2010年10月15日

離婚?

 


  私はもう老齢年金を受けています。コンピュ

ーターを使いこなせないで悔しい思いをしてい

る、頭の固い種族の一人です。そのような私で

も、キリスト教会(界)の頭の固さというか、時

代錯誤にはため息が出ます。文化というのは地域

や国家という地理的隔たりだけではなく、時代の

隔たりにも大きく支配されています。



 

  先日、取り返しのつかないところまで離婚の

話しが進んでしまった、クリスチャン夫婦の夫

が、悩みながら、旅行先で見つけた教会の牧師に

相談したそうです。ところが話を聞いた牧師は、

彼が聖餐にあずかることを禁止し、再び教会を訪

れることさえもお断りしたそうです。クリスチャ

ンでありながら、離婚とはなにごとかということ

でしょうか。たぶんこの牧師は、自分は聖書の教

えに従っているという確信と、聖書に従う教会を

建てようという意気込みをもっておられるのでし

ょう。でも、時代錯誤もはなはだしいと感じま

す。

 



  このように言うと、聖書の教えは時代や場所

によって変えられるべきではないと、たちまち反

論されそうですが、たとえ聖書の教えそのものは

変わらないとしても、その聖書を理解する人たち

の理解力、背景、体験、そして文化によって、解

釈がずいぶん異なるのです。それは文化に妥協す

るという危険な一面を持ち合わせながらも、実

は、文化の中で聖書を理解し、聖書の教えに立つ

といういう、大切なことでもあるのです。



 

 離婚は絶対にいけない。離婚をする者は教会か

ら破門、離婚をしているものは教会には加入させ

ないなどという取り扱いが、当然だった時代や場

所もありました。ピューリタン信仰やホーリネス

信仰が盛んだった頃のアメリカには、そういう感

覚もありました。あるいはその教えを受け入れた

日本人クリスチャンの大部分は、かつては下級武

士階級に属し、貞操を重んじた儒教の教えで育て

られてきた人々でしたから、同じような感覚を持

っていたことでしょう。



 

  正しかったか間違っていたかは別として、聖

書の教えが、文化の中で読まれ、文化的な適用を

されていたわけです。
21世紀の現代に生きる私た

ちも、当然
21世紀の現代の聖書理解をします。そ

して
21世紀の日本という文化の中で、聖書の教え

に出来るだけ忠実に従おうとします。大切なの

は、その聖書の理解の仕方が正しいか、また適用

の仕方が間違っていないかということです。


 


  聖書はすべて、
2,000年以上も前に異なった

土地の異なった事情の中で書かれたものです。当

然、その教えの大部分は当時の社会状況に向けて

語られたものであり、時代と場所を超越した普遍

的原則そのものが、直接そのまま語られている場

合は非常に少ないのです。したがって、いま聖書

を読む私たちは、まず、当時の社会的状況に合わ

せた教えを通して、その土台となっている普遍的

理念に辿り着かなければなりません。それから、

その普遍的理念を現在の状況に正しく適用するの

です。


 


  これは簡単な作業ではありません。しかしこ

の作業をはしょってしまうと、とんでもない教え

を続けることになり、現代社会にまったく意味を

持たない教えに執着し続けることになるのです。

 



 分かりやすい例を挙げてみましょう。いまから

3500年ほども前に書かれたと思われるレビ記には

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさ

い」という、有名な教えが記されています。そし

て現代では、この教えはあたかも普遍的原則であ

るかのように語られています。つまり、時代と場

所を越えて、すべての人類に与えられているも

の、普遍的人類愛と考えられています。

 



  ところがレビ記をよく読むとそうではないこ

とが分かります。ここで言われている「隣人」と

は、文字通りの隣人であって、せいぜい広げて

も、「イスラエル民族とその中に寄留している人

々」程度であり、敵対している周辺諸民族、脅威

になっている周辺諸国の人々は含まれていないの

です。ですからイスラエル人は、イエス様が引用

したように、「隣人を愛し敵を憎め」言って、隣

人ではない人々、「敵」を想定していたのです。

 



  ただしイエス様は、「隣人を愛する」という

教えよりもさらに高度な、「敵を愛し迫害するも

ののために祈る」という基準をお示しになりまし

た。そして文字通りの隣人という枠を大きく広げ

て、自分以外のすべての人というかなり普遍的に

近い意味を持たせてくださったのです。

 



  もしも現代の私たちが、旧約聖書が教える隣

人愛の枠の中に留まってしまうなら、それは大き

な間違いです。でも、新約聖書の普遍的に近い隣

人愛を、ある特定の状況の中に適用すると、旧約

聖書の教えにもなるということを理解するのは大

切です。一方、現代の私たちの多くは、たとえク

リスチャンたちでさえ旧約聖書の隣人愛に留まっ

ているという、事実を認めるのも大切です。イエ

ス様がお教えになったような、普遍的人類愛には

たとえクリスチャンといえども到底到達できない

からです。

 



  では到達できないと、はじめから悟り、諦め

てしまうのでしょうか。そうではありません。は

じめから不可能だと知りながら、それを追及する

のです。はじめからそんなことは無理だと投げ出

すのではなく、真剣に追及して不可能だというこ

とを身をもって体験し、会得し、理解するので

す。そして自分たちが、神の水準には到達し得な

い罪人であると改めて認め、さらに神の哀れみに

すがり、さらに神の恵みに信頼するのです。する

と、そこに神の赦しが準備されていて、私たちは

神の懐深くに受け入れられるのです。そこで、不

完全であり、神の基準には到達できない者であり

ながら、恵みによって生かされているという感謝

と謙遜の中に生きるようになれるのです。


 


  結婚生活においても同じです。ひとりの男と

ひとりの女が結婚し、最後まで添い遂げるのが、

神の御心であり、結婚の原則であることに疑いは

ありません。人間はそのように造られているので

す。そしてあらゆる困難を乗り越えても、そのよ

うに生きることが、人間にとってもっとも良いよ

うに、本来、造られているのです。


 


  熊本県の出水市には、毎年冬になるとたくさ

んの鶴が訪れます。ある冬のこと、つがいの雌の

ほうが怪我をして、春になっても飛び立つことが

出来なくなってしまいました。雄の鶴は幾度も幾

度も、雌を励ますように翼を広げて見せるのです

が、雌はどうしても飛ぶことが出来ませんでし

た。すべての鶴がシベリアに戻ってしまっても、

雄の鶴は飛べない雌に寄り添い、かいがいしく餌

を運び、何ヶ月も留まっていたそうです。ところ

がとうとう雌の鶴が死んでしまったというので

す。それでも雄の鶴は長い間雌の死骸の周りに留

まっていましたが、やがて諦めたかのように、一

羽だけ北を目指して飛んで行ったそうです。鶴の

夫婦愛の深さに、見守った出水市の人たちは涙し

たそうです。

 



  この話には後日談があります。そのご確か
4

年ほどもして、あの見覚えのある雄の鶴を発見し

たそうです。その傍らには、まだ若い雌の鶴が、

ピッタリと寄り添っていたそうです。それを見た

出水市の人は、だれもが心から喜んだそうです。

自分たちの夫婦のあり方にいたたまれなくなり、

涙した人も、喜んだ人もいたのでしょうね。一夫

一婦の本能を与えられた鶴だからの話です。とこ

ろが、睦まじい夫婦の象徴のように言われている

おしどりは、相手を「とっかえひっかえ」で生活

します。一夫一婦の本能は与えられていないので

す。

 



  人間にも本能があり一夫一婦を望む心があり

ます。ところが人間にはさらに高度な知力と意思

も与えられています。これらが罪によって捻じ曲

げられて、本来与えられた人間としての生き方が

できなくなってしまったのです。どれほど誠心誠

意、結婚生活を保とうとしても、自分の弱さや欠

点、我儘や理解の不足から、離婚しないではおれ

なくなることもあるのです。また様々な社会的要

因や環境の問題によって、結婚を守り通すことが

出来なくなっているのです。


 


  離婚は本来神の御心ではありません。ですか

ら、離婚は罪です。神の御心に反しているので

す。ところが、モーセは離婚を認めています。な

ぜでしょうか。人間の弱さに、神が付き添ってく

ださったからです。いわば、神の妥協です。イエ

ス様も、それを認めておられます。

 



  罪を犯さないでは生きていけないのが人間で

す。それを理解することによって、初めて、本当

の意味で神の救いの必要を悟るのです。クリスチ

ャンになっても同じです。自分は聖書の律法を守

ることが出来ている、立派なクリスチャンだなど

と思っている人は、神の救いの意味が分からない

のです。神の救いを受け、聖霊の助けを受けてい

ながら、自分の不完全さと弱さに泣いて、始め

て、神の憐れみの豊かさが分かるのです。律法は

人を罰するためにあるのではなく、人に救いの必

要性を認めさせ、神の恵みの大きさを理解させる

ためにあって、高い基準をしめしているのです。


 


  現代の社会は、以前にもまして、一夫一婦を

守り、生涯添い遂げることが難しくなっていま

す。神の救いを受けた後でも、それは同じです。

聖霊の励ましがあってさえずいぶん難しいので

す。クリスチャンなのに離婚をするという人を、

教会に来させないようにしたり、聖餐に与からせ

ないようにしたりするのは、「立派な教会の立派

なけじめ」ですが、聖書の教えではありません。


 


  私たちの神は、罪人を救おうとされる神で

す。そのために、キリストを罰することさえして

くださった神です。神が御求めになるのは、キリ

ストが捧げてくださった犠牲に加える、さらなる

犠牲ではなく、憐れみです。モーセの時代、人間

の弱さに付き合って離婚を許してくださった神

は、いまの時代の混沌とした世界に生きる私たち

をも哀れみ、離婚をする者をお赦しくださるに違

いありません。離婚しなければならなくなったク

リスチャンは、自分の至らなさ、弱さ、罪深さを

さらに深く知って、神の恵みの大きさに感謝を捧

げることができるのです。クリスチャンが完全に

なるのは、やがて主にまみえるときなのです。









posted by まさ at 12:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。