2011年01月02日

聖書が教える性 (7)

 


性と差別


 

 人間の歴史を見ると、どこにおいても差別がありました。神はあらゆる意味で人間の間に違いをお造りになりました。本来それは多様性、バラエティであったはずなのですが、すぐさま、人間の罪とそのために混乱した社会のために、差別となって現れてきました。それらの差別の中で、もっとも深刻なものの一つが性差別です。旧約聖書の記述や律法を読むと、性差別はいたるところに見られます。



 

 キリスト教には性差別がないだろうなどと、善意の先入観をもって旧約聖書から読み始めると、いたるところに一夫多妻の話が出て来る上、なにかにつけ女性たちが酷く差別されている状況に驚きます。ちなみに、アブラハムと周辺の女たち、ヤコブを取り巻いた女たちを見るだけで、充分でしょう。それは当時の人たちの間違った習慣だろうなどと、また善意をもって読み進むと、神に与えられた律法までが、また、明らかに男性に有利なように作られているのです。たとえば律法は、明らかに父系社会を保てるように結婚を定めています。一夫多妻は認められていますが、一妻多夫は認められていません。旧約聖書は性差別に満ちた書物です。キリスト教の神は、性差別を認めておられるように考えられます。



 

ところが新約聖書まで読み進むと、まったく異なっているのに驚きます。キリストの教えも行動も、かなり女性を大切にしたものです。ともすれば男性に有利に用いられた離縁状も、キリストは禁止しておられます。(マタイ53132 一夫一婦が基本であることも、認めておられたと読み取ることができます。(マタイ1946)さらにパウロの教えに至ると、男女平等の感覚はもっと進んで、(参照・Tコリント7116、エペソ52233 少なくても原則的には、男も女も平等であるということがはっきりと語られています。(Tコリント111112) とは言え、実際生活への適用においては、パウロもかなり女性に差別的な習慣を認めています。(Tコリント143335、Tテモテ2915



 

これらのことから、聖書に出てくる性差別の容認は、当時の社会の中で広く行われていた性差別に対する神の歩み寄り、神を離れて無知と弱さの中で生きる人間に対する、神の妥協であることが分かります。性差別がまったく行われていない白紙状態のところで、性差別をしてはいけないと教え、それを実効させるのはあまり難しいことではありません。しかし、すでに社会そのものが性差別の上に成り立っているとしたら、性差別を取り除くことは、たとえ男女平等の原則を適用することであるとしても、社会を混乱させ、多くの人間を不幸に陥れます。それよりも、性差別の実情を許容しながら、穏やかに性差別を取り除くほうが現実的です。



 

キリストが離婚を禁じたとき、「モーセは離縁状を渡せと命じているではないか」とそれに疑問を投げかけた人々に対し、モーセが離縁状を渡せと命じたのは、その当時の人々の心がかたくなだったために、それを許したのだと説明しておられます。神はモーセを通して律法をお与えになったとき、心のかたくなな人々に歩み寄って、社会の機能が停止しないように配慮してくださったのです。一夫多妻制にしても、あるいは奴隷制度にしても、神は現実にそのような制度の上に動いている社会を無視して、原則を生のまま適用するようなことはなさいませんでした。だからと言って原則を放り投げてしまったのではありません。あくまでも原則を保ちながら、社会の実情に合わせてその原則を適用しておられるのです。



 

パウロが「女は教会で黙っていなさい」などと差別的なことを言ったのも、あくまでも、社会的実情に適した教えとして語ったのです。奴隷は奴隷として主人に仕えるように命じているのも同じことです。人口の半分以上が奴隷であったと考えられる社会で、奴隷制度は差別である、神のみ心に反していると筵旗(むしろばた)をあげても、それはただ反社会的行為として潰されてしまうだけです。とは言え、そのような状態の中でも、パウロは原則を放棄せず、かえって原則に言い及ぶことによって、ゆったりと力強い、奴隷制度廃止運動を呼び起こす原動力を据え、男女平等の大きな流れを作り出す、源流を掘っていたのです。



 

 私たちは現在の私たちの社会的通念から、歴史の出来事を裁いてしまいます。しかし、ある特定の社会の中で起こったことは、まず、その社会情勢の中で裁かなければなりません。現在の私たちの社会情勢だからこそ、多くの不公平が許されています。真面目に生きている人が損をするような仕組みがたくさん残されています。世界中で、毎年1千万ほどの人たちが飢えで死んでいるかと思うと、片方では大富豪家たちが食い散らかしています。それが、立派な現代の法律で擁護されているのです。時代が変わってから今の世界を振り返ってみる人たちは、この世界をどのように判断するでしょう。



 

 その贅沢に喰い散らかしている人たちの多くは、プロテスタントのキリスト教を信奉している人たちであり、クリスチャンが少ない日本人もその仲間に入っていることに、痛みを感じないでしょうか。

 

                            つづく





 
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2011年01月21日

聖書が教える性 (8)

 

キリスト教と離婚

 

 キリスト教は離婚を禁じていると思い込んでいる人が多いようです。確かに離婚を禁じている教会が多いのは事実ですが、禁止したからと言って、離婚が無くなるわけではありません。世の中はそんなに単純ではありませし、その混迷した世界に与えられている聖書の教えも、そんなに単純明快ではあり得ません。キリストが離婚に言い及んだ記事を読んでも、それはかなり複雑であったことがわかります。(新約聖書マタイの福音書5313219311 また、使徒パウロの記述を読んでも、それは明らかです。(コリント人への手紙第一71017



 

 聖書の教え、つまり、キリストやパウロや、古くはモーセの律法などを読むとき、気をつけなければならない点がいくつかありますが、その一つは、これらの教えや律法が、罪を犯して惨めな状態にある人間と、その社会に対して与えられているということです。

 



 車や複雑な電気機器を購入すると、マニュアルが付いてきます。どのように使ったらよいか、「あまり親切ではなく」説明してあります。でもあれはまだ新しく、磨り減ってもいない、故障もしていない完全な製品に対する説明で、何か不具合を生じたら修理を頼むように書かれています。

 



 ところが聖書は人間と神との正しい関係を始め、人間同士の関係、社会生活について書かれていて、ある意味で、新製品のマニュアルのようでありながら、大きな違いがあるのです。それは聖書が、断ち切られた神との関係の中、混沌とした社会に生きなければならない、罪によって破壊された人間に対し、そのような実情の中でどう生きるべきかと、教え導く書物であるということです。 

 



 聖書は、一方では神のように完全に生きることが、本来の人間の生きる道であることを教えながら、他方では、それは絶対に不可能であり、この世界に生きる限り、不完全さと罪の中に悲しみ苦しみながら、生きなければならないことを教えているのです。

 



 結婚に関しても、聖書は本来の結婚のあり方がどのようなものであったか、わずかに示していることは示しているのですが、むしろ、断ち切られた神との関係と、壊れた人間関係、そして罪に牛耳られている人間の性質という、現実に対処した結婚のあり方を教え、その中で、離婚の問題も取り扱っているのです。

 



 ですからそれは、油が切れ部品が磨り減り、金属疲労を起こしてしょっちゅう故障する車でも、あそこをとっかえ、こっちをひっかえ、なんとかより良く走らせようと努力するようなものなのです。そんな車の苦労は、今の日本ではあり得ませんが、私がフィリピンの山岳奥地で宣教師をしていたころ、とても道とは言えないような道を
40万キロも走った三菱ギャランは、そのようにして使っていたのです。車を設計した人や実際に製造した人たちが見たら、腰を抜かすような対応と修理をしながら使っていたものです。

 



 聖書は、過酷な悪路の中で長年にわたって無理やりに乗り回された、車の使い方を教えた指導書のようなものなのです。ですから、本来離婚などはあり得なかった人間が、離婚せざるを得ないような状況の中で、いかに離婚を少なくし、より良い結婚を作り上げ、より幸せな家庭を築き、より平和で住みやすい社会にしていくかということなのです。

 


 
 それに対し、離婚は絶対に駄目、離婚は聖書の教えに反している、クリスチャンが離婚をするのは神に対する裏切りである、離婚したものは教会から追放するというような主張をするのは、「分かっていないなー。(ため息)」ということです。どんなに真面目に生きていても、離婚しなければならない状況に、追い込まれることがあります。どれほど立派なクリスチャンでも、離婚が避けられないこともあります。それが浮世です。そのような人たちを裁くのが、聖書の与えられた目的ではありません。

 



 人間は神を神として認めず、神の祝福を失った中で、なおも神を求めて生きずにはおれません。罪のために、本来の理想的人間像は失ってしまいながら、自分の良心に従い、理想に駆られて生きようとします。それは、たとえ罪を犯して神から離れてしまったとは言え、神によって造られたときの「神に似せて造られた人間」本来の姿を、ことごとく失ってはいないからです。

 



 そのような人間に対して、神は聖書を与えてくださったのです。人間が、いくらかでも本来の人間の生き方に近く生きることができるように、そして、本来の神との関係に近づくことによって、神からの新たな命と力をいただいて、まったく新たに作り変えられた者となり、永遠に生きる望みを持つことができるようにと、聖書は与えられているのです。

 


 聖書を、単なる「してはならない」「やってはならない」の羅列のように考えるのは、深刻な間違いであり、大きな損失です。






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