2010年10月07日

親ばかの神


 「やさしく暖かく、豊かな自然に包まれて生きてきた日

本人には、やさしく暖かく包み込むような神、母なる神

が必要であり、厳しい自然条件の中で生まれたたキリ

スト教の神は、日本人にはふさわしくない」



 こんなコメントを読むことがあります。でも、自然の環

境によって生まれる神が異なるというのは、おかしな見

解です。自然環境が人間の理解に影響を与えるのは

確かですが、自然環境が神を産み出すわけではない

からです。



  確かに、ヨーロッパの人々が理解してきた神には、

厳しい一面が強調され過ぎたところがあるでしょう。彼

らの多くは、数千年にわたって厳しい自然と戦い、陸

続きの異民族と絶え間ない抗争をくり返してきたので

す。だから、ヨーロッパの人々が語る神は日本人に合

わないといわれても、仕方のないところがあるのです。

でも聖書の神は、本当は、まさに親ばかとも言えるほ

どの、優しい神なのです。





  もうずっと前に聞いた話でうろ覚えなのです

が・・・・・・。

 


 若い頃家を飛び出した金持ちの息子が、遊蕩に

財産を使い果たし、知人を騙し、友人を傷つけ、

始めた商売では失敗して多大の借金を残したかと

思うと、詐欺まがいの事件を起こして逮捕され、

ついには執行猶予の期間に強盗をしでかして実刑

をうけるという有様でした。

 



 こんな男でも
40を過ぎて、惚れた女と所帯をも

ち、やっと少し落ち着いた生き方を始めました。

ところが内気だった長男が突然ぐれ始め、
15歳に

なったとき、ちょっとした親子喧嘩が最後、ふっ

と消えてしまったのです。はじめのうちこそ、す

ぐに戻ってくるだろうとたかをくくっていました

が、いつまでも行方知れずのままでした。

 



 このときになって初めて、男は自分が生きてき

た道を振り返って見たのです。自分の息子を失っ

て、同じように息子を失った父親のことを、考え

ないわけにはいかなかったのです。一つひとつの

できごとが、なつかしく思い出されました。それ

ばかりか、良く考えてみると、すっかり尾羽を打

ち枯らしてしまったとき、友人ともいえない年長

の男が、少なからぬ金を黙って貸してくれた。そ

のまま、返すこともなく終わってしまったけれ

ど、あの金は父が出してくれていたに違いない。



 

友人や知人を利用して大きな迷惑をかけたとき

も、訴訟にならずにすんだ。父が手を回してくれ

ていたに違いない。商売で失敗してどうしょうも

ないほどの借金を作ったとき、負債者がどこまで

も追いかけて来ることはなかったのも、父が弁償

してくれたからに違いない。執行猶予の判決を受

けたときも、実刑判決を受けたときも、依頼もし

なかったのに有能な弁護士がついたのは、父の差

し金だったと考えるとつじつまが合う。

 



 居ても立ってもおられなくなった男は、ほとん

40年ぶりに故郷の土を踏み、死の床にある父を

訪ねました。おりよく、こん睡状態から覚めた父

は、手を差し伸べる力もないまま、やさしい眼で

見つめ、ひとこと言いました。「やっと帰って来

てくれたか。お前は私の息子だ」それから再びこ

ん睡状態意陥り、そのまま息を引き取ってしまい

ました。

 



 この父親が、どんな気持ちで息子を待ち続けた

か、息子を失ったことのある人でなければ、分か

らないかもしれません。親と言うだけで、馬鹿な

話です。

 



 ところで、聖書の神はもっともっとひどい親ば

かです。まさにとんでもない親ばかです。自分を

無視し、裏切り、逃亡し続け、あらゆる悪事を重

ねている人間を、自分に似せて造ったというだけ

のことで、愛し続け、跡をたどり、追いかけ、探

し、悪事の「尻拭い」をし続けておられるので

す。あるときは悪態をつき、あるときは嘲笑し、

あるときは罵倒し、あるときはわざと嫌われ憎ま

れることをしでかしながら、どこまでも逆らい逃

げようとする人間を、忍耐の限りを尽くして助

け、救おうとされるのです。

 



 人間と言う動物が、いかに身勝手をし続け、互

いに傷つけ合い、争いあって生きてきたかを考え

てください。愛し合い、いたわり合い、助け合っ

たこともありました。良いことをしようとして良

いことを遣り通すことができず、悪い人間になっ

てやろうと決心しても、悪人になりきれない悲し

いものでもありました。教育が普及すれば人間は

よくなる、科学が発達すれば社会はよくなると言

われ続けて
21世紀になりました。でも20世紀ほ

ど、たくさんの人が殺され、たくさんの人たちが

餓死した世紀はありませんでした。そして、
21

紀は
20世紀よりも良くなる保証はないのです。



 

このように、神を捨て、逃亡し続ける人間が犯

した罪は、神にとって絶対に許すことができるも

のではありません。しかしその罪の結果の刑罰

を、神は独り子キリストに負わせてくださいまし

た。十字架の上でのキリストの処刑は、人間の罪

の刑罰だったのです。神は単に面倒くさくて、人

間の罪を見逃してくださったのではありません。

キリストの命という身代わりの犠牲を払ってま

で、赦すことができるようにしてくださったので

す。

 



 これを親ばかといわずに、何と言うべきでしょ

う。他にどんな表現があるでしょう。出奔した息

子が、どんなに大きな罪を犯し、どんなに落ちぶ

れ、どんなに迷惑をかけ、どんなに逃亡し続けよ

うが、父親は、ただ父親だと言うだけで、息子を

探し出し、助け、救い、自分の許に取り戻そうと

するのです。父親は息子がやってのけたあらゆる

失敗と悪の後始末を、すでに済ませてくださって

います。父親は、もうはじめから息子を赦して、

帰ってくるのを待ちわびているのです。

 



 聖書の神は、どうしょうもない親ばかの神で

す。あきれて物も言えないほどの親ばかです。そ

れなのに、なぜ日本人の多くは、「聖書の神は父

なる神で厳しい神だ。やさしい自然に育まれて生

きてきた日本人には、やさしく包み込んでくださ

る、母なる神がふさわしい」などというのでしょ

う。聖書の神が読めていないのです。聖書の父な

る神は、どんな母なる神よりも優しく、慈愛に富

む神なのです。

 



 聖書の神は人間の罪を問わず、人間の失敗を問

わず、人間の愚かさを問わず、人間の過ぎこし方

を問わず、何も言わずに受け入れ、許し、引き寄

せ、抱き寄せてくださる神です。そのようにする

ことを妨げているあらゆる障害は、神がご自分で

痛みをもって犠牲を払い、すでに取り除いてくだ

さっているのです。罪の代価の支払は済み、汚れ

を清める手段も準備されています。ですから、人

間は何にもしなくて良いのです。ただ神を信頼し

て、「神様よろしくお願いします」と神の許に行

くだけでいいのです。神のことが良く分からなく

てもいい。神のことを初めて聞いただけでもい

い。助けて欲しいとみ許に行く人は誰でも、「よ

く帰ってきたな」と迎えいれられるのです。








posted by まさ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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