2010年10月02日

神の妥協 私たちの妥協



神の妥協 わたしたちの妥協 
     ピレモンへの手紙 


 一般的に、クリスチャンは妥協をいさぎよしとしま

せん。どこの国のクリスチャンも、妥協を嫌う頑固さ

があるようです。多分、ローマ人への手紙12章2節の

「あなた方はこの世と妥協してはなりません」とい

う言葉が、間違って理解されたのだと思います。「こ

の世」が、世のなかの習慣とか文化という意味に取

られてしまったのでしょう。





 いつでも人の顔色をうかがって、大切なところで

妥協してしまう日本人の中にあって、かたくなに自

分の信仰を守って、日本の習慣や文化に逆らい通す

クリスチャンは、ある意味で立派です。でもそのため

に、キリスト教全体のイメージが、独りよがりの反社

会的宗教と思われるのは残念です。




 クリスチャンたちのかたくなさは、彼らの潔癖さ

からくるものです。そしてその潔癖さは、神の潔癖

さからくると思われています。聖書の神は完全に聖

い神、潔癖な神で、穢れや罪はたとえ爪の垢ほど

でもお嫌いになるからです。




 ところが、聖書の神は、聖く潔癖な神でありなが

ら、妥協の神でもあるのです。私たちクリスチャンも

また、聖く生きようとする反面、妥協の生き方もしな

ければならないのです。妥協と言う言葉の定義の

問題だと言ってしまう前に、もう少し聖書に目を注

いで見ましょう。





 
T. 神の妥協  


 確かに、神の厳しさは聖書のいたるところに見る

ことができます。でも神は、罪深い人間を赦し、ご自

分のみ許に引き寄せるために、キリストを犠牲として

捧げてくださった神です。妥協できないから、キリス

トを犠牲にしなければならなかったと見るか、罪と

穢れと妥協してでも罪人を受け入れたいと願い、キ

リストの処刑という大きな犠牲をさえ、忍んでくださ

ったという言うべきかです。




 人間は、神に定められた道をはずれ、とんでもな

い方向に進んでしまいました。でも、神は人間を見捨

てず、殺さず、滅ぼさず、あくまで救おうとして、妥

協しながら付き合い続けてくださったのです。



 神は、一夫一婦であるように人間をお造りになり

ました。ところが人間は、たちまち性的に乱れ、一夫

多妻の社会を造り出してしまいました。離婚は神の

御心を外れていました。しかし神は、罪のための人

間の弱さを哀れみ、これをもお許しになりました。
 




 あらゆる人間を基本的に同等にお造りになって

いながら、神は人間たちが差別を設け、奴隷制度

を作り上げて行くのを許し、奴隷制度の社会さえ受

け入れてくださいました。パウロがピレモンへの手

紙を書いたときも、奴隷制度が社会の土台でした。

今の日本では、中小企業で働く人々がいなければ

社会が成り立たないように、奴隷がいなければ当

時の社会は機能しなかたのです。




 
U. ピレモンの手紙の背景 

 
 ピレモンはパウロの働きによって救われたクリス

チャンでした。多くの奴隷を抱える金持ちだったと

考えられます。その奴隷の一人がオネシモという若

者でした。ところが彼はどういうわけか、主人に迷

惑をかけて逃亡し、流れ流れて遠く離れたローマに

辿り着いたのです。ところがそこでもさらに悪事を

重ねて捕らえられ、牢に閉じ込められたようです。

どうやら彼はその時パウロに出会い、教えを聞き、

キリストを信じるものになったらしいのです。奇遇と

いえば奇遇、奇跡といえば奇跡です。



 キリストを信じたオネシモは、名前の通り「役立つ

人間」に変わり、かいがいしく年老いたパウロの世

話をしていたようですが、その信仰がある程度成

長したときに、パウロは彼を遠くの主人、ピレモンの

許に送り返すことにしました。



 当時の逃亡奴隷に対する処罰は厳しいものでし

た。たとえ主人もクリスチャンになっていたとは言

え、逃亡奴隷を許すことは社会制度の崩壊につな

がり、奴隷の持ち主たちの間の約束事があり、簡単

に許すことが出来るようなものではありませんで

した。世事に通じていたパウロがそれを知らないは

ずはなく、オネシモもそれを忘れたことはないはず

です。それなのに、パウロは彼を主人の許に送り返

し、オネシモは途中でまた逃亡することもなしに、

主人の許に行ったのです。




 
V. パウロの妥協 


 パウロは、すべての人間が神の前に平等である

と教えています。当時の世界にあっては、まさに時

代を先取りした驚くべき教えです。ですから当然、

奴隷制度が基本的な人権を無視したものであり、

神の御心に反していたことも知っていました。とこ

ろが、「奴隷制度反対」を叫んでムシロ旗を挙げて

戦うようなことはしなかったのです。一方では、奴

隷制度を根本的に覆すような教えでピレモンを諭

し、オネシモを愛する兄弟として迎えるように勧め

ながら、もう一方では、その悪い制度に従ったので

す。パウロは妥協したのです。



 これは悪い社会の中に生き、邪悪な制度やしきた

りの中で生活しなければならない、クリスチャンた

ちのあり方を示しています。また、異教文化のなか

で生きていかなければならない、日本のクリスチャ

ンたちの採るべき態度を示しています。正面切って

悪と戦うだけが、クリスチャンの戦いではないので

す。悪と妥協しながら、悪と戦う生き方が大切です。

悪い制度の中で、神のみ心、本来の人の生き方を求

めて生きるのです。



 いま、私たち社会に奴隷制度がないのは幸いで

す。とはいえ、それに類似したものはたくさんあり、

それよりもっと悪いものも少なくありません。たと

えば、資本主義の自由経済社会があります。自分た

ちの利益のためにこの制度を創り、正当化し、欲望

をむきだしにしてこれを悪用する人々のために、い

ま世界では、子供だけで13万人以上の餓死者が

出ているのです。



 自分たちの手では、大根一本、麦一粒も生産せ

ず、ねじくぎ一本も作り出すことをしない人たちが、

コンピュータの画面を操作するだけで世界の金を動

かし、貧しい国の人々をますます貧しくし、死に追い

込んでいるのです。アフリカの人々を狩り出して、奴

隷として売った人々の非人道的行為は、歴史のなか

で厳しく非難されています。しかし現代の金融界の悪

は、奴隷制度に勝る巨悪でなくてなんでしょう。


                                    
 私たちはいま、この制度の中で、この制度に妥協

しながら生きて行かなければならないのです。しか

も、自分の信仰において、自分の信念の行動におい

ては、断じて妥協しない生き方をしなければならな

いのです。



 非キリスト教国日本で生きている私たちは、毎日

異教の習慣や偶像に取り囲まれ、戦いをしなければ

なりません。でも、いま私たちが戦わなければならな

い最大の敵は、そのようなものではありません。むし

ろ、私たちの教会の中でも活発に活動している、「富

の神」です。キリストが「富と神に同時に仕えることは

できない」と仰ったときの「富」です。」これは単なる

富ではなく、「富の神」を意味する言葉です。金を追

い求めるうちに誰しも陥る、拝金主義の危険を教え

てくださったものです。




 パウロは「むさぼりが、そのまま偶像礼拝である」

と、厳しく拝金主義を叱責しました。ところがいま、偶

像を壊せ、仏壇を焼けと騒いでいる戦闘的キリスト教

会の多くが、この富、「マモン」と言われる神と仲良く

なり、これを崇拝して止まない、偶像礼拝の罪を犯し

続けているのです。繁栄の福音などと言うまがい物

を、福音と言いくるめる神学さえあるほどです。世界

中で、年間1000万を遥かに越える餓死者を出し続け

ている、現代最大の偶像礼拝にどっぷりと浸りきっ

ているのです。



 この、富の神と呼ばれる偶像と戦うことこそ、い

ま最も重大な戦いです。しかも私たちは、その神を

崇める社会制度の中に生きながら、戦わなければ

ならないのです。その富の神に目と心を奪われてし

まった、私たち自身とも戦わなければなりません。

どのように戦うべきか、奴隷制度の中に生きなが

ら、その制度に対してムシロ旗を立てて戦うこと

をせず、かえってその制度の土台である差別の精

神を打ち壊すように、愛をもって戦ったパウロの

ように、上からの知恵が必要です。
 

                  おわり





posted by まさ at 09:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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