2010年10月03日

緊張の中の信仰



緊張の中の信仰
マタイ24:1〜25:46 


 夜中の2時、まさに丑三つ時(うしみつどき)に、ある牧師に電話

がかかってきました。「先生。どうかいま、私に説教をしてくださ

いませんか!?」いつも面倒を起こしている女性の信徒です。

「えっ、 こんな真夜中にですか?」 「はい。どうしても眠ら

れないんです。でも先生のお説教を聴いていると、いつもとても

良く眠られるものですから、先生どうかよろしくお願いいたし

ます」 




 もうひとつ・・・・・・。説教を聴く信徒たちが、みんな眠りこけるの

に悩んだ牧師が、どうしてそうなるのか、自分の説教を録音し

て聞いてみることにしました。月曜日の朝、書斎に閉じこもっ

てしばらく・・・・・・・。奥さんが10時のコーヒーをもってドアを開ける

と、牧師は録音を聞きながら、すっかり眠り込んでいました。




 クリスチャン信仰は平安の信仰です。うちの教会でも、牧師の

説教は平安に満ちたものですから、信徒たちはやすらかに居

眠りをします。そんなことを気にしていては、牧師は務まりませ

ん。日ごろ一生懸命働いて、せっかくの休みにも教会までやって

来る、それだけで立派な信徒です。何しろ雷に打たれて死んだ

としても、永遠の命をいただいているのですから、心配は要りま

せん。




 とはいえクリスチャン信仰は、のんびりと平安に過ごすだけの

ものでもありません。緊張という一面も非常に強いのです。そ

れが、マタイの福音書24章と25章のテーマです。なぜ緊張する

かと言うと、イエス様がいつお帰りになるか分からないからで

す。天にお帰りになったイエス様は、再びおいでになるのです。

そして私たちを天に引き上げてくださいます。私たちはこの

世の雑踏と苦しみを下に見ながら、イエス様と共に、天がける

のです。そして私たちより先に死んでいた人たちも甦らされ、

空中で一緒になり、喜びを分け合うのです。
 



 ここで大切なのは、イエス様が戻って来られるときも、忠実な

信仰を保っていることです。怠けたり、さぼったり、忘れてしまっ

てはいけないのです。クリスチャンに与えられた大切な働きを、

なおざりにしてはならないのです。そのようなクリスチャンは、

天に引き上げられない可能性さえあるからです。(最終的には

救われますが)




 マニラの聖書学校に、怠け者の学生がいました。授業はサボ

るし作業には出てこない。朝寝坊して食事に顔を見せないの

も、いつものことでした。ある日の朝の食堂で、突然、校長が宣

言しました。「今日は授業を休んで、みんなでピクニックに行きま

す!!」ずいぶん前から職員たちと一緒になって計画し、食料

もたっぷりと準備し、学生たちを驚かせてやろうと、秘密にして

いたのです。




  すっかり舞い上がった学生たちは、準備されたバスに乗り込

んで出発してしまいました。日が高く上って暑くなり始めたこ

ろ、のこのことベッドから這い出した、あの怠け者の学生はびっ

くり仰天しました。広い校舎も庭もガランとしてだあれもいない

のです。瞬間、彼は大声で泣き始めました。自分が惰眠を貪って

いる間に、イエス様がおいでになって、学生も、先生も、みんな

天に引き上げてしまわれた。自分だけが残されたと思ったので

す。
 



 主がおいでになるとき、忠実に信仰を保ち、熱心に主に任せら

れた仕事を遣り通しているところを見られる人は幸いです。そし

てこの、主がおいでになる日、再臨の日はいつか分からないの

です。今日かも知れないし、1000年後かもしれません。新約聖

書全体を通して、主の再臨に対する期待と、緊張が流れている

ので
す。




 この主の再臨という信仰は、インドまでもたらされ、仏教にも

影響を与えたと思われます。(仏教の最初の経典、阿含経が完

成したのは、はなはだ不確実ですが、キリストの時代より200

ほど後の事というのが有力な説です)その阿含経に弥勒信仰の

芽生えがあるのです。でも、弥勒菩薩がおいでになるのは56

700万年後、あるいはそれを10倍にした567000万年後と

いうことですから、緊張感はありません。




 クリスチャンは死を恐れません。しかし、主であるイエス様が

いつお帰りになって、私たちを迎え入れてくださるかという、

緊張と期待感を持ち続けるのです。




 わたしたちは、ときどきICA(英語部)と合同のパトラックラン

チをします。これは単なる食事会ではありません。再臨の主に

よって天に挙げられた私たちが、天においてイエス様と一緒に

いただく食事会を思い起こすものなのです。天の食事にはどん

な料理が出るのでしょう。時代と民族、国家と文化によって食事

は違います。尾頭付きの鯛とヒラメの刺身が出るか、カブトムシ

の幼虫のムニエルが出るか。考えるときりがありません。天のみ

国では、みんな、どんな食べ物でも美味しく食べることが出来

る人に、変えられるのだと思いますよ。









posted by まさ at 10:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。