2010年12月07日

聖書が教える性 (5)


  (長い間、ブログを更新できませんでし
  た。多くの読者の方々にご心配をかけた
  ことをお詫びします。単に、とても忙し
  かっただけです。これから、すこしずつ
  書き足していきます)





 売買のための性

 

 売春は人類最古の生業の一つであるといわれる

ように、性の売買は時と場所を問わず、人類の歴

史上ずっと続いてきたようです。聖書にも幾度も

記されていますが、売春婦については創世記34

章31節が最初の記述で、ヤコブの子どもたちが

成人していた当時、売春婦が良く知られていたら

しく、ずいぶん早い時期です。(聖書では、ふつ

う売春婦を「遊女」と訳しています)



 

 聖書を注意深く読むと、性が子孫を残すための

手段として、また、結婚をした一組の夫婦が互い

に深く知り合い絆を強めるための手段として、良

いものとして神に与えられたことは明白です。と

ころが罪に支配された人間は、この性の自然な用

法、つまり神に与えられた用法を誤って、自分た

ちの欲望を満たすために用いるようになってしま

ったのです。



 

 悪いのは性ではありません。性を目的どおりに

正しく用いることができなくなった人間の欲望

と、その欲望を制御できなくなってしまったとこ

ろが問題なのです。また性の目的を見失って、間

違ったことに利用し始めたことが悪いのです。人

間の罪のもっとも根深いところにあるのは、自分

の欲求を抑えられなくなってしまう弱さです。欲

求自体は自然のものです。でもちょっと油断する

と、それは欲望となり、押さえ切れない強い衝動

になってしまうのです。その衝動が特に激しく現

れるのが性欲と言えそうです。



 

 その押さえ切れない欲望を満足させようという

試みが、結婚という社会制度に結びつかない性の

営みであり、なかでも用の東西を問わず広く知ら

れているのが、現代日本では性産業などと呼ばれ

ている売春です。性の快楽を求める欲望は、しば

しば他の感覚的な快楽と結び付けられ、同時に行

われます。昔から、恍惚感を呼ぶことができる深

い飲酒や激しい舞踏、あるいは今で言うドラッ

グ、つまり興奮剤と共に売春が行われて来たとお

りです。

 



 そこにはまた、宗教的恍惚感も容易に仲間入り

することが出来ました。ですから、世界中の多く

の宗教が性的興奮を重要な要素として取り入れ、

秘儀あるいは奥義といわれるものの中に、性行為

を含んできたわけです。日本にも、昔からそのよ

うな宗教がずいぶんありました。特に、ヒンズー

教の影響を強く残した密教と呼ばれる仏教は、チ

ベット、中国、モンゴルとわたり、日本にも真言

密教の一部としてもたらされてずいぶん物議をか

もしました。

 



 聖書に目を向けると、モーセの時代からパウロ

の時代にいたるまで、イスラエル周辺の異邦人の

間では、神殿娼婦あるいは神殿男娼といわれるた

ぐいの、宗教と結びついた性産業が盛んだったこ

とがわかります。そのような中でイスラエル人

は、神殿娼婦や神殿男娼になりことが禁じられ、

売春から得た儲けを神に捧げることも禁じられて

います。



 

宗教の中に性行為が大切なものとして取り入れ

られたのには、他にも重要な理由があります。人

類の多くがまだ農作物を育て、家畜を養って生き

ていたころ、もっとも大切なことは豊穣でした。

彼らの宗教の多くが豊穣を重んじ、豊穣に関わる

性行為を神聖化して行くのも、ある意味で自然の

成り行きでした。またそのようにして生まれた子

を犠牲にして捧げることにより、豊穣のために命

を捧げるという名目になっていたことすらありま

した。聖書の中にも、豊穣を祈願する人身御供を

示唆すると思われる記述が残され、そのような慣

わしに対する、天地をお造りになった神の怒りと

嫌悪が記されています。



 

神は原則的に、性行為を結婚関係の中で行われ

るものとしてお造りになったのですが、強姦があ

ったり女性からの誘惑があったり、原則どおりに

行かないのが罪に陥った人間の世界です。(創世

34239718)その生身の人間たちの姿

を、隠すことなくそのまま記している聖書は、ど

んな名高い小説よりも人間性を深くえぐった、ま

さに読み応えがある書物です。



 

多くの人が勘違いしているようですが、私たち

の神、天地をお造りになり、人間をお造りになっ

た神は、罪を犯した人間を罰することよりも、む

しろ彼らを助けお救いになることに大きな関心を

持っておられます。性に関する罪も同じです。日

本に伝えられたキリスト教は、ともすれば性に関

する罪を厳しく取り扱うようですが、聖書の神は

意外に物分りの良い、優しく懐の深い神なので

す。



 

売春は神に喜ばれないもの、忌み嫌われるもの

です。売春で得たもうけを神への捧げ物にしては

ならないと言われている通りです。ところがその

一方で、神は売春婦に対してもとても哀れみ深い

お方です。売春婦になるまでには多くの苦しみや

悲しみや、人にはわからない辛いことがあること

を、神はご存知です。血筋で言えばイエス・キリ

ストの先祖に当たる、ラハブという異邦人の女は

売春婦でした。そのようなことが起こるのを、神

はあえてお許しになったのです。



 

イエス・キリストは、売春婦たちに非常に優し

く接し、もっとも救いに近い人たちとして、大切

にお取り扱いになりました。キリストは、それが

当時の貴族や宗教家たちから疎まれ、蔑まれ嫌わ

れて、十字架に付けられる原因の一つになること

をご存知だったのに、決して売春婦たちをおろそ

かにはなさいませんでした。



 毅然として性的過ちに陥らない態度と、性的な


過ちに陥った人や、性的弱さを抱えながら一所懸

生きている人に対し、どこまでも優しく付き合う

態度が大切なのです。
 







posted by まさ at 20:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月18日

聖書が教える性 (6)


 

一夫多妻

 

 神が人間をお造りになったとき、男1人と女1

が性的に結ばれて、夫婦になるようにお定めにな

りました。神の人間に対するご計画は、いわゆる

一夫一婦制です。(創世記
21824



 

 ところが、一般の歴史を見ても聖書の記述を見

ても、一夫一婦制はどこでもあまり守られて来な

かったことが明らかです。一夫一婦制が守られな

かったと言っても、そこにはいくつかの形があり

ます。



 

 第一は、社会制度として一夫多妻制を採ってい

る場合です。現代では多くの先進国が一夫一婦制

を採っているために、私たちは一夫一婦が当たり

前だと思っていますが、回教徒の国では一夫多妻

が一般的ですし、回教徒の多い国では回教徒だけ

は一夫多妻が認められているという例もありま

す。また回教徒だけではなくても、独自の文化と

アイデンティティを持っている小部族は、属する

国が一夫一婦制度を採っていても、彼らだけは一

夫多妻が認められている場合も多いようです。私

も、そのような部族の中で働いた経験がありま

す。



 

 旧約聖書を読むとすぐ気付くことですが、イス

ラエルの人々は周囲の人々と同じように一夫多妻

を習慣としていました。神は、元来一夫一婦を原

則として人間をお造りになったのにもかかわら

ず、一夫多妻を許容なさっているのです。それは

罪に陥った人間の道徳心の弱さだけではなく、罪

のために荒れてしまった自然の中で耕作し、(創

世記
31719)生活を営み、社会を機能させて

いく上で、一夫多妻をも認めてやらなければなら

ないところがあったのでしょう。これは弱い人間

への神の歩み寄りです。

 



 産業がある程度発達し、生活が豊かになり、女

性にもそれなりの生活力が認められるようになっ

た社会では、女性の地位だとか権利だとか平等だ

とかいう問題が、大きく取り上げられました。も

ともと、神は男女を平等にお造りになったのです

から、それはそれでよいことですが、社会制度が

未発達で、生産性が低く生活も厳しかった時代や

文化では、男尊女卑とも受け取られる一夫多妻

も、やむをえなかったと言えるのです。

 



 第二は、制度としては一夫一婦制を採っていな

がら、実際生活の上では、一夫多妻制になってい

るという場合です。実際のところはこれが非常に

多いと言えます。以前に、神が結婚とお認めにな

るのは、性交渉の成立だとお話したことがありま

すが、それを思い出してください。たとえ制度的

には結婚していなくても、性交渉が成立すると神

の本来の目的からすると、それは結婚と認められ

てしまうということです。(創世記
11824

Tコリント
616

 



 ただし、旧約聖書の律法を読むと、人間の罪深

さから来る弱さのために、この点においても神が

歩み寄ってくださっているところが、そこかしこ

に見ることができます。たとえば、モーセを通し

て与えられた律法によれば、結婚前の処女が男に

騙されて性交渉を持ってしまった場合、それは必

ずしも制度的結婚に結びつかなくても良いように

決められています。(出エジプト
221617

また、強姦の被害者も結婚したとは認められませ

んでした。(申命記
222529 この律法から

推し量ると、性的な問題に対して律法を実際に適

用するに当たっては、かなりの幅が認められてい

たと考えられます。

 



  また国の制度としての結婚と、事実上の結婚が

あります。たとえば現在の日本では、いわゆる同

棲があります。以前には足入れ婚という習慣も、

かなり多くの土地で行われていました。子どもが

できて、あるいは跡取りができて、始めて、結婚

が成立したと考えられるのです。このような土地

柄においての性道徳あるいは性に対する感覚は、

「男女七歳にして席を同じうせず」の、国家に強

制された性道徳とはかなりかけ離れたものでし

た。明治から昭和初期にかけての男女教育は、徳

川時代の武士階級に向けた儒教教育の名残に過ぎ

ないのです。ですから、日本の歴史の大部分で、

性に対する感覚はとても緩やかでおおらかなもの

だったのです。

 



  三行半(みくだりはん)を手にした女は、自由

に別の男と結婚することができました。三行半と

いうのは、ふつう考えられているような、夫が嫌

になった妻を追い出すための手段ではなく、妻が

夫から解放されて、自由に新しい男を物色するた

めの許可証のようなものだったのです。江戸時代

の銭湯がみな男女混浴であったと聞いて、驚く人

が多いのですが、日本は実におおらかだったので

す。どこの世界でも、制度としての結婚はしてい

なくても、事実上結婚していると認められる場

合、あるいは社会通念上結婚と認められた場合

が、たくさんあったのです。



 

聖書を読むと、基本的に、神は男女の性交渉を

結婚の成立と見做しておられたとしても、社会的

には結婚に至らない場合を認めておられることが

分かります。現実には処女ではない独身女性が、

結構存在したのです。寡婦となった女性、離婚さ

れた女性、無知のために騙されたりして性体験を

してしまった女性、強姦の被害者となった女性な

どです。また、男性側にも似た存在があったこと

でしょう。このような人たちに対して、厳しい一

夫一婦制を押し付けて、二度と結婚生活が出来な

くなるようにするのは、神の律法の目的ではあり

ませんでした。神が喜ばれるのは犠牲ではなく憐

れみです。神は案外、罪深い人間生活の酸いも甘

いもご存知の方なのです。

 



  制度が整った社会では、結婚が公に認められる

ためには婚姻届というものを出し、それが受理さ

れて結婚が成立するのですが、制度が整っていな

ければ、結婚の事実が周囲の人々に認められれ

ば、それが結婚として受け入れられました。イス

ラエルの律法でもそのようなものでした。男女が

交わって結婚が成立したと認められたのです。多

分、未婚の男女が一緒に一つの天幕に入ること

が、結婚の成立と見做されていたと考えられま

す。(創世記
2467



 

日本でも、男女の性交渉が成立することを結婚

と認めていた土地では、「聞き届け役」が襖の隣

で初夜の成立を確認して、親族一同、めでたしと

祝ったという風習が続いていたと言われていま

す。プイバシーを重んじる現代の私たちからする

と、なんとも珍妙な風習ということになります

が、性を淫卑なものと考えずに、かえって人間生

活の基本で大切な一部分と認め、また結婚を単に

男女の結びつきとも考えず、血族社会や地域社会

の重要な出来事をして認めて、祝うという習慣と

考えると美しいものです。

 



  一般に、ピューリタン的傾向を持っている宣教

師たちが、一夫多妻制度の土地に行って起こした

色々な問題が、記録に残っています。クリスチャ

ンになった男性に、第一夫人以外の夫人をすべて

離婚させるように教えたために、離婚させられた

夫人たちはみな生活ができずに、子どもたちもろ

とも路頭に迷う羽目になってしまったとか、そん

なことにはしたくない夫たちと、離婚させられた

くない妻たちが、キリスト教にこぞって反対した

とか、聖書の教えは信じるけれど、宣教師は信じ

ないと宣言する人たちが出てきたと言うことで

す。



 

5人の妻を持っていた族長が宣教師を嘲笑しま

した。「西欧のキリスト教国では、何回も離婚し

ては結婚をくり返している男女が沢山いるようだ

が、それは時間差一夫多妻、あるいは時間差一妻

多夫に過ぎないではないか。俺たちを批判するの

はおかど違いもはなはだしい」



 

私たちはできる限り、神の人間創造の原則に近

い生き方をすべきです。しかし、罪のために弱く

なった人間が作り出した、この混乱した社会に生

きる人々に、もう少し寛容な態度を持ちたいもの

です。神様のように、罪深い人間生活の酸いも甘

いも知って、それらの人たちがより神に喜ばれる

生き方ができるように、願い、助けてあげるべき

なのです。







 
posted by まさ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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