2010年09月30日

救いに伴って私たちに起こったこと (1)




救いに伴って

     
私たちに起こったこと 


1.       救いに関連した多くの聖書的表現 


 聖書には救いに関わる言葉がたくさん記されて

います。ちょっと思い起こすだけで、
10くらいは

誰にでも挙げることができるはずです。神を信じ

る、義とされる、キリストを信じる、義と認めら

れる、新しく生まれる、神の国に入る、召される

罪が許される、神の国に生まれる、霊によって生

まれる、神の子となる、永遠の命を得る、罪に死

ぬなどなど、まだまだたくさんあります。



 

 これらの言葉を、私たちはかなり自由に使いこ

なし、あるていどは、ひとつひとつに関わる意味

を理解していると思います。救いという出来事は

非常に大きく、広く、深く、多面性があり、とて

も一つや二つの言葉で表現することが出来ないた

めに、多くの言い方があるのです。一人の人を前

から見ただけではあまりよくわかりません。後ろ

から見るとまったく別人のような場合もありま

す。左から見、右からも見、斜めからも見、上か

らも下からも見、あらゆる方角から見ることによ

って、より詳しく実物の像に近づくことが出来る

わけです。



 

 同じように、救いを「義とされる」という角度

から見ると、信仰が強調される義認論が展開さ

れ、法廷用語が用いられることになります。「召

される」という方向から見ると、神の絶対権威、

神の圧倒的な恵みの働きが強調されます。「キリ

ストを信じる」という面から語ると、人間の自由

選択、人間の意志が強調されます。時にはそれら

が互いに矛盾すると思われるほどに、先鋭化され

て議論されてきたほどです。「神の子とされる」

という言い方から考えると、父と子の愛と深いつ

ながりが浮き彫りにされ、「罪の力からの開放」

という表現を取り上げると、クリスチャン人生の

広々とした自由が謳いあげられます。

 



 ですから、救いに関わる多くの表現や用語があ

ることは、救いの真の姿を明らかにするために、

非常に重要です。とはいえ、多くの場合それらは

まるでジグソウパズルのようにてんでばらばら

で、うまい具合に繋がりません。この小文では、

救いに関わる多種多様な用語のすべてを取り扱う

わけにはいきませんが、普段あまり取り上げられ

ることがないいくつかの表現に注意を向け、それ

らを少し整理して考えてみたいと思います。それ

は、救いの教会論的側面、また聖霊論的な側面と

いえるものです。



 2.       共同体感覚で聖書を理解する


 

私たちはふつう、キリストを信じたらキリスト

に繋がるものとなるといい、キリストの霊、聖霊

を宿すものとなるといいます。そして、キリスト

に連なり、聖霊を宿した一人ひとりは洗礼を受け

ることによって、キリストのみからだである教会

に連なり、神の家族の一員と認められると教える

人たちがたくさんいます。

 



 キリストを信じたとき一人ひとりの人間は、内

住の聖霊の力によって新しい歩みをはじめ、永遠

のいのちに向かって地上の旅を始めるといわれま

す。その地上の旅の過程で、同じようにキリスト

を信じたものたちが、信仰の共同体である教会を

形成し、互いに愛し合いながら旅を続けると考え

ます。



 

 このような考え方は、個人主義が高揚された西

欧で形成された神学の、特徴と言えそうです。そ

してその西洋的神学が、いまや西欧化のひとつと

して世界中の教会を席巻しているわけです。とは

いえ、いつまでもそのような神学を許しておいて

良いはずがありません。それは個人主義という色

眼鏡で見た救いの神学、教会の神学そして聖霊の

神学です。そこでは神と個人の関係に焦点を当て

る義認論が非常に重要視され、信仰そのものが自

分と神の関係で説かれ、神の前における個人とし

ての自分が重要視されるのです。それらのすべて

が間違っているとは言いませんが、聖書の教えと

は決定的に違うところがあるのです。

 



 私たちはいま西欧化しつつある日本に住んでい

ます。ですから、知らず知らずのうちにかなり個

人主義的な考えを受け入れ、何の疑問も持たずに

それでよいと思っています。そのために、個人主

義的神学にもあまり疑問を感じなくなっていま

す。しかし、つい最近まで私たちが培われてきた

文化は、個人主義ではありませんでした。共同体

というものが生き、力を持っていた文化なので

す。たとえいまや西欧化に流され、個人主義に覆

い隠されてしまったかに見えるとしても、共同体

感覚はいまだに根深く私たちの文化と精神の中に

息づいているのです。

 



 そのような環境に育まれた私たちには、聖書が

語る救いと教会と聖霊についても、共同体という

理解と感覚を持って読むことができるのです。も

ちろん、だからといって必ずしも正しい理解がで

きるというものではありませんが、ただ、少なく

ても個人主義的神学に対する警告と、個人主義的

神学に対抗する意見の提示ができ、より多角的な

理解に繋がるはずです。何しろ聖書そのものは、

個人主義文化の産物ではなく、共同体文化の中で

生み出されたものなのですから。

 

 聖書が教える救いという出来事を見ると、たし

かに、そこには個人主義的感覚もあります。聖書

は、神のみ前における個人の尊さを認めているの

ですから、当然のことです。西欧人たちに、人が

信仰によって救いに入るのは、あくまでもその人

個人の信仰によるのであって、ほかの誰の信仰に

よるのでもないなどと教えられても、たいていの

日本人は、なるほどと感じてしまいます。ところ

が、ちょっと考えるとおかしいのです。人間とい

うものは空白の中に生まれ、個人で生きてきたの

ではありません。社会があり、家族があり、様々

な共同体の中で育ってきたもので、感じ方も考え

方も物事の判断の仕方も、決定的に共同体の影響

を受けているのです。完全に他人から隔離された

個人などというものはあり得ません。



 

 アブラハムは、家長としてあるいは族長として

自分の判断で神に従いました。彼の信仰は個人の

決断です。しかし彼の一族郎党はどうだったでし

ょう。彼ら一人ひとりの信仰が問われ、一人ひと

りの判断に任せられたのではありません。ピリピ

の獄吏は社会的地位のある家長として、自分の家

族はもちろんの事、使用人や配下の者、さらには

その家族にさえ絶大な力を持っていました。彼と

一緒にバプテスマを受けたすべての人間が、一人

ひとり個人的な信仰理解を持ち、一人ひとりが信

仰の決心をしたなどと考えるのは現実的ではあり

ません。個人の信仰ではないのです。



 3.       キリストのみからだに
         
バプタイズされた 



 クリスチャンが救われたとき、多くの出来事が

同時に起きました。神の国に入ったとか、永遠の

命を得たとか、神の子となったというようなこと

です。これらの出来事には例外がありません。私

は救われたけれど、神の国には入っていませんと

か、神の子にはなっていませんというのはありえ

ないのです。

 



 このように絶対に例外のない出来事の一つに、

キリストのみからだにバプタイズされたという出

来事があります。あらゆる背景と差異を超えて、

すべてのクリスチャンはキリストのみからだにバ

プタイズされているのです。これはTコリント
12

13節の教えですが、日本人には少々説明が必要

です。筆者この説明を他の文章でも何度かやっ

ていますが、ここでもう一度かんたんにくり返し

ておきましょう。

 



 日本語に翻訳されている公的な聖書は(個人用

ではなく、礼拝会などの公的な場で用いられるこ

とを目的として翻訳された)どれも、「すべての

クリスチャンは、一つのからだになるようにバプ

テスマを受けた」という意味の翻訳になっていま

す。すべてのクリスチャンはバプテスマ、すなわ

ち洗礼と呼ばれる儀式を受けたことによって、教

会に連なるものとなった。あるいは、すべてのク

リスチャンがバプテスマを受けたのは、一つのか

らだと呼ばれる教会に連なるためであると、理解

できるのです。

 



 ところがもともとは、つまりギリシャ語の聖書

では、「すべてのクリスチャンは、一つのからだ

にバプタイズされた」という意味であって、すべ

てのクリスチャンは、ひとつのからだである教会

に、どっぷりと浸されていると理解されるべきな

のです。私たちすべてのクリスチャンが、例外な

しに、つまり洗礼を受けていようがいまいが、礼

拝会に出席していようがいまいが関係なく、キリ

ストのみからだである教会にバプタイズされた、

すなわちどっぷりと浸けられているのです。しか

もそれは、洗礼のような人の手によるバプテスマ

ではありません。あくまでも聖霊ご自身による、

キリストのからだへのバプテスマなのです。

 


 それはまた、パウロが人の手によらないキリス

トの割礼と呼んだバプテスマです。(コロサイ
2

1112)キリストのみからだへのバプテスマは

聖霊によるものであり、人の手を通さないバプテ

スマだからです。そのキリストのみからだへのバ

プテスマは、また同時にキリストへのバプテスマ

でもありました。この議論を進めるときのパウロ

にとって、キリストのからだとキリストの間に違

いがないからです。キリストのみからだは、キリ

ストそのものでもあったのです。(Tコリント
12

12)そしてこのバプテスマは、キリストと共に

葬られるバプテスマです。
(ローマ634)です

からキリストと共に葬られるとは、絶対に、洗礼

を受けることではありません。

 



 バプタイズとは、染物をするときに染料を溶か

した液体の中に、布をどっぷりと浸す行為を言い

ます。洗濯のために着物を水に浸すことだとも言

えるでしょう。これはキリストのみからだに、単

に貼り付けられたとか、加えられたとか、結び付

けられたというよう意味より、かなり親密なつな

がりを連想させますが、それだけではありませ

ん。もっと深い意味があるのです。



 

なぜなら、すべてのクリスチャンがバプタイズ

されたキリストのみからだ、すなわち教会は、聖

霊の満ち満ちておられるものだからです。(エペ

123 教会というのは人々です。人ではなく

人々です。その人々がキリストというお方を救い

主として信じている、あるいはキリストにあって

天地創造の神と和解した人々の集まりです。一つ

の場所に集まるという意味の集まりではなく、共

に助け合って生きる共同体であるという意味の集

まりです。



 

キリストを救い主として信じる人々の共同体

は、キリスト在世当時からすでに存在していたの

ですが、その頃はまだ教会とはなっていませんで

した。それは教会になる前の共同体で、ちょうど

生まれる前の胎児のような存在でした。教会が誕

生したのはキリストが甦り、天に帰り、聖霊を送

ってくださったとき、すなわちペンテコステの日

に聖霊が降臨し、教会に宿り始めてくださったと

きのことです。キリストを信じる人々の共同体

は、聖霊を内に宿すことによって、初めて教会と

なったのです。

 



 聖霊の降臨と内住によって、教会は単に同じ信

仰と同じ人生観と同じ目的を持った人々の集まり

ではなく、聖霊と呼ばれる神ご自身に絆となって

いただいて、固く結ばれた共同体、いな、むしろ

聖霊という命、命の源に同じように生かされ、同

じ命を共有している共同体となったのです。



 

キリストのみからだである教会は、ペンテコス

テの日に誕生しました。その日にキリストを信じ

る人々の集団は、キリストの霊である聖霊を宿す

ようになったからです。聖霊を宿す、つまり神の

霊である聖霊がお住みになるのですから、教会は

神の家とも神殿とも呼ばれています。ペンテコス

テの日に生まれて以来、教会は聖霊が満ち満ちて

おられるものです。すべてのクリスチャンは、こ

の聖霊が満ち満ちておられる教会、キリストのみ

からだにバプタイズされました。

 

くり返しますが、ここでパウロが語っているこ

とは、洗礼を受けることによって正式に教会員に

なるというような、教会の組織管理の問題や信徒

の教会員登録の問題ではありません。私たちがク

リスチャンになったときに、たとえ目で見ること

はできなくても、体で感じることも出来なくても

私たちに起こった霊的な出来事、霊的な事実、霊

的現実について述べているのです。多くのクリス

チャンは自分たちに何が起こったのか、気付かな

いままでいます。五感という感覚に頼って生きて

来たものにとって、霊的な出来事に気付くことは

困難だからです。



 

たとえ気付かれないままであったとしても、霊

的なレベルではすべてのクリスチャンは、キリス

トのみからだである教会にバプタイズされ、神秘

的な結合、霊的で有機的な結合をしているので

す。また、いまほとんどのクリスチャンが、五感

を通しての体験とすることが出来ないままであっ

たとしても、霊的な次元では、聖霊の中にどっぷ

りと浸されているのです。その霊的事実をもっと

も良く表すことができる言葉、すなわち、物質の

世界を五感で感じる日常の言葉で表現したのが、

「バプタイズされる」だったのです。液体の中に

どっぷりと浸けられるという意味の言葉だったの

です。

 



 キリストのみからだにバプタイズされ、一つの

からだと呼ばれる共同体に属する前のクリスチャ

ンたちは、それぞれ異なった背景を持つ異なった

個人でした。彼らの間にはあらゆる種類の差別や

敵意があり、数え切れないほどの障害があって、

人間としての暖かい交わりを妨げていました。彼

らがたとえ一箇所に集まったとしても、共同体を

作ることは不可能でした。あまりにも多種多様で

雑多な人々であるために、人為的な組織を作り、

規約を整え、署名捺印をもって誓約し、宣誓式を

もってこれに加入するというのも無理なことでし

た。しかし、聖霊が満ち溢れるキリストのみ体に

バプタイズされることによって、契約書でも署名

でも規約でもなく、キリストの命、聖霊の作り出

す交わりによって、もっと親密で血の通った有機

的な共同体となりえたのです。



 

有機的共同体であるために、それはキリストの

み体という表現で語られたのです。有機的である

ために、すべての信徒たちはいかに小さくても大

きくても、共に同じ命をいただき共有するもので

す。強いものと弱いものが痛みを分け合いながら

生きる共同体であり、弱いものが強いものの強さ

を生かして喜び、醜いものが美しいものの美しさ

を際立たせて喜ぶことが出来るようになっている

のです。強いものは自分の強さを持って、弱いも

のを助けることができる恵みに感謝して誇らず、

美しいものは自分の美しさを持って、醜いものを

被うことができる恵みに感謝して誇らず、ひとつ

のからだとして生きるのです。

 



 聖霊によっての交わりを体験し続け、聖霊によ

って生かされ続けるうちに、クリスチャンたちの

内には、キリストを信じた体験の共有意識、キリ

ストの贖いの共有意識、キリストの赦しの共有意

識、キリストの愛の共有意識が芽生え、だんだん

大きく育って生きます。同じ感謝と喜びに満たさ

れ、キリストの愛を持って愛する心、キリストの

赦しをもって赦す心が萌えだし、強くたくましく

育っていくのです。聖霊がそれを助けてくださる

のです。その結果、すべての部分が自分のために

存在するのではなく、からだ全体のために存在し

ていることを自覚して喜ぶのです。キリストのみ

からだと呼ばれる共同体は、弱いもの小さいもの

醜いものつまらないものが、決して無視されるこ

とはなく、かえって、それぞれの特質が最大限に

生かされる共同体なのです。

 
                         つづく








posted by まさ at 20:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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