2010年09月30日

救いに伴って私たちに起こったこと (3)


 7.           共同体としての成長 
 

 ところで、クリスチャンの成長というものは、

個々のクリスチャンがそれぞれ独自に成長するも

のではありません。孤高のクリスチャンを作るの

ではないのです。隠遁の聖人を作るのでもないの

です。むしろ、共同体として、教会全体としての

成長こそが成長の目標です。キリストの満ち満ち

た身丈にまで成長し、頭なるキリストに達するよ

うになり、愛のうちに建てられることを期待され

ているのは、個人のクリスチャンではなく、共同

体としての教会なのです。(エペソ書
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 自分だけが非常に立派なクリスチャンになるの

ではなく、自分と一緒に生きている弱いクリスチ

ャン、幼いクリスチャン、わがままで、自分勝手

なクリスチャンも、一緒に成長することが大切な

のです。彼らがいくらかでも強くなり、少しでも

成長し、わずかでもわがままが抜け、ちょっとで

も自分勝手が消えるように、自分の成長の速度を

落としてもいいのです。極端に言うと、そのため

には、今日の聖書の勉強の時間を縮めても、明日

の祈りの時間を削っても良いのです。
 




 中学生のときの全校マラソン大会で、私たちの

クラスはビリケツになりました。女子が最低だっ

たのです。もともと丈夫でなかった女の子が途中

でくじけそうになったのを、みんながかばい、励

まし、力づけ、最後までひとかたまりで走り続

け、小一時間も遅れてゴールしたのです。その日

の終わりのホームルームで、担任の先生が、お前

たちはビリケツだったけれど、最高のクラスだと

言いました。次の日の朝礼で、私たちのクラスの

女の子たちは、校長から特別賞を貰いました。そ

のあと、健康優良児でもあったクラス委員の女の

子が、くじけそうになった女の子に小さな花束を

手渡しながら言いました。「○○ちゃんがいてく

れたから、私たちも一つになって頑張れたのよ。

○○ちゃんありがとう」

 



 これはキリストの愛も、キリストのみからだも

知らない、異邦人の女の子たちの中で起こったこ

とです。私たちの教会にも、この程度のことは起

こって欲しいものです。強いものが弱いものを助

けてあげる機会を与えられ、感謝をするのです。

弱いものがいなければ、強いものの強さは何の役

にも立ちません。

 



 すべての人が、それぞれの生まれや背景を越え

て、キリストにあって一つとなった教会は、互い

に弱さをかばいあい、醜さを被いあい、悲しみと

喜びを一緒にしながら生きるのです。それがキリ

ストに似ることです。もちろん、このようなこと

を実際に行うのは、容易なことではありません。

教会にはあらゆる意味で、弱者の世話をする部門

をつくるべきです。一つの地域教会では無理なら

ば、いくつかの教会が協力し合うべきです。すべ

ての弱者に効果的に手を差し伸べるのは不可能だ

としても、そういう意識を作り上げ、見過ごしに

しない、無視しない態度を持つべきです。

 



 エルサレムの教会は経済的な弱者に対して、積

極的に手を差し伸べ、そのための組織作りにも乗

り出しました。パウロはその精神を他の教会にも

広げ、国と地域を越えた教会間の助け合いにしま

した。現在の私たちの教会は、大方、経済的には

恵まれていません。だからといって、互いに助け

合うことが出来ないと決め付けるべきではありま

せん。たとえば、国や公的機関の福祉厚生につい

てよく知っている人がいれば、その知識を大いに

活躍させてでも助け合うべきです。知恵や立場を

生かして助け合うべきです。

 



 弱い人たちの中には、弱さに甘えている者もい

ることでしょう。そのような人を励まし、諌め、

教え、指導することも大切です。パウロは厳しく

叱りながら励まし指導しています。厳しく指導す

ることによって立ち直る人には厳しい指導、厳し

さにはついて行けないほど弱い人には、その弱さ

に合った取り扱いも必要です。日本の教会は、日

本人の性格上、厳しく取り扱うのが苦手のようで

す。臭いものには蓋でごまかし、問題を大きくし

て解決できないところまで行ってしまってから、

相手を責めて自分は安全圏に避難するというのが

一般的です。きちっと厳しく取り扱い、しっかり

と優しく抱き寄せる対応が必要です。

 



 三位一体の神は、天地創造の前、永遠の昔か

ら、三位の中で互いに愛し合う、愛の神として存

在しておられました。そしてその愛の表現として

愛の対象となる人間をお造りになりました。人間

は神の愛の対象として、神に似せて造られまし

た。つまり愛し合うべき存在として作られまし

た。神は、すべての人間が神だけを愛し慕うよう

にはお造りにならず、人間同士が愛し合うように

もお造りになりました。人間同士が互いに愛し合

うのを、神はお喜びになるのです。罪のために互

いに愛し合うことが出来なくなった人間は、愛に

よって贖われ、愛によって作り変えられ、愛によ

って結び合わされて、キリストのみからだに属す

るようになって、再び互いに愛し合うものとされ

たのです。




 
8.共同体の目的 



 神が人を救い、キリストのみからだにバプタイ

ズし、聖霊を飲むものとして聖霊の内住を体験さ

せ、愛し合うことが出来るようにしてくださった

のは、救われた人々が神の力によって幸せになる

ためだけではありません。神が幸せにしようとし

ておられるのは、限られたわずかの人々だけでは

なく、もっと多くの人々です。

 



 神はあらゆる異なった人々を召して救いに入

れ、その人々のあらゆる能力や資質をその人々も

ろともに贖い、清めてご自分のものとして、キリ

ストのみからだに組み入れてくださいました。そ

の上、それらを有機的に機能させて、キリストの

み体の一部とされた人々が、互いに助け合ってキ

リストの恵みの中に成長していくようにしてくだ

さいました。



 

とは言えキリストのみ体は、決して自分の益だ

けのために存在するものではありません。教会は

教会のために、教会の自己充足のために存在する

のではないのです。キリストは神の姿を捨ててこ

の世に降り、十字架の贖いを通して私たちを救っ

てくださいました。いまや私たちは、そのキリス

トに倣うものとなり、そのみからだである教会に

バプタイズされているのです。キリストのみ体

は、キリストが地上を後にされてからも、キリス

トの霊である聖霊を宿して、その聖霊の力によっ

てキリストのお働きを継続するのです。

 



 キリストの救いのみ業を継続することこそ、教

会という共同体がこの世に存在する目的、存在理

由です。キリストのみ体にバプタイズされたとい

うことは、この目的、この存在目的のために、キ

リストのみからだの一部として組み込まれたとい

うことです。キリストのみからだが継続するキリ

ストのお働きとは、人々の救いです。教会は人々

の救いのために働くのです。それこそが教会に与

えられている使命です。

 


 ですから私たちは、私たちの救いと幸せのため

に召されたのではありません。それ以上の使命の

ために召されているのです。それは世界の人々の

救いです。私たちははじめから、世界の救いの働

きのために救われたのです。また、世界の人々の

救いは世界の人々の幸せのためだけではありませ

ん。それ以上の使命があるのです。それは、世界

中の人々が神を崇め、神を礼拝するためです。私

たちの救いの究極の目的は、すべてのものの造り

主である神の栄光を、心と声を一つにして褒めた

たえることです。

 



 いわゆる伝道者として召されたり、牧師として

召されたりした人たちだけが召されたのではあり

ません。本来、召しとは救いの一面です。救われ

た人すべてが召されているのです。福音宣教とい

う使命を遂行するために、召され、教会にバプタ

イズされているのです。教会の中では、それぞれ

の賜物、能力、資質、力、背景などに応じて、教

会全体のためにそして使命遂行のために尽くすの

です。

  



 くり返しますが、私たちが救われたのは、私た

ちのためだけではありません。私たち以外の人た

ちの救いのためです。それは愛の神の愛のみ業、

罪人の救いの働きに役立つということです。そし

て、すべての膝が神のみ前でかがめられ、すべて

の口が神の栄光をほめたたえるためです。究極的

に、私たちは神の栄光のために存在し、神の栄光

を崇め、神の愛の中に喜び、神を慕いながら、互

いに愛し合って生きるのです。私たちが救われた

ということは、そのような共同体の中に入れられ

たということなのです。













posted by まさ at 20:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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