2010年10月02日

神の妥協 私たちの妥協



神の妥協 わたしたちの妥協 
     ピレモンへの手紙 


 一般的に、クリスチャンは妥協をいさぎよしとしま

せん。どこの国のクリスチャンも、妥協を嫌う頑固さ

があるようです。多分、ローマ人への手紙12章2節の

「あなた方はこの世と妥協してはなりません」とい

う言葉が、間違って理解されたのだと思います。「こ

の世」が、世のなかの習慣とか文化という意味に取

られてしまったのでしょう。





 いつでも人の顔色をうかがって、大切なところで

妥協してしまう日本人の中にあって、かたくなに自

分の信仰を守って、日本の習慣や文化に逆らい通す

クリスチャンは、ある意味で立派です。でもそのため

に、キリスト教全体のイメージが、独りよがりの反社

会的宗教と思われるのは残念です。




 クリスチャンたちのかたくなさは、彼らの潔癖さ

からくるものです。そしてその潔癖さは、神の潔癖

さからくると思われています。聖書の神は完全に聖

い神、潔癖な神で、穢れや罪はたとえ爪の垢ほど

でもお嫌いになるからです。




 ところが、聖書の神は、聖く潔癖な神でありなが

ら、妥協の神でもあるのです。私たちクリスチャンも

また、聖く生きようとする反面、妥協の生き方もしな

ければならないのです。妥協と言う言葉の定義の

問題だと言ってしまう前に、もう少し聖書に目を注

いで見ましょう。





 
T. 神の妥協  


 確かに、神の厳しさは聖書のいたるところに見る

ことができます。でも神は、罪深い人間を赦し、ご自

分のみ許に引き寄せるために、キリストを犠牲として

捧げてくださった神です。妥協できないから、キリス

トを犠牲にしなければならなかったと見るか、罪と

穢れと妥協してでも罪人を受け入れたいと願い、キ

リストの処刑という大きな犠牲をさえ、忍んでくださ

ったという言うべきかです。




 人間は、神に定められた道をはずれ、とんでもな

い方向に進んでしまいました。でも、神は人間を見捨

てず、殺さず、滅ぼさず、あくまで救おうとして、妥

協しながら付き合い続けてくださったのです。



 神は、一夫一婦であるように人間をお造りになり

ました。ところが人間は、たちまち性的に乱れ、一夫

多妻の社会を造り出してしまいました。離婚は神の

御心を外れていました。しかし神は、罪のための人

間の弱さを哀れみ、これをもお許しになりました。
 




 あらゆる人間を基本的に同等にお造りになって

いながら、神は人間たちが差別を設け、奴隷制度

を作り上げて行くのを許し、奴隷制度の社会さえ受

け入れてくださいました。パウロがピレモンへの手

紙を書いたときも、奴隷制度が社会の土台でした。

今の日本では、中小企業で働く人々がいなければ

社会が成り立たないように、奴隷がいなければ当

時の社会は機能しなかたのです。




 
U. ピレモンの手紙の背景 

 
 ピレモンはパウロの働きによって救われたクリス

チャンでした。多くの奴隷を抱える金持ちだったと

考えられます。その奴隷の一人がオネシモという若

者でした。ところが彼はどういうわけか、主人に迷

惑をかけて逃亡し、流れ流れて遠く離れたローマに

辿り着いたのです。ところがそこでもさらに悪事を

重ねて捕らえられ、牢に閉じ込められたようです。

どうやら彼はその時パウロに出会い、教えを聞き、

キリストを信じるものになったらしいのです。奇遇と

いえば奇遇、奇跡といえば奇跡です。



 キリストを信じたオネシモは、名前の通り「役立つ

人間」に変わり、かいがいしく年老いたパウロの世

話をしていたようですが、その信仰がある程度成

長したときに、パウロは彼を遠くの主人、ピレモンの

許に送り返すことにしました。



 当時の逃亡奴隷に対する処罰は厳しいものでし

た。たとえ主人もクリスチャンになっていたとは言

え、逃亡奴隷を許すことは社会制度の崩壊につな

がり、奴隷の持ち主たちの間の約束事があり、簡単

に許すことが出来るようなものではありませんで

した。世事に通じていたパウロがそれを知らないは

ずはなく、オネシモもそれを忘れたことはないはず

です。それなのに、パウロは彼を主人の許に送り返

し、オネシモは途中でまた逃亡することもなしに、

主人の許に行ったのです。




 
V. パウロの妥協 


 パウロは、すべての人間が神の前に平等である

と教えています。当時の世界にあっては、まさに時

代を先取りした驚くべき教えです。ですから当然、

奴隷制度が基本的な人権を無視したものであり、

神の御心に反していたことも知っていました。とこ

ろが、「奴隷制度反対」を叫んでムシロ旗を挙げて

戦うようなことはしなかったのです。一方では、奴

隷制度を根本的に覆すような教えでピレモンを諭

し、オネシモを愛する兄弟として迎えるように勧め

ながら、もう一方では、その悪い制度に従ったので

す。パウロは妥協したのです。



 これは悪い社会の中に生き、邪悪な制度やしきた

りの中で生活しなければならない、クリスチャンた

ちのあり方を示しています。また、異教文化のなか

で生きていかなければならない、日本のクリスチャ

ンたちの採るべき態度を示しています。正面切って

悪と戦うだけが、クリスチャンの戦いではないので

す。悪と妥協しながら、悪と戦う生き方が大切です。

悪い制度の中で、神のみ心、本来の人の生き方を求

めて生きるのです。



 いま、私たち社会に奴隷制度がないのは幸いで

す。とはいえ、それに類似したものはたくさんあり、

それよりもっと悪いものも少なくありません。たと

えば、資本主義の自由経済社会があります。自分た

ちの利益のためにこの制度を創り、正当化し、欲望

をむきだしにしてこれを悪用する人々のために、い

ま世界では、子供だけで13万人以上の餓死者が

出ているのです。



 自分たちの手では、大根一本、麦一粒も生産せ

ず、ねじくぎ一本も作り出すことをしない人たちが、

コンピュータの画面を操作するだけで世界の金を動

かし、貧しい国の人々をますます貧しくし、死に追い

込んでいるのです。アフリカの人々を狩り出して、奴

隷として売った人々の非人道的行為は、歴史のなか

で厳しく非難されています。しかし現代の金融界の悪

は、奴隷制度に勝る巨悪でなくてなんでしょう。


                                    
 私たちはいま、この制度の中で、この制度に妥協

しながら生きて行かなければならないのです。しか

も、自分の信仰において、自分の信念の行動におい

ては、断じて妥協しない生き方をしなければならな

いのです。



 非キリスト教国日本で生きている私たちは、毎日

異教の習慣や偶像に取り囲まれ、戦いをしなければ

なりません。でも、いま私たちが戦わなければならな

い最大の敵は、そのようなものではありません。むし

ろ、私たちの教会の中でも活発に活動している、「富

の神」です。キリストが「富と神に同時に仕えることは

できない」と仰ったときの「富」です。」これは単なる

富ではなく、「富の神」を意味する言葉です。金を追

い求めるうちに誰しも陥る、拝金主義の危険を教え

てくださったものです。




 パウロは「むさぼりが、そのまま偶像礼拝である」

と、厳しく拝金主義を叱責しました。ところがいま、偶

像を壊せ、仏壇を焼けと騒いでいる戦闘的キリスト教

会の多くが、この富、「マモン」と言われる神と仲良く

なり、これを崇拝して止まない、偶像礼拝の罪を犯し

続けているのです。繁栄の福音などと言うまがい物

を、福音と言いくるめる神学さえあるほどです。世界

中で、年間1000万を遥かに越える餓死者を出し続け

ている、現代最大の偶像礼拝にどっぷりと浸りきっ

ているのです。



 この、富の神と呼ばれる偶像と戦うことこそ、い

ま最も重大な戦いです。しかも私たちは、その神を

崇める社会制度の中に生きながら、戦わなければ

ならないのです。その富の神に目と心を奪われてし

まった、私たち自身とも戦わなければなりません。

どのように戦うべきか、奴隷制度の中に生きなが

ら、その制度に対してムシロ旗を立てて戦うこと

をせず、かえってその制度の土台である差別の精

神を打ち壊すように、愛をもって戦ったパウロの

ように、上からの知恵が必要です。
 

                  おわり





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2010年10月03日

緊張の中の信仰



緊張の中の信仰
マタイ24:1〜25:46 


 夜中の2時、まさに丑三つ時(うしみつどき)に、ある牧師に電話

がかかってきました。「先生。どうかいま、私に説教をしてくださ

いませんか!?」いつも面倒を起こしている女性の信徒です。

「えっ、 こんな真夜中にですか?」 「はい。どうしても眠ら

れないんです。でも先生のお説教を聴いていると、いつもとても

良く眠られるものですから、先生どうかよろしくお願いいたし

ます」 




 もうひとつ・・・・・・。説教を聴く信徒たちが、みんな眠りこけるの

に悩んだ牧師が、どうしてそうなるのか、自分の説教を録音し

て聞いてみることにしました。月曜日の朝、書斎に閉じこもっ

てしばらく・・・・・・・。奥さんが10時のコーヒーをもってドアを開ける

と、牧師は録音を聞きながら、すっかり眠り込んでいました。




 クリスチャン信仰は平安の信仰です。うちの教会でも、牧師の

説教は平安に満ちたものですから、信徒たちはやすらかに居

眠りをします。そんなことを気にしていては、牧師は務まりませ

ん。日ごろ一生懸命働いて、せっかくの休みにも教会までやって

来る、それだけで立派な信徒です。何しろ雷に打たれて死んだ

としても、永遠の命をいただいているのですから、心配は要りま

せん。




 とはいえクリスチャン信仰は、のんびりと平安に過ごすだけの

ものでもありません。緊張という一面も非常に強いのです。そ

れが、マタイの福音書24章と25章のテーマです。なぜ緊張する

かと言うと、イエス様がいつお帰りになるか分からないからで

す。天にお帰りになったイエス様は、再びおいでになるのです。

そして私たちを天に引き上げてくださいます。私たちはこの

世の雑踏と苦しみを下に見ながら、イエス様と共に、天がける

のです。そして私たちより先に死んでいた人たちも甦らされ、

空中で一緒になり、喜びを分け合うのです。
 



 ここで大切なのは、イエス様が戻って来られるときも、忠実な

信仰を保っていることです。怠けたり、さぼったり、忘れてしまっ

てはいけないのです。クリスチャンに与えられた大切な働きを、

なおざりにしてはならないのです。そのようなクリスチャンは、

天に引き上げられない可能性さえあるからです。(最終的には

救われますが)




 マニラの聖書学校に、怠け者の学生がいました。授業はサボ

るし作業には出てこない。朝寝坊して食事に顔を見せないの

も、いつものことでした。ある日の朝の食堂で、突然、校長が宣

言しました。「今日は授業を休んで、みんなでピクニックに行きま

す!!」ずいぶん前から職員たちと一緒になって計画し、食料

もたっぷりと準備し、学生たちを驚かせてやろうと、秘密にして

いたのです。




  すっかり舞い上がった学生たちは、準備されたバスに乗り込

んで出発してしまいました。日が高く上って暑くなり始めたこ

ろ、のこのことベッドから這い出した、あの怠け者の学生はびっ

くり仰天しました。広い校舎も庭もガランとしてだあれもいない

のです。瞬間、彼は大声で泣き始めました。自分が惰眠を貪って

いる間に、イエス様がおいでになって、学生も、先生も、みんな

天に引き上げてしまわれた。自分だけが残されたと思ったので

す。
 



 主がおいでになるとき、忠実に信仰を保ち、熱心に主に任せら

れた仕事を遣り通しているところを見られる人は幸いです。そし

てこの、主がおいでになる日、再臨の日はいつか分からないの

です。今日かも知れないし、1000年後かもしれません。新約聖

書全体を通して、主の再臨に対する期待と、緊張が流れている

ので
す。




 この主の再臨という信仰は、インドまでもたらされ、仏教にも

影響を与えたと思われます。(仏教の最初の経典、阿含経が完

成したのは、はなはだ不確実ですが、キリストの時代より200

ほど後の事というのが有力な説です)その阿含経に弥勒信仰の

芽生えがあるのです。でも、弥勒菩薩がおいでになるのは56

700万年後、あるいはそれを10倍にした567000万年後と

いうことですから、緊張感はありません。




 クリスチャンは死を恐れません。しかし、主であるイエス様が

いつお帰りになって、私たちを迎え入れてくださるかという、

緊張と期待感を持ち続けるのです。




 わたしたちは、ときどきICA(英語部)と合同のパトラックラン

チをします。これは単なる食事会ではありません。再臨の主に

よって天に挙げられた私たちが、天においてイエス様と一緒に

いただく食事会を思い起こすものなのです。天の食事にはどん

な料理が出るのでしょう。時代と民族、国家と文化によって食事

は違います。尾頭付きの鯛とヒラメの刺身が出るか、カブトムシ

の幼虫のムニエルが出るか。考えるときりがありません。天のみ

国では、みんな、どんな食べ物でも美味しく食べることが出来

る人に、変えられるのだと思いますよ。









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2010年10月04日

感謝のある生活



  

 いまの私たちの生活は、貧しいとは言えずいぶん

豊です。でも、豊かさというものを満足度で計るとす

ると、今の私たちの豊かさは、とても貧しいものにな

ってしまいそうです。「このお菓子美味しくない」と

言って食べ散らかしている日本の子どもたちより、野

良仕事のあと、茹でた一本のタピオカを兄弟で分け

合って、目を輝かせながら食べていたフィリピンの山

奥の子どもたちのほうが、よほど豊に見えました。贅

沢な日本の子どもたちには、感謝も喜びもなく、ぼろ

ぼろの汚れたシャツを着たフィリピンの子どもたちに

は、感謝と生きる喜びがあふれているように感じまし

た。
感謝をすることが出来る生活は豊かな生活です。

でもどうしたら感謝が出来るようになるのでしょう。
 




T. 思い上がらないこと 
 


 思い上がりは感謝を奪い取ります。自分が何物か

であるように思い込んでいると、当然、その何物か

に応じた対応を求めます。賃金も、もてなしも、食べ

物も、すべて、「立派な自分」にふさわしいものを求

め、それが当然だと考えます。そしてそれが与えら

れないときには、たとえ美味しいものでも美味しく

なくなり、美しいものも美しくなくなり、手厚いもて

なしもぞんざいに思えてしまうものです。





 いまの日本人の多くは、自分が何物かであるか

のように、思い込まされているようです。少子化の

ため、家庭の中で大切に大切に甘やかされて育っ

たものたちが大勢います。自分が一番大切だと思

っています。自分が美味しいものを食べ、高価なも

のを身にまとい、贅沢に暮らすのは当然だと考え

ています。それは自分の権利だと思っています。で

すから、そのような生活に感謝はありません。そし

てそれが奪われると、怒り悲しみ落胆するのです。





 この世に生を与えられたすべての人には、生きる

権利があります。でも、権利の主張ばかりしている

人たちには、不満と憤りと、恨みとねたみが沸き起

こるだけです。






 ところが、自分を低く見ている人は小さな親切に

感動し、わずかな食べ物に感謝し、粗末な着物にも

喜びます。感動と感謝と喜びを持つことができるの

は、豊かな人です。自分がたまたま生を与えられた

小さな存在に過ぎないと感じている人は、感謝を大

きくすることが出来るのです。旧約聖書に登場する

ダビデ王は豊かな人間でした。それは王としてあら

ゆる物を手にしていたからではなく、自分は虫けら

に過ぎないと自覚していたために、どのような環境

にあっても豊かだったのです。





 
U. 神の子として生きる  


 昔、木村清松という伝道者がアメリカに渡ったと

き、ナイアガラの滝に連れて行ってもらいました。感

動していると、案内のアメリカ人が尋ねたそうです。

「どうだ。凄い滝だろう。日本にはこんなに凄いもの

はあるか」すると清松は答えました。「これは私の父

の所有物だ」それから、清松の行くところ行くところ

すべてで、「来たる!ナイアガラの滝の所有者の子

息」と、新聞で報じられたということです。北九州シ

オン教会の創立者であった力丸博牧師は、生前良く

言っていました。「国鉄も西鉄も、全部僕が有してい

るんだ。JALも日本郵船も、この世にある者はみん

な僕のものだ。でもそこで働いている人たちにも生

活があるから、自分が利用するときはわずかの金を

払うようにしているし、自分が使わないときでもみ

んなが利用できるように、いつでも営業させている

んだ」ふざけたことを言う牧師だと思って聴いてい

たものですが、力丸牧師は、自分の父は神である。す

べてのものの所有者であるということを、肌で感じ

ていたのでしょう。ですから、開拓伝道の貧しさの中

でも、堂々とおおらかに生きることができたのです。
 



 一方、自分は神のみ前に小さな小さな存在に過ぎ

ないと自覚して、生かされていることそのものに感

謝をして生活をするのです。自分が所有しているもの

で、与えられたものでないものはなく、自分が消費し

ているもので、与えられたものでないものはないと

いうことを、良く自覚することです。神のみ前に小さ

なものであると自覚すると、すべてのことに感謝を

することが出来るようになるのです。すると、自分の

失敗や間違いや罪や嫌な思い出までが、自分を小

さく保ってくれる大切なものであることも分かるの

です。パウロは自分の肉体的欠陥を、自分を謙遜さ

せる大切なものであると自覚していました。天地万

物をお造りになった大きなお方が、私のようなちっ

ぽけな存在を愛し、心を遣ってくださるのです。





 
V. 感謝を伝染させる  


 悲しみやいらいらや、怒りや失望落胆の気持ち

が、知らないうちに隣の人たちに伝染するように、

感謝や喜びの、生き生きした心もまた伝染します。

それに感染した人たちはまた、次に感染させるの

です。それが強ければ、怒りや悲しみの伝染を、食

い止めることも可能です。





 
それだけではなく、私たちの感謝、喜び、平安が

どこからやってくるのかも、伝えていくことが出来

るのです。私たちの感謝は、自分の小ささの自覚だ

けではなく、その小さなものを深く愛してくださっ

ている、大きな神にあることを伝えることが出来る

のです。私たちは言葉で神様のことを伝えると共

に、感謝の気持ちで神様を伝えることが出来るの

です。多くの贅沢なもので囲まれながら、感謝も喜

びもない生活をしている人たちの中にあって、贅

沢ではなくても、質素で単純な生活をしていても、

いつも感謝をしていることが出来ると、夜空に輝く

星のように輝くのです。小さな光ですが、多くの人

の目を奪うのです。




 そのとき、私たちはより効果的に、私たちの感謝

の生活について語り、その根源になっている私たち

の神について、お話をすることが
出来るのです。









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2010年10月05日

それは非常によかった



         それは非常によかった

    創世記 1:31

   


 聖書の最初の書物である創世記の1章31節には、

次のように記されています。

「そのようにして神はお造りになったすべてのも

のをご覧になった。みよ。それは非常によかっ

た。」
  




 これは、神様が天と地をお造りになった物語の最

後の部分、いわばまとめの言葉です。神様はご自分

がお造りになった、すべてのものをご覧になって、

それはとてもよかった。非常によかったとおっし

ゃったのです。




 
 聖書に記されている、天地創造の物語は、今から

およそ3500年も昔に、その当時生きていた人々に

向かって書かれたものです。現代科学の知識にあ

ふれている人々を対象に、書かれたものではありま

せん。ですから、現代科学の知識など一切持ってい

なかった、3,500年前の人々に、最もわかり易い方

法で、天地創造にかかわる大切な事柄、当時の人々

の信仰生活に、最も必要なポイント、信仰の要を教

えたのです。そういうわけですので、現代の私たち

は、今から3,500年前の人々になったような気持

ちで、この部分を読まなければ、聖書の言っている

本当の意味が、理解できません。


 
 

 そういうことを知って、今の箇所を読みますと、神

様は、ご自分がお造りになったすべてのものをご覧

になって、それをとても良いと、判断されたことが解

ります。神様は完全な自然をお造りになったのです。

人造物ばかりがあ
ふれている都会から、一歩はなれ

て、自然の豊かなところに来ると、今でも、神様が非

常に良いとおっしゃった、神様の創造物が、たくさん

目に入ってきます。もちろん、今の自然は、人間の罪

の結果、ずいぶん醜くなってしまいましたが、それ

でも、神様がお造りになった美しい姿を、たくさん

留めています。




 
 自然といえば、私は、日本の自然が、格別に美し

いと思っています。多くはありませんが、いろいろ

な国を回って、それぞれの国の、自然の素晴らしさ

に、感動したものですが、四季折々で変化を見せ

る、日本の自然が織り成す美しさは、特別なもので

す。日本人は昔から、この自然を愛で、自然と一体

になって生きるのを、ひとつの理想としてきたとこ

ろがあります。最近はすっかり破壊されてしまった

とはいえ、まだまだ自然の素晴
らしさは残っていま

す。
 



 青い空、白い雲、緑の木々、どこまでも広がる水

平線、色とりどりの花々、木漏れ日のきらめき、小鳥

たちの歌声、虫たちのささやき。飛び回る昆虫や、

土の中に住む虫、あるいは水の中に住む、さまざま

な生き物までが、みな、自然の不思議を隠していま

す。よく観察すると、ウワー綺麗だな。素敵だな。す

ごいなーと、まさに、驚きと感動がいっぱいです。

このような素敵な自然をお造りになったのが、神

様です。このような、美しい自然、その微妙な調和

を見て、感動しない人はいません。このような素晴

らしいものをお造りになった神様は、素晴らしい神

様です。素晴らしい神様だから、素晴らしいものを

お造りになったのです。




 
 この自然には、素晴らしい神様の素晴らしさ、美

しい神様の美しさ、力強い神様の力強さが、見事に

表現されているのです。人間が作る歌や詩の中に

は、作った人の性格と言うか、性質が表れます。絵

画の中には画家の性格が映されています。神様が

お造りになった自然には、お造りになった神様の性

格、性質が反映されているのです。




 
 私たち人間も、神様に造られた自然の一部とし

て、素晴らしいものです。そればかりか、この自然

を、感動を持って見ることが出来る、目と心を与え

られているのです。先ほど読みました聖書の箇所

の少し前、27節には、「神はこのように、人をご自

身の形に創造された」と、記されています。




 
 人間は、神様の姿にかたどって、創造されたと

いうのです。これは驚くべき事実です。人間は、特

別に、神様の姿に似せて造られたのです。これは

顔や手や足の話ではなく、心と言うか、霊と言う

か、命と言うか、人間の本質の部分が、神様に似せ

て造られたということです。ですから人間はほか

のあらゆる動物たちと違って、神様によって美しく

造られたものを、また神様のように、美しいと感じ

る心を持っているということです。神様は、ご自分

がお造りになった美しいものを、美しいと感動して

喜ぶ、人間をもお造りになり、その美しいと感動す

る人間を、お喜びになるのです。そういう意味で

は、昔から自然に感動して生きてきた日本人は、神

様に喜ばれてきた人々だとおもいます。
 



 また、神様に似せて造られたということは、神様

と心を通わせることが、出来るということです。言

い換えると、人間には、神様を感じる心の部分、本

能があるということです。そのために、すべての人

間は宗教心を持ち、祈りをささげ、礼拝をしてきまし

た。人間とは、まさに、祈る動物のことです。他のど

のような動物も、祈ることはしません。生物学的に、

人間に最も近いといわれる動物も、ペットとして何

千年も人間と共に暮らしてきた犬や猫も、祈ること

はしません。神様に似せて造られてはいないため

に、霊的な存在である神様を感じることが出来な

いからです。
 



 自然の美しさや調和、あるいはその恵みを素直

に認めて、感謝を捧げる日本人の姿は、美しいもの

です。「なにものが おわしますかは しらねども

ありがたさにぞ 涙こぼるる と歌う日本人の姿

は、非常に尊いものです。春には、若葉で覆われる

山々、夏にはさんさんと輝く太陽、秋には豊かな実

り。日本人はその自然の中に神様を感じ、良くはわ

からないまま、崇め、祈りを捧げてきたのです。




 ただ、この日本人がぜひとも知らなければなら

ないのは、「なにごとの おわしますかは しらね

ども」といって 感謝を捧げてきた神様は、実は、

天と地をお造りになった、神様だということです。

その神様は、石でもなく木でもなく、山でもなく海

でもなく、あるいは太陽や月でもなく、それらすべ

てのものをお造りになった、天の神様であるという

ことです。私たちは、知らないまま、神様を礼拝し

続けるのではなく、礼拝の対象をはっきりさせて、

天地をお造りになった、神様を礼拝して行きたいも

のです。「どこのどなたか知りませんが、ありがと

うございます」と祈るのではなく、「天と地を造り、

私たちをも造ってくださった神様。ありがとうござ

います」と祈りたいものです。




  
そのように、天地を創造された神様を礼拝する

とき、私たちはこの神様からの豊かな祝福を、さら

にたくさん受け止めて、感動と、喜びに満ち溢れた

毎日を、送ることになるのです。
  












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2010年10月06日

ルリタテハ



 かからむ 
    
     芋虫あまりに おぞましく
 

          
             たれか知るらん 明日の姿を
 


  しばらく前、我が家の庭にルリタテハが訪れて

きました。少しの間たゆたっていましたが、風に

乗って姿を消してしまいました。タテハチョウ科

の蝶はみなとても美しいのですが、ルリタテハは

その名のとおり、瑠璃色の羽の鮮やかさのために

愛されています。



  私の故郷、北海道にもいました。成体で冬を越

す、つまり冬眠をする蝶として知られています

が、熱帯のフィリピンにも生息します。広く分布

していながら、個体数がすくない上に敏捷に飛び

回り、なかなか捕らえられないために、比較的珍

しい蝶と思われています。
ところが、この色鮮

やかな蝶の幼虫はあまりにも毒々しく、おぞまし

い姿をしています。これを出っくわすと、たいて

いの女性は身を縮めて「キャー」と叫んでしまい

ます。



 わが家の庭にあの蝶が訪れてからしばらくする

と、庭のかから(サルトリイバラ)の葉にたくさ

んの芋虫が這い出したのです。そしてこの芋虫、

毎日のように色を変え、20日ほどでさなぎにな

り、しばらくすると、親と同じ美しい蝶に変化し

ました。いまも、わが家の庭には八匹の幼虫が幼

虫からさなぎになりかけていますので、つぎつぎ

と美しい姿が見られそうです。(芋虫と毛虫は基本

的に同じですが、毛が生えているのを毛虫と呼んでいま

す。ルリタテハの場合はご覧のように毛ではなく、突起

のようです)
。成虫になりたての一匹が、私の指

に泊まっています。



 わが家の庭には、ほかにも今、何種類もの芋虫

がいます。金柑にはアゲハチョウの芋虫、トマト

には良く分かりませんが10cm近い物凄く太い奴

が生息しています。みな、やがてまったく違う姿

に変化して行くことでしょう。
蝶などの昆虫が、

このように変態を繰り返していくように、神様が

お造りになったのです。本当に不思議です。さな

ぎの中で変化するときなどは、全体が一度、どろ

どろの液体になってしまうそうです。



  ところがもっとすばらしく不思議な変態があり

ます。それはわたしたちクリスチャンが体験する

変化です。わたしたちはみな、一度死にます。わ

たしたちの体は朽ち果てます。土葬のとき
 は土に

返り、火葬のときは煙になります。でもそれで終

わりではありません。わたしたちには甦りがあり

ます。クリスチャンは新しい、さらに勝った命に

甦るのです。


 
 そのとき、わたしたちは一大変化を遂げます。

芋虫を蝶に変えてくださる神様は、わたしたちの

体を、もう、病気にも、怪我の後遺症にも苦しま

ない体にしてくださいます。弱いところ、不完全

なところ、痛むところはみな消し去り、完全に作

り変えてくださるのです。
 それだけではありま

せん。わたしたちの心まで完全に作り変えて、醜

い性質、悪い性質を取り除いてくださいます。



 だから甦ったわたしたちは、欲望に悩まされる

ことがありません。憎しみや怒り、嫉妬や猜疑心

に振り回されることもありません。すべてのクリ

スチャンの心は、主であるイエス様の心に似たも

のと変えられるのです。
また、甦りによって身も

心も変えられた私たちは、永遠に生きることにな

ります。



 わたしたちの体は、もはや年をとって弱ること

も、衰えることもないのです。
神様はまた、今わ

たしたちが住んでいる世界をまったく造り変えて

くださいます。今の天と地は滅ぼされ、新しい天

と地が現れるのです。それは天変地異も病もない

完全な調和の世界です。



 その調和の世界に、美しく変えられたわたした

ちが入れられ
、永遠に生きるのです。わたしたち

が変化することは、芋虫が美しい蝶に変化するよ

りも、もっともっと確かなことです。絶対に失敗

も心変わりもしない神様がそのように定め、わた

したちに約束してくださったのです。



 だからわたしたちは、今のこの世界で、どのよ

うな困難なことに出会おうとも、失望も落胆もし

ないのです。わたしたちには確かな未来があるか

らです。

美しいルリタテハの写真、幼虫の写真、さなぎの

写真を挿入しようとしたのですが、うまく行きませ

んでした)






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2010年10月07日

親ばかの神


 「やさしく暖かく、豊かな自然に包まれて生きてきた日

本人には、やさしく暖かく包み込むような神、母なる神

が必要であり、厳しい自然条件の中で生まれたたキリ

スト教の神は、日本人にはふさわしくない」



 こんなコメントを読むことがあります。でも、自然の環

境によって生まれる神が異なるというのは、おかしな見

解です。自然環境が人間の理解に影響を与えるのは

確かですが、自然環境が神を産み出すわけではない

からです。



  確かに、ヨーロッパの人々が理解してきた神には、

厳しい一面が強調され過ぎたところがあるでしょう。彼

らの多くは、数千年にわたって厳しい自然と戦い、陸

続きの異民族と絶え間ない抗争をくり返してきたので

す。だから、ヨーロッパの人々が語る神は日本人に合

わないといわれても、仕方のないところがあるのです。

でも聖書の神は、本当は、まさに親ばかとも言えるほ

どの、優しい神なのです。





  もうずっと前に聞いた話でうろ覚えなのです

が・・・・・・。

 


 若い頃家を飛び出した金持ちの息子が、遊蕩に

財産を使い果たし、知人を騙し、友人を傷つけ、

始めた商売では失敗して多大の借金を残したかと

思うと、詐欺まがいの事件を起こして逮捕され、

ついには執行猶予の期間に強盗をしでかして実刑

をうけるという有様でした。

 



 こんな男でも
40を過ぎて、惚れた女と所帯をも

ち、やっと少し落ち着いた生き方を始めました。

ところが内気だった長男が突然ぐれ始め、
15歳に

なったとき、ちょっとした親子喧嘩が最後、ふっ

と消えてしまったのです。はじめのうちこそ、す

ぐに戻ってくるだろうとたかをくくっていました

が、いつまでも行方知れずのままでした。

 



 このときになって初めて、男は自分が生きてき

た道を振り返って見たのです。自分の息子を失っ

て、同じように息子を失った父親のことを、考え

ないわけにはいかなかったのです。一つひとつの

できごとが、なつかしく思い出されました。それ

ばかりか、良く考えてみると、すっかり尾羽を打

ち枯らしてしまったとき、友人ともいえない年長

の男が、少なからぬ金を黙って貸してくれた。そ

のまま、返すこともなく終わってしまったけれ

ど、あの金は父が出してくれていたに違いない。



 

友人や知人を利用して大きな迷惑をかけたとき

も、訴訟にならずにすんだ。父が手を回してくれ

ていたに違いない。商売で失敗してどうしょうも

ないほどの借金を作ったとき、負債者がどこまで

も追いかけて来ることはなかったのも、父が弁償

してくれたからに違いない。執行猶予の判決を受

けたときも、実刑判決を受けたときも、依頼もし

なかったのに有能な弁護士がついたのは、父の差

し金だったと考えるとつじつまが合う。

 



 居ても立ってもおられなくなった男は、ほとん

40年ぶりに故郷の土を踏み、死の床にある父を

訪ねました。おりよく、こん睡状態から覚めた父

は、手を差し伸べる力もないまま、やさしい眼で

見つめ、ひとこと言いました。「やっと帰って来

てくれたか。お前は私の息子だ」それから再びこ

ん睡状態意陥り、そのまま息を引き取ってしまい

ました。

 



 この父親が、どんな気持ちで息子を待ち続けた

か、息子を失ったことのある人でなければ、分か

らないかもしれません。親と言うだけで、馬鹿な

話です。

 



 ところで、聖書の神はもっともっとひどい親ば

かです。まさにとんでもない親ばかです。自分を

無視し、裏切り、逃亡し続け、あらゆる悪事を重

ねている人間を、自分に似せて造ったというだけ

のことで、愛し続け、跡をたどり、追いかけ、探

し、悪事の「尻拭い」をし続けておられるので

す。あるときは悪態をつき、あるときは嘲笑し、

あるときは罵倒し、あるときはわざと嫌われ憎ま

れることをしでかしながら、どこまでも逆らい逃

げようとする人間を、忍耐の限りを尽くして助

け、救おうとされるのです。

 



 人間と言う動物が、いかに身勝手をし続け、互

いに傷つけ合い、争いあって生きてきたかを考え

てください。愛し合い、いたわり合い、助け合っ

たこともありました。良いことをしようとして良

いことを遣り通すことができず、悪い人間になっ

てやろうと決心しても、悪人になりきれない悲し

いものでもありました。教育が普及すれば人間は

よくなる、科学が発達すれば社会はよくなると言

われ続けて
21世紀になりました。でも20世紀ほ

ど、たくさんの人が殺され、たくさんの人たちが

餓死した世紀はありませんでした。そして、
21

紀は
20世紀よりも良くなる保証はないのです。



 

このように、神を捨て、逃亡し続ける人間が犯

した罪は、神にとって絶対に許すことができるも

のではありません。しかしその罪の結果の刑罰

を、神は独り子キリストに負わせてくださいまし

た。十字架の上でのキリストの処刑は、人間の罪

の刑罰だったのです。神は単に面倒くさくて、人

間の罪を見逃してくださったのではありません。

キリストの命という身代わりの犠牲を払ってま

で、赦すことができるようにしてくださったので

す。

 



 これを親ばかといわずに、何と言うべきでしょ

う。他にどんな表現があるでしょう。出奔した息

子が、どんなに大きな罪を犯し、どんなに落ちぶ

れ、どんなに迷惑をかけ、どんなに逃亡し続けよ

うが、父親は、ただ父親だと言うだけで、息子を

探し出し、助け、救い、自分の許に取り戻そうと

するのです。父親は息子がやってのけたあらゆる

失敗と悪の後始末を、すでに済ませてくださって

います。父親は、もうはじめから息子を赦して、

帰ってくるのを待ちわびているのです。

 



 聖書の神は、どうしょうもない親ばかの神で

す。あきれて物も言えないほどの親ばかです。そ

れなのに、なぜ日本人の多くは、「聖書の神は父

なる神で厳しい神だ。やさしい自然に育まれて生

きてきた日本人には、やさしく包み込んでくださ

る、母なる神がふさわしい」などというのでしょ

う。聖書の神が読めていないのです。聖書の父な

る神は、どんな母なる神よりも優しく、慈愛に富

む神なのです。

 



 聖書の神は人間の罪を問わず、人間の失敗を問

わず、人間の愚かさを問わず、人間の過ぎこし方

を問わず、何も言わずに受け入れ、許し、引き寄

せ、抱き寄せてくださる神です。そのようにする

ことを妨げているあらゆる障害は、神がご自分で

痛みをもって犠牲を払い、すでに取り除いてくだ

さっているのです。罪の代価の支払は済み、汚れ

を清める手段も準備されています。ですから、人

間は何にもしなくて良いのです。ただ神を信頼し

て、「神様よろしくお願いします」と神の許に行

くだけでいいのです。神のことが良く分からなく

てもいい。神のことを初めて聞いただけでもい

い。助けて欲しいとみ許に行く人は誰でも、「よ

く帰ってきたな」と迎えいれられるのです。








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2010年10月15日

離婚?

 


  私はもう老齢年金を受けています。コンピュ

ーターを使いこなせないで悔しい思いをしてい

る、頭の固い種族の一人です。そのような私で

も、キリスト教会(界)の頭の固さというか、時

代錯誤にはため息が出ます。文化というのは地域

や国家という地理的隔たりだけではなく、時代の

隔たりにも大きく支配されています。



 

  先日、取り返しのつかないところまで離婚の

話しが進んでしまった、クリスチャン夫婦の夫

が、悩みながら、旅行先で見つけた教会の牧師に

相談したそうです。ところが話を聞いた牧師は、

彼が聖餐にあずかることを禁止し、再び教会を訪

れることさえもお断りしたそうです。クリスチャ

ンでありながら、離婚とはなにごとかということ

でしょうか。たぶんこの牧師は、自分は聖書の教

えに従っているという確信と、聖書に従う教会を

建てようという意気込みをもっておられるのでし

ょう。でも、時代錯誤もはなはだしいと感じま

す。

 



  このように言うと、聖書の教えは時代や場所

によって変えられるべきではないと、たちまち反

論されそうですが、たとえ聖書の教えそのものは

変わらないとしても、その聖書を理解する人たち

の理解力、背景、体験、そして文化によって、解

釈がずいぶん異なるのです。それは文化に妥協す

るという危険な一面を持ち合わせながらも、実

は、文化の中で聖書を理解し、聖書の教えに立つ

といういう、大切なことでもあるのです。



 

 離婚は絶対にいけない。離婚をする者は教会か

ら破門、離婚をしているものは教会には加入させ

ないなどという取り扱いが、当然だった時代や場

所もありました。ピューリタン信仰やホーリネス

信仰が盛んだった頃のアメリカには、そういう感

覚もありました。あるいはその教えを受け入れた

日本人クリスチャンの大部分は、かつては下級武

士階級に属し、貞操を重んじた儒教の教えで育て

られてきた人々でしたから、同じような感覚を持

っていたことでしょう。



 

  正しかったか間違っていたかは別として、聖

書の教えが、文化の中で読まれ、文化的な適用を

されていたわけです。
21世紀の現代に生きる私た

ちも、当然
21世紀の現代の聖書理解をします。そ

して
21世紀の日本という文化の中で、聖書の教え

に出来るだけ忠実に従おうとします。大切なの

は、その聖書の理解の仕方が正しいか、また適用

の仕方が間違っていないかということです。


 


  聖書はすべて、
2,000年以上も前に異なった

土地の異なった事情の中で書かれたものです。当

然、その教えの大部分は当時の社会状況に向けて

語られたものであり、時代と場所を超越した普遍

的原則そのものが、直接そのまま語られている場

合は非常に少ないのです。したがって、いま聖書

を読む私たちは、まず、当時の社会的状況に合わ

せた教えを通して、その土台となっている普遍的

理念に辿り着かなければなりません。それから、

その普遍的理念を現在の状況に正しく適用するの

です。


 


  これは簡単な作業ではありません。しかしこ

の作業をはしょってしまうと、とんでもない教え

を続けることになり、現代社会にまったく意味を

持たない教えに執着し続けることになるのです。

 



 分かりやすい例を挙げてみましょう。いまから

3500年ほども前に書かれたと思われるレビ記には

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさ

い」という、有名な教えが記されています。そし

て現代では、この教えはあたかも普遍的原則であ

るかのように語られています。つまり、時代と場

所を越えて、すべての人類に与えられているも

の、普遍的人類愛と考えられています。

 



  ところがレビ記をよく読むとそうではないこ

とが分かります。ここで言われている「隣人」と

は、文字通りの隣人であって、せいぜい広げて

も、「イスラエル民族とその中に寄留している人

々」程度であり、敵対している周辺諸民族、脅威

になっている周辺諸国の人々は含まれていないの

です。ですからイスラエル人は、イエス様が引用

したように、「隣人を愛し敵を憎め」言って、隣

人ではない人々、「敵」を想定していたのです。

 



  ただしイエス様は、「隣人を愛する」という

教えよりもさらに高度な、「敵を愛し迫害するも

ののために祈る」という基準をお示しになりまし

た。そして文字通りの隣人という枠を大きく広げ

て、自分以外のすべての人というかなり普遍的に

近い意味を持たせてくださったのです。

 



  もしも現代の私たちが、旧約聖書が教える隣

人愛の枠の中に留まってしまうなら、それは大き

な間違いです。でも、新約聖書の普遍的に近い隣

人愛を、ある特定の状況の中に適用すると、旧約

聖書の教えにもなるということを理解するのは大

切です。一方、現代の私たちの多くは、たとえク

リスチャンたちでさえ旧約聖書の隣人愛に留まっ

ているという、事実を認めるのも大切です。イエ

ス様がお教えになったような、普遍的人類愛には

たとえクリスチャンといえども到底到達できない

からです。

 



  では到達できないと、はじめから悟り、諦め

てしまうのでしょうか。そうではありません。は

じめから不可能だと知りながら、それを追及する

のです。はじめからそんなことは無理だと投げ出

すのではなく、真剣に追及して不可能だというこ

とを身をもって体験し、会得し、理解するので

す。そして自分たちが、神の水準には到達し得な

い罪人であると改めて認め、さらに神の哀れみに

すがり、さらに神の恵みに信頼するのです。する

と、そこに神の赦しが準備されていて、私たちは

神の懐深くに受け入れられるのです。そこで、不

完全であり、神の基準には到達できない者であり

ながら、恵みによって生かされているという感謝

と謙遜の中に生きるようになれるのです。


 


  結婚生活においても同じです。ひとりの男と

ひとりの女が結婚し、最後まで添い遂げるのが、

神の御心であり、結婚の原則であることに疑いは

ありません。人間はそのように造られているので

す。そしてあらゆる困難を乗り越えても、そのよ

うに生きることが、人間にとってもっとも良いよ

うに、本来、造られているのです。


 


  熊本県の出水市には、毎年冬になるとたくさ

んの鶴が訪れます。ある冬のこと、つがいの雌の

ほうが怪我をして、春になっても飛び立つことが

出来なくなってしまいました。雄の鶴は幾度も幾

度も、雌を励ますように翼を広げて見せるのです

が、雌はどうしても飛ぶことが出来ませんでし

た。すべての鶴がシベリアに戻ってしまっても、

雄の鶴は飛べない雌に寄り添い、かいがいしく餌

を運び、何ヶ月も留まっていたそうです。ところ

がとうとう雌の鶴が死んでしまったというので

す。それでも雄の鶴は長い間雌の死骸の周りに留

まっていましたが、やがて諦めたかのように、一

羽だけ北を目指して飛んで行ったそうです。鶴の

夫婦愛の深さに、見守った出水市の人たちは涙し

たそうです。

 



  この話には後日談があります。そのご確か
4

年ほどもして、あの見覚えのある雄の鶴を発見し

たそうです。その傍らには、まだ若い雌の鶴が、

ピッタリと寄り添っていたそうです。それを見た

出水市の人は、だれもが心から喜んだそうです。

自分たちの夫婦のあり方にいたたまれなくなり、

涙した人も、喜んだ人もいたのでしょうね。一夫

一婦の本能を与えられた鶴だからの話です。とこ

ろが、睦まじい夫婦の象徴のように言われている

おしどりは、相手を「とっかえひっかえ」で生活

します。一夫一婦の本能は与えられていないので

す。

 



  人間にも本能があり一夫一婦を望む心があり

ます。ところが人間にはさらに高度な知力と意思

も与えられています。これらが罪によって捻じ曲

げられて、本来与えられた人間としての生き方が

できなくなってしまったのです。どれほど誠心誠

意、結婚生活を保とうとしても、自分の弱さや欠

点、我儘や理解の不足から、離婚しないではおれ

なくなることもあるのです。また様々な社会的要

因や環境の問題によって、結婚を守り通すことが

出来なくなっているのです。


 


  離婚は本来神の御心ではありません。ですか

ら、離婚は罪です。神の御心に反しているので

す。ところが、モーセは離婚を認めています。な

ぜでしょうか。人間の弱さに、神が付き添ってく

ださったからです。いわば、神の妥協です。イエ

ス様も、それを認めておられます。

 



  罪を犯さないでは生きていけないのが人間で

す。それを理解することによって、初めて、本当

の意味で神の救いの必要を悟るのです。クリスチ

ャンになっても同じです。自分は聖書の律法を守

ることが出来ている、立派なクリスチャンだなど

と思っている人は、神の救いの意味が分からない

のです。神の救いを受け、聖霊の助けを受けてい

ながら、自分の不完全さと弱さに泣いて、始め

て、神の憐れみの豊かさが分かるのです。律法は

人を罰するためにあるのではなく、人に救いの必

要性を認めさせ、神の恵みの大きさを理解させる

ためにあって、高い基準をしめしているのです。


 


  現代の社会は、以前にもまして、一夫一婦を

守り、生涯添い遂げることが難しくなっていま

す。神の救いを受けた後でも、それは同じです。

聖霊の励ましがあってさえずいぶん難しいので

す。クリスチャンなのに離婚をするという人を、

教会に来させないようにしたり、聖餐に与からせ

ないようにしたりするのは、「立派な教会の立派

なけじめ」ですが、聖書の教えではありません。


 


  私たちの神は、罪人を救おうとされる神で

す。そのために、キリストを罰することさえして

くださった神です。神が御求めになるのは、キリ

ストが捧げてくださった犠牲に加える、さらなる

犠牲ではなく、憐れみです。モーセの時代、人間

の弱さに付き合って離婚を許してくださった神

は、いまの時代の混沌とした世界に生きる私たち

をも哀れみ、離婚をする者をお赦しくださるに違

いありません。離婚しなければならなくなったク

リスチャンは、自分の至らなさ、弱さ、罪深さを

さらに深く知って、神の恵みの大きさに感謝を捧

げることができるのです。クリスチャンが完全に

なるのは、やがて主にまみえるときなのです。









posted by まさ at 12:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

おおらかな日本の性風俗と教会



  私の住んでいる長崎県は、経済や産業、ある

いは賃金などに関わることでは、常に47都道府

県の最下位に近いところにいます。ところが数年

前、ある統計で、長崎県がダントツに一位だった

ことがあって、目を見張りました。それは
10代の

女性の堕胎率です。しかも良く見ると、私の住ん

でいる佐世保市を除いては、どの自治体もみな平

均に近いのです。佐世保市だけが突出して、長崎

県全体の数字を日本一にしているわけです。確か

に、私の小さな働きにも、それに関わる問題が幾

度かありました。


 


  高校卒業時の女子の性体験率が、東京ではま

だ50%になっていなかったのに、長崎県では

70%近くになっていました。これは今後もます

ます加速していくのだろうと思います。社会にお

ける性産業の隆盛、学校における性教育のあり方

など、たくさんの問題が関係していますが、いま

私が取り上げようとしている問題は、このような

状況の中にあって、私たちの教会はどう対応して

いくかと言うことです。


 


   17
世紀の厳格な清教徒や敬虔派の流れを汲む

キリスト教。あるいは、
18世紀のしっかり者のメ

ソジストの精神を受け継ぐキリスト教。さらに
19

世紀の、「罪罪罪罪」と厳しく罪を糾弾し続け

た、ホーリネスの伝統を引き継いだキリスト教。

それが私たちのキリスト教です。ある意味でそれ

は素晴らしいことでしたが、様々な弊害もありま

した。

 



  なにもかも罪と断定し、排斥して寄せ付けな

いのが、私たちの教会のイメージになってしまっ

たのも、弊害の一つです。なかでも性の問題は

「嫌らしいもの」「汚らわしいもの」「触れては

ならないもの」「隠しておくべきもの」として、

教会は忌み嫌ってきました。明治の時代、下級武

士の倫理を受け継いだ「男女
7歳にして席を同じ

うせず」の道徳は、このキリスト教と「仲良し」

になることが出来ました。そのため、キリスト教

には清廉潔白のイメージが付きまとって来たので

す。

 



  ところが、「男女
7歳にして」の倫理は、も

ともと性に関しては非常に「おおらか」であっ

た、悪く言うと「しまりのなかった」日本の文化

の中では、武士階級の建前として僅かの期間存在

しただけで、深く根を張ったものではありません

でした。ですから、ひとたび上から押さえつける

力がなくなると、たちまちのうちに、元のおおら

かでしまりのない性文化に戻ってしまったので

す。現代の日本の性風俗は、そういう意味ではこ

とさら嘆くべきものではありません。ただ、教会

は保守的です。それに命をかけているほどです。

頑固に自分の伝統を守り続けているために、現在

の日本の性風俗の中にあって、対応できないでい

るのです。

 



  教会が性風俗に対して厳格な立場を保持して

いるのは、悪いことではありません。それは必要

でしょう。しかし問題は、教会が正しい聖書の理

解と解釈に立ってそのようにしているというよ

り、ただ自分たちの伝統を守っているに過ぎない

ことです。もう少し言うと、聖書には確かに性に

対して非常に厳しい教えがある一方、あたかも日

本古来の性風俗のように、「おおらか」で「しま

りのない」面も記されています。そのしまりのな

い性風俗を、厳格な神が許し、赦しておいでにな

ったという事実を見逃してはならないのです。。

 



  現在の私たちの教会の多くが神の厳格さを教

え、自分たちの教会もその神のご意思に従って、

厳格な立場を保持していると信じていながら、現

実には、氾濫する性に関わる問題には対応できず

に、ただ糾弾するだけに終わるか、目を背けて逃

避してしまっているのです。伝統に立つあまり、

本来自分たちが立つべき聖書を横に置いてしまっ

たのです。いま、どれほど多くの日本人が、性に

関わる問題で悩んでいることでしょう。教会に相

談に行って、牧師に叱られ、拒絶された人がたく

さんいます。はじめから牧師には相談できない

と、あきらめているクリスチャンがたくさんいま

す。

 


  伝統を大切にしている教会は、私たちの神が

罪に対しては限りなく厳しい神でありながら、あ

くまでも寛容な神であるということを理解できず

にいるのです。神の厳しさと神の寛容の接点が分

からないのです。伝統的に、神の厳しさを教える

ことが出来ても、聖書に立って神の寛容を教える

ことができないのです。

 


 性は、神によって造られた大切なものです。こ

れをどのように取り扱うべきか。いまの日本の実

情の中で、教会はどのように教え指導すべきか、

おいおい考えて行くことにしましょう。

 

                 つづく







posted by まさ at 09:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

聖書が教える性 (1)



 「聖書の神は、性をどのように見ておられるの

だろう?」 このようなことを考えたり言ったり

すること自体が、そもそもクリスチャンらしくな

いと、白い目で見られそうです。



 

一般に、クリスチャンたちの多くが性をタブー

視して、この問題に触れたがりません。ほとんど

の牧師たちも、これを避けて通ります。ですか

ら、教会で性の問題を扱うことは滅多にありませ

ん。「情欲を持って女を見るものは、すでに心の

中で姦淫を犯しているのである」という、キリス

トの教えの間違った解釈に捉われて、(マタイ
5

2730)性欲があることそのものに罪責感をも

って、うじうじと悩んでいるクリスチャン男性が

たくさんいます。私は、どこの誰かは知らない

「クリスチャン」から、よく、電話相談を受けま

すが、その中の多くは、性の問題、特に性欲の処

理に関するものです。クリスチャン同士で話し合

えないし、牧師に相談すると叱られそうだし、と

いうわけで、声だけでどこの誰かを言わずにす

む、電話相談に頼るようです。



 

私も少しばかり常道を逸した牧師ですので、そ

んな相談にはそれなりの答え方をします。先日

も、「自分はクリスチャンなのに、歳頃の女性を

見ると我慢ができなくなる」と嘆く相談者に言い

ました。もちろん、この場合の相談者は男性でし

た。最近はややこしい相談者もいるため、断りを

入れなければなりません。「イエス様は、右目が

罪を犯すならえぐり出して捨てなさい。右手が罪

を犯すなら切って捨てなさいとおっしゃったのだ

から、そうしたら良いでしょう。ついでにあなた

の男性のシンボルを切って捨てたら、もっと良い

かも知れませんね」 しばらく声も出せずにいた

相談者は、ポツリと言いました。「そうですか・

・・・」



 

そこで、続けて言いました。「あなたにそれが

出来ますか?」「・・・・・。・・・・できませ

ん」消え入るような声が帰ってきました。「そ

う。出来ないでしょう? 出来ないからあなたに

は救い主が必要なんですよ。イエス様が十字架で

死んでくださったのは、あなたやわたしのよう

に、どうしょうもない人間のためなんです。せっ

かくクリスチャンになれたのに、まだ情欲を持っ

て女を見てしまうあなたさえも哀れんでくださる

神様に、感謝しながら生きることです。『ありが

とうございます』と、お礼を言いながら生きるこ

とです」



 

性の問題をことさら避けて通ることは間違って

います。性の問題をことさら罪悪視するのも、正

しくありません。先入観を持たず、聖書を広く読

んでみることです。

 



 聖書には性に関わる出来事や問題が、それこそ

たくさん記されています。避けては通ることがで

きない人間の性(さが)だからです。そこに現れ

てくる私たちの神の、性に対する取り扱いには二

つの局面があります。一方はとてもおおらかで、

穏やかで、緩やかなものです。そしてもう一方は

物凄く厳しく、情け容赦のない、ぴりぴりと張り

詰めたものです。どうも私たちの神様は、情け容

赦なく厳しい神として見られることが多いようで

すが、特に、性の問題についてはそれが極端で

す。



 

聖書の神は完全に聖い神です。そのために、ど

んなに立派な人間の高潔さも、神の前では汚れに

汚れたものです。これについて聖書は、かなりど

ぎつい言い方をしています。それは女性が生理の

ときに用いて汚れた布切れのようだと表現されて

いるのです。当時、女性の生理は汚(けが)れた

ものとして忌み嫌われていましたので、これは強

烈な言葉でした。

 



 それにもかかわらず、自分は立派なものである

と思い込んで高慢な態度をとっている人間を、神

は「お前の聖さは汚れた布切れだ」と、徹底的に

賤しめられたのです。キリストが自他共に高潔な

人と認めるような人物には、峻烈な厳しさをもっ

て対応したのは、彼らに、自分たちの汚れを悟ら

せるためだったのです。性の問題に関しても同じ

です。性に関しての神の厳しさは、人間に罪の深

さを悟らせ、彼らにも、自分たちには神の憐れみ

と救いが必要であると、分からせるための手段で

もあったのです。

 


 一方、キリストは自分の罪を自覚し、嘆き、悲

しむ人には、これまた徹底して優しく、彼らを慰

め、受け入れ、彼らのためにこそ神の救いがある

事を示してくださっています。いまさら彼らに罪

を自覚させる必要はなかったからです。性の問題

で罪悪感を持ち、罪意識にさいなまれている人

に、それは罪だと言う必要はないのです。神は罪

人を救うためにキリストを十字架に付けてくださ

ったのですから、救いはあなたのために準備され

ていますよと、教えて上げればよいのです。



 

神にとっては、どれほど清く、高潔な人間で

も、まったく救いに値しない罪人なのです。また

神にとっては、どれほど醜く汚れた人間であって

も、絶対に滅ぼしたくないと思っておられる愛の

対象なのです。どれほど立派でも、救いに値する

ほど立派な人間はなく、どれほど惨めでも、滅び

に入れたいと願われるほどの罪人はいないので

す。ですから、その片一方だけを強調するのは正

しくないのです。

 



 また、罪の問題の中で、性に関することだけを

特別扱いして、ことさら深刻に取り扱うのは良い

ことではありません。他の多くの罪と同じです。

ただ、人間性に非常に強く繋がっていて、取り扱

いの難しいものであることは事実です。そういう

意味では、注意深い取り扱いが必要なだけです。


 



 いま一つ、明らかにしておきたいのは、クリス

チャンたちの性に関する罪悪感の多くは、自分た

ちの文化に根ざした先入観を、教会の教えである

とか聖書の教えであるとか、勘違いした結果だと

いうことです。あるいは牧師も勘違いして教えて

いるかもしれません。特に、独身の女性牧師の場

合にはその傾向が強いようですが、これにはしょ

うがないという面もあります。


 



 ですから、聖書の教えに立った性の理解が必要

です。まず、聖書は性欲を罪悪視していないとい

う事実に、気付いてほしいものです。たとえば先

にも触れた、「情欲を抱いて女を見る」というキ

リストのお言葉は、正しくは「他人の妻を自分の

ものにしたいという欲望を抱いて見る者は」とい

う意味であり、性欲を非難しているのではなく、

むしろ、所有欲に関わるものです。もちろん、性

欲も関わってはいますが、性欲そのものを罪悪視

するのではなく、性欲を誤った方向に持っていく

ことを語っておられるのです。これはモーセの十

戒の中の教えと共通するものです。(出エジプト

2017) またダビデ王が、部下のウリヤの妻

バテシバを横取りしたときに、受けた神のお叱り

にも通じるものです。神は、他に女が欲しければ

与えたものを、なんでよりによって他人の妻を盗

んだのかとおっしゃっているのです。(サムエル

U
1111215


 

性は本来、神が定められた大切なものです。そ

れが正しく用いられるならば、美しく素晴らしい

ものであり、人間に幸せをもたらすものです。と

ころが、罪に捻じ曲げられた人間性のために、性

が誤って用いられるようになり、多くの混乱を生

み出しているのです。


 

神様は食欲を与えてくださったように、性欲も

与えてくださいました。食欲がなくては、人間は

生きて行けませんし、幸せにもなれません。しか

しこの食欲をコントロールすることが出来なくな

り、誤って用いてしまうと、当人にも周囲の人た

ちにも大きな不幸をもたらします。同じように、

神様は性欲を与えてくださいました。これを正し

く用いているなら、それは人間の幸せのために、

非常に大きな役割を果たすものです。ところが間

違って用いると、大きな不幸と混乱をももたらす

のです。

 



 では、神が人間に性を与えた下さった目的はな

んでしょう。性を正しく用いるとはどういうこと

でしょう。おいおい考えて行くことにしましょ

う。














posted by まさ at 10:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

聖書が教える性 (2)



 歴史が始まってこの方、人間はずっと性の問題

に振り回されてきました。人間性のもっとも奥深

くに関わることだからでしょう。したがって、人

間の罪と救いについて語る聖書にも、性に関係す

る問題がくり返し語られています。ただ、聖書の

記述には、性に関わる出来事の記録が多く、性そ

のものを取り上げて教えるというものはわずかで

す。そのためか、教会はこの問題についてかなり

誤った理解を持ち続けてきました。



 

特に、すでに幾度も述べてきたことですが、日

本の教会の多くが、ピューリタンやメソジストあ

るいはホーリネス系のものである上、儒教の倫理

の受け皿で理解したために、性に関しては、伝統

的に厳格な立場を採ってきたと言えます。これら

の教会の教えは、聖書の教えというよりも、一種

の「キリスト教文化」と考えるべきでしょう。そ

してこの文化は、性というものを、ともすれば恥

ずべきもの、汚らわしいもの、隠して置かれるべ

きものとして取り扱ってきました。そのために、

真正面からこれを取り扱うことが出来ないで来ま

した。



 

一般社会が個人の自由を謳い、性の開放を叫

び、性産業が隆盛を極めるようになっても、教会

はまだ「恐る恐る」という感覚なのです。そのた

めに、現実の問題に対応できず、性の問題に捉わ

れている人たちを的確に取り扱うことが出来ない

でいます。



 

教会がはっきりと理解しなければならないこと

は、性は神によって造られたものであるという事

実です。性は、人間の堕落によって、あるいは罪

によって人間の中に入ってきたものではなく、は

じめから神の創造の一部として存在したことで

す。したがって、性は本来良いものであると考え

なければなりません。人間の知・情・意が、神に

よって与えられたものであり、本来、良いもので

あるのと同じです。問題は、その良いものを誤っ

て用いることです。人間は本来良いものである知

・情・意を間違った方向に用いて、たくさんの悲

劇を作り上げてきました。同じように、本来良い

ものである性を捻じ曲げて使ってきたために、非

常に多くの苦しみを作り出してきたのです。



  一般社会においては、様々な性の取り扱い方が

論じられています。
1960年代のアメリカでは性の

開放が謳いあげられて、小中学校でも具体的な性

教育が行われ、避妊が教えられ、避妊具が配られ

るようになりました。その結果、アメリカでは非

常な性の混乱が起こりました。ところが
1980年代

の終わりになると、アメリカの社会では性に対す

る「保守化」が始まり、いわゆる「道徳教育」が

徹底し、性に関する社会問題はひところの
4分の1

まで減ったという報告もあります。その背後に

は、保守的キリスト教会が真面目に性の問題を考

えて、行動に移したという一面もあります。
 





 色々な意味でアメリカの数十年後を歩んでいる

日本では、アメリカが性に関しては保守化する時

代になって、逆に、アメリカに倣えとばかりに性

の自由化が進みました。性については生物学的に

教えるべきだとか、性は個人の自由に任せるべき

だと主張する「擬似アメリカ文化」の団体が作ら

れ、日本の学校教育にも大きな力を持つようにな

りました。あるいは明治政府に始まる儒教的性教

育からやっと解放されて、日本古来の緩やかな性

観念にもどり、外面だけは近代的な装いを身に着

けたとも言える理現象です。すでにだいぶ前か

ら、小学
34年生頃に図解や人形をつかった性教

育を始め、避妊の方法まで教える学校が多くなっ

ています。ただし、性が人間性の中でどのような

意味を持ち、家庭や社会の中でどのように機能す

るかというようなことには、あまり関心がないよ

うです。そのために、いまの子どもたち、あるい

は若者たちの間では、セックスは個人の自由だと

いう感覚が強いのです。中学生や高校生の間で

も、互いに好きだったら、セックスはしていいと

いうのが普通です。
20歳で性体験のない男女は、

かえって「普通でない」と見られることが多いの

です。



 

こういう日本の現状にあって、私たちの教会

は、聖書の教えに立った性の理解を持って、対応

して行かなければなりません。その第一歩が、性

というものから「汚い」「不潔」というマイナス

のイメージを払拭し、本質的に良いものであると

いう認識を持つことです。その良いものをいかに

正しく、よい方向に用いていくべきかという問題

が論じられ、誤って用いてしまった人や、誤りを

容認している社会にどう対応するべきかが論じら

れるべきです。

 



 性が神によって作られた美しいものであると認

めて、そこから話を進めましょう。聖書は性につ

いてかなりおおっぴらに語っているのですから、

私たちも隠す必要はありません。


 



 神がお造りになったものには目的があります。

当然、性にも目的があります。人間以外の動物の

性は、ごく一部の高等動物を除いては、繁殖のた

めです。そして教会は、伝統的に性を繁殖のため

のものであると理解して、繁殖を目的としない性

行為を積極的に評価することはありませんでし

た。それを端的に現したのが避妊の禁止です。い

まだにカトリック教会では公式に避妊を禁止して

います。それは、繁殖を目的としない性行為を禁

止していることです。避妊というのは性行為の本

来の目的を曲げ、ただ快楽のために用いようとす

ることだと、非難しているのです。



 

確かに、多くの動物の性と性行為からの類推に

よると、繁殖が性の目的であるかのように考え

られます。ただし、それが唯一の目的か、あるい

は第一の目的かと考えると、一般の動物の世界

からも聖書の記述と教えからも、はてなマークが

つくのです。ちなみに、つい最近までは、人間以

外のすべての動物には発情期というものがあっ

て、一定の期間だけ性欲が起こるようになってい

ると言われていました。人間以外のあらゆる高等

動物の性行為は、繁殖のためであると考えられて

いたのです。しかし、サルの仲間を観察してきた

人たちは、発情期以外にも性行為を日常的に行う

サルがいることに気付きました。繁殖とは関わり

のないもので、むしろ「挨拶」に近いものだと考

えられています。


 



 サルの話はどうでもいいといえばどうでもいい

のです。神はそのサルをそのサルとして造り、そ

のサルにふさわしい行動をお与えになったに過ぎ

ません。神は人間にも発情期というものを与え

ず、基本的に、適齢期になるといつでも性行為が

出来るようにお造りになりました。人間が造られ

て間もなく、神は人間を祝福し、「生めよ。増え

よ。地に満ち」とおっしゃったことは、性が繁殖

を目的としていることを強く示唆しますが、人間

に発情期がなくいつでも性行為が出来るというの

は、この祝福に関係があるのかも知れません。




 

ともあれ、性が繁殖を目的としているという理

解は、聖書の教えから言っても誤りではないと認

められます。子どもが生まれたという単純な出来

事を言うのに、聖書はあえて男が女を「知って」

という表現で、性行為があって子どもが生まれた

という事実を、繰り返して記しています。ここか

らも、繁殖に繋がる性行為が重要視されていたこ

とがうかがわれます。ただ、それが唯一の目的で

あると言い切ることができない点に、注意が必要

なのです。









 
posted by まさ at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月31日

聖書が教える性 (3)


  
 性は神がお造りになったものです。ですからク

リスチャンはこれを罪悪視したり、不浄視したり

せず、真面目に、まっすぐに向き合って取り扱わ

なければなりません。特にこれは人間の歴史の中

で、もっとも混乱し、罪悪を生み出し、社会を混

乱に陥れてきた、大きな要因ともなっているから

です。



 
では、真面目に聖書を読む限り、性についての

記述をどのように読み取ることできるでしょう

か。神は、性をいかに取り扱っておられるのでし

ょうか。不充分ながら、調べてみましょう。
  




T.性の目的


 

 神は人間を男と女にお造りになり、「生めよ。

増えよ。地を満たせ」とおっしゃいました。(創

世記
128) これで明らかなように、性の大切

な目的、あるいは機能は、繁殖のためだと言うこ

とができます。動植物の繁殖の仕方は実に多様で

す。でも、いわゆる高等な動植物のほとんどには

性があります。性を持っていながら無性生殖をす

るものもあれば、成長の過程で雄になったり雌に

なったりするものもあります。雌雄同体というの

もあれば、栄養状態で雄にもなり雌にもなるもの

もあります。生物の繁殖は本当に神秘です。とは

言え、たとえば哺乳類のような高等な動物は、み

な、性を持ち性行動で増殖をすます。人間も同じ

ように、性行動によって増殖するように造られて

います。



 
 

 このように観ると、人間の性も繁殖のためであ

ると結論付けてしまいたくなります。ところが、

聖書を見ると、そのようには言えないことがわか

ります。また、人間の性行動を見るとそうではな

いことが分かります。

 



 聖書の記述を読むと、性は繁殖を目的として用

いられているとは言い切れないのです。むしろ、

性は人間の喜び、楽しみとして用いられていま

す。それがちょっと間違うと、快楽のため、欲望

のためとなってしまうわけです。



 

 たとえば、聖書の中にも売春や強姦の問題が論

じられ、いくつもの例が記録されています。これ

は性が、繁殖を抜きにした快楽のために用いられ

て来たことを、聖書も認めていることを示してい

ます。人間は古くから、繁殖のためだけに性を用

いてきたのではないのです。繁殖のためだけなら

ば、神は人間にも、ほとんどの高等動物に与えら

れている、繁殖期をお与えになったはずです。繁

殖期を持たないで、何時でも繁殖行為が可能なの

は人間だけなのか、他にもそのような動物がいる

のか、良く知りませんが、人間は繁殖期を持たな

いで、極めて特殊な性行動をする動物だというこ

とは確かです。



 

 また、聖書が性行為を表現するのに、「知っ

た」という言葉を用いていることには、強い示唆

があるように思います。人間の性行為は「知る」

ことだったのです。知るということが性行為の大

切な目的、あるいは機能だったといえるのです。

知るとは、人間の交わりの中でとても大切な、中

心的な要因です。特に、この知るという行為が男

女の仲で行われることは、男女の非常に深い交わ

りを意味しています。一組の男女が、会話や付き

合いの中で互いに知り合い、精神的なつながり、

心の絆を強くするだけではなく、肉体的にも繋が

って、「知る」という深みの交わりを築き上げる

わけです。



 

 ここに、人間という動物が単に多くの動物と同

様の、ふつうの動物ではなく、特殊な動物である

ことがうかがわれます。人間は肉体と霊とがしっ

かりと結びついた存在なのです。単に動物的な生

命、それを魂と呼ぼうと心と呼ぼうと結構です

が、動物的な知・情・意以上のものを持っている

という証です。聖書を読むと、人間だけが他の動

物と異なった造られ方をしているのに気づきま

す。土を捏ねて形造られ、そこに神の息吹(原語

では霊と同じ言葉)を吹き込まれて、生きる存在

になったのです。人間は霊である神に似せられ

て、霊的な存在ともされているのです。


 


 とはいえ、人間はあくまでも動物です。血と肉

と骨と多くの物質による体を持った存在です。神

に似せて造られてはいても、神のように肉体を持

たない霊だけの存在ではないのです。死後、一時

的に肉体を離れた存在として生きることがあった

としても、やがて甦りのときに完全な肉体を与え

られて、元の、肉体を持つ存在に戻されるので

す。


 


 その肉体的存在でもある人間が、単に精神的

な、あるいは霊的な理解や交流だけによるのでは

なく、肉体的な交わりをも通しても知り合うとこ

ろに、社会を形成する最小単位である結婚が成立

するのです。互いに深く知り合う結婚によって、

社会の基盤が築かれるのです。本来、夫婦間の性

交渉は人間としてのもっとも深い交わりであり、

他のことでは築くことができない性質の交わりで

す。人間の性の営みは、繁殖するという動物的な

目的だけではなく、精神的にも肉体的にも、「一

つ」を形成するための、深く「知り」合う行為な

のです。

 



 人間は、男女が性的にも結合することによっ

て、初めて神がもくろまれた「一つ」になること

ができるのです。「知る」と表現された性行為が

あって、一組の男女が「一つ」と認められる結合

体とされるわけです。それが結婚です。人間は、

やがて天のみ国に迎えられるまでは、つまりこの

世界で生きていく限り、男女が一つとなり夫婦を

基本単位とした世界で生きるのです。そのような

基本単位が不要とされ、繁殖が不要とされる天に

おいては、男女も結婚も存在しなくなるというの

が、イエス様の教えです。

 

 


 姦淫や強姦や婚外交渉の記事がたくさんある旧

約聖書を読むと、「知る」ということが結婚とし

て扱われていることがわかります。たとえ、社会

制度としての結婚は成立しなくても、神の創造の

目的からすると、知ることと結婚は不可分の事柄

なのです。新約聖書のパウロの教えを読んでも、

同様です。パウロは遊女と交わるものは遊女と一

つになると言って、遊女との性交渉が、神の目的

から見ると結婚を成立させることとなると教えて

います。



 
 

 したがって、聖書によると、性交渉は単なる繁

殖の手段ではなく、一組の男女がひとつとして生

きていく上で、欠くことができない交わりを作り

あげる、「知る」という行為なのだと分かりま

す。日常の会話、日常の付き合い、日常のふれあ

いでは到達できない次元での、知ること、より深

い交わりを達成することなのだと理解できます。

結婚とはそのような男女の結びつきなのです。人

間の繁殖は、そのような夫婦間の「知る」行為の

結果として、達成されるべきものだったのです。



 
 

 こうしてみると、聖書によると、性とは結婚生

活のための基本部分を形成するものだと、考えら

れます。結婚とは互いに深く結びつき、協力して

生きていくことです。そこにおいて、知るという

行為が非常に大切な役割を果たすのです。そして

それだけ重要な機能と目的を持った性であるため

に、神は性に快感をお与えになり、性がないがし

ろにされたり、捨て置かれたりせず、知るという

喜びが保たれるようにされたのでしょう。

                   
                 つづく







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