2010年10月22日

聖書が教える性 (2)



 歴史が始まってこの方、人間はずっと性の問題

に振り回されてきました。人間性のもっとも奥深

くに関わることだからでしょう。したがって、人

間の罪と救いについて語る聖書にも、性に関係す

る問題がくり返し語られています。ただ、聖書の

記述には、性に関わる出来事の記録が多く、性そ

のものを取り上げて教えるというものはわずかで

す。そのためか、教会はこの問題についてかなり

誤った理解を持ち続けてきました。



 

特に、すでに幾度も述べてきたことですが、日

本の教会の多くが、ピューリタンやメソジストあ

るいはホーリネス系のものである上、儒教の倫理

の受け皿で理解したために、性に関しては、伝統

的に厳格な立場を採ってきたと言えます。これら

の教会の教えは、聖書の教えというよりも、一種

の「キリスト教文化」と考えるべきでしょう。そ

してこの文化は、性というものを、ともすれば恥

ずべきもの、汚らわしいもの、隠して置かれるべ

きものとして取り扱ってきました。そのために、

真正面からこれを取り扱うことが出来ないで来ま

した。



 

一般社会が個人の自由を謳い、性の開放を叫

び、性産業が隆盛を極めるようになっても、教会

はまだ「恐る恐る」という感覚なのです。そのた

めに、現実の問題に対応できず、性の問題に捉わ

れている人たちを的確に取り扱うことが出来ない

でいます。



 

教会がはっきりと理解しなければならないこと

は、性は神によって造られたものであるという事

実です。性は、人間の堕落によって、あるいは罪

によって人間の中に入ってきたものではなく、は

じめから神の創造の一部として存在したことで

す。したがって、性は本来良いものであると考え

なければなりません。人間の知・情・意が、神に

よって与えられたものであり、本来、良いもので

あるのと同じです。問題は、その良いものを誤っ

て用いることです。人間は本来良いものである知

・情・意を間違った方向に用いて、たくさんの悲

劇を作り上げてきました。同じように、本来良い

ものである性を捻じ曲げて使ってきたために、非

常に多くの苦しみを作り出してきたのです。



  一般社会においては、様々な性の取り扱い方が

論じられています。
1960年代のアメリカでは性の

開放が謳いあげられて、小中学校でも具体的な性

教育が行われ、避妊が教えられ、避妊具が配られ

るようになりました。その結果、アメリカでは非

常な性の混乱が起こりました。ところが
1980年代

の終わりになると、アメリカの社会では性に対す

る「保守化」が始まり、いわゆる「道徳教育」が

徹底し、性に関する社会問題はひところの
4分の1

まで減ったという報告もあります。その背後に

は、保守的キリスト教会が真面目に性の問題を考

えて、行動に移したという一面もあります。
 





 色々な意味でアメリカの数十年後を歩んでいる

日本では、アメリカが性に関しては保守化する時

代になって、逆に、アメリカに倣えとばかりに性

の自由化が進みました。性については生物学的に

教えるべきだとか、性は個人の自由に任せるべき

だと主張する「擬似アメリカ文化」の団体が作ら

れ、日本の学校教育にも大きな力を持つようにな

りました。あるいは明治政府に始まる儒教的性教

育からやっと解放されて、日本古来の緩やかな性

観念にもどり、外面だけは近代的な装いを身に着

けたとも言える理現象です。すでにだいぶ前か

ら、小学
34年生頃に図解や人形をつかった性教

育を始め、避妊の方法まで教える学校が多くなっ

ています。ただし、性が人間性の中でどのような

意味を持ち、家庭や社会の中でどのように機能す

るかというようなことには、あまり関心がないよ

うです。そのために、いまの子どもたち、あるい

は若者たちの間では、セックスは個人の自由だと

いう感覚が強いのです。中学生や高校生の間で

も、互いに好きだったら、セックスはしていいと

いうのが普通です。
20歳で性体験のない男女は、

かえって「普通でない」と見られることが多いの

です。



 

こういう日本の現状にあって、私たちの教会

は、聖書の教えに立った性の理解を持って、対応

して行かなければなりません。その第一歩が、性

というものから「汚い」「不潔」というマイナス

のイメージを払拭し、本質的に良いものであると

いう認識を持つことです。その良いものをいかに

正しく、よい方向に用いていくべきかという問題

が論じられ、誤って用いてしまった人や、誤りを

容認している社会にどう対応するべきかが論じら

れるべきです。

 



 性が神によって作られた美しいものであると認

めて、そこから話を進めましょう。聖書は性につ

いてかなりおおっぴらに語っているのですから、

私たちも隠す必要はありません。


 



 神がお造りになったものには目的があります。

当然、性にも目的があります。人間以外の動物の

性は、ごく一部の高等動物を除いては、繁殖のた

めです。そして教会は、伝統的に性を繁殖のため

のものであると理解して、繁殖を目的としない性

行為を積極的に評価することはありませんでし

た。それを端的に現したのが避妊の禁止です。い

まだにカトリック教会では公式に避妊を禁止して

います。それは、繁殖を目的としない性行為を禁

止していることです。避妊というのは性行為の本

来の目的を曲げ、ただ快楽のために用いようとす

ることだと、非難しているのです。



 

確かに、多くの動物の性と性行為からの類推に

よると、繁殖が性の目的であるかのように考え

られます。ただし、それが唯一の目的か、あるい

は第一の目的かと考えると、一般の動物の世界

からも聖書の記述と教えからも、はてなマークが

つくのです。ちなみに、つい最近までは、人間以

外のすべての動物には発情期というものがあっ

て、一定の期間だけ性欲が起こるようになってい

ると言われていました。人間以外のあらゆる高等

動物の性行為は、繁殖のためであると考えられて

いたのです。しかし、サルの仲間を観察してきた

人たちは、発情期以外にも性行為を日常的に行う

サルがいることに気付きました。繁殖とは関わり

のないもので、むしろ「挨拶」に近いものだと考

えられています。


 



 サルの話はどうでもいいといえばどうでもいい

のです。神はそのサルをそのサルとして造り、そ

のサルにふさわしい行動をお与えになったに過ぎ

ません。神は人間にも発情期というものを与え

ず、基本的に、適齢期になるといつでも性行為が

出来るようにお造りになりました。人間が造られ

て間もなく、神は人間を祝福し、「生めよ。増え

よ。地に満ち」とおっしゃったことは、性が繁殖

を目的としていることを強く示唆しますが、人間

に発情期がなくいつでも性行為が出来るというの

は、この祝福に関係があるのかも知れません。




 

ともあれ、性が繁殖を目的としているという理

解は、聖書の教えから言っても誤りではないと認

められます。子どもが生まれたという単純な出来

事を言うのに、聖書はあえて男が女を「知って」

という表現で、性行為があって子どもが生まれた

という事実を、繰り返して記しています。ここか

らも、繁殖に繋がる性行為が重要視されていたこ

とがうかがわれます。ただ、それが唯一の目的で

あると言い切ることができない点に、注意が必要

なのです。









 
posted by まさ at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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