2010年10月20日

聖書が教える性 (1)



 「聖書の神は、性をどのように見ておられるの

だろう?」 このようなことを考えたり言ったり

すること自体が、そもそもクリスチャンらしくな

いと、白い目で見られそうです。



 

一般に、クリスチャンたちの多くが性をタブー

視して、この問題に触れたがりません。ほとんど

の牧師たちも、これを避けて通ります。ですか

ら、教会で性の問題を扱うことは滅多にありませ

ん。「情欲を持って女を見るものは、すでに心の

中で姦淫を犯しているのである」という、キリス

トの教えの間違った解釈に捉われて、(マタイ
5

2730)性欲があることそのものに罪責感をも

って、うじうじと悩んでいるクリスチャン男性が

たくさんいます。私は、どこの誰かは知らない

「クリスチャン」から、よく、電話相談を受けま

すが、その中の多くは、性の問題、特に性欲の処

理に関するものです。クリスチャン同士で話し合

えないし、牧師に相談すると叱られそうだし、と

いうわけで、声だけでどこの誰かを言わずにす

む、電話相談に頼るようです。



 

私も少しばかり常道を逸した牧師ですので、そ

んな相談にはそれなりの答え方をします。先日

も、「自分はクリスチャンなのに、歳頃の女性を

見ると我慢ができなくなる」と嘆く相談者に言い

ました。もちろん、この場合の相談者は男性でし

た。最近はややこしい相談者もいるため、断りを

入れなければなりません。「イエス様は、右目が

罪を犯すならえぐり出して捨てなさい。右手が罪

を犯すなら切って捨てなさいとおっしゃったのだ

から、そうしたら良いでしょう。ついでにあなた

の男性のシンボルを切って捨てたら、もっと良い

かも知れませんね」 しばらく声も出せずにいた

相談者は、ポツリと言いました。「そうですか・

・・・」



 

そこで、続けて言いました。「あなたにそれが

出来ますか?」「・・・・・。・・・・できませ

ん」消え入るような声が帰ってきました。「そ

う。出来ないでしょう? 出来ないからあなたに

は救い主が必要なんですよ。イエス様が十字架で

死んでくださったのは、あなたやわたしのよう

に、どうしょうもない人間のためなんです。せっ

かくクリスチャンになれたのに、まだ情欲を持っ

て女を見てしまうあなたさえも哀れんでくださる

神様に、感謝しながら生きることです。『ありが

とうございます』と、お礼を言いながら生きるこ

とです」



 

性の問題をことさら避けて通ることは間違って

います。性の問題をことさら罪悪視するのも、正

しくありません。先入観を持たず、聖書を広く読

んでみることです。

 



 聖書には性に関わる出来事や問題が、それこそ

たくさん記されています。避けては通ることがで

きない人間の性(さが)だからです。そこに現れ

てくる私たちの神の、性に対する取り扱いには二

つの局面があります。一方はとてもおおらかで、

穏やかで、緩やかなものです。そしてもう一方は

物凄く厳しく、情け容赦のない、ぴりぴりと張り

詰めたものです。どうも私たちの神様は、情け容

赦なく厳しい神として見られることが多いようで

すが、特に、性の問題についてはそれが極端で

す。



 

聖書の神は完全に聖い神です。そのために、ど

んなに立派な人間の高潔さも、神の前では汚れに

汚れたものです。これについて聖書は、かなりど

ぎつい言い方をしています。それは女性が生理の

ときに用いて汚れた布切れのようだと表現されて

いるのです。当時、女性の生理は汚(けが)れた

ものとして忌み嫌われていましたので、これは強

烈な言葉でした。

 



 それにもかかわらず、自分は立派なものである

と思い込んで高慢な態度をとっている人間を、神

は「お前の聖さは汚れた布切れだ」と、徹底的に

賤しめられたのです。キリストが自他共に高潔な

人と認めるような人物には、峻烈な厳しさをもっ

て対応したのは、彼らに、自分たちの汚れを悟ら

せるためだったのです。性の問題に関しても同じ

です。性に関しての神の厳しさは、人間に罪の深

さを悟らせ、彼らにも、自分たちには神の憐れみ

と救いが必要であると、分からせるための手段で

もあったのです。

 


 一方、キリストは自分の罪を自覚し、嘆き、悲

しむ人には、これまた徹底して優しく、彼らを慰

め、受け入れ、彼らのためにこそ神の救いがある

事を示してくださっています。いまさら彼らに罪

を自覚させる必要はなかったからです。性の問題

で罪悪感を持ち、罪意識にさいなまれている人

に、それは罪だと言う必要はないのです。神は罪

人を救うためにキリストを十字架に付けてくださ

ったのですから、救いはあなたのために準備され

ていますよと、教えて上げればよいのです。



 

神にとっては、どれほど清く、高潔な人間で

も、まったく救いに値しない罪人なのです。また

神にとっては、どれほど醜く汚れた人間であって

も、絶対に滅ぼしたくないと思っておられる愛の

対象なのです。どれほど立派でも、救いに値する

ほど立派な人間はなく、どれほど惨めでも、滅び

に入れたいと願われるほどの罪人はいないので

す。ですから、その片一方だけを強調するのは正

しくないのです。

 



 また、罪の問題の中で、性に関することだけを

特別扱いして、ことさら深刻に取り扱うのは良い

ことではありません。他の多くの罪と同じです。

ただ、人間性に非常に強く繋がっていて、取り扱

いの難しいものであることは事実です。そういう

意味では、注意深い取り扱いが必要なだけです。


 



 いま一つ、明らかにしておきたいのは、クリス

チャンたちの性に関する罪悪感の多くは、自分た

ちの文化に根ざした先入観を、教会の教えである

とか聖書の教えであるとか、勘違いした結果だと

いうことです。あるいは牧師も勘違いして教えて

いるかもしれません。特に、独身の女性牧師の場

合にはその傾向が強いようですが、これにはしょ

うがないという面もあります。


 



 ですから、聖書の教えに立った性の理解が必要

です。まず、聖書は性欲を罪悪視していないとい

う事実に、気付いてほしいものです。たとえば先

にも触れた、「情欲を抱いて女を見る」というキ

リストのお言葉は、正しくは「他人の妻を自分の

ものにしたいという欲望を抱いて見る者は」とい

う意味であり、性欲を非難しているのではなく、

むしろ、所有欲に関わるものです。もちろん、性

欲も関わってはいますが、性欲そのものを罪悪視

するのではなく、性欲を誤った方向に持っていく

ことを語っておられるのです。これはモーセの十

戒の中の教えと共通するものです。(出エジプト

2017) またダビデ王が、部下のウリヤの妻

バテシバを横取りしたときに、受けた神のお叱り

にも通じるものです。神は、他に女が欲しければ

与えたものを、なんでよりによって他人の妻を盗

んだのかとおっしゃっているのです。(サムエル

U
1111215


 

性は本来、神が定められた大切なものです。そ

れが正しく用いられるならば、美しく素晴らしい

ものであり、人間に幸せをもたらすものです。と

ころが、罪に捻じ曲げられた人間性のために、性

が誤って用いられるようになり、多くの混乱を生

み出しているのです。


 

神様は食欲を与えてくださったように、性欲も

与えてくださいました。食欲がなくては、人間は

生きて行けませんし、幸せにもなれません。しか

しこの食欲をコントロールすることが出来なくな

り、誤って用いてしまうと、当人にも周囲の人た

ちにも大きな不幸をもたらします。同じように、

神様は性欲を与えてくださいました。これを正し

く用いているなら、それは人間の幸せのために、

非常に大きな役割を果たすものです。ところが間

違って用いると、大きな不幸と混乱をももたらす

のです。

 



 では、神が人間に性を与えた下さった目的はな

んでしょう。性を正しく用いるとはどういうこと

でしょう。おいおい考えて行くことにしましょ

う。














posted by まさ at 10:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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