじめを

付けることができない生活に慣れていました。何

から何まで乱れていたのです。



 

彼らの信仰もまた、ずいぶん多様だったと思わ

れます。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と

いう、自分たちの先祖の名を冠した言葉は残って

いたことでしょう。しかし信仰そのものは、エジ

プトの神々、あるいは周囲の民族の神々で、それ

がまた生活の乱れにも繋がっていました。そのた

めに、自分たちを奴隷状態から助け出して下さっ

た神が、どのような神であるかまったく分からな

いまま、とんでもない神々を途方もない方法で祀

ることさえあり得たのです。



 

そこで神が、まずしっかりと教え込まなければ

ならないとお考えになったのは、神についての基

本的な理解です。当時は神と言う言葉でさえ、周

囲の宗教の神と言う言葉を借りて使っていていた

のです。放っておくと、どんどん間違った理解に

なってしまうことが、はっきりしていました。そ

こで神は、ご自分が周囲のあらゆる神々とまった

く違う神である事を、わずかの短い言葉で、間違

いがないほどはっきりと教えてくださったので

す。それが、「はじめに、神は天と地を創造し

た」という、とてつもなく壮大な言葉だったので

す。ですから、創世記の
1章の天地創造の物語は、

「天地創造の物語」ではなく、「神の自己紹介の

物語」だということを理解しなければなりませ

ん。



 

当時の世界にも多くの宗教があり、たくさんの

神々がありました。力の強い神も、それなりに知

恵のある神もいたことでしょう。しかし、天と地

をお造りになり、その中のあらゆる存在物をお造

りになったという、無限の力と無限の知恵を備え

持った神は、この神以外にはどこにもいません。

神は、この天地創造の物語をもって、あなた方の

信頼すべき神、あなた方が礼拝すべき神は、この

私だけなのだとお示しになったのです。そしてこ

の私が、あなた方をエジプトの奴隷状態から解放

した神であると仰っているのです。



 

この天地創造の物語には、他にもいくつかの大

切な点があります。当時の人々にわかり易く書か

れているために、現代人にはかえって難しくなっ

ているところもありますが、すこし考察してみま

しょう。それは、人間が神に似せて造られたとい

う記述です。他の動物はすべて「造られた」だけ

ですが、人間だけは「神に似せて造られた」ので

す。また、人間には神の息が吹き込まれていると

記されていますが、この「息」と言う言葉は、実

は「霊」と同じ言葉ですので、「霊」が吹き込ま

れたと翻訳することが出来るものです。



 

聖書の神の本質は「霊」であると教えられてい

ます。その神に似せて造られた人間は、物質だけ

の存在ではなく、霊をもつ存在として造られたの

です。人間の命は、単に物質の物理的反応がつく

り出す、動物的いのちではなく、霊的な命こそが

本質なのです。人間は息(霊)を吹き込まれて生

きるものとなったと書かれている通りです。さら

に人間は、神に似せられた霊を持つことによっ

て、霊である神を感じ、理解し、礼拝し、心を通

じ合わせることが出来るわけです。時代と洋の東

西を問わず、すべての人間が神を礼拝する本能を

持ち、宗教を作り上げているのはそのためです。

人間は本能的に、神を礼拝したいと願うのです。

人間とは祈る動物なのです。



 

さらに創世記第1章には、神が6日間ですべての

創造の働きを終え、
7日目にはお休みになったこと

が記されています。その上で、だから人間も
6日間

働いて、
7日目には休むようにという命令が掲示さ

れています。科学的人間は、この
6日間の創造物語

には納得ができません。しかしこれは科学的事実

を記したものではなく、人間の生きるべき姿を定

めたものなのです。科学的事実を真実と考える、

「科学的という文化」に生きる人間には、納得で

きないことかもしれませんが、当時のイスラエル

の人々にとっては、科学的事実はどうでもよかっ

たのです。大切なのは生き方でした。そこで生き

方を教えるために、このような表現法が用いられ

たわけです。



 

重大なことを伝える方法には、色々な表現が用

いられます。必ずしも科学的事実だけを用いて伝

えるわけではありません。寓話的方法もあれば、

詩的表現もあります。擬人法もあれば、物語法と

でも呼ぶべき方法もあります。現代の科学的世界

でも「太陽が昇る」と言い、「日が沈む」と言い

ます。その表現法を非科学的だからと非難する人

はいません。



 

神は、6日間ですべての存在物をお造りになっ

て、7日目にお休みになったという記述は、その

時まで、何百年もの長いあいだ奴隷の生活をして

来て、規律ある自立生活に慣れていない人々に、

集団生活の規律の基本を与えるために、用いられ

た表現方法なのです。キリストも、神がお休みに

なることはないと仰っているとおり、事実として

は、神は休んでおられないし、休みを必要ともし

ておられないのです。ただ、あえて神がお休みに

なったのだからという理屈をつけて、人間に休み

を取らせる教育方法なのです。




この6日間の天地創造物語の目的は、人間には

6日間働いて7日目には休息する生活が、一番良

いと言うことを教えることだったのです。7日目

にはただ肉体的休息を取るだけではなく、神を礼

拝することによって霊的にも力を得て、新しい命

と喜びに満たされ、また次の日から働きに付くと

いう、規則正しいリズムが人間には最善であるよ

うに設計されているわけです。



 現代の日本人にも、そのリズムが必要だと思い

ませんか? あまりにも忙しく、肉体の休息さえ

充分に取ることができず、ましてや霊的な命を大

切にすることには、思いも及びません。そのため

体だけではなく、心までも病む人が多くなってい

ます。まるで社会全体が病んでいるようです。



 日曜日には休むという私たちの習慣は、この聖

書の教えにルーツがあるのです。もちろん、いま

の私たちの社会は、3500年も昔の単純なものとは

違います。全員そろって休息を取るのは不可能で

す。でも、そのような基本を生かした生活をする

のが大切なのです。自動車には、燃料だけではな

オイルも大切です。定期的にオイルを注ぎ足し、

時には交換をしなければ、せっかくの車も傷んで

しまいます。


 
  
posted by まさ at 22:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月30日

救いに伴って私たちに起こったこと (1)




救いに伴って

     
私たちに起こったこと 


1.       救いに関連した多くの聖書的表現 


 聖書には救いに関わる言葉がたくさん記されて

います。ちょっと思い起こすだけで、
10くらいは

誰にでも挙げることができるはずです。神を信じ

る、義とされる、キリストを信じる、義と認めら

れる、新しく生まれる、神の国に入る、召される

罪が許される、神の国に生まれる、霊によって生

まれる、神の子となる、永遠の命を得る、罪に死

ぬなどなど、まだまだたくさんあります。



 

 これらの言葉を、私たちはかなり自由に使いこ

なし、あるていどは、ひとつひとつに関わる意味

を理解していると思います。救いという出来事は

非常に大きく、広く、深く、多面性があり、とて

も一つや二つの言葉で表現することが出来ないた

めに、多くの言い方があるのです。一人の人を前

から見ただけではあまりよくわかりません。後ろ

から見るとまったく別人のような場合もありま

す。左から見、右からも見、斜めからも見、上か

らも下からも見、あらゆる方角から見ることによ

って、より詳しく実物の像に近づくことが出来る

わけです。



 

 同じように、救いを「義とされる」という角度

から見ると、信仰が強調される義認論が展開さ

れ、法廷用語が用いられることになります。「召

される」という方向から見ると、神の絶対権威、

神の圧倒的な恵みの働きが強調されます。「キリ

ストを信じる」という面から語ると、人間の自由

選択、人間の意志が強調されます。時にはそれら

が互いに矛盾すると思われるほどに、先鋭化され

て議論されてきたほどです。「神の子とされる」

という言い方から考えると、父と子の愛と深いつ

ながりが浮き彫りにされ、「罪の力からの開放」

という表現を取り上げると、クリスチャン人生の

広々とした自由が謳いあげられます。

 



 ですから、救いに関わる多くの表現や用語があ

ることは、救いの真の姿を明らかにするために、

非常に重要です。とはいえ、多くの場合それらは

まるでジグソウパズルのようにてんでばらばら

で、うまい具合に繋がりません。この小文では、

救いに関わる多種多様な用語のすべてを取り扱う

わけにはいきませんが、普段あまり取り上げられ

ることがないいくつかの表現に注意を向け、それ

らを少し整理して考えてみたいと思います。それ

は、救いの教会論的側面、また聖霊論的な側面と

いえるものです。



 2.       共同体感覚で聖書を理解する


 

私たちはふつう、キリストを信じたらキリスト

に繋がるものとなるといい、キリストの霊、聖霊

を宿すものとなるといいます。そして、キリスト

に連なり、聖霊を宿した一人ひとりは洗礼を受け

ることによって、キリストのみからだである教会

に連なり、神の家族の一員と認められると教える

人たちがたくさんいます。

 



 キリストを信じたとき一人ひとりの人間は、内

住の聖霊の力によって新しい歩みをはじめ、永遠

のいのちに向かって地上の旅を始めるといわれま

す。その地上の旅の過程で、同じようにキリスト

を信じたものたちが、信仰の共同体である教会を

形成し、互いに愛し合いながら旅を続けると考え

ます。



 

 このような考え方は、個人主義が高揚された西

欧で形成された神学の、特徴と言えそうです。そ

してその西洋的神学が、いまや西欧化のひとつと

して世界中の教会を席巻しているわけです。とは

いえ、いつまでもそのような神学を許しておいて

良いはずがありません。それは個人主義という色

眼鏡で見た救いの神学、教会の神学そして聖霊の

神学です。そこでは神と個人の関係に焦点を当て

る義認論が非常に重要視され、信仰そのものが自

分と神の関係で説かれ、神の前における個人とし

ての自分が重要視されるのです。それらのすべて

が間違っているとは言いませんが、聖書の教えと

は決定的に違うところがあるのです。

 



 私たちはいま西欧化しつつある日本に住んでい

ます。ですから、知らず知らずのうちにかなり個

人主義的な考えを受け入れ、何の疑問も持たずに

それでよいと思っています。そのために、個人主

義的神学にもあまり疑問を感じなくなっていま

す。しかし、つい最近まで私たちが培われてきた

文化は、個人主義ではありませんでした。共同体

というものが生き、力を持っていた文化なので

す。たとえいまや西欧化に流され、個人主義に覆

い隠されてしまったかに見えるとしても、共同体

感覚はいまだに根深く私たちの文化と精神の中に

息づいているのです。

 



 そのような環境に育まれた私たちには、聖書が

語る救いと教会と聖霊についても、共同体という

理解と感覚を持って読むことができるのです。も

ちろん、だからといって必ずしも正しい理解がで

きるというものではありませんが、ただ、少なく

ても個人主義的神学に対する警告と、個人主義的

神学に対抗する意見の提示ができ、より多角的な

理解に繋がるはずです。何しろ聖書そのものは、

個人主義文化の産物ではなく、共同体文化の中で

生み出されたものなのですから。

 

 聖書が教える救いという出来事を見ると、たし

かに、そこには個人主義的感覚もあります。聖書

は、神のみ前における個人の尊さを認めているの

ですから、当然のことです。西欧人たちに、人が

信仰によって救いに入るのは、あくまでもその人

個人の信仰によるのであって、ほかの誰の信仰に

よるのでもないなどと教えられても、たいていの

日本人は、なるほどと感じてしまいます。ところ

が、ちょっと考えるとおかしいのです。人間とい

うものは空白の中に生まれ、個人で生きてきたの

ではありません。社会があり、家族があり、様々

な共同体の中で育ってきたもので、感じ方も考え

方も物事の判断の仕方も、決定的に共同体の影響

を受けているのです。完全に他人から隔離された

個人などというものはあり得ません。



 

 アブラハムは、家長としてあるいは族長として

自分の判断で神に従いました。彼の信仰は個人の

決断です。しかし彼の一族郎党はどうだったでし

ょう。彼ら一人ひとりの信仰が問われ、一人ひと

りの判断に任せられたのではありません。ピリピ

の獄吏は社会的地位のある家長として、自分の家

族はもちろんの事、使用人や配下の者、さらには

その家族にさえ絶大な力を持っていました。彼と

一緒にバプテスマを受けたすべての人間が、一人

ひとり個人的な信仰理解を持ち、一人ひとりが信

仰の決心をしたなどと考えるのは現実的ではあり

ません。個人の信仰ではないのです。



 3.       キリストのみからだに
         
バプタイズされた 



 クリスチャンが救われたとき、多くの出来事が

同時に起きました。神の国に入ったとか、永遠の

命を得たとか、神の子となったというようなこと

です。これらの出来事には例外がありません。私

は救われたけれど、神の国には入っていませんと

か、神の子にはなっていませんというのはありえ

ないのです。

 



 このように絶対に例外のない出来事の一つに、

キリストのみからだにバプタイズされたという出

来事があります。あらゆる背景と差異を超えて、

すべてのクリスチャンはキリストのみからだにバ

プタイズされているのです。これはTコリント
12

13節の教えですが、日本人には少々説明が必要

です。筆者この説明を他の文章でも何度かやっ

ていますが、ここでもう一度かんたんにくり返し

ておきましょう。

 



 日本語に翻訳されている公的な聖書は(個人用

ではなく、礼拝会などの公的な場で用いられるこ

とを目的として翻訳された)どれも、「すべての

クリスチャンは、一つのからだになるようにバプ

テスマを受けた」という意味の翻訳になっていま

す。すべてのクリスチャンはバプテスマ、すなわ

ち洗礼と呼ばれる儀式を受けたことによって、教

会に連なるものとなった。あるいは、すべてのク

リスチャンがバプテスマを受けたのは、一つのか

らだと呼ばれる教会に連なるためであると、理解

できるのです。

 



 ところがもともとは、つまりギリシャ語の聖書

では、「すべてのクリスチャンは、一つのからだ

にバプタイズされた」という意味であって、すべ

てのクリスチャンは、ひとつのからだである教会

に、どっぷりと浸されていると理解されるべきな

のです。私たちすべてのクリスチャンが、例外な

しに、つまり洗礼を受けていようがいまいが、礼

拝会に出席していようがいまいが関係なく、キリ

ストのみからだである教会にバプタイズされた、

すなわちどっぷりと浸けられているのです。しか

もそれは、洗礼のような人の手によるバプテスマ

ではありません。あくまでも聖霊ご自身による、

キリストのからだへのバプテスマなのです。

 


 それはまた、パウロが人の手によらないキリス

トの割礼と呼んだバプテスマです。(コロサイ
2

1112)キリストのみからだへのバプテスマは

聖霊によるものであり、人の手を通さないバプテ

スマだからです。そのキリストのみからだへのバ

プテスマは、また同時にキリストへのバプテスマ

でもありました。この議論を進めるときのパウロ

にとって、キリストのからだとキリストの間に違

いがないからです。キリストのみからだは、キリ

ストそのものでもあったのです。(Tコリント
12

12)そしてこのバプテスマは、キリストと共に

葬られるバプテスマです。
(ローマ634)です

からキリストと共に葬られるとは、絶対に、洗礼

を受けることではありません。

 



 バプタイズとは、染物をするときに染料を溶か

した液体の中に、布をどっぷりと浸す行為を言い

ます。洗濯のために着物を水に浸すことだとも言

えるでしょう。これはキリストのみからだに、単

に貼り付けられたとか、加えられたとか、結び付

けられたというよう意味より、かなり親密なつな

がりを連想させますが、それだけではありませ

ん。もっと深い意味があるのです。



 

なぜなら、すべてのクリスチャンがバプタイズ

されたキリストのみからだ、すなわち教会は、聖

霊の満ち満ちておられるものだからです。(エペ

123 教会というのは人々です。人ではなく

人々です。その人々がキリストというお方を救い

主として信じている、あるいはキリストにあって

天地創造の神と和解した人々の集まりです。一つ

の場所に集まるという意味の集まりではなく、共

に助け合って生きる共同体であるという意味の集

まりです。



 

キリストを救い主として信じる人々の共同体

は、キリスト在世当時からすでに存在していたの

ですが、その頃はまだ教会とはなっていませんで

した。それは教会になる前の共同体で、ちょうど

生まれる前の胎児のような存在でした。教会が誕

生したのはキリストが甦り、天に帰り、聖霊を送

ってくださったとき、すなわちペンテコステの日

に聖霊が降臨し、教会に宿り始めてくださったと

きのことです。キリストを信じる人々の共同体

は、聖霊を内に宿すことによって、初めて教会と

なったのです。

 



 聖霊の降臨と内住によって、教会は単に同じ信

仰と同じ人生観と同じ目的を持った人々の集まり

ではなく、聖霊と呼ばれる神ご自身に絆となって

いただいて、固く結ばれた共同体、いな、むしろ

聖霊という命、命の源に同じように生かされ、同

じ命を共有している共同体となったのです。



 

キリストのみからだである教会は、ペンテコス

テの日に誕生しました。その日にキリストを信じ

る人々の集団は、キリストの霊である聖霊を宿す

ようになったからです。聖霊を宿す、つまり神の

霊である聖霊がお住みになるのですから、教会は

神の家とも神殿とも呼ばれています。ペンテコス

テの日に生まれて以来、教会は聖霊が満ち満ちて

おられるものです。すべてのクリスチャンは、こ

の聖霊が満ち満ちておられる教会、キリストのみ

からだにバプタイズされました。

 

くり返しますが、ここでパウロが語っているこ

とは、洗礼を受けることによって正式に教会員に

なるというような、教会の組織管理の問題や信徒

の教会員登録の問題ではありません。私たちがク

リスチャンになったときに、たとえ目で見ること

はできなくても、体で感じることも出来なくても

私たちに起こった霊的な出来事、霊的な事実、霊

的現実について述べているのです。多くのクリス

チャンは自分たちに何が起こったのか、気付かな

いままでいます。五感という感覚に頼って生きて

来たものにとって、霊的な出来事に気付くことは

困難だからです。



 

たとえ気付かれないままであったとしても、霊

的なレベルではすべてのクリスチャンは、キリス

トのみからだである教会にバプタイズされ、神秘

的な結合、霊的で有機的な結合をしているので

す。また、いまほとんどのクリスチャンが、五感

を通しての体験とすることが出来ないままであっ

たとしても、霊的な次元では、聖霊の中にどっぷ

りと浸されているのです。その霊的事実をもっと

も良く表すことができる言葉、すなわち、物質の

世界を五感で感じる日常の言葉で表現したのが、

「バプタイズされる」だったのです。液体の中に

どっぷりと浸けられるという意味の言葉だったの

です。

 



 キリストのみからだにバプタイズされ、一つの

からだと呼ばれる共同体に属する前のクリスチャ

ンたちは、それぞれ異なった背景を持つ異なった

個人でした。彼らの間にはあらゆる種類の差別や

敵意があり、数え切れないほどの障害があって、

人間としての暖かい交わりを妨げていました。彼

らがたとえ一箇所に集まったとしても、共同体を

作ることは不可能でした。あまりにも多種多様で

雑多な人々であるために、人為的な組織を作り、

規約を整え、署名捺印をもって誓約し、宣誓式を

もってこれに加入するというのも無理なことでし

た。しかし、聖霊が満ち溢れるキリストのみ体に

バプタイズされることによって、契約書でも署名

でも規約でもなく、キリストの命、聖霊の作り出

す交わりによって、もっと親密で血の通った有機

的な共同体となりえたのです。



 

有機的共同体であるために、それはキリストの

み体という表現で語られたのです。有機的である

ために、すべての信徒たちはいかに小さくても大

きくても、共に同じ命をいただき共有するもので

す。強いものと弱いものが痛みを分け合いながら

生きる共同体であり、弱いものが強いものの強さ

を生かして喜び、醜いものが美しいものの美しさ

を際立たせて喜ぶことが出来るようになっている

のです。強いものは自分の強さを持って、弱いも

のを助けることができる恵みに感謝して誇らず、

美しいものは自分の美しさを持って、醜いものを

被うことができる恵みに感謝して誇らず、ひとつ

のからだとして生きるのです。

 



 聖霊によっての交わりを体験し続け、聖霊によ

って生かされ続けるうちに、クリスチャンたちの

内には、キリストを信じた体験の共有意識、キリ

ストの贖いの共有意識、キリストの赦しの共有意

識、キリストの愛の共有意識が芽生え、だんだん

大きく育って生きます。同じ感謝と喜びに満たさ

れ、キリストの愛を持って愛する心、キリストの

赦しをもって赦す心が萌えだし、強くたくましく

育っていくのです。聖霊がそれを助けてくださる

のです。その結果、すべての部分が自分のために

存在するのではなく、からだ全体のために存在し

ていることを自覚して喜ぶのです。キリストのみ

からだと呼ばれる共同体は、弱いもの小さいもの

醜いものつまらないものが、決して無視されるこ

とはなく、かえって、それぞれの特質が最大限に

生かされる共同体なのです。

 
                         つづく








posted by まさ at 20:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

救いに伴って私たちに起こったこと (2)


 4.       聖霊を飲むものとされた

 

 ところでパウロは、私たちはみなキリストのみ

からだにバプタイズされたと言った後、すぐに、

聖霊を飲むものとされたとも語っています。聖霊

を飲むという表現も、五感では感知できない霊的

体験を、あたかも五感で感じ取ることが出来る、

日常の体験のように語ったものです。そのように

語らなければ語る方法がなく、理解される手段も

ないからです。



 

 聖霊が満ちていてくださるキリストのみからだ

に、バプタイズされるという表現も、聖霊を飲む

という表現もとても絵画的描写です。まるで、満

々と溢れる水の中に投げ込まれて、その水を飲み

込んでしまった体験を語っているようです。この

ときパウロは、多分、伝道旅行中に海難事故に遭

い、海に投げ出されたときの体験を思い起こしな

がら、語ったのではないでしょうか。前後左右上

下まったく水に取り囲まれ、鼻からも耳からも水

が入り込もうとする。もちろん口を開けようもの

なら、容赦なく口の中にも入り込もうとする体験

です。この体験をクリスチャンになったという出

来事の、霊的次元での体験と重ね合わせたので

す。クリスチャンになるということは、聖霊の海

の中に投げ込まれて、その中にぶくぶくと沈み、

腹の中にまで聖霊が浸わたってくるという体験な

のです。



 

 クリスチャンになるということは、聖霊を内に

宿すことだと言われてきました。それはそれで間

違いではありません。ところがそれは、パウロの

表現によると、まず、キリストのみからだにバプ

タイズされることによって起こるのです。キリス

トのみからだが聖霊に満ちているからです。それ

はキリストを信じたら最初に起こることではな

く、時間的にはともかく、理論的にはキリストの

みからだにバプタイズされることに引き続いて、

その後に起こることなのです。

 



 キリストを信じて聖霊の内住を得た個々人が、

任意に集まって教会を形成するのではありませ

ん。かえって聖霊によって、有無もなく教会にバ

プタイズされることによって、聖霊を飲むものと

なり、聖霊の内住が可能となるのです。ここに、

キリストの救いに与かることと、教会に連なるこ

との重要な関係が明瞭に示されています。西欧個

人主義に影響された多くのクリスチャンが、信仰

とは自分と神との個人的関係だと理解し、教会に

加入することは益になるかもしれないけれども、

必ずしも重要ではないと考えていますが、聖書

は、キリストを信じる信仰と教会に連なることを

不可分のものとして語っているのです。

 



 ですから、クリスチャン信仰と教会生活とは、

絶対に切り離して考えたり論じたりしてはならな

いものです。教会生活のないクリスチャン生活は

本来あり得ないのです。ところが個人主義の文化

の色眼鏡で聖書を読んだ人たちは、教会の位置を

非常に低く見積もってしまいました。まだ個人主

義があまり強くなかった日本においてさえ、救い

ということを永遠の命、あるいは神との関係の修

復、儒教的な高尚なクリスチャン生涯というよう

な、個人的要素の強い角度からだけ捉える傾向の

あった人たちは、教会を無用の長物としてしまい

ました。

 



 またパウロのこのような表現は、あくまでも霊

的な次元での出来事を、私たちの日常体験の中で

の出来事のように言い表したもので、字義通りに

理解してはならないものです。パウロが言い表そ

うとしていること、パウロが伝えたかったのは、

染料の液の中に浸けられたような体験でも、水を

がぶがぶ飲み込むような体験でもなく、そのよう

にしか表現できない、霊的次元での体験なので

す。つまるところ、キリストを信じたその瞬間か

ら、すべてのクリスチャンは聖霊との非常に密接

な、あるいはとても親密な関係にはいったという

ことです。この関係を妨げるものはないのです。

 



 一人ひとりのクリスチャンは聖霊との親密な関

係にはいり、聖霊の命、キリストの命、聖霊の力

キリストの力などと表現される、復活のキリスト

の命と力をいただいて、甦ったもの、新たに生ま

れたもの、神の国に生きるものとして生きること

ができるようになったのです。罪のためにゆがみ

本来の命と力を発揮することが出来ないでいた、

神に似せて造られた人間性は、このキリストの甦

りの力によって再び活発に活動できるようにな

り、本来の生き方に近づいて生きるようになるの

です。



5.
      
五感の支配する
     
日常の生活の中で
        
霊的事実を体現する

 


 パウロは、「御霊によって生きているなら、御

霊によって歩こう」と語っています。(ガラテヤ

51626)これは、「御霊のよって生きている

かどうかは、良くはわからないけれど、もしも御

霊によって生きているなら」という意味ではなく

「御霊によって生きているのだから、御霊によっ

て生きているという事実があるのだから」という

意味です。つまり、御霊によって生きている、生

かされているという事実が歴然としてあるのだか

ら、その事実を体現して、具現化して、誰にでも

それは事実だと分かるように生き方をしようとい

うことです。

 


 ここで御霊によって生きているというのは、霊

的な次元での事実です。その霊的事実を、私たち

の目で見、体で体験できる日常的な次元の中、そ

の生活の中で「事実」として表現していこうとい

うことです。それは、私たちは神の子となったの

だから、神の子らしく生きようというのと同じで

す。罪から開放されているのだから、罪から開放

された生活をしようというのと同じです。霊的な

事実、霊的次元での歴然とした事実を、日常の生

き方の中ではっきりと現していこうということで

す。



 

 私たちがキリストのみ体に、すなわちキリスト

にバプタイズされたという霊的事実は、洗礼とい
う儀式によって表現されています。それによって

一人ひとりが自分の霊的体験を、日常の感覚で体

感できる体験として持つことができるようにさ

れ、教会として、みんなが公に認めることが出来

るようにされています。

 

 しかし、霊的事実は儀式で表現されるだけでは

足りません。霊的事実には力があるのです。命の

源である聖霊との体験だからです。聖霊に生かさ

れる体験だからです。それはかならず日常の生活

の中に現されてくるべきなのです。すべてのクリ

スチャンは、内に生きていてくださる聖霊の力に

よって新たな生き方をさせられ、新しく生まれた

という表現がふさわしい生活をすることが出来る

のです。

 



 それはまた、聖霊に満ちるという表現とも関係

があります。聖書は聖霊に満ちた人とか、聖霊に

満たされてという言い方をしています。それはク

リスチャンがその時に限って聖霊の満たしを受け

たとか、その人だけが、他の人に比べて豊に聖霊

の満たしを受けているかのように聞こえますが、

実際はそうではないと考えられます。すべての人

は霊的次元の事実、霊的次元の現実として、聖霊

の中にバプタイズされ、聖霊を飲むものとされて

いるのです。その霊的次元の事実を日常の世界で

如実に体現していることが、聖霊に満たされてい

ることであり、その霊的次元の現実をより豊にこ

の目に見える次元で具現している人が、聖霊に満

ちた人だといえるのです。

 



 それが、旧約時代の英雄に聖霊が臨んだといわ

れているのと、異なる点のように考えられます。

旧約時代にも、確かに聖霊は臨み、また離れて行

かれました。しかし新約の預言者(すべての信

徒)は、満ち満ちた聖霊の中にバプタイズされて

いるのです。旧約の時代の聖霊、神の霊は、あた

かも人が大きな神の働きをしようとするとき、あ

るいは神の大きな働きをしようとする人に与えら

れる、神の特別な力でもあるかのように表現され

ています。ですから旧約聖書の記述だけを読ん

で、聖霊が三位の神の第三格位の方だと理解する

ことはまずありません。ところが新約聖書の記述

を読むと、聖霊は単なる神の力ではなく、人との

交わりを有効にし、それを深め強めてくださる神

ご自身であることが分かるのです。

 



 そのような聖霊体験をしている人々の共同体が

教会です。教会は単なる人為的な協同組合のよう

なものとは違います。それに連なる者すべてが甦

りのキリストの霊をいただき、その霊に生かさ

れ、キリストに似るものに作り変えられながら、

互いに愛し合う共同体なのです。すべての構成人

員がキリストの贖いの愛を体験し、その愛に生か

され、その愛に生きる共同体です。そしてそれを

可能にしてくださるのが、全員を取り巻き全員の

中に生きておられるキリストの霊なのです。だか

ら、パウロはいうのです。「聖霊によって生きて

いるのなら、聖霊によって歩もうではないか」

 



 教会は神の家族と言われています。赤ちゃんは

家族の中で愛され、世話を焼かれ、教えられ、育

まれるのです。家庭がなければ、赤ちゃんが正常

に成長するのは困難です。クリスチャンが正常に

そして健康に成長するためには、絶対に、この神

の家族の中にいなければなりません。それは単に

霊的事実として神の家族の中にいるということで

終わることではなく、その霊的事実を具体的に顕

現した地域教会の中で育たなければなりません。

クリスチャンは、地域教会において具体的に交わ

りを共にしてこそ、正しく成長できるのです。き

ちっと地域教会に加わらず、花から花に移る蝶の

ように教会を渡り歩き、勝手気ままな生き方をし

ているクリスチャンは、霊的現実を具体的に体現

することが出来ないために、成長できないままに

終わってしまうのです。

 



 考えて見ましょう。クリスチャンに与えられて

いるもっとも崇高な戒めは、キリストが私たちを

愛してくださったように、互いに愛し合うことで

す。でも、もしもクリスチャンが他のクリスチャ

ンと交わりを持たず、顔も知らない名前も知らな

い生活も知らないとしたら、どのようにして互い

に愛し合うのでしょう。食事の前に、全世界のク

リスチャンたちを祝福してくださいと祈っても、

互いに愛し合っていることにはなりません。具体

的な交わりと助け合いがないところに、本物の愛

はないのです。




 
6.クリスチャンの成長 



 クリスチャンの成長は、上を目指した自分の努

力もさることながら、聖霊によるものであること

を知らなければなりません。多くのクリスチャン

が、自分の中に起こった霊的な出来事、霊的な次

元での体験に気付かないままに生きています。自

分の内に聖霊が生きていてくださるという事実

に、まったく気付かないまま生活しているので

す。長いあいだ罪に縛られて自由を奪われていた

ために、自分には神に喜ばれる生き方はできない

と思い込んでしまい、自分の中に与えられた新し

い命、新しい力、神の可能性に気付かないので

す。

 



 鶏の両足を紐で縛って放っておくと、しばらく

は逃げようとしてもがきますが、やがて無理だと

わかってあきらめてしまいます。
3日間ほどもそ

うしておいてから紐を切ってやると、紐が切られ

たという事実に気付かずに、あきらめたまま歩こ
うとはしません。歩けない、歩くことは出来な

い、歩く力がないと思い込んで、いつまでも座り

込んだままでいるのです。長い間、罪の中にいて

クリスチャンになった多くの人たちも同じです。

歩けないと思い込んでいるために、自由を与えら

れ、力を与えられていても歩こうとせず、歩けな

いで終わってしまうのです。



 

 クリスチャンには、自分が聖霊の満ち溢れるキ

リストのからだにバプタイズされ、聖霊を飲むも

のにされたという、霊的次元の出来事を認識させ

ることが大切です。そしてその事実に立って行動

するように励ますのです。すると、最初はおぼつ

かない足取りでも歩き出すことが出来るのです。

だんだん痺(しび)れもとれ、感覚を取り戻し、

健康な人のように歩き始めることが出来るので

す。

 



 ただこのとき、生まれながらに自分の中にあっ

た力を頼りにしてはなりません。立派な生活をし

てきた人、尊敬されるような生き方をしてきた

人、自分の能力に自信を持っている人ほど、自分

の力に頼って失敗することが多いのです。頼るの

は、あくまでも、内に住んでくださった聖霊の力

です。聖霊にお願いし、その力に頼り、その約束

に信頼して歩き出すと、歩くことが出来るように

なるのです。具体的には、今までできなかった生

き方をさせてください、愛することが出来るよう

に、赦すことが出来るように、我慢をすることが

出来るように、腹を立てないで済むように、にこ

やかに対応することが出来るように、欲望に打ち

勝つことができるように、劣等感に勝利をするこ

とが出来るように、無力感を払いのけることが出

来るようにしてくださいと、自分には出来なかっ

たことをひとつひとつ、祈りながら試していくこ

とです。そして、少し出来たら感謝、もう少し出

来たら大いに感謝、出来なかったときにも失望せ

ず、心配もせず、それでも愛し続けていてくださ

る神様に感謝して、もう一度、試させてください

とやり直すのです。するとかならず、出来るよう

になっていくのです。

 



 クリスチャンの成長は、自分は聖霊を飲んだの

だ、聖霊が自分の内に住んでいてくださるのだと

いう霊的事実を確認し、その聖霊に信頼し、聖霊

の力を期待し、祈りながら、自分には不可能だっ

たキリストに倣う生き方を、ひとつひとつ実行し

ていくことによって達成されるものです。聖霊は

日々私たちを作り変え、キリストに似た者に作り

上げてくださるのです。

                 つづく







  





 
posted by まさ at 20:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

救いに伴って私たちに起こったこと (3)


 7.           共同体としての成長 
 

 ところで、クリスチャンの成長というものは、

個々のクリスチャンがそれぞれ独自に成長するも

のではありません。孤高のクリスチャンを作るの

ではないのです。隠遁の聖人を作るのでもないの

です。むしろ、共同体として、教会全体としての

成長こそが成長の目標です。キリストの満ち満ち

た身丈にまで成長し、頭なるキリストに達するよ

うになり、愛のうちに建てられることを期待され

ているのは、個人のクリスチャンではなく、共同

体としての教会なのです。(エペソ書
411

16




 
 自分だけが非常に立派なクリスチャンになるの

ではなく、自分と一緒に生きている弱いクリスチ

ャン、幼いクリスチャン、わがままで、自分勝手

なクリスチャンも、一緒に成長することが大切な

のです。彼らがいくらかでも強くなり、少しでも

成長し、わずかでもわがままが抜け、ちょっとで

も自分勝手が消えるように、自分の成長の速度を

落としてもいいのです。極端に言うと、そのため

には、今日の聖書の勉強の時間を縮めても、明日

の祈りの時間を削っても良いのです。
 




 中学生のときの全校マラソン大会で、私たちの

クラスはビリケツになりました。女子が最低だっ

たのです。もともと丈夫でなかった女の子が途中

でくじけそうになったのを、みんながかばい、励

まし、力づけ、最後までひとかたまりで走り続

け、小一時間も遅れてゴールしたのです。その日

の終わりのホームルームで、担任の先生が、お前

たちはビリケツだったけれど、最高のクラスだと

言いました。次の日の朝礼で、私たちのクラスの

女の子たちは、校長から特別賞を貰いました。そ

のあと、健康優良児でもあったクラス委員の女の

子が、くじけそうになった女の子に小さな花束を

手渡しながら言いました。「○○ちゃんがいてく

れたから、私たちも一つになって頑張れたのよ。

○○ちゃんありがとう」

 



 これはキリストの愛も、キリストのみからだも

知らない、異邦人の女の子たちの中で起こったこ

とです。私たちの教会にも、この程度のことは起

こって欲しいものです。強いものが弱いものを助

けてあげる機会を与えられ、感謝をするのです。

弱いものがいなければ、強いものの強さは何の役

にも立ちません。

 



 すべての人が、それぞれの生まれや背景を越え

て、キリストにあって一つとなった教会は、互い

に弱さをかばいあい、醜さを被いあい、悲しみと

喜びを一緒にしながら生きるのです。それがキリ

ストに似ることです。もちろん、このようなこと

を実際に行うのは、容易なことではありません。

教会にはあらゆる意味で、弱者の世話をする部門

をつくるべきです。一つの地域教会では無理なら

ば、いくつかの教会が協力し合うべきです。すべ

ての弱者に効果的に手を差し伸べるのは不可能だ

としても、そういう意識を作り上げ、見過ごしに

しない、無視しない態度を持つべきです。

 



 エルサレムの教会は経済的な弱者に対して、積

極的に手を差し伸べ、そのための組織作りにも乗

り出しました。パウロはその精神を他の教会にも

広げ、国と地域を越えた教会間の助け合いにしま

した。現在の私たちの教会は、大方、経済的には

恵まれていません。だからといって、互いに助け

合うことが出来ないと決め付けるべきではありま

せん。たとえば、国や公的機関の福祉厚生につい

てよく知っている人がいれば、その知識を大いに

活躍させてでも助け合うべきです。知恵や立場を

生かして助け合うべきです。

 



 弱い人たちの中には、弱さに甘えている者もい

ることでしょう。そのような人を励まし、諌め、

教え、指導することも大切です。パウロは厳しく

叱りながら励まし指導しています。厳しく指導す

ることによって立ち直る人には厳しい指導、厳し

さにはついて行けないほど弱い人には、その弱さ

に合った取り扱いも必要です。日本の教会は、日

本人の性格上、厳しく取り扱うのが苦手のようで

す。臭いものには蓋でごまかし、問題を大きくし

て解決できないところまで行ってしまってから、

相手を責めて自分は安全圏に避難するというのが

一般的です。きちっと厳しく取り扱い、しっかり

と優しく抱き寄せる対応が必要です。

 



 三位一体の神は、天地創造の前、永遠の昔か

ら、三位の中で互いに愛し合う、愛の神として存

在しておられました。そしてその愛の表現として

愛の対象となる人間をお造りになりました。人間

は神の愛の対象として、神に似せて造られまし

た。つまり愛し合うべき存在として作られまし

た。神は、すべての人間が神だけを愛し慕うよう

にはお造りにならず、人間同士が愛し合うように

もお造りになりました。人間同士が互いに愛し合

うのを、神はお喜びになるのです。罪のために互

いに愛し合うことが出来なくなった人間は、愛に

よって贖われ、愛によって作り変えられ、愛によ

って結び合わされて、キリストのみからだに属す

るようになって、再び互いに愛し合うものとされ

たのです。




 
8.共同体の目的 



 神が人を救い、キリストのみからだにバプタイ

ズし、聖霊を飲むものとして聖霊の内住を体験さ

せ、愛し合うことが出来るようにしてくださった

のは、救われた人々が神の力によって幸せになる

ためだけではありません。神が幸せにしようとし

ておられるのは、限られたわずかの人々だけでは

なく、もっと多くの人々です。

 



 神はあらゆる異なった人々を召して救いに入

れ、その人々のあらゆる能力や資質をその人々も

ろともに贖い、清めてご自分のものとして、キリ

ストのみからだに組み入れてくださいました。そ

の上、それらを有機的に機能させて、キリストの

み体の一部とされた人々が、互いに助け合ってキ

リストの恵みの中に成長していくようにしてくだ

さいました。



 

とは言えキリストのみ体は、決して自分の益だ

けのために存在するものではありません。教会は

教会のために、教会の自己充足のために存在する

のではないのです。キリストは神の姿を捨ててこ

の世に降り、十字架の贖いを通して私たちを救っ

てくださいました。いまや私たちは、そのキリス

トに倣うものとなり、そのみからだである教会に

バプタイズされているのです。キリストのみ体

は、キリストが地上を後にされてからも、キリス

トの霊である聖霊を宿して、その聖霊の力によっ

てキリストのお働きを継続するのです。

 



 キリストの救いのみ業を継続することこそ、教

会という共同体がこの世に存在する目的、存在理

由です。キリストのみ体にバプタイズされたとい

うことは、この目的、この存在目的のために、キ

リストのみからだの一部として組み込まれたとい

うことです。キリストのみからだが継続するキリ

ストのお働きとは、人々の救いです。教会は人々

の救いのために働くのです。それこそが教会に与

えられている使命です。

 


 ですから私たちは、私たちの救いと幸せのため

に召されたのではありません。それ以上の使命の

ために召されているのです。それは世界の人々の

救いです。私たちははじめから、世界の救いの働

きのために救われたのです。また、世界の人々の

救いは世界の人々の幸せのためだけではありませ

ん。それ以上の使命があるのです。それは、世界

中の人々が神を崇め、神を礼拝するためです。私

たちの救いの究極の目的は、すべてのものの造り

主である神の栄光を、心と声を一つにして褒めた

たえることです。

 



 いわゆる伝道者として召されたり、牧師として

召されたりした人たちだけが召されたのではあり

ません。本来、召しとは救いの一面です。救われ

た人すべてが召されているのです。福音宣教とい

う使命を遂行するために、召され、教会にバプタ

イズされているのです。教会の中では、それぞれ

の賜物、能力、資質、力、背景などに応じて、教

会全体のためにそして使命遂行のために尽くすの

です。

  



 くり返しますが、私たちが救われたのは、私た

ちのためだけではありません。私たち以外の人た

ちの救いのためです。それは愛の神の愛のみ業、

罪人の救いの働きに役立つということです。そし

て、すべての膝が神のみ前でかがめられ、すべて

の口が神の栄光をほめたたえるためです。究極的

に、私たちは神の栄光のために存在し、神の栄光

を崇め、神の愛の中に喜び、神を慕いながら、互

いに愛し合って生きるのです。私たちが救われた

ということは、そのような共同体の中に入れられ

たということなのです。













posted by まさ at 20:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

復活に生きる


  

 人はみな死にます。肉体は朽ち果てて消滅し、

人々の記憶からも失われ、やがては、生きていた

証さえ拭い去られて、永劫の彼方に忘れられてし

まいます。そう考えると、人生は虚しいもので

す。せっかくの楽しみも喜びも、色あせてしまい

ます。ならばとばかりに、太く短く生きようとす

る人たちの姿は醜いものです。反対に、だからこ

そ人生を大切にと言いながら、生に執着している

姿も美しいものではありません。延命処置で管

だらけになて寝かされている人を、正視できるも

のではありません。



 

復活の力に生きる


 私たちクリスチャンの生き方は違います。わた

したちは復活の信仰に立って生きているからで

す。クリスチャンは、二千年以上も昔に生きてい

た方を懐かしんで、手本にして生きているのでは

ありません。いま私たちと共に生き、いま私たち

を助け、いま私たちの内に住み、いま私たちの生

きる力となっていてくださる方によって、生きて

いるのです。私たちはいま、キリストの復活の力

によって生かされているのです。




 復活されたキリストが、私たちの内で力となっ

て、私たちをふつうの人間ではない者にしてくだ

さっているのです。私たちは弱く頼りない人間で

す。でも復活のキリストを、内に宿した人間で

す。復活のキリストが内に住んでいてくださるか

ら、私たちは内側からキリストの姿に似せられて

いくのです。やがて、キリストを信じる前の自分

とは、大きく異なった自分が作り上げられていく

のです。




 以前の私たちは、なんでも自分が第一でした。

すべて自分の益のため、自分の得のため、自分の

名誉のため、自分の面子のため、自分の幸せのた

めでした。何でも自分を中心に考え、自分を中心

に判断し、自分を中心に選択してきました。それ

が当然だと思っていたのです。その結果、人と争

い、人を蹴落とし、人を傷つけ、人を利用し、人

を騙し、人を陥れてきました。それが、意識的に

そうしたのではなく、自分を第一とした生き方の

もたらした副作用でした。それでいて自分は決し

て幸せでなく、かえって自分自身が嫌になって落

ち込んでいました。そんな自分をどうすることも

出来ずに、悲しくなり、惨めになり、どうにでも

なれと投げやりになってきました。




 でも、復活のキリストを心の内にお迎えしてか

ら、私たちは変わりました。自分を第一にする生

き方から、いつの間にか他の人を大切にし、自分

のことを二の次にすることさえ出来てきたので

す。それが一生懸命努力して、何が何でもと頑張

った結果ではなく、いつの間にか出来るようにな

ってきたのです。自分の内に復活のキリストが生

きておられると知って、そのキリストの力を信じ

頼って祈っていたら、いつの間にか変わってきた

のです。




 自分が人の助けになることができる、自分も人

の役に立つことができる、自分が人に喜んでもら

うこともできると気付いて、嬉しくなったので

す。生きることが楽しくなり、生きることに充実

感がもてるようになったのです。自分がどれほど

損をしても、裏切られても、傷ついても、十字架

にかかって苦しんでくださったキリストが内に住

んでいて、それを乗り越えさせてくださるので

す。金銀を儲けても、永遠の国に持っていくこと

はできないけれど、キリストと共に苦しむ苦しみ

は、永遠の栄光をもたらす宝だと知ったのです。



 
復活の望みに生きる



 復活のキリストが、私たちの内に住んでいてく

ださるという事実は、毎日の生活の中で不否定で

きない現実です。この明白な現実が、まだ見てい

ない私たちの復活への希望をも現実のものとし、

固く大きくしてくれます。キリストの復活は、私

たちクリスチャンの復活の初穂であり、保証だか

らです。死を打ち破って甦ってくださったキリス

トは、私たちをも甦らせてくださるのです。





 困難の中で喘いでいるとき、苦難の中でもがい

ているとき、ちょっと手を止めて目を閉じ、心の

中で自分に約束されている復活と、それに続く輝

きに満ちた命を思い浮かべてみましょう。パウロ

先生と一緒に、「いまのこのときの苦しみは、や

がて現されようとしている栄光に比べるならば、

言うに足りない」と断言できるはずです。私たち

の人生は死で終わるのでなく、さらに勝った命へ

復活をするのです。さらに優れた肉体を与えら

れ、キリストの心に似た心を与えられ、やがて痛

みも涙も叫びもない世界、神ご自身が、私たちの

目の涙をまったく拭い取ってくださる世界に、永

遠に住まわせていただくのです。





 キリストの復活は、私たちの望みです。いまは

まだ、すべての物事が薄ぼんやりと見えているだ

けです。聖書に教えられているあらゆる真理も、

まだまだ、霧の彼方にあるもののようにしか見え

ていません。神様との交わりも復活のキリストの

力も、実のところ、まだまだほんの少しだけ体験

しただけなのです。でも、やがて現される現実、

私たちの復活の向うの現実は、こんな小さなもの

ではありません。こんなに薄ぼんやりしたもので

もありません。すべてのことが明らかになり、す

べてのものが完成され、たとえようもなく大きな

祝福が、私たちを取り囲み覆いつくすのです。




 このような望みを持ったわたしたちクリスチャ

ンの歩みは、世の中の人々の歩みと同じであるは

ずがありません。大きな望みは大きな力をもたら

すからです。行く手の光は、足もとの闇の不安や

孤独を消し去ってくれます。




 キリストの復活を祝うイースターの季節です。

キリストの復活こそ、クリスチャンの勝利の象徴

であり、勝利を現実にする力なのです。









posted by まさ at 20:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。