2010年10月31日

聖書が教える性 (3)


  
 性は神がお造りになったものです。ですからク

リスチャンはこれを罪悪視したり、不浄視したり

せず、真面目に、まっすぐに向き合って取り扱わ

なければなりません。特にこれは人間の歴史の中

で、もっとも混乱し、罪悪を生み出し、社会を混

乱に陥れてきた、大きな要因ともなっているから

です。



 
では、真面目に聖書を読む限り、性についての

記述をどのように読み取ることできるでしょう

か。神は、性をいかに取り扱っておられるのでし

ょうか。不充分ながら、調べてみましょう。
  




T.性の目的


 

 神は人間を男と女にお造りになり、「生めよ。

増えよ。地を満たせ」とおっしゃいました。(創

世記
128) これで明らかなように、性の大切

な目的、あるいは機能は、繁殖のためだと言うこ

とができます。動植物の繁殖の仕方は実に多様で

す。でも、いわゆる高等な動植物のほとんどには

性があります。性を持っていながら無性生殖をす

るものもあれば、成長の過程で雄になったり雌に

なったりするものもあります。雌雄同体というの

もあれば、栄養状態で雄にもなり雌にもなるもの

もあります。生物の繁殖は本当に神秘です。とは

言え、たとえば哺乳類のような高等な動物は、み

な、性を持ち性行動で増殖をすます。人間も同じ

ように、性行動によって増殖するように造られて

います。



 
 

 このように観ると、人間の性も繁殖のためであ

ると結論付けてしまいたくなります。ところが、

聖書を見ると、そのようには言えないことがわか

ります。また、人間の性行動を見るとそうではな

いことが分かります。

 



 聖書の記述を読むと、性は繁殖を目的として用

いられているとは言い切れないのです。むしろ、

性は人間の喜び、楽しみとして用いられていま

す。それがちょっと間違うと、快楽のため、欲望

のためとなってしまうわけです。



 

 たとえば、聖書の中にも売春や強姦の問題が論

じられ、いくつもの例が記録されています。これ

は性が、繁殖を抜きにした快楽のために用いられ

て来たことを、聖書も認めていることを示してい

ます。人間は古くから、繁殖のためだけに性を用

いてきたのではないのです。繁殖のためだけなら

ば、神は人間にも、ほとんどの高等動物に与えら

れている、繁殖期をお与えになったはずです。繁

殖期を持たないで、何時でも繁殖行為が可能なの

は人間だけなのか、他にもそのような動物がいる

のか、良く知りませんが、人間は繁殖期を持たな

いで、極めて特殊な性行動をする動物だというこ

とは確かです。



 

 また、聖書が性行為を表現するのに、「知っ

た」という言葉を用いていることには、強い示唆

があるように思います。人間の性行為は「知る」

ことだったのです。知るということが性行為の大

切な目的、あるいは機能だったといえるのです。

知るとは、人間の交わりの中でとても大切な、中

心的な要因です。特に、この知るという行為が男

女の仲で行われることは、男女の非常に深い交わ

りを意味しています。一組の男女が、会話や付き

合いの中で互いに知り合い、精神的なつながり、

心の絆を強くするだけではなく、肉体的にも繋が

って、「知る」という深みの交わりを築き上げる

わけです。



 

 ここに、人間という動物が単に多くの動物と同

様の、ふつうの動物ではなく、特殊な動物である

ことがうかがわれます。人間は肉体と霊とがしっ

かりと結びついた存在なのです。単に動物的な生

命、それを魂と呼ぼうと心と呼ぼうと結構です

が、動物的な知・情・意以上のものを持っている

という証です。聖書を読むと、人間だけが他の動

物と異なった造られ方をしているのに気づきま

す。土を捏ねて形造られ、そこに神の息吹(原語

では霊と同じ言葉)を吹き込まれて、生きる存在

になったのです。人間は霊である神に似せられ

て、霊的な存在ともされているのです。


 


 とはいえ、人間はあくまでも動物です。血と肉

と骨と多くの物質による体を持った存在です。神

に似せて造られてはいても、神のように肉体を持

たない霊だけの存在ではないのです。死後、一時

的に肉体を離れた存在として生きることがあった

としても、やがて甦りのときに完全な肉体を与え

られて、元の、肉体を持つ存在に戻されるので

す。


 


 その肉体的存在でもある人間が、単に精神的

な、あるいは霊的な理解や交流だけによるのでは

なく、肉体的な交わりをも通しても知り合うとこ

ろに、社会を形成する最小単位である結婚が成立

するのです。互いに深く知り合う結婚によって、

社会の基盤が築かれるのです。本来、夫婦間の性

交渉は人間としてのもっとも深い交わりであり、

他のことでは築くことができない性質の交わりで

す。人間の性の営みは、繁殖するという動物的な

目的だけではなく、精神的にも肉体的にも、「一

つ」を形成するための、深く「知り」合う行為な

のです。

 



 人間は、男女が性的にも結合することによっ

て、初めて神がもくろまれた「一つ」になること

ができるのです。「知る」と表現された性行為が

あって、一組の男女が「一つ」と認められる結合

体とされるわけです。それが結婚です。人間は、

やがて天のみ国に迎えられるまでは、つまりこの

世界で生きていく限り、男女が一つとなり夫婦を

基本単位とした世界で生きるのです。そのような

基本単位が不要とされ、繁殖が不要とされる天に

おいては、男女も結婚も存在しなくなるというの

が、イエス様の教えです。

 

 


 姦淫や強姦や婚外交渉の記事がたくさんある旧

約聖書を読むと、「知る」ということが結婚とし

て扱われていることがわかります。たとえ、社会

制度としての結婚は成立しなくても、神の創造の

目的からすると、知ることと結婚は不可分の事柄

なのです。新約聖書のパウロの教えを読んでも、

同様です。パウロは遊女と交わるものは遊女と一

つになると言って、遊女との性交渉が、神の目的

から見ると結婚を成立させることとなると教えて

います。



 
 

 したがって、聖書によると、性交渉は単なる繁

殖の手段ではなく、一組の男女がひとつとして生

きていく上で、欠くことができない交わりを作り

あげる、「知る」という行為なのだと分かりま

す。日常の会話、日常の付き合い、日常のふれあ

いでは到達できない次元での、知ること、より深

い交わりを達成することなのだと理解できます。

結婚とはそのような男女の結びつきなのです。人

間の繁殖は、そのような夫婦間の「知る」行為の

結果として、達成されるべきものだったのです。



 
 

 こうしてみると、聖書によると、性とは結婚生

活のための基本部分を形成するものだと、考えら

れます。結婚とは互いに深く結びつき、協力して

生きていくことです。そこにおいて、知るという

行為が非常に大切な役割を果たすのです。そして

それだけ重要な機能と目的を持った性であるため

に、神は性に快感をお与えになり、性がないがし

ろにされたり、捨て置かれたりせず、知るという

喜びが保たれるようにされたのでしょう。

                   
                 つづく







posted by まさ at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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