2010年09月06日

文化のはざまで(1)





 アメリカ人たちと持ち寄りの食事会をしまし

た。きれいに飾り立てたケーキも、フルーツサラ

ダもそれなりに楽しいものでした。でもケーキは

「物凄〜〜く甘く」 一切れ食べるのにも苦労し

ました。フルーツサラダは、なんだかきつい香り

が付いていて、・・・・・悪いですが・・・・石

鹸をかじっているような・・・・・・・。

 



 すっぱい胡瓜のピクルスも、たまには悪くあり

ません。でも私にはやっぱり、その横の有田焼の

器に盛られた浅漬の胡瓜と、波佐見焼きのお皿に

乗っていた沢庵のほうがずっと口に合いました。

いつも食べているのになつかしくさえ感じたので

す。大きなガラスのボールに一杯作られた琥珀色

のゼリーより、小さな器にひっそりしている水羊

羹のほうに手が出ました。



 

結構、長い間海外生活をし、色々な国の人たち

とずいぶん広く付き合い、彼らの素晴らしさ、そ

の文化の豊かさ、食べ物の美味しさ、そうそう、

かなり変わった食べ物にも慣れているはずです

が、少し年齢を重ねると、回帰現象が起こるので

ょうか。日本のものが肌にも口にもとても良く合

うようになってきたのです。



 

同じ材料を使っても、まったく違うものに仕上

がります。味も違えば歯あたりも異なる料理とな

り、色合いも形も違う物となります。



 

私は日本人です。日本人のクリスチャンです。

クリスチャンになりたての若い頃、西欧から入っ

てきたキリスト教に、新鮮な魅力を感じました。

でもその西欧臭さが、どうにも鼻についてくるよ

うになりました。ピクルスの胡瓜よりは浅漬けの

胡瓜です。

 



 自分がずっと食べ続けてきたキリスト教が、実

は西欧で味付けられた宗教であって、必ずしも、

キリストが教えてくださった教えそのものではな

いと気付いたのは、宣教師として海外の未開部族

の中で働いて、だいぶ歳を重ねてからのことでし
た。

 


自分が信じて実践してきた聖書の教えも、かな

りのところ、西欧流に読まれ、西欧流に解釈さ

れ、西欧流に適用されたもので、聖書そのものの

教えとは少しばかり違うところがあると思い始め

たのも、宣教師をやめて日本の片田舎にもどり、

小さな教会を始めてからの事です。ずいぶんと理

解の遅い人間です。

  

 

いまの私の願いは、聖書を日本人的感覚で読み

直し、日本人的見方で理解しなおすことです。本

質的なものに変わりはないでしょう。牛肉は牛肉

です。でも料理の仕方で好き嫌いが出来、とても

食いつけない代物にもなるのです。多くの日本人

がキリスト教をちょっとだけかじって見て、眉を

ひそめて吐き出すのは、素材であるキリストの教

えが悪いのでも、聖書の教えがまずいのでもあり

ません。料理の仕方、味付けの仕方が、日本人に

合わず、日本人の文化と社会に馴染まないだけの

ことです。



 


 これからしばらくの間、そのような「文化的つ

まずき」とでも言うべきことを、ぶつぶつとつぶ

やいて行きたいと思っています。日本人にも、キ

リストの教え、聖書の教えを美味しく食べてもら

いたいからです。








posted by まさ at 18:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

民族舞踊


 バリ島で民族舞踊を見ました。女の子たちは飾り

立てられた金色の冠を被り、原色の糸でつむいだ

巻きスカートのようなものをつけ、ぴかぴかの装

飾をたくさん施した胸当てで乳房を覆っていまま

したが、くねくねと曲がる体と際限がないほどよ

じれねじれる腕と指は、女性の曲線の美しさを強

調していました。民族も宗教も違い、踊りの意味

も異なっているとは思うのですが、カンボジアや

タイ、ミャンマーでも同じような踊りを見てきま

した。



 

フィリピンの女性の民族舞踊はまったく違って

いて、からだをくねらせて曲線の美しさを出すよ

うなものは見たことがありません。文明が遅れて

いた小部族の集まりに過ぎなかったこの国は、ス

ペインに統治されて、舞踏や音楽までもスペイン

的な服装とスペイン的なリズムに変わってしまっ

たようです。



 

ブラジルのカーニバルでサンバを踊る女性たち

はまた、まったく別です。全身ほとんど裸に近い

大勢の女性たちが、わずかにからだを覆う部分を

大げさに飾り立て、激しいリズムで躍動します。

肉体の美しさをそのまま謳歌しています。


 

南太平洋の小島に住む、アフリカ系民族の舞踏

を見ました。小さな腰蓑だけで真っ白な砂浜で踊

る、豊かな真っ黒なからだは軽やかに弾み、生き

ることの喜びを思いっきり発散させているように

見えました。これは、私の観たあらゆる踊りの中

で、もっとも感動的でした。



 

北欧やロシアの民族舞踊の女性たちは、国家や

民族がちがってもかなり共通しています。皆美し

く着飾って、極めて大きなからだの動きをします

が、肌が露になるようなことはまずありません。



 

日本の舞踊はといえば、高価ではあってもあま

りけばけばしくない、どちらかといえば落ち着い

た着物を着て、極めて様式化された身のこなしで

ゆっくりと踊ります。ここでも、肌が出るような

ことはありません。

 



 肌が露で、セクシーさをアピールするかのよう

な踊りをする女性たちが、特別に猥らだというこ

とはありません。優雅にまたしとやかに踊る日本

人女性も、肌を見せない北欧の女性も、結構猥ら

なところがあり、あまり変わりはありません。

 



 肌が出るか、裸に近いか、全身着物で隠されて

いるか。それは倫理観によるよりも、灼熱の国か

酷寒の国かによるものです。マイナス
30度にもな

る土地で、サンバの格好で踊れはしません。アス

ファルトが溶けて流れ出す国で、きちっと帯を締

め、トンテンシャンと静かに踊っていたのでは、

たちまち倒れてしまいます。


 

私たちが受け継いできたキリスト教は、長い間

北欧で育てられたキリスト教です。いまでこそ状

況は変わりましたが、ずいぶん長い間、膝小僧ど

ころかくるぶしが見えるだけで、はしたない、猥

らだと叱られる環境でした。その中でももっとも

厳格な、メゾジストというキリスト教の流れを汲

み、さらに清教徒と呼ばれる人たちの考え方を受

け継ぎ、その上に、清潔を強調するアメリカのホ

ーリネスという仲間の影響を、強く受けてきたの

が私たちのキリスト教です。

 



 北欧で育てられ、北欧で組み立てられたキリス

ト教の考え方は、同じキリストの教えを理解し、

同じ聖書の教えを解釈するのでも、北欧の環境、

北欧の生活に合うように育てられ、組み立てられ

ています。それが自然のなりゆきです。それが新

大陸アメリカの自由の精神の中で、ある意味で爛

熟し、日本に入ってきたのです。」


 

日本に入ってきた北欧とアメリカ周りの厳しい

キリスト教は、廃藩置県で行き所がなくなってい

た下級武士階級に歓迎されました。彼らは儒教の

倫理を学んでいたために、厳しいキリスト教を儒

教に勝る教え、儒教の完成として喜んで受けいれ

たのです。でも、儒教とはあまり関わりの無かっ

た一般庶民は「高潔なキリスト教」を見上げるだ

けで、自分たちのものにすることは出来ませんで

した。


 

それで、「キリスト教は立派だ」「でも俺たち

には無理だ」「キリスト教だって一皮向けば中身

はおんなじさ」、ということになってしまいまし

た。裸でサンバを踊る女性も、しとやかに見える

日本の女性も同じ女性。確かにそんなところがあ

ります。


 

大切なのは、文化的表現、文化的飾り、文化的

適用、文化的解釈というものを一旦横において、

できるだけ素直に、キリストの教え、聖書の教え

を理解しようとする心です。表面に現れる文化的

装い、適用などを排除して、キリストの教えその

もの、聖書の教えそのものに、目を注ぐことだと

思うのです。








posted by まさ at 08:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

外車は意外に売れなかった


 外車が垂涎の的だった頃がありました。今では

ちょっと考えられません。若い娘など、外車と見

ただけで「きゃー」と叫んで集まって来たと言わ

れるほどです。ところが、その外車が、実は意外

に売れていなかったのです。高価だったからだけ

ではありません。他にもたくさん理由があったの

です。

 



 外車の多くは左ハンドルでした。これは不便で

す。でも、わざわざ日本のために右ハンドルにし

てくれる会社は、まだありませんでした。「俺た

ちのほうが正しいんだ。お前たちが直せ」という

態度が見え見えだったのです。図体が大きくて、

狭い日本の道を運転するには一苦労でした。車体

が低く、日本のデコボコな砂利道を走るのは辛い

ことでした。車内が広いのは良いとしても、小さ

な日本人には、足が届かないために余計な劣等感

を抱かせただけでなく、何もかも使い勝手が悪か

ったのです。日本の道路交通法に合わないライト

だとかシグナルだとかが付けられていて、買って

から付け直さなければならなかったことさえあり

ました。でも、「先進国」の自動車会社は、「後

進国日本」のために(当時は開発途上国とは呼ん

でいなかった)、それをわざわざ変えようなどと

は思わなかったのです。


 

最近輸入される外車の多くは、日本仕様に作ら

れていて、ずいぶん変わりました。そうしなけれ

ば売れないからです。



 

とても良いものなのに、アメリカやイギリスか

ら輸入されているために、いまだに日本では良く

売れないものに「キリスト教」があります。「日

本人のクリスチャンはなぜ少ないのだろう?」 

これは牧師や宣教師たちの悩みであるだけではな

く、多くの社会学者たちが不思議に思って調べて

いることです。なにしろ、まだ誕生
100年にもな

っていない私の属している団体だけでも、世界の

信徒数は6千万人と言われるほどになっています。

ついこの間までは
5千万人と言っていたのに大変

な勢いです。それなのに、日本ではわずか
1万人

を少し上回るだけなのです。


 

キリスト教はもともとアジアで興った宗教です

が、長い間ヨーロッパで成長したために、その考

え方や習慣や神学などは、決定的にヨーロッパ的

です。ですから、多くの日本人はどうしても馴染

めないのです。たしかに欧米化した都会型の人、

あるいは保守的な自分の土地を離れた若者たちの

間では、このようなキリスト教もいくらかは受け

入れられています。また、留学や仕事で海外生活

をしている多くの日本人が、郷に入らば郷に従え

でクリスチャンになっています。でも自分の故郷

に帰ると、そこでも郷に入らば郷に従えで、あっ

さりクリスチャンを捨ててしまいます。



 

私がまだ宣教師としてフィリピンの未開部族の

間で働いていたとき、カナダからやってきたフィ

ンランド人の同僚がいました。彼の家を訪ねると

必ず、わざわざカナダから持ち込んだ大きな車の

修理をしていました。カナダの気候に合わせて寒

冷地仕様にされていたシェビーのバンは、熱帯の

フィリピンではどうしても旨く走らないのです。

結局彼は、フィリピンの生活に合わず数年で帰国

したのですが、寒冷地仕様に装着された、簡単な

コンピューターシステムを取り扱うことができず

に、滞在期間のほとんどを、車の修理に費やして

しまいました。



 
 聖書の教え自体は日本人にも非常に有益です。

キリストの教えは日本人にピッタリと来るもので

す。でもそれらが西欧の人々の生活習慣、考え方

や文化に合わせて構築されたのが、いわゆる「キ

リスト教」です。それが日本人に合わないのは当

然です。日本人の考え方、感じ方、社会の構造、

生活習慣に当てはめると、大きさが微妙に違う歯

車のように、軋んで、どちらかが壊れてしまいま

す。



 大切なのは西欧文化に適応されたキリスト教で

はなく、「キリスト教」という西欧文化を取り除

いた、「聖書が教える教え」、「キリストが教え

る教え」です。伝統を重んじ変化を嫌うのが大き

な宗教の特徴です。それも重要ですが、いつも正

しいとは限りません。日本に輸入されたキリスト

教も、変化を憎みます。でも、勇気をもってオリ

ジナルの姿に戻ることが必須なのです。

 


 西欧の人々のために作り上げられたキリスト教

を、日本人に無理に買わせようとしている。それ

こそ、日本でキリスト教が受け入れられない、大

きな理由の一つに間違いありません。








posted by まさ at 10:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

癌告知のできない日本人



 友人の女性が、舌に異常を感じて精密検査を受

けました。結果が出る日、彼女は主治医に会って

話を聞いて欲しいと、私に頼むのです。このよう

な場合、夫では信頼できないと考えたからです。

彼女はときどき教会に来るだけで、まだクリスチ

ャンではありませんでしたが、本当のことを知り

たいと望んだのです。




 主治医は、「だいぶ進行している舌癌です。で

きるだけ早く手術をするべきです」と言うのです

が、案の定、夫は「それを彼女に告げるのは酷だ

から、少し待ってほしい」と顔を曇らせました。

「彼女が牧師であるわたしを一緒にお医者さんに

会って欲しいと言ったのは、すぐに本当のことを

知りたいからです。牧師は本当のことを言ってく

れると信じているんですよ。癌ならできるだけ早

く手術をするのがいいのです。遅らせるべきでは

ありません」 隣に座っていた私は、夫を促しま

した。

 

結局、妻に癌の事実を告げることが出来ない、

「情けない」夫に代わって、私が隣の部屋で待っ

ていた友人に告げました。それで彼女は
2日後に

は福岡の病院に行って、手術を受けることができ

たのです。その手術も驚くほど旨く進んで、回復

も早く、一週間後には退院して来ました。舌の奥

のほうを直径
2cmほど切り取ったとの事ですが、

発音にも、食事にも、まったく影響がありません

でした。



 

 いくらかでも聖書の話を聞いていた彼女は、少

しばかり自己を確立した人間になっていたと思わ

れます。それに比べると、夫は極めて日本人らし

く癌の告知をしないで、隠し通そうとしたのです。

その結果、みんなが嘘をつき続け、苦しみ続ける

ことを選ぼうとしたわけです。共に苦しみを担う

という、日本人独特の考え方が背後にあるのだと

思います。思いやりと言う名の甘えを、みんなが

共有しているわけです。このある種の共同体感覚

の甘えが、日本人の自立を阻んでいるとも言えそ

うです。



 

 日本人は、自己確立が出来ていないと、つくづ

く感じることがあります。いつも他人の目を気に

して、こそこそと生きている。ほかの者の意見を

心配して、自分の考えを言うことができない。な

にごとも自分で選択決定が出来ない。周囲の者の

言うことに振り回されるというようなことが、と

ても目に付くのです。日本人の中だけで生活して

いると、それは当たり前で気付くこともありませ

んが、外国人たちと生活と仕事を一緒にすると、

日本人は非常に特異だと感じるのです。



 

 どうやら、自分をしっかり持っているというこ

とと、個人主義は強く繋がっているようです。も

ちろん日本人の中にも、昔から自分勝手と呼ばれ

る個人主義はごくふつうに見られました。でも、

自分を確立しているという意味での個人主義には、

まだなっていないように思います。



 

とはいえ、個人主義のすべてがよいわけではな

く、自己の確立がいつも良いほうに現れるわけで

もありません。私などは日本人の共同体感覚に、

とても美しいものを感じるのです。ただ、私たち

が聞いてきた西欧回りのキリスト教は、非常に個

人主義傾向が強いキリスト教で、日本独特の共同

体感覚に根ざした日本人の心理、考え方、感じ方、

習慣、家族、親族、社会制度などに、旨くかみ合

わないのです。

 

ですからクリスチャンになると、倫理道徳とい

う意味では立派な人間になるのに、社会に反する

人間、家庭や地域でうまく立ち回れない者になり、

はた迷惑で面倒くさい奴になってしまうのです。

日曜日の行事には参加しない。お祝いの席で乾杯

も出来ない。盆が来てもお墓参りにも行かない。

葬式があっても線香も上げない。挙げればきりが

ありません。

 



 西欧回りのキリスト教は、そのようなことに頑

固に立ち向かうことが、クリスチャンとして欠く

ことができない重要事項と考え、それができてこ

そ確立した人間の確立した信仰と考えてことさら

に強調し、それができたクリスチャンを賞賛する

のです。でも、はっきり言って、聖書もキリスト

もそんなことは教えていないのです。







posted by まさ at 17:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

日曜朝の山本さん



 日曜日の朝が来るごとに、軽い後悔を奥歯で噛

みしめながら、山下さんはトースターのパンが焼

けるのを待つようになりました。最近は、定番の

冷えたベーコンエッグをチンするのも面倒になり

ました。本来なら、可愛い盛りの
2人の娘に囲ま

れて、明るくにぎやかな家のはずなのに、かつて

一度だって、独身のころ夢見ていたそんな日曜日

の朝を迎えたことがありません。



 

「クリスチャンの女性はいいぞ」と紹介してく

れた先輩に、恨み言の一つも言いたい気分です。

「絶対浮気はしないし、真面目だし、無駄遣いも

しない。ま、安心だな。その上、何よりも美人

だ。おれも彼女を見てからは、早く結婚しすぎた

と思ったほどだ。これは家内に内緒だぞ」



 

「確かに美しいし、しっかりしている。家のこ

とは任せておいて心配ない。でも何かが面白くな

い。妻が一つだけ年上と言うのは、なんの問題も

ない。でもこの日曜日だ」



 

なんとも味気ないのです。残業につぐ残業とい

うほどではありませんが、結構忙しい会社勤め

で、休みは日曜日だけ。その日曜日、ゆっくり朝

寝坊をして、新妻がトントントンと使う包丁の響

きで目を覚まし、顔を洗ってテーブルに着くと味

噌汁の香りが漂い、子どもたちが「お父さんの寝

坊すけ!」などと言いながら絡み付いてくる。そ

んな家庭を夢見ていたのです。「ちょっと、田舎

臭いけれど、芥子を加えた納豆が出されていれ

ば、最高だ」


 


 ところが結婚してこの方、日曜日の朝に奥さん

の顔を見たことがありません。 最初の日曜日。

「今朝はゆっくり二人で布団の中に潜っていよ


う」と思ったのに、新妻はそそくさと起き上がる

と、軽く化粧をして出かけると言うのです。思わ

ず、「どこに?」と聞きそうになった口のつばを

飲み込んで、・・・・・思い出しました。「私。

日曜日には必ず教会に行きたいのですが、許して

くださるでしょうか?」 上司の設定に乗って彼

女に初めて会ったとき、思いのほか旨く事が運ん

ですんなりと結婚の可能性に話が及び、彼女は確

かにそう言ったのです。彼女の美しさに惹かれて

しまった山下さんは、深く考えもせず、「ああ、

教会ですか。もちろん大丈夫ですよ」と約束して

しまったのです。


 


  毎週の日曜日の朝、新妻は必ず教会に行くと知

って、山下さんは、決して軽いとは言えない失望

感を味わいました。「いちど、たまには休んだっ

ていいじゃないか。俺が休めるのは日曜日だけな

んだ」と、かすかな抵抗を試みたのですが、「日

曜日には必ず、休まずに教会に行くのが私の生き

方です」と、いつもはおとなしく柔らかな物言い

の彼女が、がひどくきっぱりとした言い方をした

ものですから、黙ってしまいました。「何も生き

かただなんて、堅っ苦しいことを言わなくても」

と、出かかった言葉を引っ込めてしまったのです。


 

 それからというもの、妻は日曜日の教会行きを

欠かしたことがありません。子どもたちが生まれ

てからも、一人を胸に抱き、一人の手を引いてい

そいそとでかけます。
10時半から始まるので、9

時過ぎには家を出なければなりません。テーブル

の上に準備された朝食も、最近はトーストにコー

ヒー、ベーコンエッグとサラダと決まっていま

す。



 

とうとう我慢ができなくなった山下さんは、二

人で飲みに行ったとき上司に不満を漏らしたこと

がありした。「いやー。いまだから言うけれど

ね。彼女のご両親も、そのことでは手を焼いてい

てね。その、教会行きがもとで、できる結婚もで

きなかったことが何度もあったらしいんだよ。そ

れで彼女のいとこの夫である俺が、何とかいい人

をと頼まれる羽目になったわけだ」「でも、俺は

お前を騙したつもりはないよ。お前は納得して結

婚したんだろう?」




 

 かくして、山下さんの日曜日の朝は惨憺たるも

のになることが多いのです。妻と娘たちが教会か

ら帰ってくる午後、何となく機嫌が悪くなりま

す。大人げないけれど、隠せないのです。そんな

父親を、娘たちは怖がって上目遣いににらみま

す。だんだん山下さんにも分かってきました。妻

がそこまでかたくなに教会行きを守り通すのは、

日曜日に教会に行かないのは神に対する罪である

と、牧師に教えられているからだと。娘が「お父

さん。日曜日に教会に行かないのは悪いことだっ

て、教会の先生が言っていたよ。お父さんは悪い

人?」と尋ねたことがあったからです。


 


  それを聞いた山下さんは、すっかり教会が嫌い

になりました。大切な日曜日に、自分から奥さん

を取り上げる神様も憎くなりました。俺は絶対に

教会には行かないぞと考えるようになりました。

娘が年頃になる前に、必ず教会からひき離してや

るぞと、ひそかに思うようになりました。



 

パーコレーターから流れ出る香りを、ゆっくり

楽しむ気持ちにもなれないまま、山下さんは、今

朝も冷めたサニーサイド・アップにフォークを突

き立てたまま、三面記事を追っています。



  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 日曜日に教会に行くのは良い習慣です。でも、

日曜日に教会に行かないのは罪であると言うの

は、聖書の教えではありません。長いキリスト

教の歴史のある西欧諸国では、日曜日には教会

に行きやすい社会ができています。それなのに

サボって教会に行かないのはよくないことでし

ょう。でも日本では事情が違います。無理をし

て日曜日に教会に行くことによって周囲の人た

ちに迷惑をかけるよりは、「神様。ちょっと今

日は失礼いたします」と祈って、教会はお休み

するのがいいでしょう。そうそう、牧師に電話

でお断りするのもお忘れにならないように。




 


posted by まさ at 13:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結婚しなかった素敵な女性


 千代さんという、ちょっと古風な名前の女性で

した。私より一回りも歳が上でしたから、想いを

寄せるには至りませんでしたが、遠くから眺めて

いるだけも素敵な人でした。しっかりしたクリス

チャンで、かいがいしく教会で奉仕をしている姿

は清楚で、きっと牧師の奥さんにでもなるんだろ

うなと、思っていたものです。



 

高校を出てすぐに上京し、聖書学校で学んでそ

のまま牧師になり、間もなく宣教師として海外に

出てしまった私が、その女性についての噂を聞い

たのは
30年もあとの事です。彼女はあれから20

近くも教会にいたけれど、とうとう結婚できずじ

まいでした。なみの男性には高嶺の花に見えて、

しり込みさせてしまったわけでもないようです。

彼女がクリスチャン男性以外とは結婚しないと、

親や親戚が次々と持ち込む縁談話をみんな断って

しまったためでした。



 

お祈りしていれば、神様が必ず、最善のときに、

最善のクリスチャン男性を与えてくださると、牧

師や信徒たちに励まされて、熱心で素直な信仰を

持っていた彼女は、祈りつづけたらしいのです。

でも、
40をだいぶ過ぎてから、彼女は突然教会に

来なくなったそうです。ずいぶん後になって教会

の人たちは、彼女が二人の子持ちの男性と結婚し

たのだと知りました。もちろん相手はクリスチャ

ンではありません。



 

彼女が教会に来なくなった当時はともあれ、し

ばらくすると、教会が彼女のために祈ることは耐

えてなくなっていました。もう、彼女を個人的に

知っているクリスチャンは、その教会にほとんど

いなくなってしまった頃、再び、彼女のことが取

り上げられることが出てきました。でもそれは、

信仰を捨てて未信者と結婚した背教者。この世の


欲望に負けて、未信者と結婚してしまった罪人。

決して見習ってはならない悪い見本として、語ら

れていたのです。本当のところ、そのような信仰

の挫折を体験して、教会を去る者が後を絶たなか

ったというのが、実情だったからです。



 

それからさらに10年以上も経ってからの事です。

あるクリスチャンの集会に出席したとき、私はあ

の素敵な女性に再会したのです。
70歳を過ぎてい

ながら、まだあの清楚さに包まれていました。自

己紹介をしましたが、私のことは覚えておられな

いようでした。でも、若い頃、互いに近くの教会

に行っていたことが知れて、話が弾んだものです。


 

40をいくつも越えて独身の女性など、当時とし

ては珍しい存在でした。神様は彼女の祈りに、と

うとう答えては下さらなかったのです。牧師や宣

教師に教えられた通りの、純真な信仰一つで押し

通してきた彼女も、その歳になると、将来が不安

になってきました。両親も年老いてしまい、兄弟

たちもそれぞれの家庭を持っています。彼女はと

ても寂しくなったのだそうです。



 

それで、勧められるまま、10歳近く年上の二人

の子持ち男性と、結婚したのだそうです。でも、

このことはどうしても教会でお話しすることがで

きませんでした。未信者と結婚することは罪で、

信仰の敗北と教えられてきたためでした。彼女の

結婚は、惨めな罪意識と敗北感で始まったわけで

す。



 


  でも夫は優しく、すでに成人していた二人の子

どもも、喜んで彼女を迎えてくれました。彼女は

女性としての幸せの一端と、クリスチャンとして

の敗北感のなかに、自分なりの新しい信仰を見い

だしていました。それは、いわゆる立派なクリス

チャンであることよりも、神の憐れみと許しを感

謝と喜びをもって受け入れ、互いに愛し合って生

きることこそ、神に喜ばれる生き方でなないだろ

うかというものでした。



 

夫と二人だけの生活になってしばらくして、彼

女は夫を誘って大きな町の教会に行くようになり

ました。まったく事情を知らないその教会は、喜

んで二人を迎えてくれました。そして病の床の中

で夫は洗礼を受けて、平安のうちに召されたとい

うことです。



 

再びひとりとなった彼女は、自分の人生は何だ

ったのだろうと考えることがあるそうです。「ど

んなに祈っても、クリスチャン男性の数は、女性

3分の1にも及ばないのですから、神様だって、

すべての独身女性クリスチャンの祈りにお答えに

なるのは、無理な話ですよねぇ・・・・!?」ほ

っとしたのは、彼女の笑いには、少しも暗いとこ

ろがなかったことです。

 



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 
 
聖書には、クリスチャンが未信者と結婚するの

は罪であるという教えはありません。信仰の敗北

だとにおわすくだりもありません。でも、私たち

はそのように宣教師たちに教えられ、宣教師に教

えられた素直な牧師たちの、ほんの少しだけ聖書

を捻じ曲げた説教に慣らされて来たのです。未信

者との結婚を禁じている教会の多くは、外国人宣

教師の影響が強くて比較的新しく、ちょっとだけ

カルト的要素を持ってしまったといえるでしょう。
 




  嬉しいことに、最近はかなりの数の牧師たちが

この誤りに気付いて、正しく聖書を教えているよ

うです。神様の人間に対する基本的なご計画は、

男と女が結婚によって結ばれることです。クリス

チャンであるかないかは、この基本を超えるほど

の重大事ではないのです。






posted by まさ at 22:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月16日

真実と事実 (1)


あくまでも「比較的」の話ですが・・・・・。

日本人を始めとするアジア人は、物事を曖昧に、

ぼんやりと判断します。その点、欧米人はきちっ

と、明確に断定します。日本人が煮え切らない答

え方をすると、欧米人はいらいらしてしまいま

す。日本人は欧米人のきつい線引きに納得できま

せん。これは特に、「嘘と本当」の判断で大きな

違いになって現れます。



 

多くの欧米人にとって、嘘とは事実に反したこ

とを言うことです。でも日本人にとっての嘘は、

そんなに単純ではありません。日本人は、語ら

れた言葉が事実であるかどうかよりも、むしろ語

られた言葉の動機を問題にします。もちろん、こ

れは程度の差の問題です。英語でも、ホワイト・

ライ、「白い嘘」という表現がある通りです。つ

まり善意の嘘という意味です。でも一般的には、

西欧人にとって嘘とは悪であり、嘘をつくことは

罪なのです。それが、日本では社会の円滑油と言

われるほど、だれもが嘘には大切な役割があると

認めています。



 

これは多分、長い歴史に培われた生活習慣によ

るところが大きいでしょう。日本人は長い間、稲

作というもっとも定住性の強い生活をしてきまし

た。その上、四方を海に囲まれ、小さな土地に縛

り付けられ、さらに国境を越えて旅をすることは

極度に制限されていました。大部分の日本人は、

生まれたときの隣人はそのまま死ぬときまでの隣

人という環境の中で、互いに何もかも知り尽くし

て、仲良く協力しながら生きることをもっとも大

切として来たのです。「和をもって貴しとなす」

です。(聖徳太子十七条憲法第一条)そのような

中で、相手のことを思って嘘をつくことは、大切

な思いやりの表現でした。だから日本人は平気で

「俺は嘘つきだ」と言えるのです。


 

でも、移動性の激しい大陸の生活では、和を求

めることはほとんど不可能でした。いつ隣の部

族、隣の民族、隣の国が攻めてくるかわからない

のです。中東の古代帝国やローマ、さらにはモン

ゴル民族の世界制圧を見れば分かるとおり、いつ

なんどき襲われ、蹂躙され、破壊されつくすかも

知れないという、危機感と恐怖の中に生活してい

たのです。隣の民族ならば言葉もいくらか通じた

ことでしょう。でも、何千キロも離れた異民族が

突如、大挙して襲撃してくるのです。自分の家

族、部族、民族、同じ言語を話すもの同士なら

ば、思いやりも通じたことでしょう。心の機微を

察することも、琴線に触れることもあり得たでし

ょう。しかし、彼らは互いにさっぱり分からない

人々、恐ろしく野蛮な敵たちと常に対峙していた

のです。



 

だからと言って、人間はいつも戦っていたので

はありません。悲惨な破壊をもたらす戦いより

は、通商をしたほうが互いに益であると知ってい

たからです。でも、互いに知らない人々が売り買

いするときのことを考えてみてください。背後の

いきさつや目に見えない苦労、家庭の事情や、将

来の付き合いまでも配慮して売り買いすることは

ありません。「ちょっとできは悪いが、あいつの

将来を見込んで買ってやった」だとか、「あいつ

のお袋が長あいだ間寝込んでいるから、多めに入

れてやった」などという思いやりはおこらないの

です。



 

そこで大切なのは事実です。その壷はしっかり

焼かれているか。その布は良く織られているか。

その刀は充分に鍛えられているか。その奴隷の筋

肉は丈夫か。その羊は健康か。みな、事実を見極

めようとします。事実だけが大切で、事実だけが

物を言います。言葉が通じればたくみに売り込み

をします。売るためには悪い品も良いと言いま

す。これは買い手にとっては嘘ですが、売り手に

は良い品であって事実です。こういう嘘は許され

るのです。この場合、騙されるほう、事実を見極

められないほうがが悪いのです。結局、事実を見

定め、事実によって判断するわけですから。



 

一方、移動性が激しいと、旅の恥は掻き捨てと

いわれるように、二度と会うことがない人たちと

の接触が多くなるために、いつも嘘が付きまとう

のも事実です。それだけに、共に住む者たちとの

間では、逆に事実が重んじられるようにもなりま

した。移動性の激しいアラブ系の人々は一般に、

平気で嘘をつくと言われますが、仲間たちの間の

信義は非常に厚く、嘘は、それこそ舌を抜かれる

くらい、厳しく罰せられそうです。

 



 定住性の高い生活の中では、悪い品を良いと言

って売ることはできません。次の日には「お前の

ところで買った山刀は、見てくれだけだ、もう刃

が潰れてしまったぞ」と、突っ返されるのが落ち

です。ですから、嘘をつかないと言う感覚にもい

ろいろあって、細かく説明していたらそれだけで

何百ページの本が出来上がります。ともあれ、一

般的に言えるのは、移動性の激しい生活環境に生

きる人々は、人の心の真実さよりも、事実である

かどうかを大切にし、事実に反したことを言うの

を、嘘と言って嫌う傾向にあるのです。

 



  大陸で移動性の激しい営みを何世紀も重ねてき

た欧米人にとって、生活の中でもっとも大切なこ

とは事実です。生活は事実を軸にして回るので

す。社会は事実を基盤に成り立っているのです。

そのような社会で、事実に反したことを言うの

は、最も憎まれること、もっとも嫌われ、もっと

も蔑まれることとなるわけです。



 

もちろん、西欧人のすべてが移住性の激しい民

族だったわけではないかもしれません。色々な文

化的要素が加わって、複雑に絡み合い、すんなり

と「事実」の文化が出来たわけではないでしょ

う。それでも、日本などと比べると、西欧人は圧

倒的に事実を重んじる人々です。じっさい、一般

的西欧人の多くは、事実と真実とを同じものと考

えているほどです。「
fact と「truth を混同し

ているのです。



 

このような人たちが聖書を読んだら、どんなこ

とが起きるでしょう。多くのクリスチャンは、聖

書は誤りのない神の言葉だと信じています。だか

ら聖書に嘘は書かれていないと信じています。そ

してそれはそれで正しいのです。だから彼らは、

たとえば、聖書の最初に書かれている天地創造の

物語も、真実の物語であると信じて疑いません。

そしてそれも間違っていません。私もそう信じて

います。神様が真実の物語として、とてもとても

大切な真実の物語として、人間にとって非常に重

要な「
truth」として、書き与えてくださったので

す。



 

ただ西欧の人たちの間違いは、天地創造の物語

を「
fact」、事実と理解してしまったことです。

これは嘘いつわりをお嫌いになる神のお言葉だ。

だから真実だ。真実であるとは事実であることだ

となるわけです。しかも近代的に事実を突き詰め

ると、まさに科学的事実、物理的事実となってし

まいます。真面目なクリスチャンの多くが、いま

だに天地創造の物語の細部すべてに至るまで、事

実だと信じて、一生懸命に科学的知識を駆使して

それを証明しようとしています。



 

たしかに創世記の創造物語は神の言葉です。荒

唐無稽な神話ではありません。神の真実、人間を

生かす真実の物語です。しかしそれは事実ではな

いのです。日本人の柔軟な考え方をもってする

と、このあたりのことがなんとなく理解できるは

ずです。ただ残念なことに、西欧的教育を受け、

西欧的指導に慣らされてしまった多くの日本人牧

師は、欧米的教育にならされて柔軟なものの考え

方を失って、真実イコール事実と考えてしまいが

ちなのです。

  


 聖書で言う真実は事実ではありません。事実は

人を生かしませんが、真実は人を生かすのです。

キリストが「私は道であり、真実であり、いのち

である」とおっしゃった通りです。

          
                             つづく








posted by まさ at 15:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真実と事実 (2)


 聖書の天地創造の物語を、嘘だと言う人も本当

だと言う人も、嘘とは事実に反したことという理

解があるようです。事実と言うならば、現代人は

科学的事実を最優先します。だから、天地創造の

物語は科学的に事実かどうか、証明できるかある

いは否定できるかと、実のない議論を際限なく続

けることになるのです。いつまでたっても、科学

的には証明も否定も出来ません。あまりにも人間

能力を超えた問題だからです。


 

天地創造の物語は、神が真実を伝えようとした

物語です。その中には多くの基本的事実が含まれ

ていますが、細部に至るまですべて事実と言うの

ではありません。事実ではありませんが嘘ではな

いのです。それは表現の方式であり、伝達の方法

なのです。今から
3,500年ほども前に生きていた

人々に、非常に複雑で絶対に理解できない出来事

を単純化して伝え、その中で、人間らしく生きて

いくにはこの上なく大切な真実を語ったのです。

3,500
年前に生きていた人に、天地創造の事実を科

学的に、物理学的に正確に語り聞かせたとして

も、何の益もありませんでした。多分それは天文

学も、理論物理学も、地質学も、生物学も飛躍的

に進化した現代にあっても同じでしょう。多くの

一般人にとって、実質的には、円周率を
1万桁暗

記するのと同じように、無意味なことです。神が

創世記の始めで伝えたかったのは、そんな無意味

なことではなかったのです。

 



 神が伝えたかったのは、人間がいかに生きるべ

きかという問題でした。それは現代人と同じよう

に、
3,500年前の人々にも重要でした。創世記に

記されていることは、時代と場所を越えて、人間

にとってもっとも大切な生き方の問題なのです。

まず、当時も今も同じですが、人々は本能的に神

を信じていましたが、その神のことがさっぱり分

からず、犬の神、豚の神、鷲の神、山の神、海の

神と、様々な神々を恐れ、拝んでいました。その

ような人々に、神は、私こそ天地を造った神であ

る、あなた方の神として恥ずかしくない、力ある

神である。他の神々とは比べることが出来ない

神、信頼と怖れと賛美と礼拝にふさわしい神であ

ると、自己紹介をしてくださったのです。

 


 
 これは単なる事実ではなく、人間の生活にとっ

て最も重要な、真実でもあるのです。天地を創造

し、時間と空間と物質を超越した神が存在するだ

けでなく、その神が人間に大きな関心を持ってお

られるというのは、人間の生き方、考え方、価値

観、死生観に決定的に影響する事実だからです。

さらに、この神が自然に秩序を与え、支えていて

くださるという事実も、人間の生活に決定的影響

を及ぼします。自然科学というのは、神が自然を

支えていてくださる法則を学んでいるに過ぎませ

ん。自然科学の恩恵とは、神の法則を学びそれを

利用する恩恵に過ぎないのです。


 

 また、人間も神によって作られていると言う事

実も大切です。しかも人間だけが神に似せて造ら

れていると記されているのです。人間は単なる偶

然の産物、進化の結果で、そこに意味も意義もな

いのではなく、全能の神のご意思によって造ら

れ、目的に従って造られているのです。それは、

愛である神の優しさをたっぷりと受け、また神を

慕って生きることこそ、人間の本来の生き方であ

る事を教えているのです。神に似せて造られたと

いうことは、神と同じ霊的な性質をもち、本能と

して、神を感じることが出来るようにされている

ということで、本能的に神を求めるようにできて

いるということです。ですから、人間はすべて宗

教を持ち、神を求め、祈るのです。それがなくて

は、人間はどんなに恵まれた環境にいて、どんな

に贅沢な生き方をしていても、決して満足するこ

とはできないのです。

 



 さらにまた、人間は愛の神に似せて造られてい

ますから、本能的に互いに愛し合って生きるよう

にされています。人間が一人ではなく、社会を作

って生きる理由です。その社会の最小単位が、一

人の男と一人の女の結びつきである結婚生活で

す。人間は結婚するように造られているのです。

それは単なる肉体的結びつきではなく、人間とし

てのもっと深いところでの結びつきです。

 



 このようなことが、あの創造の物語の中に基本

的事実として記されているのです。しかし、くり

返しますが、細部に至るまで事実が記されている

のではありません。たとえば、様々なものが造ら

れた順番だとか、作られた時間などと言うものに

はほとんど関心が払われていません。そのような

ところを事細かく科学的事実、歴史的事実に基づ

いて語っても、ただ長ったらしくなり、覚えにく

くなり、記憶しづらくなるだけで、当時の人々に

はまったく益がなかったからです。


 

ただし、神が六日間ですべてのものをお造りに

なり、七日目にはお休みになったと言う物語は、

特別な意味があります。これはあえてこのような

言い方がされたと考えられるからです。当時、こ

の創世記と言う書物を与えられた人々は、数百年

にわたって過酷な奴隷生活を強いられてきた人々

でした。それが突然、神によって開放され、自由

を与えられたのです。自分たちで、しっかりとけ

じめのある生き方を始めなければなりませんでし

た。民族としても、個人としても必要だったの

は、けじめのための定め事、生活の枠、あるいは

箍(たが)とも言うべきものでした。

 



 神は、あなた方を奴隷の生活から解放したのは

私である。この私こそ、天地を創造した力ある神

であると自己紹介をし、あなたたちすべてを導

き、必要を満たし、あまたの敵から守ることが出

来る神であると保証を与えた上で、規律のある生

活をしなさいと安息日を定めてくださったわけで

す。安息日とは、すべての労働を休み、神を礼拝

する日として定められた特別な日です。一週間に

一日の割合で肉体を休め、神を礼拝することによ

って、他の動物とは違い、神に似せて造られた人

間としての、豊かな生活が出来るように定めてく

ださったのです。

 



 奴隷として押し付けられた生活をしていたため

に、日常生活の基本的基準がまったく出来ていな

かった人々に、きちっとして基準を与えること

が、神の名を冠せられたイスラエルの人々には、

極めて重要でした。その重要事項を重要事項とし

て伝えるために準備されたのが、六日間ですべて

のものを創造して七日目にお休みになったとい

う、理由付けを設けることでした。

 


 このようなやり方、このような話し方は、イス

ラエルの文化では認められていることであって、

嘘ではないのです。もしも正直ということが、完

全に科学的事実にのっとった表現しか出来ないと

いうことだったら、世の中、味気なくなります。

科学的事実としては地球が自転していても、太陽

東から「昇り」、西に「沈む」のです。
 





 六日間働いて一日休むと言うリズムのある生活

は、現代の日本人などには、非常に大切なことだ

と思いませんか。働きすぎで、社会も個人も家庭

も病んでいるではありませんか。





posted by まさ at 15:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

素敵な独身クリスチャン女性


 アメリカにユタ州というところがあります。モルモン教(末日聖徒イエス・

キリスト教会)の人々が未開の荒地に住み着いて設立した州で、数年前

に冬季オリンピックが開かれた、ソルトレイクシティはその首都ですね。

あんな荒地に住み着いて州まで創り上げるには大変な苦労を重ねたに

違いありません。




 彼らがユタに辿り着くまでも苦難の連続でした。まだ創立されて間もな

かった頃の彼らの宗教は、行くところ行くところで拒絶されて、どこにも留

まることができなかったのです。理由は簡単です。彼らはキリスト教を名

乗ってはいましたが、実際にはキリスト教の基本的教えの多くを否定して

いたために、多くの人々に嫌われてしまったのです。でももっと大きな問

題は、彼らが一夫多妻を実行していたことです。それが、放浪したすべ

ての州の法律に反し、排斥されることになったのです。


 

  当時、女性信徒の数が圧倒的に多かったのに、同じ信仰仲間以外と

の結婚を禁止したことが、一夫多妻制を進めなければならなかった理由

でした。多くの妻を持つのは祝福の証拠だと教えられ、教祖だった人物

は、七人の妻を持っていたといわれています。




  彼らがユタに定住して州を創設して合衆国に加わろうとしたとき、当然

一夫多妻制が障害となりました。そこで彼らは、アメリカ国内では実際の

一夫多妻は廃止し、霊的一夫多妻というなんだか分からない教えを始め

ることになりました。


 どのような宗教でも、創立当初は女性信者が圧倒的に多いようです。と

ても創立当初と言えるほど若くはありませんが、信徒の数から言うと、む

しろ創立当初の状態に近い日本のキリスト教会も、圧倒的に女性信徒が

多い状態です。そして、多くの教会では信徒が未信者と結婚することを

「罪」と断定して禁止しています。罪とまでは教えない教会も、あまりよろ

しくないこと、望ましくないこと、出来るだけ避けるべきことと教えているの

が現状です。




 したがって、教会にはとても素敵な独身女性がたくさんいるのです。彼

女たちは純真で、熱心な信仰者であるために、結婚できないのです。あ

まり純真でもなく熱心でもない女性たちは、教会の教えなどにあまり頓着

せずに、平気で未信者の男性と付き合い、さっさと結婚してしまいます。

そして平気で夫となった人を教会に連れて来たりするのです。そんな夫

婦が、やがてしっかりと聖書の教えを理解して、立派なクリスチャン家庭

を築き上げることになったりするのですから、人生は面白い。


 でも、純真で熱心な女性信徒は、まず、未信者の男性とお付き合いす

ることに罪意識を持ってしまいます。しかし、教会の中には素敵な男性は

おろか、適当な男性さえいないのです。だんだん歳を重ねると、家族や

親戚、周囲の人が黙っていません。それで、仕方なしに、信仰の敗北を

感じながら、勧められた未信者の男性と見合いをし、お付き合いを始め

ることになります。




 お付き合いを始めると、クリスチャンとはいえ適齢期の女性です。男性

の魅力に惹かれてしまいます。それで、いよいよ罪意識が強くなり、自分

が惨めになって教会に行くのも辛くなります。お付き合いを始めた男性を

教会に連れて行ったり、牧師や信徒に紹介したりするなど、とても考えら

れません。信徒たちの非難の目を予期し、牧師の叱責の言葉を覚悟し

て、「敗北の信仰」をさらさなければならなくなるのです。





  こうしてこの心優しい適齢期のクリスチャン女性は、教会に来なくなっ

てしまいます。はじめから罪悪感と敗北感を持って結婚するのですか

ら、長い年月がたっても夫を信仰に導くことができません。それどころ

か、自分の信仰さえ保つことが困難になるのです。そんな姿を見た、他

の真面目なクリスチャン女性は、ますます信仰をかたくなにしてしまい

ます。「私は彼女のような敗北者にはなりたくない。絶対に未信者とは

結婚しない。はじめからお付き合いもしない。もしも、神様が私に結婚さ

せたいとお望みなら、必ず良い男性を与えてくださるはずです」と思い込

んで、ただただ熱心にお祈りするだけで、歳を重ねてしまうのです。かくし

て、どんな小さな教会にも、婚期を過ぎたとてもとても素晴らしい独身女

性が、一人か二人はいるようになるのです。

 クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならないと言う律法も、定

めも、教えも、約束事も、聖書にはありません。もしも聖書がそのように

教えていると言う人がいるなら、その人の聖書の読み方が間違っている

のです。ただ、設立当初の宗教団体は信徒を失うのを恐れて、信徒同士

の結婚を強く勧めるあまり、未信者との結婚を禁止してしまうことが多い

のです。日本に来た宣教師たちも例外ではありませんでした。この異教

文化の日本で未信者と結婚してしまったら、信仰を守り通すのは難しい

と勝手に判断して、信徒同士の結婚を勧めました。それが高じて、未信

者との結婚を「罪」とまで教えるようになったのです。結果として、信仰の

敗北を味わう多くの女性を生み出し、信仰の勝利をもって独身を貫く女性

を増やしてしまったわけです。




 人間は本来、結婚するように造られているのです。結婚は、人間の生き

方の基本であるというのが、聖書の教えです。もちろん、すべての人が

必ず結婚しなければならないというのではありません。使命のため、働き

のため、目的のために結婚を犠牲にすることもあり得ます。偉大な使徒

パウロもそのようにした一人です。でも蟻は蟻のように生き、キリギリス

はキリギリスのように生きるのが正しい生き方です。イソップ物語と違っ

て、聖書はキリギリスが蟻のように生きることを薦めてはいません。人間

は結婚して家庭を持つように、そして子どもを持つように造られているの

です。造られたように生きるのが、人間らしい生き方です。人間は、その

中に生きる喜びを感じられるように、造られているのです。特別な理由が

ない限り、結婚を禁止してはなりません。




 もちろん一般的に言って、人生観や価値観、あるいは生活習慣が良く

似ている人同士が結婚するのが、望ましいでしょう。菜食主義を貫こうと

している人が、肉ばかり食べたい人と結婚すると、日常生活に苦労しま

す。ウインドウショッピングが大好きなクリスチャン女性は、たとえ同じクリ

スチャンであったとしても、緑に囲まれて牛馬の堆肥をかき混ぜながら、

自然に生きることこそ最高だと言う男性とは、結婚しないほうがいいでしょ

う。むしろ、クリスチャンではなくても、同じ生活環境を楽しむことが出来

る人を選ぶほうが賢い選択です。




 もしも、この文章を読んでくださっているあなたが、独身クリスチャン女

性だったなら、どうか、同じ生活感覚を持っている男性、同じ趣味を持っ

ている男性、より多くの共通要素を持っている男性を見つけて、結婚して

ください。未信者でもかまいません。そして幸せな家庭を作ってください。

人間は結婚して家庭を作り、その中で幸せを感じるように造られているの

です。その幸せの中で、自分の信仰を朗らかにお話してください。永遠の

いのちの望みについて、話してあげてください。聖書のお話も、遠慮せ

ず、また意固地にならずお話しましょう。「あなたと一緒に永遠に生きたい

の」と甘えてあげるのです。



 もちろんお付き合いしている間に、てらわず恐れず、自分の信仰につい

て明るくお話し、自分がクリスチャンである事を認めてもらうことが大切で

す。多くの場合、素敵なクリスチャン女性は、一般の男性にとって魅力的

です。お付き合いの段階で、「彼」を信仰に導くことが出来ることも多いよ

うです。「貴女」が未信者とお付き合いしていることに目くじらを立てる、

「貴女」の牧師の事ですか? 聖書を知らない可愛そうな牧師にも、神様

の恵みがあるようにお祈りして上げてください。







 

posted by まさ at 20:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月21日

科学的という文化(1)


 思い出が、みな美しいものになりかかっている

「あの頃」のことですが、私はいつも多くの悪友

たちに取り囲まれて、大声で議論をしていまし

た。ずいぶん馬鹿にされ、揶揄もされ、「憎った

らしい奴」もいたものですが、今となっては、全

体が楽しい思い出です。歳を重ねた人間が、幸せ

に生きられるように、苦しかった過去、辛かった

過ぎ越し方はみな忘れ、楽しかったことだけが何

時までも残るように、神は人間を設計してくださ

ったのだと思うと、嬉しくなります。


 


 クリスチャンになりたてのときから、自分がク

リスチャンになったことを誰はばかることなく公

言し、弁論大会でも、どうどうと聖書の話をして

いましたので、千人近い生徒がいた高校の中で

も、私のことは知れわたっていました。それで議

論の好きな者たちが、いつも私の鼻をへし折ろう

として集まってくることになりました。始めは小

さかった理論闘争の場がだんだん広がって、他の

組だけではなく、上級生や、下級生も加わるほど

になったのです。私の屁理屈にへこまされた者た

ちがさらに本を読み返しては理論武装をしたり、

もっと頭と口の達者なのを連れきたりしたわけで

す。他の宗教の信者も、自称唯物論者も、マルク

スに被れている奴も、当時反キリスト教哲学者で

平和論者として有名だった、バートランド・ラッ

セルに傾倒している女子論者もいました。

 


 
 親しい友人だったのに一番の論敵だったのが、

同じ部活にいた一級上の男子でした。隣町の住職

の息子で、彼との議論はかなり哲学的になったも

のです。京大に入学したその年に、彼は、バイク

の事故で他界してしまいました。「俺は坊主とし

て金儲けして、死ぬ前にはお前のところに行って

クリスチャンになってやる」と言っていた彼が、

私のところに来ないまま逝ってしまったのは、楽

しいことだけが残るはずの記憶の中で、たったひ

とつ、心を疼かせるものです。



 

そのような議論の中で、よくも飽きずにくり返

すものだと思うほど持ち出されたキリスト教批判

は、「非科学的だ」というものでした。当時の世

界の思想の流れからはだいぶ取り残されていた日

本人たちは、科学に絶対の信頼を置くようになっ

ていました。というより、やっと「神風」だの

「大和魂」だのという狭い精神主義から解き放た

れて、西欧ではすでに爛熟期を過ぎていた、科学

万能主義に連れてこられたばかりだったのです。

私の友人たちは、それが
20世紀の後半に生きるも

のの正しい哲学だと、信じて疑わなかったようで

す。「科学的」という時代遅れの考え方が、戦後

の日本に広がっていた文化でした。いまになって

もまだ、同じようなことを言う人たちがいること

には、いささか驚かされますが・・・・・・・。


 

  
キリスト教は非科学的だと言う論点はいくつ

かに要約できました。「目に見えないものは信じ

られない」、「科学的に証明されないものは不確

実であり信じるに足りない」、「処女降誕をはじ

めとする奇跡物語は非科学的である」などが特に

くり返された議論ですが、少しばかりキリスト教

や聖書そのものを学んで議論する者は、「天地創

造の物語は荒唐無稽である」とか、「プロテスタ

ントキリスト教が信仰のよりどころとしている聖

は、非常に古いもので、それが現代に至るまで、

正確に伝えられているとは考えられない」と、ま

るで専門家のような議論さえ出てきたものです。
 



  
当時と比べると、今の科学は格段に進歩してい

ます。進歩すればするほど、真面目な科学者は、

自分たちが理解していないことを理解するように

なり、以前のような断定的なものの言い方はしな

くなりました。また当時、キリスト教は非科学的

だと断じたいくつかの論点は、逆に、論点自体が

非科学的だと分かってきたのです。当時でさえ、

わかっていたのですが、わが論敵たちには分かっ

ていなかっただけのことです。
 



もっとも愚かな「科学的攻撃」は、目に見えな

いものは信じられないという主張です。ほんとう

にびっくりすることですが、つい最近も、かなり

名を知られている評論家が、自分は目に見えるも

のしか信じないと、得意げに語っているのを聞い

てあきれてしまいました。

 


目に見えるものと言うのは、目と言う極めて限

られた能力の器官に捕捉されるものと言う意味で

す。ところが、目と言う器官では捉えられないも

のが、世の中には限りなく存在します。ほんとう

のところ、目に捉えられるもののほうが少ないの

です。網目が
1mの網で3cmの魚を捕まえること

が出来ないのと同じです。網目が
1mでは、鯨か鮫

かよほど大きなものしか捕らえられません。大多

数の海洋生物は網の目をくぐって逃げてしまいま

す。この広大な宇宙の中で、人間の目は
1mの目の

網よりももっと大雑把でありながら、限りなく小

さいです。

 


  そのような目に捉えられない、つまり見えない

ものは信じられないと言うのはまったく非科学的

なのですが、それが非科学的であることさえ知ら

ない人が科学的な議論をしようというのですか

ら、ややこしいのです。



 

現代の科学はもっともっと進んでいます。この

宇宙には、人間の目で捕捉されるものよりも、捕

捉されないもののほうが圧倒的に多いことが知ら

れています。何しろ、いまだに物質であるかどう

かさえはっきりわからないために、とりあえず

「暗黒物質」と呼ばれるものの存在が、大きな謎

として、話題になっている時代です。理論的にそ

れが存在しなければならないと言うことは、すで

80年ほども前から世界中の専門家たちの話題に

なっていて、あらゆる調査が進められています

が、いまだにその存在を実験的には捉えることが

できないままです。これが「暗黒」と呼ばれてい

るのは。ブラック・ホールと同じ意味で、暗黒な

のではなく、実態が皆目分からないという意味で

「暗黒」なのです。

 


 数年前まではこの不可思議な存在、物質かどう

かさえ良く分からない存在が、宇宙の全存在の

96%以上を占めているといわれていましたが、

今は、その中の73%はエネルギーであると、考

えられるようになっているようです。今この面の

研究は、世界中で膨大な費用と人材をかけて競い

あっていますので、次々と新しい考え方や、研究

結果が出され、刻々と変化をしています。日本の

専門家がこの研究に大きな功績をあげる可能性も

あります。でもこんな話は専門家に任せておきま

しょう。




   
私が言いたいのは、神と言う存在は、目に見え

ないと言うことです。また、目に見えないからこ

そ、無限であり、絶対なのです。目に見えるもの

はあらゆる意味で有限なのです。目に見えないか

らこそ、神は目に見える物質の世界を超え、物質

の次元を超越した存在なのだと言うことです。目

に見える神は、聖書で教える神ではなく、私が崇

める神ではないのです。私の神は目に見える神で

はなく、目に見えるものをもお造りになった神な

のです。
 


                  つづく

posted by まさ at 10:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月22日

科学的という文化 (2)


 いろいろな国の人たちと話し合ってみると、日

本人の間には「科学信仰」とでも呼ぶべき宗教が

あることに気付きます。日本人の間でクリスチャ

ンの信仰について話をすると、「科学的に証明さ

れないものは不確実であり信じるに足りない」、

と主張する人が必ずでてきます。他の国の人たち

の間では、ほとんど考えられない現象です。この

ようなところに「科学」を持ち出すことは、まさ

に、日本文化のひとつです。
    



 世界の歴史から見ると、現代の科学的思考の源

流は、ルネッサンスに遡ることが出来ます。そこ

から啓蒙思想、合理主義、自然科学と進み、急速

な科学の発展と共に、科学さえ進歩すればすべて

の物事はうまく行くという、安易な科学至上主義

が出現し、科学信仰が生まれました。この科学に

対する期待は、欧米においては19世紀後半から20

世紀の初めに頂点を迎え、ちょうど現在の日本人の

ように、単純に、科学の未来にばら色の期待を抱

く人が大勢あらわれました。
    



 ところが20世紀に入る頃から、欧米人たちの科

学信仰には、すでにかげりが見え始めていたので

す。特に1929年に始まった世界恐慌と、1939年に

始まった第二次世界大戦は、多くの人々が抱いた

「科学によるばら色の未来像」を色あせたものに

してしまいました。そして1945年、科学の粋を集

めた原爆が大量殺戮に用いられるに至って、科学

への信仰は崩壊してしまったのです。ところが日

本では、逆の現象が起こりました。狭い精神主義

で大戦に敗れた経験から、欧米の科学主義に対す

る憧憬が起こったのです。
   



 西欧に対する羨望と、明治時代に培われた西欧

に追いつき追い越せの精神が、「科学的に証明さ

れないものは不確実であり信じるに足りない」と

言う科学至上主義につながったようです。いまも

この科学至上主義という信仰は、大部分の日本人

の心に定着していると思われます。これは純粋に

信仰ですから、科学的証明がまったく伴わないも

のです。これに良く似たものに、日本人の国連に

対する単純な信仰をあげることができるでしょ

う。
   



 それで、科学的証明を大前提とする科学から、

科学的証明を抽出して捨ててしまった科学信仰が

出来上がり、そのおかしなものをもって、科学を

超越している、クリスチャンの神信仰の正否を判

断しようと言うのですから、ますますおかしなこ

とになってしまうのです。
   



 この世の中のことすべてを、科学で証明したり

説明したりすることが出来ないことを、私たち

は、科学的事実として受け入れなければなりませ

ん。証明も説明も出来ないと言うことが証明され

ているのです。たとえば、つい最近大いに話題に

なっている暗黒物質や異次元の存在は、いまだに

科学的には証明されていません。理論的には存在

すると、ずいぶん前から言われて、何とか科学的

に、つまり実験的に証明しようと最先端の科学者

たちが競っていますが、なかなか思うに任せない

でいるのです。
   



 理論的には、暗黒物質は全宇宙に存在するもの

の96%を超えると言われていますが、それが何

であるかは分かっていないのです。物質なのか物

質ではないのかも分かりません。物質ではない存

在とは何なのでしょう。最近は96%の70%以上

は、多分エネルギーだろうと言われるようになり

ましたが、「エネルギーって、物質なの?」「物

質に関係のないエネルギーって存在するの?」な

どと尋ねられると、もう、私にはお手上げで

す。
   



 私たちが信じている神は、「はじめに天と地を

お造りになった」神です。天と地が存在する前

に、「霊」として存在し、天と地という言葉で表

現された物質をお造りになった神です。また時間

と言う概念も物質と深くかかわっていますが、神

は物質と共にこの時間を造り、時間を超越してお

られる方です。「はじめに」というのはそういう

ことです。私たちの神ははじめから、現代科学の

限界、物質の世界、時間と空間の世界を超越した

存在者なのです。
  



 
私たちの神は「霊」という存在で、次元を超

え、いくつもの次元を支配しておられる方です。

いまの先端の理論物理学の世界では、この異次元

の存在をも、実験的に、つまり科学的に証明しよ

うとして躍起になっています。でも私たちの神は

はじめから、ひとつの次元に閉じ込められる神で

はなく、次元を超越しておられる神です。聖書を

ちょっと読むだけで、私たちの神が次元を超越し

ておられる神であること明らかです。ただ少し前

までは、次元などと言う言い方なかったために、

他の表現が用いられているだけの話です。死後の

世界、天の世界、永遠のいのち、裁かれたものが

行く世界、天使だとか悪霊だとか悪魔だとかの世

界などなど、他にもたくさんありますが、みな私

たちが生きている次元ではなく、異次元なので

す。
  


 
 
その神を信頼して生きるのがクリスチャン信仰

です。それを科学で証明できないから、信じるに

足りないと言うのは、ミミズが自慢をして、お前

はミミズではないから動物ではありえないという

よりも、もっと愚かです。ミミズの全存在をかけ

ても、鯨を説明することは出来ません。



 
 一方、宗教は科学を超越していると言って、

平気で科学的に証明されていることを否定する宗

教もあります。科学的に証明されていることを否

定するのが、宗教ではありません。科学とは、神

が創造したものの存在の法則を見つけ出し、それ

を利用して人類に役立てようとするものです。で

すから、科学が純粋に科学の分野に留まる限り、

私たちの信仰と矛盾しないのです。科学では、神

の存在を否定することも、肯定することも出来ま

せん。それは科学の範疇を超えているからで

す。
  



 
数年前のNHKの番組で、世界的な物理学者が

異次元の存在の可能性を説き、その存在を実験的

に証明しようとしている、国際協力による巨大な

実験施設の話をしていました。たしか、直径9km

のドーナッツのような施設で、その中に電子を飛

ばし、中性子が飛び出して衝突し、陽子が消滅

し・・・・となんだかさっぱり分からない話をし

ていました。ただその話によると、いま私たちの

身の回りに、私たちと同時にまた同じ場所に、違

う次元の世界がある可能性が大きいのだそうで

す。私たちの目には見えず、他のどの感覚にも触

れず、あらゆる科学的実験の目を通り抜け、絶対

に捉えることができない4次元の世界、5次元の世

界が存在し、その中にまた、いまの私たちの世界

とほとんど同じの、3次元の世界が存在するかも知

れないというのです。
   



 ちょっと想像してみてください。そんな話、追

いついていけますか?でも、私たちの神は、はじ

めから、この次元を超越した存在者で、すべての

次元を支配しておられる方なのです。聖書は、明

らかに次元を超えた神について、しばしば語って

いるのです。ちなみに、一箇所だけ引用してみま

しょう。
   



 「神は、その全能の力をキリストのうちに働か

せて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天

上においてご自分の右の座につかせて、すべての

支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世が

かりでなく、次に来る世においてもとなえられ

る、すべての名の上に高く置かれました」(エペ

ソ書120 21節)
    



 科学信仰という時代遅れの信仰が、人々の心に

定着したままの日本文化の中で、科学を超えたク

リスチャン信仰が理解されるには、ずいぶんと時

間がかかるにちがいありません。 
 


 
               
 でも一方、日本人は元々それほど科学的考え方

をしないという事実もあります。特に宗教に関し

ては、非科学的もはなはだしいことを平気で信じ

ています。宗教は非科学的でも良いと感じている

というか、この世には、科学では割り切れない部

分があると認めて、宗教がその一つだと思ってい

るらしいのです。



 西欧のキリスト教は、啓蒙思想や合理主義と戦

い、自然科学と刃を交えるうちに、知らぬ間に、

間違って科学的装いをしてしまいました。その科

学的着物を着たまま日本に入ってきたのが、誤り

だったのかも知れません。
 


                  つづく













posted by まさ at 10:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月23日

科学的という文化 (3)

 
 
 クリスチャンになるとは、非科学的な人間にな

ことであるかのようなイメージがあります。だか

ら悪友たちが、私をへこませようと挑んできた議

論のほとんどは、「科学」に関するものでした。

その中でもくり返して持ち出されたのは、「処女

降誕は非科学的である」という議論でした。思春

期を通って、やっと男女の機微について考えるこ

とができるようになった私たちには、まさに、格

好の話題でした。近くにいた女子学生たちを意識

しながら、わざと大声で議論したものです。
 




 「処女降誕は非科学的である」という、反キリ

スト教的主張は、当時、キリスト教に反対の立場

を取る人たちが、まさに真っ先に持ち出す議論だ

ったのです。つい10数年前も、ある週刊誌に一コ

マ漫画が載っていました。クリスマスの夜、おな

かが大きくなった娘を連れた親父が、相手の男ら

しき若者に怒鳴るのです。「俺に処女降誕を信じ

ろってぇのか!」処女降誕はキリスト教を揶揄す

るのに、手っ取り早い話題でもあったわけです。




 
ところがここ10年ほどは、よほどの時代遅れの

人間以外、処女降誕を持ち出してキリスト教が非

科学的だと非難する人はいなくなってしまいまし

た。何しろ、処女降誕なんて当たり前の時代にな

ったわけですから。科学をもって処女降誕を攻撃

していたのに、その科学が、処女降誕をいとも簡

単なことにしてしまったのです。動物だけにかぎ

らず、植物の世界でも、処女降誕がいたるところ

でおこなわれるようになっています。植物に処女

降誕はおかしな言い方ですが、要するに、めしべ

に花粉を付着させることなしに、結実させること

が出来るようになっているわけです。



  実は、わたしがクリスチャンになりたての頃か

ら、すでに処女降誕の可能性は、科学的に証明さ

れていました。ですから私は、そのことを記した

文献をもって論戦を勝ち抜いたのですが、無精ひ

げが生え始めた論敵たちには、信じることができ

ないようでした。確か、どこかの大学の実験室

で、ウサギの卵子をガラスの針でつついて刺激し

たところ、細胞分裂を始めたという記事だったと

思います。級友の一人がスットンキョな声を上げ

ました。「それじゃ、男の存在価値がなくなるじ

ゃないか!」「お前の存在価値はそんなところに

あるのか!?」間髪をいれず野次も飛んだもので

す。




 
動物や植物の世界ではもう当たり前になったク

ローン技術を使えば、人間でも処女降誕は可能に

なっているのです。ただ、倫理的問題が残るため

に、実際にそれをするのは許されていないだけで

す。ふつうは受精によって、新しい命は男の遺伝

子と女の遺伝子を引き継ぎますが、処女降誕は、

当然、女の遺伝子だけを受け取ることになりま

す。
 



 西欧の、半分だけ科学的を装ったキリスト教で

は、キリストの母マリヤが聖霊によってみごもっ

たのは、人間の罪の性質を断ち切るためであると

言うような言い方がされますが、正しい解釈では

ありません。たとえキリストが、養父ヨセフの性

質を受け継いでいなかったとしても、母マリヤの

性質は受け継いでいたはずです。母マリヤも人間

ですから、罪の性質を持っていたはずです。そこ

でカトリック教会では、母マリヤも罪を持ってい

なかったと主張して、「無原罪懐胎」という教理

を作り上げました。
 




 無原罪懐胎というのは、プロテスタントの人が

勝手に理解しているような、キリストが罪のない

姿でマリヤに宿ったと言う意味ではなく、マリヤ

が罪のない姿で母の胎に宿り、生まれたという意

味です。罪のないキリストを産むことができた母

マリヤは、罪のない女性でなければならないとい

うわけです。でも、こんな理屈を続けていくと、

最初の女性エバまで、罪を持たなかったことにし

なければなりません。
 




 下手に科学的知識を取り入れて、原罪を遺伝の

理屈で説明したのが、そもそも、間違いの始まり

です。でも、科学信仰が頂点にあった19世紀後半

のヨーロッパのことでしたから、しょうがなかっ

たと言う一面もあります。自分がクリスチャンだ

からといって、キリスト教の肩を持つわけではあ

りませんが、思想とか神学にはそんな一面がある

ものです。とにかく、原罪と遺伝はまったく関係

のないものです。原罪とは霊的な次元のことであ

って、物理的な、あるいは生物学的な法則に従う

ものではないのです。
 



 このように、科学信仰が広く行きわたったため

に、キリスト教も一所懸命に、自分たちは科学的

であると主張しなければならなくなったわけで

す。ただ科学が進歩するにしたがって、科学の限

界も見えてくるようになり、以前のような科学信

仰、科学至上主義は影を潜めるようになったのも

事実です。科学は、神の創造物について調べ、そ

の中にある原理・原則を見つけ出し、それを利用

する手段に過ぎないのです。
   






posted by まさ at 11:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科学的という文化 (4)



「富士に腰をかけ、大海を飲み干す」という、

なんとも人を喰ったでかい話を聞いたことがあり

ます。「万里の長城を帯に締め、イタリアを靴に

履いて、オーロラを駆け巡る」などという、大言

壮語もありました。でもどんなにでかい話も、

誇大妄想のたわごとも、聖書の創世記第1章第

1節にはかないません。「初めに、神が天と地

を創造した」と書かれているのです。


 

ただし、聖書の記述は単なる大言壮語や誇大妄

想ではありません。聖書はこれを「信じるべき事

実」として記しています。と言うより、この記述

こそキリスト教信仰の根源、土台、柱なのです。

この記述を信じないでは、キリスト教信仰は成り

立たないのです。



 

難しいことは分かりませんが、「天地」という

言葉で表現されたこの宇宙は、今知られているだ

けでも、
130億光年ほどの広がりを持っていると

言われています。でもこれを単純に、「光が
130

億年かけて行き着く距離」などと考えてはなりま

せん。
130億年かかって地球に届いた光の源は、

130
億年の間、さらに遥か向うに飛び去っている

のです。



 

それだけではありません、そもそも光の速さと

空間は一定ではないのですから、ややこしいので

す。とにかく、宇宙は「ものすごく」大きく、そ

れを言い表す適当な言葉が、科学の時代の現代で

もまだないというありさまです。ですから専門の

天文学者にたっぷりと時間をかけて説明してもら

って、難しい数式を教えられても、私などには皆

目見当もつかないのです。




 
創世記の1章1節は、そのような無限の宇宙の

始まりを、書かれた当時の人たち、つまり今から

3500
年ほども前に生きていた人々に、もっとも

わかり易く、覚えやすく説明しているのです。当

然、
21世紀の私たちに理解しやすい科学的言葉

で、覚えやすく説明されたのではありません。あ

くまでも、当時の人々にとって非常に大切で、な

んとしても知ってもらわなければならないことが

書かれたのです。


 

現代人なら、「テラノサウルスやトリケラトプ

スはどこに?」とか、「マンモスやネアンデルタ

ール人はどうした?」と尋ねるかもしれません。

「太陽が作られる前に、光があったのはどうして

?」と言った子どももいました。でも自然科学的

な興味も必要性も感じていなかった当時の人々に

は、そんなことはどうでもよかったことでした。



 

創世記の第1章の天地創造の物語は、当時の人た

ちにとってどうでもよかったことが書かれている

のではありません。神がどのようにして、どんな

順序で、どれほどの時間をかけて、天地をお造り

になったかというようなことを説明する記録でも

ないのです。人間がどのような生き方をすべきか

と言う、非常に重要なことの基本を教えたもので

す。それなのに知的探求を崇めて止まない、「科

学的という文化」に汚染された現代人が、科学的

アプローチで理解しようとしてしまったのが、そ

もそもの間違いというわけです。



 

この書物が与えられた、当時のイスラエル人が

生きていくうえでもっとも大切だったのは、自分

たちをエジプトの奴隷状態から開放してくださっ

た神を、しっかりと知り、この神だけを信頼して

生活するということでした。イスラエル人たち

は、長い奴隷生活のために、自分たちでけじめを

付けることができない生活に慣れていました。何

から何まで乱れていたのです。



 

彼らの信仰もまた、ずいぶん多様だったと思わ

れます。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と

いう、自分たちの先祖の名を冠した言葉は残って

いたことでしょう。しかし信仰そのものは、エジ

プトの神々、あるいは周囲の民族の神々で、それ

がまた生活の乱れにも繋がっていました。そのた

めに、自分たちを奴隷状態から助け出して下さっ

た神が、どのような神であるかまったく分からな

いまま、とんでもない神々を途方もない方法で祀

ることさえあり得たのです。



 

そこで神が、まずしっかりと教え込まなければ

ならないとお考えになったのは、神についての基

本的な理解です。当時は神と言う言葉でさえ、周

囲の宗教の神と言う言葉を借りて使っていていた

のです。放っておくと、どんどん間違った理解に

なってしまうことが、はっきりしていました。そ

こで神は、ご自分が周囲のあらゆる神々とまった

く違う神である事を、わずかの短い言葉で、間違

いがないほどはっきりと教えてくださったので

す。それが、「はじめに、神は天と地を創造し

た」という、とてつもなく壮大な言葉だったので

す。ですから、創世記の
1章の天地創造の物語は、

「天地創造の物語」ではなく、「神の自己紹介の

物語」だということを理解しなければなりませ

ん。



 

当時の世界にも多くの宗教があり、たくさんの

神々がありました。力の強い神も、それなりに知

恵のある神もいたことでしょう。しかし、天と地

をお造りになり、その中のあらゆる存在物をお造

りになったという、無限の力と無限の知恵を備え

持った神は、この神以外にはどこにもいません。

神は、この天地創造の物語をもって、あなた方の

信頼すべき神、あなた方が礼拝すべき神は、この

私だけなのだとお示しになったのです。そしてこ

の私が、あなた方をエジプトの奴隷状態から解放

した神であると仰っているのです。



 

この天地創造の物語には、他にもいくつかの大

切な点があります。当時の人々にわかり易く書か

れているために、現代人にはかえって難しくなっ

ているところもありますが、すこし考察してみま

しょう。それは、人間が神に似せて造られたとい

う記述です。他の動物はすべて「造られた」だけ

ですが、人間だけは「神に似せて造られた」ので

す。また、人間には神の息が吹き込まれていると

記されていますが、この「息」と言う言葉は、実

は「霊」と同じ言葉ですので、「霊」が吹き込ま

れたと翻訳することが出来るものです。



 

聖書の神の本質は「霊」であると教えられてい

ます。その神に似せて造られた人間は、物質だけ

の存在ではなく、霊をもつ存在として造られたの

です。人間の命は、単に物質の物理的反応がつく

り出す、動物的いのちではなく、霊的な命こそが

本質なのです。人間は息(霊)を吹き込まれて生

きるものとなったと書かれている通りです。さら

に人間は、神に似せられた霊を持つことによっ

て、霊である神を感じ、理解し、礼拝し、心を通

じ合わせることが出来るわけです。時代と洋の東

西を問わず、すべての人間が神を礼拝する本能を

持ち、宗教を作り上げているのはそのためです。

人間は本能的に、神を礼拝したいと願うのです。

人間とは祈る動物なのです。



 

さらに創世記第1章には、神が6日間ですべての

創造の働きを終え、
7日目にはお休みになったこと

が記されています。その上で、だから人間も
6日間

働いて、
7日目には休むようにという命令が掲示さ

れています。科学的人間は、この
6日間の創造物語

には納得ができません。しかしこれは科学的事実

を記したものではなく、人間の生きるべき姿を定

めたものなのです。科学的事実を真実と考える、

「科学的という文化」に生きる人間には、納得で

きないことかもしれませんが、当時のイスラエル

の人々にとっては、科学的事実はどうでもよかっ

たのです。大切なのは生き方でした。そこで生き

方を教えるために、このような表現法が用いられ

たわけです。



 

重大なことを伝える方法には、色々な表現が用

いられます。必ずしも科学的事実だけを用いて伝

えるわけではありません。寓話的方法もあれば、

詩的表現もあります。擬人法もあれば、物語法と

でも呼ぶべき方法もあります。現代の科学的世界

でも「太陽が昇る」と言い、「日が沈む」と言い

ます。その表現法を非科学的だからと非難する人

はいません。



 

神は、6日間ですべての存在物をお造りになっ

て、7日目にお休みになったという記述は、その

時まで、何百年もの長いあいだ奴隷の生活をして

来て、規律ある自立生活に慣れていない人々に、

集団生活の規律の基本を与えるために、用いられ

た表現方法なのです。キリストも、神がお休みに

なることはないと仰っているとおり、事実として

は、神は休んでおられないし、休みを必要ともし

ておられないのです。ただ、あえて神がお休みに

なったのだからという理屈をつけて、人間に休み

を取らせる教育方法なのです。




この6日間の天地創造物語の目的は、人間には

6日間働いて7日目には休息する生活が、一番良

いと言うことを教えることだったのです。7日目

にはただ肉体的休息を取るだけではなく、神を礼

拝することによって霊的にも力を得て、新しい命

と喜びに満たされ、また次の日から働きに付くと

いう、規則正しいリズムが人間には最善であるよ

うに設計されているわけです。



 現代の日本人にも、そのリズムが必要だと思い

ませんか? あまりにも忙しく、肉体の休息さえ

充分に取ることができず、ましてや霊的な命を大

切にすることには、思いも及びません。そのため

体だけではなく、心までも病む人が多くなってい

ます。まるで社会全体が病んでいるようです。



 日曜日には休むという私たちの習慣は、この聖

書の教えにルーツがあるのです。もちろん、いま

の私たちの社会は、3500年も昔の単純なものとは

違います。全員そろって休息を取るのは不可能で

す。でも、そのような基本を生かした生活をする

のが大切なのです。自動車には、燃料だけではな

オイルも大切です。定期的にオイルを注ぎ足し、

時には交換をしなければ、せっかくの車も傷んで

しまいます。


 
  
posted by まさ at 22:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月30日

救いに伴って私たちに起こったこと (1)




救いに伴って

     
私たちに起こったこと 


1.       救いに関連した多くの聖書的表現 


 聖書には救いに関わる言葉がたくさん記されて

います。ちょっと思い起こすだけで、
10くらいは

誰にでも挙げることができるはずです。神を信じ

る、義とされる、キリストを信じる、義と認めら

れる、新しく生まれる、神の国に入る、召される

罪が許される、神の国に生まれる、霊によって生

まれる、神の子となる、永遠の命を得る、罪に死

ぬなどなど、まだまだたくさんあります。



 

 これらの言葉を、私たちはかなり自由に使いこ

なし、あるていどは、ひとつひとつに関わる意味

を理解していると思います。救いという出来事は

非常に大きく、広く、深く、多面性があり、とて

も一つや二つの言葉で表現することが出来ないた

めに、多くの言い方があるのです。一人の人を前

から見ただけではあまりよくわかりません。後ろ

から見るとまったく別人のような場合もありま

す。左から見、右からも見、斜めからも見、上か

らも下からも見、あらゆる方角から見ることによ

って、より詳しく実物の像に近づくことが出来る

わけです。



 

 同じように、救いを「義とされる」という角度

から見ると、信仰が強調される義認論が展開さ

れ、法廷用語が用いられることになります。「召

される」という方向から見ると、神の絶対権威、

神の圧倒的な恵みの働きが強調されます。「キリ

ストを信じる」という面から語ると、人間の自由

選択、人間の意志が強調されます。時にはそれら

が互いに矛盾すると思われるほどに、先鋭化され

て議論されてきたほどです。「神の子とされる」

という言い方から考えると、父と子の愛と深いつ

ながりが浮き彫りにされ、「罪の力からの開放」

という表現を取り上げると、クリスチャン人生の

広々とした自由が謳いあげられます。

 



 ですから、救いに関わる多くの表現や用語があ

ることは、救いの真の姿を明らかにするために、

非常に重要です。とはいえ、多くの場合それらは

まるでジグソウパズルのようにてんでばらばら

で、うまい具合に繋がりません。この小文では、

救いに関わる多種多様な用語のすべてを取り扱う

わけにはいきませんが、普段あまり取り上げられ

ることがないいくつかの表現に注意を向け、それ

らを少し整理して考えてみたいと思います。それ

は、救いの教会論的側面、また聖霊論的な側面と

いえるものです。



 2.       共同体感覚で聖書を理解する


 

私たちはふつう、キリストを信じたらキリスト

に繋がるものとなるといい、キリストの霊、聖霊

を宿すものとなるといいます。そして、キリスト

に連なり、聖霊を宿した一人ひとりは洗礼を受け

ることによって、キリストのみからだである教会

に連なり、神の家族の一員と認められると教える

人たちがたくさんいます。

 



 キリストを信じたとき一人ひとりの人間は、内

住の聖霊の力によって新しい歩みをはじめ、永遠

のいのちに向かって地上の旅を始めるといわれま

す。その地上の旅の過程で、同じようにキリスト

を信じたものたちが、信仰の共同体である教会を

形成し、互いに愛し合いながら旅を続けると考え

ます。



 

 このような考え方は、個人主義が高揚された西

欧で形成された神学の、特徴と言えそうです。そ

してその西洋的神学が、いまや西欧化のひとつと

して世界中の教会を席巻しているわけです。とは

いえ、いつまでもそのような神学を許しておいて

良いはずがありません。それは個人主義という色

眼鏡で見た救いの神学、教会の神学そして聖霊の

神学です。そこでは神と個人の関係に焦点を当て

る義認論が非常に重要視され、信仰そのものが自

分と神の関係で説かれ、神の前における個人とし

ての自分が重要視されるのです。それらのすべて

が間違っているとは言いませんが、聖書の教えと

は決定的に違うところがあるのです。

 



 私たちはいま西欧化しつつある日本に住んでい

ます。ですから、知らず知らずのうちにかなり個

人主義的な考えを受け入れ、何の疑問も持たずに

それでよいと思っています。そのために、個人主

義的神学にもあまり疑問を感じなくなっていま

す。しかし、つい最近まで私たちが培われてきた

文化は、個人主義ではありませんでした。共同体

というものが生き、力を持っていた文化なので

す。たとえいまや西欧化に流され、個人主義に覆

い隠されてしまったかに見えるとしても、共同体

感覚はいまだに根深く私たちの文化と精神の中に

息づいているのです。

 



 そのような環境に育まれた私たちには、聖書が

語る救いと教会と聖霊についても、共同体という

理解と感覚を持って読むことができるのです。も

ちろん、だからといって必ずしも正しい理解がで

きるというものではありませんが、ただ、少なく

ても個人主義的神学に対する警告と、個人主義的

神学に対抗する意見の提示ができ、より多角的な

理解に繋がるはずです。何しろ聖書そのものは、

個人主義文化の産物ではなく、共同体文化の中で

生み出されたものなのですから。

 

 聖書が教える救いという出来事を見ると、たし

かに、そこには個人主義的感覚もあります。聖書

は、神のみ前における個人の尊さを認めているの

ですから、当然のことです。西欧人たちに、人が

信仰によって救いに入るのは、あくまでもその人

個人の信仰によるのであって、ほかの誰の信仰に

よるのでもないなどと教えられても、たいていの

日本人は、なるほどと感じてしまいます。ところ

が、ちょっと考えるとおかしいのです。人間とい

うものは空白の中に生まれ、個人で生きてきたの

ではありません。社会があり、家族があり、様々

な共同体の中で育ってきたもので、感じ方も考え

方も物事の判断の仕方も、決定的に共同体の影響

を受けているのです。完全に他人から隔離された

個人などというものはあり得ません。



 

 アブラハムは、家長としてあるいは族長として

自分の判断で神に従いました。彼の信仰は個人の

決断です。しかし彼の一族郎党はどうだったでし

ょう。彼ら一人ひとりの信仰が問われ、一人ひと

りの判断に任せられたのではありません。ピリピ

の獄吏は社会的地位のある家長として、自分の家

族はもちろんの事、使用人や配下の者、さらには

その家族にさえ絶大な力を持っていました。彼と

一緒にバプテスマを受けたすべての人間が、一人

ひとり個人的な信仰理解を持ち、一人ひとりが信

仰の決心をしたなどと考えるのは現実的ではあり

ません。個人の信仰ではないのです。



 3.       キリストのみからだに
         
バプタイズされた 



 クリスチャンが救われたとき、多くの出来事が

同時に起きました。神の国に入ったとか、永遠の

命を得たとか、神の子となったというようなこと

です。これらの出来事には例外がありません。私

は救われたけれど、神の国には入っていませんと

か、神の子にはなっていませんというのはありえ

ないのです。

 



 このように絶対に例外のない出来事の一つに、

キリストのみからだにバプタイズされたという出

来事があります。あらゆる背景と差異を超えて、

すべてのクリスチャンはキリストのみからだにバ

プタイズされているのです。これはTコリント
12

13節の教えですが、日本人には少々説明が必要

です。筆者この説明を他の文章でも何度かやっ

ていますが、ここでもう一度かんたんにくり返し

ておきましょう。

 



 日本語に翻訳されている公的な聖書は(個人用

ではなく、礼拝会などの公的な場で用いられるこ

とを目的として翻訳された)どれも、「すべての

クリスチャンは、一つのからだになるようにバプ

テスマを受けた」という意味の翻訳になっていま

す。すべてのクリスチャンはバプテスマ、すなわ

ち洗礼と呼ばれる儀式を受けたことによって、教

会に連なるものとなった。あるいは、すべてのク

リスチャンがバプテスマを受けたのは、一つのか

らだと呼ばれる教会に連なるためであると、理解

できるのです。

 



 ところがもともとは、つまりギリシャ語の聖書

では、「すべてのクリスチャンは、一つのからだ

にバプタイズされた」という意味であって、すべ

てのクリスチャンは、ひとつのからだである教会

に、どっぷりと浸されていると理解されるべきな

のです。私たちすべてのクリスチャンが、例外な

しに、つまり洗礼を受けていようがいまいが、礼

拝会に出席していようがいまいが関係なく、キリ

ストのみからだである教会にバプタイズされた、

すなわちどっぷりと浸けられているのです。しか

もそれは、洗礼のような人の手によるバプテスマ

ではありません。あくまでも聖霊ご自身による、

キリストのからだへのバプテスマなのです。

 


 それはまた、パウロが人の手によらないキリス

トの割礼と呼んだバプテスマです。(コロサイ
2

1112)キリストのみからだへのバプテスマは

聖霊によるものであり、人の手を通さないバプテ

スマだからです。そのキリストのみからだへのバ

プテスマは、また同時にキリストへのバプテスマ

でもありました。この議論を進めるときのパウロ

にとって、キリストのからだとキリストの間に違

いがないからです。キリストのみからだは、キリ

ストそのものでもあったのです。(Tコリント
12

12)そしてこのバプテスマは、キリストと共に

葬られるバプテスマです。
(ローマ634)です

からキリストと共に葬られるとは、絶対に、洗礼

を受けることではありません。

 



 バプタイズとは、染物をするときに染料を溶か

した液体の中に、布をどっぷりと浸す行為を言い

ます。洗濯のために着物を水に浸すことだとも言

えるでしょう。これはキリストのみからだに、単

に貼り付けられたとか、加えられたとか、結び付

けられたというよう意味より、かなり親密なつな

がりを連想させますが、それだけではありませ

ん。もっと深い意味があるのです。



 

なぜなら、すべてのクリスチャンがバプタイズ

されたキリストのみからだ、すなわち教会は、聖

霊の満ち満ちておられるものだからです。(エペ

123 教会というのは人々です。人ではなく

人々です。その人々がキリストというお方を救い

主として信じている、あるいはキリストにあって

天地創造の神と和解した人々の集まりです。一つ

の場所に集まるという意味の集まりではなく、共

に助け合って生きる共同体であるという意味の集

まりです。



 

キリストを救い主として信じる人々の共同体

は、キリスト在世当時からすでに存在していたの

ですが、その頃はまだ教会とはなっていませんで

した。それは教会になる前の共同体で、ちょうど

生まれる前の胎児のような存在でした。教会が誕

生したのはキリストが甦り、天に帰り、聖霊を送

ってくださったとき、すなわちペンテコステの日

に聖霊が降臨し、教会に宿り始めてくださったと

きのことです。キリストを信じる人々の共同体

は、聖霊を内に宿すことによって、初めて教会と

なったのです。

 



 聖霊の降臨と内住によって、教会は単に同じ信

仰と同じ人生観と同じ目的を持った人々の集まり

ではなく、聖霊と呼ばれる神ご自身に絆となって

いただいて、固く結ばれた共同体、いな、むしろ

聖霊という命、命の源に同じように生かされ、同

じ命を共有している共同体となったのです。



 

キリストのみからだである教会は、ペンテコス

テの日に誕生しました。その日にキリストを信じ

る人々の集団は、キリストの霊である聖霊を宿す

ようになったからです。聖霊を宿す、つまり神の

霊である聖霊がお住みになるのですから、教会は

神の家とも神殿とも呼ばれています。ペンテコス

テの日に生まれて以来、教会は聖霊が満ち満ちて

おられるものです。すべてのクリスチャンは、こ

の聖霊が満ち満ちておられる教会、キリストのみ

からだにバプタイズされました。

 

くり返しますが、ここでパウロが語っているこ

とは、洗礼を受けることによって正式に教会員に

なるというような、教会の組織管理の問題や信徒

の教会員登録の問題ではありません。私たちがク

リスチャンになったときに、たとえ目で見ること

はできなくても、体で感じることも出来なくても

私たちに起こった霊的な出来事、霊的な事実、霊

的現実について述べているのです。多くのクリス

チャンは自分たちに何が起こったのか、気付かな

いままでいます。五感という感覚に頼って生きて

来たものにとって、霊的な出来事に気付くことは

困難だからです。



 

たとえ気付かれないままであったとしても、霊

的なレベルではすべてのクリスチャンは、キリス

トのみからだである教会にバプタイズされ、神秘

的な結合、霊的で有機的な結合をしているので

す。また、いまほとんどのクリスチャンが、五感

を通しての体験とすることが出来ないままであっ

たとしても、霊的な次元では、聖霊の中にどっぷ

りと浸されているのです。その霊的事実をもっと

も良く表すことができる言葉、すなわち、物質の

世界を五感で感じる日常の言葉で表現したのが、

「バプタイズされる」だったのです。液体の中に

どっぷりと浸けられるという意味の言葉だったの

です。

 



 キリストのみからだにバプタイズされ、一つの

からだと呼ばれる共同体に属する前のクリスチャ

ンたちは、それぞれ異なった背景を持つ異なった

個人でした。彼らの間にはあらゆる種類の差別や

敵意があり、数え切れないほどの障害があって、

人間としての暖かい交わりを妨げていました。彼

らがたとえ一箇所に集まったとしても、共同体を

作ることは不可能でした。あまりにも多種多様で

雑多な人々であるために、人為的な組織を作り、

規約を整え、署名捺印をもって誓約し、宣誓式を

もってこれに加入するというのも無理なことでし

た。しかし、聖霊が満ち溢れるキリストのみ体に

バプタイズされることによって、契約書でも署名

でも規約でもなく、キリストの命、聖霊の作り出

す交わりによって、もっと親密で血の通った有機

的な共同体となりえたのです。



 

有機的共同体であるために、それはキリストの

み体という表現で語られたのです。有機的である

ために、すべての信徒たちはいかに小さくても大

きくても、共に同じ命をいただき共有するもので

す。強いものと弱いものが痛みを分け合いながら

生きる共同体であり、弱いものが強いものの強さ

を生かして喜び、醜いものが美しいものの美しさ

を際立たせて喜ぶことが出来るようになっている

のです。強いものは自分の強さを持って、弱いも

のを助けることができる恵みに感謝して誇らず、

美しいものは自分の美しさを持って、醜いものを

被うことができる恵みに感謝して誇らず、ひとつ

のからだとして生きるのです。

 



 聖霊によっての交わりを体験し続け、聖霊によ

って生かされ続けるうちに、クリスチャンたちの

内には、キリストを信じた体験の共有意識、キリ

ストの贖いの共有意識、キリストの赦しの共有意

識、キリストの愛の共有意識が芽生え、だんだん

大きく育って生きます。同じ感謝と喜びに満たさ

れ、キリストの愛を持って愛する心、キリストの

赦しをもって赦す心が萌えだし、強くたくましく

育っていくのです。聖霊がそれを助けてくださる

のです。その結果、すべての部分が自分のために

存在するのではなく、からだ全体のために存在し

ていることを自覚して喜ぶのです。キリストのみ

からだと呼ばれる共同体は、弱いもの小さいもの

醜いものつまらないものが、決して無視されるこ

とはなく、かえって、それぞれの特質が最大限に

生かされる共同体なのです。

 
                         つづく








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救いに伴って私たちに起こったこと (2)


 4.       聖霊を飲むものとされた

 

 ところでパウロは、私たちはみなキリストのみ

からだにバプタイズされたと言った後、すぐに、

聖霊を飲むものとされたとも語っています。聖霊

を飲むという表現も、五感では感知できない霊的

体験を、あたかも五感で感じ取ることが出来る、

日常の体験のように語ったものです。そのように

語らなければ語る方法がなく、理解される手段も

ないからです。



 

 聖霊が満ちていてくださるキリストのみからだ

に、バプタイズされるという表現も、聖霊を飲む

という表現もとても絵画的描写です。まるで、満

々と溢れる水の中に投げ込まれて、その水を飲み

込んでしまった体験を語っているようです。この

ときパウロは、多分、伝道旅行中に海難事故に遭

い、海に投げ出されたときの体験を思い起こしな

がら、語ったのではないでしょうか。前後左右上

下まったく水に取り囲まれ、鼻からも耳からも水

が入り込もうとする。もちろん口を開けようもの

なら、容赦なく口の中にも入り込もうとする体験

です。この体験をクリスチャンになったという出

来事の、霊的次元での体験と重ね合わせたので

す。クリスチャンになるということは、聖霊の海

の中に投げ込まれて、その中にぶくぶくと沈み、

腹の中にまで聖霊が浸わたってくるという体験な

のです。



 

 クリスチャンになるということは、聖霊を内に

宿すことだと言われてきました。それはそれで間

違いではありません。ところがそれは、パウロの

表現によると、まず、キリストのみからだにバプ

タイズされることによって起こるのです。キリス

トのみからだが聖霊に満ちているからです。それ

はキリストを信じたら最初に起こることではな

く、時間的にはともかく、理論的にはキリストの

みからだにバプタイズされることに引き続いて、

その後に起こることなのです。

 



 キリストを信じて聖霊の内住を得た個々人が、

任意に集まって教会を形成するのではありませ

ん。かえって聖霊によって、有無もなく教会にバ

プタイズされることによって、聖霊を飲むものと

なり、聖霊の内住が可能となるのです。ここに、

キリストの救いに与かることと、教会に連なるこ

との重要な関係が明瞭に示されています。西欧個

人主義に影響された多くのクリスチャンが、信仰

とは自分と神との個人的関係だと理解し、教会に

加入することは益になるかもしれないけれども、

必ずしも重要ではないと考えていますが、聖書

は、キリストを信じる信仰と教会に連なることを

不可分のものとして語っているのです。

 



 ですから、クリスチャン信仰と教会生活とは、

絶対に切り離して考えたり論じたりしてはならな

いものです。教会生活のないクリスチャン生活は

本来あり得ないのです。ところが個人主義の文化

の色眼鏡で聖書を読んだ人たちは、教会の位置を

非常に低く見積もってしまいました。まだ個人主

義があまり強くなかった日本においてさえ、救い

ということを永遠の命、あるいは神との関係の修

復、儒教的な高尚なクリスチャン生涯というよう

な、個人的要素の強い角度からだけ捉える傾向の

あった人たちは、教会を無用の長物としてしまい

ました。

 



 またパウロのこのような表現は、あくまでも霊

的な次元での出来事を、私たちの日常体験の中で

の出来事のように言い表したもので、字義通りに

理解してはならないものです。パウロが言い表そ

うとしていること、パウロが伝えたかったのは、

染料の液の中に浸けられたような体験でも、水を

がぶがぶ飲み込むような体験でもなく、そのよう

にしか表現できない、霊的次元での体験なので

す。つまるところ、キリストを信じたその瞬間か

ら、すべてのクリスチャンは聖霊との非常に密接

な、あるいはとても親密な関係にはいったという

ことです。この関係を妨げるものはないのです。

 



 一人ひとりのクリスチャンは聖霊との親密な関

係にはいり、聖霊の命、キリストの命、聖霊の力

キリストの力などと表現される、復活のキリスト

の命と力をいただいて、甦ったもの、新たに生ま

れたもの、神の国に生きるものとして生きること

ができるようになったのです。罪のためにゆがみ

本来の命と力を発揮することが出来ないでいた、

神に似せて造られた人間性は、このキリストの甦

りの力によって再び活発に活動できるようにな

り、本来の生き方に近づいて生きるようになるの

です。



5.
      
五感の支配する
     
日常の生活の中で
        
霊的事実を体現する

 


 パウロは、「御霊によって生きているなら、御

霊によって歩こう」と語っています。(ガラテヤ

51626)これは、「御霊のよって生きている

かどうかは、良くはわからないけれど、もしも御

霊によって生きているなら」という意味ではなく

「御霊によって生きているのだから、御霊によっ

て生きているという事実があるのだから」という

意味です。つまり、御霊によって生きている、生

かされているという事実が歴然としてあるのだか

ら、その事実を体現して、具現化して、誰にでも

それは事実だと分かるように生き方をしようとい

うことです。

 


 ここで御霊によって生きているというのは、霊

的な次元での事実です。その霊的事実を、私たち

の目で見、体で体験できる日常的な次元の中、そ

の生活の中で「事実」として表現していこうとい

うことです。それは、私たちは神の子となったの

だから、神の子らしく生きようというのと同じで

す。罪から開放されているのだから、罪から開放

された生活をしようというのと同じです。霊的な

事実、霊的次元での歴然とした事実を、日常の生

き方の中ではっきりと現していこうということで

す。



 

 私たちがキリストのみ体に、すなわちキリスト

にバプタイズされたという霊的事実は、洗礼とい
う儀式によって表現されています。それによって

一人ひとりが自分の霊的体験を、日常の感覚で体

感できる体験として持つことができるようにさ

れ、教会として、みんなが公に認めることが出来

るようにされています。

 

 しかし、霊的事実は儀式で表現されるだけでは

足りません。霊的事実には力があるのです。命の

源である聖霊との体験だからです。聖霊に生かさ

れる体験だからです。それはかならず日常の生活

の中に現されてくるべきなのです。すべてのクリ

スチャンは、内に生きていてくださる聖霊の力に

よって新たな生き方をさせられ、新しく生まれた

という表現がふさわしい生活をすることが出来る

のです。

 



 それはまた、聖霊に満ちるという表現とも関係

があります。聖書は聖霊に満ちた人とか、聖霊に

満たされてという言い方をしています。それはク

リスチャンがその時に限って聖霊の満たしを受け

たとか、その人だけが、他の人に比べて豊に聖霊

の満たしを受けているかのように聞こえますが、

実際はそうではないと考えられます。すべての人

は霊的次元の事実、霊的次元の現実として、聖霊

の中にバプタイズされ、聖霊を飲むものとされて

いるのです。その霊的次元の事実を日常の世界で

如実に体現していることが、聖霊に満たされてい

ることであり、その霊的次元の現実をより豊にこ

の目に見える次元で具現している人が、聖霊に満

ちた人だといえるのです。

 



 それが、旧約時代の英雄に聖霊が臨んだといわ

れているのと、異なる点のように考えられます。

旧約時代にも、確かに聖霊は臨み、また離れて行

かれました。しかし新約の預言者(すべての信

徒)は、満ち満ちた聖霊の中にバプタイズされて

いるのです。旧約の時代の聖霊、神の霊は、あた

かも人が大きな神の働きをしようとするとき、あ

るいは神の大きな働きをしようとする人に与えら

れる、神の特別な力でもあるかのように表現され

ています。ですから旧約聖書の記述だけを読ん

で、聖霊が三位の神の第三格位の方だと理解する

ことはまずありません。ところが新約聖書の記述

を読むと、聖霊は単なる神の力ではなく、人との

交わりを有効にし、それを深め強めてくださる神

ご自身であることが分かるのです。

 



 そのような聖霊体験をしている人々の共同体が

教会です。教会は単なる人為的な協同組合のよう

なものとは違います。それに連なる者すべてが甦

りのキリストの霊をいただき、その霊に生かさ

れ、キリストに似るものに作り変えられながら、

互いに愛し合う共同体なのです。すべての構成人

員がキリストの贖いの愛を体験し、その愛に生か

され、その愛に生きる共同体です。そしてそれを

可能にしてくださるのが、全員を取り巻き全員の

中に生きておられるキリストの霊なのです。だか

ら、パウロはいうのです。「聖霊によって生きて

いるのなら、聖霊によって歩もうではないか」

 



 教会は神の家族と言われています。赤ちゃんは

家族の中で愛され、世話を焼かれ、教えられ、育

まれるのです。家庭がなければ、赤ちゃんが正常

に成長するのは困難です。クリスチャンが正常に

そして健康に成長するためには、絶対に、この神

の家族の中にいなければなりません。それは単に

霊的事実として神の家族の中にいるということで

終わることではなく、その霊的事実を具体的に顕

現した地域教会の中で育たなければなりません。

クリスチャンは、地域教会において具体的に交わ

りを共にしてこそ、正しく成長できるのです。き

ちっと地域教会に加わらず、花から花に移る蝶の

ように教会を渡り歩き、勝手気ままな生き方をし

ているクリスチャンは、霊的現実を具体的に体現

することが出来ないために、成長できないままに

終わってしまうのです。

 



 考えて見ましょう。クリスチャンに与えられて

いるもっとも崇高な戒めは、キリストが私たちを

愛してくださったように、互いに愛し合うことで

す。でも、もしもクリスチャンが他のクリスチャ

ンと交わりを持たず、顔も知らない名前も知らな

い生活も知らないとしたら、どのようにして互い

に愛し合うのでしょう。食事の前に、全世界のク

リスチャンたちを祝福してくださいと祈っても、

互いに愛し合っていることにはなりません。具体

的な交わりと助け合いがないところに、本物の愛

はないのです。




 
6.クリスチャンの成長 



 クリスチャンの成長は、上を目指した自分の努

力もさることながら、聖霊によるものであること

を知らなければなりません。多くのクリスチャン

が、自分の中に起こった霊的な出来事、霊的な次

元での体験に気付かないままに生きています。自

分の内に聖霊が生きていてくださるという事実

に、まったく気付かないまま生活しているので

す。長いあいだ罪に縛られて自由を奪われていた

ために、自分には神に喜ばれる生き方はできない

と思い込んでしまい、自分の中に与えられた新し

い命、新しい力、神の可能性に気付かないので

す。

 



 鶏の両足を紐で縛って放っておくと、しばらく

は逃げようとしてもがきますが、やがて無理だと

わかってあきらめてしまいます。
3日間ほどもそ

うしておいてから紐を切ってやると、紐が切られ

たという事実に気付かずに、あきらめたまま歩こ
うとはしません。歩けない、歩くことは出来な

い、歩く力がないと思い込んで、いつまでも座り

込んだままでいるのです。長い間、罪の中にいて

クリスチャンになった多くの人たちも同じです。

歩けないと思い込んでいるために、自由を与えら

れ、力を与えられていても歩こうとせず、歩けな

いで終わってしまうのです。



 

 クリスチャンには、自分が聖霊の満ち溢れるキ

リストのからだにバプタイズされ、聖霊を飲むも

のにされたという、霊的次元の出来事を認識させ

ることが大切です。そしてその事実に立って行動

するように励ますのです。すると、最初はおぼつ

かない足取りでも歩き出すことが出来るのです。

だんだん痺(しび)れもとれ、感覚を取り戻し、

健康な人のように歩き始めることが出来るので

す。

 



 ただこのとき、生まれながらに自分の中にあっ

た力を頼りにしてはなりません。立派な生活をし

てきた人、尊敬されるような生き方をしてきた

人、自分の能力に自信を持っている人ほど、自分

の力に頼って失敗することが多いのです。頼るの

は、あくまでも、内に住んでくださった聖霊の力

です。聖霊にお願いし、その力に頼り、その約束

に信頼して歩き出すと、歩くことが出来るように

なるのです。具体的には、今までできなかった生

き方をさせてください、愛することが出来るよう

に、赦すことが出来るように、我慢をすることが

出来るように、腹を立てないで済むように、にこ

やかに対応することが出来るように、欲望に打ち

勝つことができるように、劣等感に勝利をするこ

とが出来るように、無力感を払いのけることが出

来るようにしてくださいと、自分には出来なかっ

たことをひとつひとつ、祈りながら試していくこ

とです。そして、少し出来たら感謝、もう少し出

来たら大いに感謝、出来なかったときにも失望せ

ず、心配もせず、それでも愛し続けていてくださ

る神様に感謝して、もう一度、試させてください

とやり直すのです。するとかならず、出来るよう

になっていくのです。

 



 クリスチャンの成長は、自分は聖霊を飲んだの

だ、聖霊が自分の内に住んでいてくださるのだと

いう霊的事実を確認し、その聖霊に信頼し、聖霊

の力を期待し、祈りながら、自分には不可能だっ

たキリストに倣う生き方を、ひとつひとつ実行し

ていくことによって達成されるものです。聖霊は

日々私たちを作り変え、キリストに似た者に作り

上げてくださるのです。

                 つづく







  





 
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救いに伴って私たちに起こったこと (3)


 7.           共同体としての成長 
 

 ところで、クリスチャンの成長というものは、

個々のクリスチャンがそれぞれ独自に成長するも

のではありません。孤高のクリスチャンを作るの

ではないのです。隠遁の聖人を作るのでもないの

です。むしろ、共同体として、教会全体としての

成長こそが成長の目標です。キリストの満ち満ち

た身丈にまで成長し、頭なるキリストに達するよ

うになり、愛のうちに建てられることを期待され

ているのは、個人のクリスチャンではなく、共同

体としての教会なのです。(エペソ書
411

16




 
 自分だけが非常に立派なクリスチャンになるの

ではなく、自分と一緒に生きている弱いクリスチ

ャン、幼いクリスチャン、わがままで、自分勝手

なクリスチャンも、一緒に成長することが大切な

のです。彼らがいくらかでも強くなり、少しでも

成長し、わずかでもわがままが抜け、ちょっとで

も自分勝手が消えるように、自分の成長の速度を

落としてもいいのです。極端に言うと、そのため

には、今日の聖書の勉強の時間を縮めても、明日

の祈りの時間を削っても良いのです。
 




 中学生のときの全校マラソン大会で、私たちの

クラスはビリケツになりました。女子が最低だっ

たのです。もともと丈夫でなかった女の子が途中

でくじけそうになったのを、みんながかばい、励

まし、力づけ、最後までひとかたまりで走り続

け、小一時間も遅れてゴールしたのです。その日

の終わりのホームルームで、担任の先生が、お前

たちはビリケツだったけれど、最高のクラスだと

言いました。次の日の朝礼で、私たちのクラスの

女の子たちは、校長から特別賞を貰いました。そ

のあと、健康優良児でもあったクラス委員の女の

子が、くじけそうになった女の子に小さな花束を

手渡しながら言いました。「○○ちゃんがいてく

れたから、私たちも一つになって頑張れたのよ。

○○ちゃんありがとう」

 



 これはキリストの愛も、キリストのみからだも

知らない、異邦人の女の子たちの中で起こったこ

とです。私たちの教会にも、この程度のことは起

こって欲しいものです。強いものが弱いものを助

けてあげる機会を与えられ、感謝をするのです。

弱いものがいなければ、強いものの強さは何の役

にも立ちません。

 



 すべての人が、それぞれの生まれや背景を越え

て、キリストにあって一つとなった教会は、互い

に弱さをかばいあい、醜さを被いあい、悲しみと

喜びを一緒にしながら生きるのです。それがキリ

ストに似ることです。もちろん、このようなこと

を実際に行うのは、容易なことではありません。

教会にはあらゆる意味で、弱者の世話をする部門

をつくるべきです。一つの地域教会では無理なら

ば、いくつかの教会が協力し合うべきです。すべ

ての弱者に効果的に手を差し伸べるのは不可能だ

としても、そういう意識を作り上げ、見過ごしに

しない、無視しない態度を持つべきです。

 



 エルサレムの教会は経済的な弱者に対して、積

極的に手を差し伸べ、そのための組織作りにも乗

り出しました。パウロはその精神を他の教会にも

広げ、国と地域を越えた教会間の助け合いにしま

した。現在の私たちの教会は、大方、経済的には

恵まれていません。だからといって、互いに助け

合うことが出来ないと決め付けるべきではありま

せん。たとえば、国や公的機関の福祉厚生につい

てよく知っている人がいれば、その知識を大いに

活躍させてでも助け合うべきです。知恵や立場を

生かして助け合うべきです。

 



 弱い人たちの中には、弱さに甘えている者もい

ることでしょう。そのような人を励まし、諌め、

教え、指導することも大切です。パウロは厳しく

叱りながら励まし指導しています。厳しく指導す

ることによって立ち直る人には厳しい指導、厳し

さにはついて行けないほど弱い人には、その弱さ

に合った取り扱いも必要です。日本の教会は、日

本人の性格上、厳しく取り扱うのが苦手のようで

す。臭いものには蓋でごまかし、問題を大きくし

て解決できないところまで行ってしまってから、

相手を責めて自分は安全圏に避難するというのが

一般的です。きちっと厳しく取り扱い、しっかり

と優しく抱き寄せる対応が必要です。

 



 三位一体の神は、天地創造の前、永遠の昔か

ら、三位の中で互いに愛し合う、愛の神として存

在しておられました。そしてその愛の表現として

愛の対象となる人間をお造りになりました。人間

は神の愛の対象として、神に似せて造られまし

た。つまり愛し合うべき存在として作られまし

た。神は、すべての人間が神だけを愛し慕うよう

にはお造りにならず、人間同士が愛し合うように

もお造りになりました。人間同士が互いに愛し合

うのを、神はお喜びになるのです。罪のために互

いに愛し合うことが出来なくなった人間は、愛に

よって贖われ、愛によって作り変えられ、愛によ

って結び合わされて、キリストのみからだに属す

るようになって、再び互いに愛し合うものとされ

たのです。




 
8.共同体の目的 



 神が人を救い、キリストのみからだにバプタイ

ズし、聖霊を飲むものとして聖霊の内住を体験さ

せ、愛し合うことが出来るようにしてくださった

のは、救われた人々が神の力によって幸せになる

ためだけではありません。神が幸せにしようとし

ておられるのは、限られたわずかの人々だけでは

なく、もっと多くの人々です。

 



 神はあらゆる異なった人々を召して救いに入

れ、その人々のあらゆる能力や資質をその人々も

ろともに贖い、清めてご自分のものとして、キリ

ストのみからだに組み入れてくださいました。そ

の上、それらを有機的に機能させて、キリストの

み体の一部とされた人々が、互いに助け合ってキ

リストの恵みの中に成長していくようにしてくだ

さいました。



 

とは言えキリストのみ体は、決して自分の益だ

けのために存在するものではありません。教会は

教会のために、教会の自己充足のために存在する

のではないのです。キリストは神の姿を捨ててこ

の世に降り、十字架の贖いを通して私たちを救っ

てくださいました。いまや私たちは、そのキリス

トに倣うものとなり、そのみからだである教会に

バプタイズされているのです。キリストのみ体

は、キリストが地上を後にされてからも、キリス

トの霊である聖霊を宿して、その聖霊の力によっ

てキリストのお働きを継続するのです。

 



 キリストの救いのみ業を継続することこそ、教

会という共同体がこの世に存在する目的、存在理

由です。キリストのみ体にバプタイズされたとい

うことは、この目的、この存在目的のために、キ

リストのみからだの一部として組み込まれたとい

うことです。キリストのみからだが継続するキリ

ストのお働きとは、人々の救いです。教会は人々

の救いのために働くのです。それこそが教会に与

えられている使命です。

 


 ですから私たちは、私たちの救いと幸せのため

に召されたのではありません。それ以上の使命の

ために召されているのです。それは世界の人々の

救いです。私たちははじめから、世界の救いの働

きのために救われたのです。また、世界の人々の

救いは世界の人々の幸せのためだけではありませ

ん。それ以上の使命があるのです。それは、世界

中の人々が神を崇め、神を礼拝するためです。私

たちの救いの究極の目的は、すべてのものの造り

主である神の栄光を、心と声を一つにして褒めた

たえることです。

 



 いわゆる伝道者として召されたり、牧師として

召されたりした人たちだけが召されたのではあり

ません。本来、召しとは救いの一面です。救われ

た人すべてが召されているのです。福音宣教とい

う使命を遂行するために、召され、教会にバプタ

イズされているのです。教会の中では、それぞれ

の賜物、能力、資質、力、背景などに応じて、教

会全体のためにそして使命遂行のために尽くすの

です。

  



 くり返しますが、私たちが救われたのは、私た

ちのためだけではありません。私たち以外の人た

ちの救いのためです。それは愛の神の愛のみ業、

罪人の救いの働きに役立つということです。そし

て、すべての膝が神のみ前でかがめられ、すべて

の口が神の栄光をほめたたえるためです。究極的

に、私たちは神の栄光のために存在し、神の栄光

を崇め、神の愛の中に喜び、神を慕いながら、互

いに愛し合って生きるのです。私たちが救われた

ということは、そのような共同体の中に入れられ

たということなのです。













posted by まさ at 20:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

復活に生きる


  

 人はみな死にます。肉体は朽ち果てて消滅し、

人々の記憶からも失われ、やがては、生きていた

証さえ拭い去られて、永劫の彼方に忘れられてし

まいます。そう考えると、人生は虚しいもので

す。せっかくの楽しみも喜びも、色あせてしまい

ます。ならばとばかりに、太く短く生きようとす

る人たちの姿は醜いものです。反対に、だからこ

そ人生を大切にと言いながら、生に執着している

姿も美しいものではありません。延命処置で管

だらけになて寝かされている人を、正視できるも

のではありません。



 

復活の力に生きる


 私たちクリスチャンの生き方は違います。わた

したちは復活の信仰に立って生きているからで

す。クリスチャンは、二千年以上も昔に生きてい

た方を懐かしんで、手本にして生きているのでは

ありません。いま私たちと共に生き、いま私たち

を助け、いま私たちの内に住み、いま私たちの生

きる力となっていてくださる方によって、生きて

いるのです。私たちはいま、キリストの復活の力

によって生かされているのです。




 復活されたキリストが、私たちの内で力となっ

て、私たちをふつうの人間ではない者にしてくだ

さっているのです。私たちは弱く頼りない人間で

す。でも復活のキリストを、内に宿した人間で

す。復活のキリストが内に住んでいてくださるか

ら、私たちは内側からキリストの姿に似せられて

いくのです。やがて、キリストを信じる前の自分

とは、大きく異なった自分が作り上げられていく

のです。




 以前の私たちは、なんでも自分が第一でした。

すべて自分の益のため、自分の得のため、自分の

名誉のため、自分の面子のため、自分の幸せのた

めでした。何でも自分を中心に考え、自分を中心

に判断し、自分を中心に選択してきました。それ

が当然だと思っていたのです。その結果、人と争

い、人を蹴落とし、人を傷つけ、人を利用し、人

を騙し、人を陥れてきました。それが、意識的に

そうしたのではなく、自分を第一とした生き方の

もたらした副作用でした。それでいて自分は決し

て幸せでなく、かえって自分自身が嫌になって落

ち込んでいました。そんな自分をどうすることも

出来ずに、悲しくなり、惨めになり、どうにでも

なれと投げやりになってきました。




 でも、復活のキリストを心の内にお迎えしてか

ら、私たちは変わりました。自分を第一にする生

き方から、いつの間にか他の人を大切にし、自分

のことを二の次にすることさえ出来てきたので

す。それが一生懸命努力して、何が何でもと頑張

った結果ではなく、いつの間にか出来るようにな

ってきたのです。自分の内に復活のキリストが生

きておられると知って、そのキリストの力を信じ

頼って祈っていたら、いつの間にか変わってきた

のです。




 自分が人の助けになることができる、自分も人

の役に立つことができる、自分が人に喜んでもら

うこともできると気付いて、嬉しくなったので

す。生きることが楽しくなり、生きることに充実

感がもてるようになったのです。自分がどれほど

損をしても、裏切られても、傷ついても、十字架

にかかって苦しんでくださったキリストが内に住

んでいて、それを乗り越えさせてくださるので

す。金銀を儲けても、永遠の国に持っていくこと

はできないけれど、キリストと共に苦しむ苦しみ

は、永遠の栄光をもたらす宝だと知ったのです。



 
復活の望みに生きる



 復活のキリストが、私たちの内に住んでいてく

ださるという事実は、毎日の生活の中で不否定で

きない現実です。この明白な現実が、まだ見てい

ない私たちの復活への希望をも現実のものとし、

固く大きくしてくれます。キリストの復活は、私

たちクリスチャンの復活の初穂であり、保証だか

らです。死を打ち破って甦ってくださったキリス

トは、私たちをも甦らせてくださるのです。





 困難の中で喘いでいるとき、苦難の中でもがい

ているとき、ちょっと手を止めて目を閉じ、心の

中で自分に約束されている復活と、それに続く輝

きに満ちた命を思い浮かべてみましょう。パウロ

先生と一緒に、「いまのこのときの苦しみは、や

がて現されようとしている栄光に比べるならば、

言うに足りない」と断言できるはずです。私たち

の人生は死で終わるのでなく、さらに勝った命へ

復活をするのです。さらに優れた肉体を与えら

れ、キリストの心に似た心を与えられ、やがて痛

みも涙も叫びもない世界、神ご自身が、私たちの

目の涙をまったく拭い取ってくださる世界に、永

遠に住まわせていただくのです。





 キリストの復活は、私たちの望みです。いまは

まだ、すべての物事が薄ぼんやりと見えているだ

けです。聖書に教えられているあらゆる真理も、

まだまだ、霧の彼方にあるもののようにしか見え

ていません。神様との交わりも復活のキリストの

力も、実のところ、まだまだほんの少しだけ体験

しただけなのです。でも、やがて現される現実、

私たちの復活の向うの現実は、こんな小さなもの

ではありません。こんなに薄ぼんやりしたもので

もありません。すべてのことが明らかになり、す

べてのものが完成され、たとえようもなく大きな

祝福が、私たちを取り囲み覆いつくすのです。




 このような望みを持ったわたしたちクリスチャ

ンの歩みは、世の中の人々の歩みと同じであるは

ずがありません。大きな望みは大きな力をもたら

すからです。行く手の光は、足もとの闇の不安や

孤独を消し去ってくれます。




 キリストの復活を祝うイースターの季節です。

キリストの復活こそ、クリスチャンの勝利の象徴

であり、勝利を現実にする力なのです。









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2010年10月02日

神の妥協 私たちの妥協



神の妥協 わたしたちの妥協 
     ピレモンへの手紙 


 一般的に、クリスチャンは妥協をいさぎよしとしま

せん。どこの国のクリスチャンも、妥協を嫌う頑固さ

があるようです。多分、ローマ人への手紙12章2節の

「あなた方はこの世と妥協してはなりません」とい

う言葉が、間違って理解されたのだと思います。「こ

の世」が、世のなかの習慣とか文化という意味に取

られてしまったのでしょう。





 いつでも人の顔色をうかがって、大切なところで

妥協してしまう日本人の中にあって、かたくなに自

分の信仰を守って、日本の習慣や文化に逆らい通す

クリスチャンは、ある意味で立派です。でもそのため

に、キリスト教全体のイメージが、独りよがりの反社

会的宗教と思われるのは残念です。




 クリスチャンたちのかたくなさは、彼らの潔癖さ

からくるものです。そしてその潔癖さは、神の潔癖

さからくると思われています。聖書の神は完全に聖

い神、潔癖な神で、穢れや罪はたとえ爪の垢ほど

でもお嫌いになるからです。




 ところが、聖書の神は、聖く潔癖な神でありなが

ら、妥協の神でもあるのです。私たちクリスチャンも

また、聖く生きようとする反面、妥協の生き方もしな

ければならないのです。妥協と言う言葉の定義の

問題だと言ってしまう前に、もう少し聖書に目を注

いで見ましょう。





 
T. 神の妥協  


 確かに、神の厳しさは聖書のいたるところに見る

ことができます。でも神は、罪深い人間を赦し、ご自

分のみ許に引き寄せるために、キリストを犠牲として

捧げてくださった神です。妥協できないから、キリス

トを犠牲にしなければならなかったと見るか、罪と

穢れと妥協してでも罪人を受け入れたいと願い、キ

リストの処刑という大きな犠牲をさえ、忍んでくださ

ったという言うべきかです。




 人間は、神に定められた道をはずれ、とんでもな

い方向に進んでしまいました。でも、神は人間を見捨

てず、殺さず、滅ぼさず、あくまで救おうとして、妥

協しながら付き合い続けてくださったのです。



 神は、一夫一婦であるように人間をお造りになり

ました。ところが人間は、たちまち性的に乱れ、一夫

多妻の社会を造り出してしまいました。離婚は神の

御心を外れていました。しかし神は、罪のための人

間の弱さを哀れみ、これをもお許しになりました。
 




 あらゆる人間を基本的に同等にお造りになって

いながら、神は人間たちが差別を設け、奴隷制度

を作り上げて行くのを許し、奴隷制度の社会さえ受

け入れてくださいました。パウロがピレモンへの手

紙を書いたときも、奴隷制度が社会の土台でした。

今の日本では、中小企業で働く人々がいなければ

社会が成り立たないように、奴隷がいなければ当

時の社会は機能しなかたのです。




 
U. ピレモンの手紙の背景 

 
 ピレモンはパウロの働きによって救われたクリス

チャンでした。多くの奴隷を抱える金持ちだったと

考えられます。その奴隷の一人がオネシモという若

者でした。ところが彼はどういうわけか、主人に迷

惑をかけて逃亡し、流れ流れて遠く離れたローマに

辿り着いたのです。ところがそこでもさらに悪事を

重ねて捕らえられ、牢に閉じ込められたようです。

どうやら彼はその時パウロに出会い、教えを聞き、

キリストを信じるものになったらしいのです。奇遇と

いえば奇遇、奇跡といえば奇跡です。



 キリストを信じたオネシモは、名前の通り「役立つ

人間」に変わり、かいがいしく年老いたパウロの世

話をしていたようですが、その信仰がある程度成

長したときに、パウロは彼を遠くの主人、ピレモンの

許に送り返すことにしました。



 当時の逃亡奴隷に対する処罰は厳しいものでし

た。たとえ主人もクリスチャンになっていたとは言

え、逃亡奴隷を許すことは社会制度の崩壊につな

がり、奴隷の持ち主たちの間の約束事があり、簡単

に許すことが出来るようなものではありませんで

した。世事に通じていたパウロがそれを知らないは

ずはなく、オネシモもそれを忘れたことはないはず

です。それなのに、パウロは彼を主人の許に送り返

し、オネシモは途中でまた逃亡することもなしに、

主人の許に行ったのです。




 
V. パウロの妥協 


 パウロは、すべての人間が神の前に平等である

と教えています。当時の世界にあっては、まさに時

代を先取りした驚くべき教えです。ですから当然、

奴隷制度が基本的な人権を無視したものであり、

神の御心に反していたことも知っていました。とこ

ろが、「奴隷制度反対」を叫んでムシロ旗を挙げて

戦うようなことはしなかったのです。一方では、奴

隷制度を根本的に覆すような教えでピレモンを諭

し、オネシモを愛する兄弟として迎えるように勧め

ながら、もう一方では、その悪い制度に従ったので

す。パウロは妥協したのです。



 これは悪い社会の中に生き、邪悪な制度やしきた

りの中で生活しなければならない、クリスチャンた

ちのあり方を示しています。また、異教文化のなか

で生きていかなければならない、日本のクリスチャ

ンたちの採るべき態度を示しています。正面切って

悪と戦うだけが、クリスチャンの戦いではないので

す。悪と妥協しながら、悪と戦う生き方が大切です。

悪い制度の中で、神のみ心、本来の人の生き方を求

めて生きるのです。



 いま、私たち社会に奴隷制度がないのは幸いで

す。とはいえ、それに類似したものはたくさんあり、

それよりもっと悪いものも少なくありません。たと

えば、資本主義の自由経済社会があります。自分た

ちの利益のためにこの制度を創り、正当化し、欲望

をむきだしにしてこれを悪用する人々のために、い

ま世界では、子供だけで13万人以上の餓死者が

出ているのです。



 自分たちの手では、大根一本、麦一粒も生産せ

ず、ねじくぎ一本も作り出すことをしない人たちが、

コンピュータの画面を操作するだけで世界の金を動

かし、貧しい国の人々をますます貧しくし、死に追い

込んでいるのです。アフリカの人々を狩り出して、奴

隷として売った人々の非人道的行為は、歴史のなか

で厳しく非難されています。しかし現代の金融界の悪

は、奴隷制度に勝る巨悪でなくてなんでしょう。


                                    
 私たちはいま、この制度の中で、この制度に妥協

しながら生きて行かなければならないのです。しか

も、自分の信仰において、自分の信念の行動におい

ては、断じて妥協しない生き方をしなければならな

いのです。



 非キリスト教国日本で生きている私たちは、毎日

異教の習慣や偶像に取り囲まれ、戦いをしなければ

なりません。でも、いま私たちが戦わなければならな

い最大の敵は、そのようなものではありません。むし

ろ、私たちの教会の中でも活発に活動している、「富

の神」です。キリストが「富と神に同時に仕えることは

できない」と仰ったときの「富」です。」これは単なる

富ではなく、「富の神」を意味する言葉です。金を追

い求めるうちに誰しも陥る、拝金主義の危険を教え

てくださったものです。




 パウロは「むさぼりが、そのまま偶像礼拝である」

と、厳しく拝金主義を叱責しました。ところがいま、偶

像を壊せ、仏壇を焼けと騒いでいる戦闘的キリスト教

会の多くが、この富、「マモン」と言われる神と仲良く

なり、これを崇拝して止まない、偶像礼拝の罪を犯し

続けているのです。繁栄の福音などと言うまがい物

を、福音と言いくるめる神学さえあるほどです。世界

中で、年間1000万を遥かに越える餓死者を出し続け

ている、現代最大の偶像礼拝にどっぷりと浸りきっ

ているのです。



 この、富の神と呼ばれる偶像と戦うことこそ、い

ま最も重大な戦いです。しかも私たちは、その神を

崇める社会制度の中に生きながら、戦わなければ

ならないのです。その富の神に目と心を奪われてし

まった、私たち自身とも戦わなければなりません。

どのように戦うべきか、奴隷制度の中に生きなが

ら、その制度に対してムシロ旗を立てて戦うこと

をせず、かえってその制度の土台である差別の精

神を打ち壊すように、愛をもって戦ったパウロの

ように、上からの知恵が必要です。
 

                  おわり





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2010年10月03日

緊張の中の信仰



緊張の中の信仰
マタイ24:1〜25:46 


 夜中の2時、まさに丑三つ時(うしみつどき)に、ある牧師に電話

がかかってきました。「先生。どうかいま、私に説教をしてくださ

いませんか!?」いつも面倒を起こしている女性の信徒です。

「えっ、 こんな真夜中にですか?」 「はい。どうしても眠ら

れないんです。でも先生のお説教を聴いていると、いつもとても

良く眠られるものですから、先生どうかよろしくお願いいたし

ます」 




 もうひとつ・・・・・・。説教を聴く信徒たちが、みんな眠りこけるの

に悩んだ牧師が、どうしてそうなるのか、自分の説教を録音し

て聞いてみることにしました。月曜日の朝、書斎に閉じこもっ

てしばらく・・・・・・・。奥さんが10時のコーヒーをもってドアを開ける

と、牧師は録音を聞きながら、すっかり眠り込んでいました。




 クリスチャン信仰は平安の信仰です。うちの教会でも、牧師の

説教は平安に満ちたものですから、信徒たちはやすらかに居

眠りをします。そんなことを気にしていては、牧師は務まりませ

ん。日ごろ一生懸命働いて、せっかくの休みにも教会までやって

来る、それだけで立派な信徒です。何しろ雷に打たれて死んだ

としても、永遠の命をいただいているのですから、心配は要りま

せん。




 とはいえクリスチャン信仰は、のんびりと平安に過ごすだけの

ものでもありません。緊張という一面も非常に強いのです。そ

れが、マタイの福音書24章と25章のテーマです。なぜ緊張する

かと言うと、イエス様がいつお帰りになるか分からないからで

す。天にお帰りになったイエス様は、再びおいでになるのです。

そして私たちを天に引き上げてくださいます。私たちはこの

世の雑踏と苦しみを下に見ながら、イエス様と共に、天がける

のです。そして私たちより先に死んでいた人たちも甦らされ、

空中で一緒になり、喜びを分け合うのです。
 



 ここで大切なのは、イエス様が戻って来られるときも、忠実な

信仰を保っていることです。怠けたり、さぼったり、忘れてしまっ

てはいけないのです。クリスチャンに与えられた大切な働きを、

なおざりにしてはならないのです。そのようなクリスチャンは、

天に引き上げられない可能性さえあるからです。(最終的には

救われますが)




 マニラの聖書学校に、怠け者の学生がいました。授業はサボ

るし作業には出てこない。朝寝坊して食事に顔を見せないの

も、いつものことでした。ある日の朝の食堂で、突然、校長が宣

言しました。「今日は授業を休んで、みんなでピクニックに行きま

す!!」ずいぶん前から職員たちと一緒になって計画し、食料

もたっぷりと準備し、学生たちを驚かせてやろうと、秘密にして

いたのです。




  すっかり舞い上がった学生たちは、準備されたバスに乗り込

んで出発してしまいました。日が高く上って暑くなり始めたこ

ろ、のこのことベッドから這い出した、あの怠け者の学生はびっ

くり仰天しました。広い校舎も庭もガランとしてだあれもいない

のです。瞬間、彼は大声で泣き始めました。自分が惰眠を貪って

いる間に、イエス様がおいでになって、学生も、先生も、みんな

天に引き上げてしまわれた。自分だけが残されたと思ったので

す。
 



 主がおいでになるとき、忠実に信仰を保ち、熱心に主に任せら

れた仕事を遣り通しているところを見られる人は幸いです。そし

てこの、主がおいでになる日、再臨の日はいつか分からないの

です。今日かも知れないし、1000年後かもしれません。新約聖

書全体を通して、主の再臨に対する期待と、緊張が流れている

ので
す。




 この主の再臨という信仰は、インドまでもたらされ、仏教にも

影響を与えたと思われます。(仏教の最初の経典、阿含経が完

成したのは、はなはだ不確実ですが、キリストの時代より200

ほど後の事というのが有力な説です)その阿含経に弥勒信仰の

芽生えがあるのです。でも、弥勒菩薩がおいでになるのは56

700万年後、あるいはそれを10倍にした567000万年後と

いうことですから、緊張感はありません。




 クリスチャンは死を恐れません。しかし、主であるイエス様が

いつお帰りになって、私たちを迎え入れてくださるかという、

緊張と期待感を持ち続けるのです。




 わたしたちは、ときどきICA(英語部)と合同のパトラックラン

チをします。これは単なる食事会ではありません。再臨の主に

よって天に挙げられた私たちが、天においてイエス様と一緒に

いただく食事会を思い起こすものなのです。天の食事にはどん

な料理が出るのでしょう。時代と民族、国家と文化によって食事

は違います。尾頭付きの鯛とヒラメの刺身が出るか、カブトムシ

の幼虫のムニエルが出るか。考えるときりがありません。天のみ

国では、みんな、どんな食べ物でも美味しく食べることが出来

る人に、変えられるのだと思いますよ。









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2010年10月04日

感謝のある生活



  

 いまの私たちの生活は、貧しいとは言えずいぶん

豊です。でも、豊かさというものを満足度で計るとす

ると、今の私たちの豊かさは、とても貧しいものにな

ってしまいそうです。「このお菓子美味しくない」と

言って食べ散らかしている日本の子どもたちより、野

良仕事のあと、茹でた一本のタピオカを兄弟で分け

合って、目を輝かせながら食べていたフィリピンの山

奥の子どもたちのほうが、よほど豊に見えました。贅

沢な日本の子どもたちには、感謝も喜びもなく、ぼろ

ぼろの汚れたシャツを着たフィリピンの子どもたちに

は、感謝と生きる喜びがあふれているように感じまし

た。
感謝をすることが出来る生活は豊かな生活です。

でもどうしたら感謝が出来るようになるのでしょう。
 




T. 思い上がらないこと 
 


 思い上がりは感謝を奪い取ります。自分が何物か

であるように思い込んでいると、当然、その何物か

に応じた対応を求めます。賃金も、もてなしも、食べ

物も、すべて、「立派な自分」にふさわしいものを求

め、それが当然だと考えます。そしてそれが与えら

れないときには、たとえ美味しいものでも美味しく

なくなり、美しいものも美しくなくなり、手厚いもて

なしもぞんざいに思えてしまうものです。





 いまの日本人の多くは、自分が何物かであるか

のように、思い込まされているようです。少子化の

ため、家庭の中で大切に大切に甘やかされて育っ

たものたちが大勢います。自分が一番大切だと思

っています。自分が美味しいものを食べ、高価なも

のを身にまとい、贅沢に暮らすのは当然だと考え

ています。それは自分の権利だと思っています。で

すから、そのような生活に感謝はありません。そし

てそれが奪われると、怒り悲しみ落胆するのです。





 この世に生を与えられたすべての人には、生きる

権利があります。でも、権利の主張ばかりしている

人たちには、不満と憤りと、恨みとねたみが沸き起

こるだけです。






 ところが、自分を低く見ている人は小さな親切に

感動し、わずかな食べ物に感謝し、粗末な着物にも

喜びます。感動と感謝と喜びを持つことができるの

は、豊かな人です。自分がたまたま生を与えられた

小さな存在に過ぎないと感じている人は、感謝を大

きくすることが出来るのです。旧約聖書に登場する

ダビデ王は豊かな人間でした。それは王としてあら

ゆる物を手にしていたからではなく、自分は虫けら

に過ぎないと自覚していたために、どのような環境

にあっても豊かだったのです。





 
U. 神の子として生きる  


 昔、木村清松という伝道者がアメリカに渡ったと

き、ナイアガラの滝に連れて行ってもらいました。感

動していると、案内のアメリカ人が尋ねたそうです。

「どうだ。凄い滝だろう。日本にはこんなに凄いもの

はあるか」すると清松は答えました。「これは私の父

の所有物だ」それから、清松の行くところ行くところ

すべてで、「来たる!ナイアガラの滝の所有者の子

息」と、新聞で報じられたということです。北九州シ

オン教会の創立者であった力丸博牧師は、生前良く

言っていました。「国鉄も西鉄も、全部僕が有してい

るんだ。JALも日本郵船も、この世にある者はみん

な僕のものだ。でもそこで働いている人たちにも生

活があるから、自分が利用するときはわずかの金を

払うようにしているし、自分が使わないときでもみ

んなが利用できるように、いつでも営業させている

んだ」ふざけたことを言う牧師だと思って聴いてい

たものですが、力丸牧師は、自分の父は神である。す

べてのものの所有者であるということを、肌で感じ

ていたのでしょう。ですから、開拓伝道の貧しさの中

でも、堂々とおおらかに生きることができたのです。
 



 一方、自分は神のみ前に小さな小さな存在に過ぎ

ないと自覚して、生かされていることそのものに感

謝をして生活をするのです。自分が所有しているもの

で、与えられたものでないものはなく、自分が消費し

ているもので、与えられたものでないものはないと

いうことを、良く自覚することです。神のみ前に小さ

なものであると自覚すると、すべてのことに感謝を

することが出来るようになるのです。すると、自分の

失敗や間違いや罪や嫌な思い出までが、自分を小

さく保ってくれる大切なものであることも分かるの

です。パウロは自分の肉体的欠陥を、自分を謙遜さ

せる大切なものであると自覚していました。天地万

物をお造りになった大きなお方が、私のようなちっ

ぽけな存在を愛し、心を遣ってくださるのです。





 
V. 感謝を伝染させる  


 悲しみやいらいらや、怒りや失望落胆の気持ち

が、知らないうちに隣の人たちに伝染するように、

感謝や喜びの、生き生きした心もまた伝染します。

それに感染した人たちはまた、次に感染させるの

です。それが強ければ、怒りや悲しみの伝染を、食

い止めることも可能です。





 
それだけではなく、私たちの感謝、喜び、平安が

どこからやってくるのかも、伝えていくことが出来

るのです。私たちの感謝は、自分の小ささの自覚だ

けではなく、その小さなものを深く愛してくださっ

ている、大きな神にあることを伝えることが出来る

のです。私たちは言葉で神様のことを伝えると共

に、感謝の気持ちで神様を伝えることが出来るの

です。多くの贅沢なもので囲まれながら、感謝も喜

びもない生活をしている人たちの中にあって、贅

沢ではなくても、質素で単純な生活をしていても、

いつも感謝をしていることが出来ると、夜空に輝く

星のように輝くのです。小さな光ですが、多くの人

の目を奪うのです。




 そのとき、私たちはより効果的に、私たちの感謝

の生活について語り、その根源になっている私たち

の神について、お話をすることが
出来るのです。









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2010年10月05日

それは非常によかった



         それは非常によかった

    創世記 1:31

   


 聖書の最初の書物である創世記の1章31節には、

次のように記されています。

「そのようにして神はお造りになったすべてのも

のをご覧になった。みよ。それは非常によかっ

た。」
  




 これは、神様が天と地をお造りになった物語の最

後の部分、いわばまとめの言葉です。神様はご自分

がお造りになった、すべてのものをご覧になって、

それはとてもよかった。非常によかったとおっし

ゃったのです。




 
 聖書に記されている、天地創造の物語は、今から

およそ3500年も昔に、その当時生きていた人々に

向かって書かれたものです。現代科学の知識にあ

ふれている人々を対象に、書かれたものではありま

せん。ですから、現代科学の知識など一切持ってい

なかった、3,500年前の人々に、最もわかり易い方

法で、天地創造にかかわる大切な事柄、当時の人々

の信仰生活に、最も必要なポイント、信仰の要を教

えたのです。そういうわけですので、現代の私たち

は、今から3,500年前の人々になったような気持

ちで、この部分を読まなければ、聖書の言っている

本当の意味が、理解できません。


 
 

 そういうことを知って、今の箇所を読みますと、神

様は、ご自分がお造りになったすべてのものをご覧

になって、それをとても良いと、判断されたことが解

ります。神様は完全な自然をお造りになったのです。

人造物ばかりがあ
ふれている都会から、一歩はなれ

て、自然の豊かなところに来ると、今でも、神様が非

常に良いとおっしゃった、神様の創造物が、たくさん

目に入ってきます。もちろん、今の自然は、人間の罪

の結果、ずいぶん醜くなってしまいましたが、それ

でも、神様がお造りになった美しい姿を、たくさん

留めています。




 
 自然といえば、私は、日本の自然が、格別に美し

いと思っています。多くはありませんが、いろいろ

な国を回って、それぞれの国の、自然の素晴らしさ

に、感動したものですが、四季折々で変化を見せ

る、日本の自然が織り成す美しさは、特別なもので

す。日本人は昔から、この自然を愛で、自然と一体

になって生きるのを、ひとつの理想としてきたとこ

ろがあります。最近はすっかり破壊されてしまった

とはいえ、まだまだ自然の素晴
らしさは残っていま

す。
 



 青い空、白い雲、緑の木々、どこまでも広がる水

平線、色とりどりの花々、木漏れ日のきらめき、小鳥

たちの歌声、虫たちのささやき。飛び回る昆虫や、

土の中に住む虫、あるいは水の中に住む、さまざま

な生き物までが、みな、自然の不思議を隠していま

す。よく観察すると、ウワー綺麗だな。素敵だな。す

ごいなーと、まさに、驚きと感動がいっぱいです。

このような素敵な自然をお造りになったのが、神

様です。このような、美しい自然、その微妙な調和

を見て、感動しない人はいません。このような素晴

らしいものをお造りになった神様は、素晴らしい神

様です。素晴らしい神様だから、素晴らしいものを

お造りになったのです。




 
 この自然には、素晴らしい神様の素晴らしさ、美

しい神様の美しさ、力強い神様の力強さが、見事に

表現されているのです。人間が作る歌や詩の中に

は、作った人の性格と言うか、性質が表れます。絵

画の中には画家の性格が映されています。神様が

お造りになった自然には、お造りになった神様の性

格、性質が反映されているのです。




 
 私たち人間も、神様に造られた自然の一部とし

て、素晴らしいものです。そればかりか、この自然

を、感動を持って見ることが出来る、目と心を与え

られているのです。先ほど読みました聖書の箇所

の少し前、27節には、「神はこのように、人をご自

身の形に創造された」と、記されています。




 
 人間は、神様の姿にかたどって、創造されたと

いうのです。これは驚くべき事実です。人間は、特

別に、神様の姿に似せて造られたのです。これは

顔や手や足の話ではなく、心と言うか、霊と言う

か、命と言うか、人間の本質の部分が、神様に似せ

て造られたということです。ですから人間はほか

のあらゆる動物たちと違って、神様によって美しく

造られたものを、また神様のように、美しいと感じ

る心を持っているということです。神様は、ご自分

がお造りになった美しいものを、美しいと感動して

喜ぶ、人間をもお造りになり、その美しいと感動す

る人間を、お喜びになるのです。そういう意味で

は、昔から自然に感動して生きてきた日本人は、神

様に喜ばれてきた人々だとおもいます。
 



 また、神様に似せて造られたということは、神様

と心を通わせることが、出来るということです。言

い換えると、人間には、神様を感じる心の部分、本

能があるということです。そのために、すべての人

間は宗教心を持ち、祈りをささげ、礼拝をしてきまし

た。人間とは、まさに、祈る動物のことです。他のど

のような動物も、祈ることはしません。生物学的に、

人間に最も近いといわれる動物も、ペットとして何

千年も人間と共に暮らしてきた犬や猫も、祈ること

はしません。神様に似せて造られてはいないため

に、霊的な存在である神様を感じることが出来な

いからです。
 



 自然の美しさや調和、あるいはその恵みを素直

に認めて、感謝を捧げる日本人の姿は、美しいもの

です。「なにものが おわしますかは しらねども

ありがたさにぞ 涙こぼるる と歌う日本人の姿

は、非常に尊いものです。春には、若葉で覆われる

山々、夏にはさんさんと輝く太陽、秋には豊かな実

り。日本人はその自然の中に神様を感じ、良くはわ

からないまま、崇め、祈りを捧げてきたのです。




 ただ、この日本人がぜひとも知らなければなら

ないのは、「なにごとの おわしますかは しらね

ども」といって 感謝を捧げてきた神様は、実は、

天と地をお造りになった、神様だということです。

その神様は、石でもなく木でもなく、山でもなく海

でもなく、あるいは太陽や月でもなく、それらすべ

てのものをお造りになった、天の神様であるという

ことです。私たちは、知らないまま、神様を礼拝し

続けるのではなく、礼拝の対象をはっきりさせて、

天地をお造りになった、神様を礼拝して行きたいも

のです。「どこのどなたか知りませんが、ありがと

うございます」と祈るのではなく、「天と地を造り、

私たちをも造ってくださった神様。ありがとうござ

います」と祈りたいものです。




  
そのように、天地を創造された神様を礼拝する

とき、私たちはこの神様からの豊かな祝福を、さら

にたくさん受け止めて、感動と、喜びに満ち溢れた

毎日を、送ることになるのです。
  












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2010年10月06日

ルリタテハ



 かからむ 
    
     芋虫あまりに おぞましく
 

          
             たれか知るらん 明日の姿を
 


  しばらく前、我が家の庭にルリタテハが訪れて

きました。少しの間たゆたっていましたが、風に

乗って姿を消してしまいました。タテハチョウ科

の蝶はみなとても美しいのですが、ルリタテハは

その名のとおり、瑠璃色の羽の鮮やかさのために

愛されています。



  私の故郷、北海道にもいました。成体で冬を越

す、つまり冬眠をする蝶として知られています

が、熱帯のフィリピンにも生息します。広く分布

していながら、個体数がすくない上に敏捷に飛び

回り、なかなか捕らえられないために、比較的珍

しい蝶と思われています。
ところが、この色鮮

やかな蝶の幼虫はあまりにも毒々しく、おぞまし

い姿をしています。これを出っくわすと、たいて

いの女性は身を縮めて「キャー」と叫んでしまい

ます。



 わが家の庭にあの蝶が訪れてからしばらくする

と、庭のかから(サルトリイバラ)の葉にたくさ

んの芋虫が這い出したのです。そしてこの芋虫、

毎日のように色を変え、20日ほどでさなぎにな

り、しばらくすると、親と同じ美しい蝶に変化し

ました。いまも、わが家の庭には八匹の幼虫が幼

虫からさなぎになりかけていますので、つぎつぎ

と美しい姿が見られそうです。(芋虫と毛虫は基本

的に同じですが、毛が生えているのを毛虫と呼んでいま

す。ルリタテハの場合はご覧のように毛ではなく、突起

のようです)
。成虫になりたての一匹が、私の指

に泊まっています。



 わが家の庭には、ほかにも今、何種類もの芋虫

がいます。金柑にはアゲハチョウの芋虫、トマト

には良く分かりませんが10cm近い物凄く太い奴

が生息しています。みな、やがてまったく違う姿

に変化して行くことでしょう。
蝶などの昆虫が、

このように変態を繰り返していくように、神様が

お造りになったのです。本当に不思議です。さな

ぎの中で変化するときなどは、全体が一度、どろ

どろの液体になってしまうそうです。



  ところがもっとすばらしく不思議な変態があり

ます。それはわたしたちクリスチャンが体験する

変化です。わたしたちはみな、一度死にます。わ

たしたちの体は朽ち果てます。土葬のとき
 は土に

返り、火葬のときは煙になります。でもそれで終

わりではありません。わたしたちには甦りがあり

ます。クリスチャンは新しい、さらに勝った命に

甦るのです。


 
 そのとき、わたしたちは一大変化を遂げます。

芋虫を蝶に変えてくださる神様は、わたしたちの

体を、もう、病気にも、怪我の後遺症にも苦しま

ない体にしてくださいます。弱いところ、不完全

なところ、痛むところはみな消し去り、完全に作

り変えてくださるのです。
 それだけではありま

せん。わたしたちの心まで完全に作り変えて、醜

い性質、悪い性質を取り除いてくださいます。



 だから甦ったわたしたちは、欲望に悩まされる

ことがありません。憎しみや怒り、嫉妬や猜疑心

に振り回されることもありません。すべてのクリ

スチャンの心は、主であるイエス様の心に似たも

のと変えられるのです。
また、甦りによって身も

心も変えられた私たちは、永遠に生きることにな

ります。



 わたしたちの体は、もはや年をとって弱ること

も、衰えることもないのです。
神様はまた、今わ

たしたちが住んでいる世界をまったく造り変えて

くださいます。今の天と地は滅ぼされ、新しい天

と地が現れるのです。それは天変地異も病もない

完全な調和の世界です。



 その調和の世界に、美しく変えられたわたした

ちが入れられ
、永遠に生きるのです。わたしたち

が変化することは、芋虫が美しい蝶に変化するよ

りも、もっともっと確かなことです。絶対に失敗

も心変わりもしない神様がそのように定め、わた

したちに約束してくださったのです。



 だからわたしたちは、今のこの世界で、どのよ

うな困難なことに出会おうとも、失望も落胆もし

ないのです。わたしたちには確かな未来があるか

らです。

美しいルリタテハの写真、幼虫の写真、さなぎの

写真を挿入しようとしたのですが、うまく行きませ

んでした)






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2010年10月07日

親ばかの神


 「やさしく暖かく、豊かな自然に包まれて生きてきた日

本人には、やさしく暖かく包み込むような神、母なる神

が必要であり、厳しい自然条件の中で生まれたたキリ

スト教の神は、日本人にはふさわしくない」



 こんなコメントを読むことがあります。でも、自然の環

境によって生まれる神が異なるというのは、おかしな見

解です。自然環境が人間の理解に影響を与えるのは

確かですが、自然環境が神を産み出すわけではない

からです。



  確かに、ヨーロッパの人々が理解してきた神には、

厳しい一面が強調され過ぎたところがあるでしょう。彼

らの多くは、数千年にわたって厳しい自然と戦い、陸

続きの異民族と絶え間ない抗争をくり返してきたので

す。だから、ヨーロッパの人々が語る神は日本人に合

わないといわれても、仕方のないところがあるのです。

でも聖書の神は、本当は、まさに親ばかとも言えるほ

どの、優しい神なのです。





  もうずっと前に聞いた話でうろ覚えなのです

が・・・・・・。

 


 若い頃家を飛び出した金持ちの息子が、遊蕩に

財産を使い果たし、知人を騙し、友人を傷つけ、

始めた商売では失敗して多大の借金を残したかと

思うと、詐欺まがいの事件を起こして逮捕され、

ついには執行猶予の期間に強盗をしでかして実刑

をうけるという有様でした。

 



 こんな男でも
40を過ぎて、惚れた女と所帯をも

ち、やっと少し落ち着いた生き方を始めました。

ところが内気だった長男が突然ぐれ始め、
15歳に

なったとき、ちょっとした親子喧嘩が最後、ふっ

と消えてしまったのです。はじめのうちこそ、す

ぐに戻ってくるだろうとたかをくくっていました

が、いつまでも行方知れずのままでした。

 



 このときになって初めて、男は自分が生きてき

た道を振り返って見たのです。自分の息子を失っ

て、同じように息子を失った父親のことを、考え

ないわけにはいかなかったのです。一つひとつの

できごとが、なつかしく思い出されました。それ

ばかりか、良く考えてみると、すっかり尾羽を打

ち枯らしてしまったとき、友人ともいえない年長

の男が、少なからぬ金を黙って貸してくれた。そ

のまま、返すこともなく終わってしまったけれ

ど、あの金は父が出してくれていたに違いない。



 

友人や知人を利用して大きな迷惑をかけたとき

も、訴訟にならずにすんだ。父が手を回してくれ

ていたに違いない。商売で失敗してどうしょうも

ないほどの借金を作ったとき、負債者がどこまで

も追いかけて来ることはなかったのも、父が弁償

してくれたからに違いない。執行猶予の判決を受

けたときも、実刑判決を受けたときも、依頼もし

なかったのに有能な弁護士がついたのは、父の差

し金だったと考えるとつじつまが合う。

 



 居ても立ってもおられなくなった男は、ほとん

40年ぶりに故郷の土を踏み、死の床にある父を

訪ねました。おりよく、こん睡状態から覚めた父

は、手を差し伸べる力もないまま、やさしい眼で

見つめ、ひとこと言いました。「やっと帰って来

てくれたか。お前は私の息子だ」それから再びこ

ん睡状態意陥り、そのまま息を引き取ってしまい

ました。

 



 この父親が、どんな気持ちで息子を待ち続けた

か、息子を失ったことのある人でなければ、分か

らないかもしれません。親と言うだけで、馬鹿な

話です。

 



 ところで、聖書の神はもっともっとひどい親ば

かです。まさにとんでもない親ばかです。自分を

無視し、裏切り、逃亡し続け、あらゆる悪事を重

ねている人間を、自分に似せて造ったというだけ

のことで、愛し続け、跡をたどり、追いかけ、探

し、悪事の「尻拭い」をし続けておられるので

す。あるときは悪態をつき、あるときは嘲笑し、

あるときは罵倒し、あるときはわざと嫌われ憎ま

れることをしでかしながら、どこまでも逆らい逃

げようとする人間を、忍耐の限りを尽くして助

け、救おうとされるのです。

 



 人間と言う動物が、いかに身勝手をし続け、互

いに傷つけ合い、争いあって生きてきたかを考え

てください。愛し合い、いたわり合い、助け合っ

たこともありました。良いことをしようとして良

いことを遣り通すことができず、悪い人間になっ

てやろうと決心しても、悪人になりきれない悲し

いものでもありました。教育が普及すれば人間は

よくなる、科学が発達すれば社会はよくなると言

われ続けて
21世紀になりました。でも20世紀ほ

ど、たくさんの人が殺され、たくさんの人たちが

餓死した世紀はありませんでした。そして、
21

紀は
20世紀よりも良くなる保証はないのです。



 

このように、神を捨て、逃亡し続ける人間が犯

した罪は、神にとって絶対に許すことができるも

のではありません。しかしその罪の結果の刑罰

を、神は独り子キリストに負わせてくださいまし

た。十字架の上でのキリストの処刑は、人間の罪

の刑罰だったのです。神は単に面倒くさくて、人

間の罪を見逃してくださったのではありません。

キリストの命という身代わりの犠牲を払ってま

で、赦すことができるようにしてくださったので

す。

 



 これを親ばかといわずに、何と言うべきでしょ

う。他にどんな表現があるでしょう。出奔した息

子が、どんなに大きな罪を犯し、どんなに落ちぶ

れ、どんなに迷惑をかけ、どんなに逃亡し続けよ

うが、父親は、ただ父親だと言うだけで、息子を

探し出し、助け、救い、自分の許に取り戻そうと

するのです。父親は息子がやってのけたあらゆる

失敗と悪の後始末を、すでに済ませてくださって

います。父親は、もうはじめから息子を赦して、

帰ってくるのを待ちわびているのです。

 



 聖書の神は、どうしょうもない親ばかの神で

す。あきれて物も言えないほどの親ばかです。そ

れなのに、なぜ日本人の多くは、「聖書の神は父

なる神で厳しい神だ。やさしい自然に育まれて生

きてきた日本人には、やさしく包み込んでくださ

る、母なる神がふさわしい」などというのでしょ

う。聖書の神が読めていないのです。聖書の父な

る神は、どんな母なる神よりも優しく、慈愛に富

む神なのです。

 



 聖書の神は人間の罪を問わず、人間の失敗を問

わず、人間の愚かさを問わず、人間の過ぎこし方

を問わず、何も言わずに受け入れ、許し、引き寄

せ、抱き寄せてくださる神です。そのようにする

ことを妨げているあらゆる障害は、神がご自分で

痛みをもって犠牲を払い、すでに取り除いてくだ

さっているのです。罪の代価の支払は済み、汚れ

を清める手段も準備されています。ですから、人

間は何にもしなくて良いのです。ただ神を信頼し

て、「神様よろしくお願いします」と神の許に行

くだけでいいのです。神のことが良く分からなく

てもいい。神のことを初めて聞いただけでもい

い。助けて欲しいとみ許に行く人は誰でも、「よ

く帰ってきたな」と迎えいれられるのです。








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2010年10月15日

離婚?

 


  私はもう老齢年金を受けています。コンピュ

ーターを使いこなせないで悔しい思いをしてい

る、頭の固い種族の一人です。そのような私で

も、キリスト教会(界)の頭の固さというか、時

代錯誤にはため息が出ます。文化というのは地域

や国家という地理的隔たりだけではなく、時代の

隔たりにも大きく支配されています。



 

  先日、取り返しのつかないところまで離婚の

話しが進んでしまった、クリスチャン夫婦の夫

が、悩みながら、旅行先で見つけた教会の牧師に

相談したそうです。ところが話を聞いた牧師は、

彼が聖餐にあずかることを禁止し、再び教会を訪

れることさえもお断りしたそうです。クリスチャ

ンでありながら、離婚とはなにごとかということ

でしょうか。たぶんこの牧師は、自分は聖書の教

えに従っているという確信と、聖書に従う教会を

建てようという意気込みをもっておられるのでし

ょう。でも、時代錯誤もはなはだしいと感じま

す。

 



  このように言うと、聖書の教えは時代や場所

によって変えられるべきではないと、たちまち反

論されそうですが、たとえ聖書の教えそのものは

変わらないとしても、その聖書を理解する人たち

の理解力、背景、体験、そして文化によって、解

釈がずいぶん異なるのです。それは文化に妥協す

るという危険な一面を持ち合わせながらも、実

は、文化の中で聖書を理解し、聖書の教えに立つ

といういう、大切なことでもあるのです。



 

 離婚は絶対にいけない。離婚をする者は教会か

ら破門、離婚をしているものは教会には加入させ

ないなどという取り扱いが、当然だった時代や場

所もありました。ピューリタン信仰やホーリネス

信仰が盛んだった頃のアメリカには、そういう感

覚もありました。あるいはその教えを受け入れた

日本人クリスチャンの大部分は、かつては下級武

士階級に属し、貞操を重んじた儒教の教えで育て

られてきた人々でしたから、同じような感覚を持

っていたことでしょう。



 

  正しかったか間違っていたかは別として、聖

書の教えが、文化の中で読まれ、文化的な適用を

されていたわけです。
21世紀の現代に生きる私た

ちも、当然
21世紀の現代の聖書理解をします。そ

して
21世紀の日本という文化の中で、聖書の教え

に出来るだけ忠実に従おうとします。大切なの

は、その聖書の理解の仕方が正しいか、また適用

の仕方が間違っていないかということです。


 


  聖書はすべて、
2,000年以上も前に異なった

土地の異なった事情の中で書かれたものです。当

然、その教えの大部分は当時の社会状況に向けて

語られたものであり、時代と場所を超越した普遍

的原則そのものが、直接そのまま語られている場

合は非常に少ないのです。したがって、いま聖書

を読む私たちは、まず、当時の社会的状況に合わ

せた教えを通して、その土台となっている普遍的

理念に辿り着かなければなりません。それから、

その普遍的理念を現在の状況に正しく適用するの

です。


 


  これは簡単な作業ではありません。しかしこ

の作業をはしょってしまうと、とんでもない教え

を続けることになり、現代社会にまったく意味を

持たない教えに執着し続けることになるのです。

 



 分かりやすい例を挙げてみましょう。いまから

3500年ほども前に書かれたと思われるレビ記には

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさ

い」という、有名な教えが記されています。そし

て現代では、この教えはあたかも普遍的原則であ

るかのように語られています。つまり、時代と場

所を越えて、すべての人類に与えられているも

の、普遍的人類愛と考えられています。

 



  ところがレビ記をよく読むとそうではないこ

とが分かります。ここで言われている「隣人」と

は、文字通りの隣人であって、せいぜい広げて

も、「イスラエル民族とその中に寄留している人

々」程度であり、敵対している周辺諸民族、脅威

になっている周辺諸国の人々は含まれていないの

です。ですからイスラエル人は、イエス様が引用

したように、「隣人を愛し敵を憎め」言って、隣

人ではない人々、「敵」を想定していたのです。

 



  ただしイエス様は、「隣人を愛する」という

教えよりもさらに高度な、「敵を愛し迫害するも

ののために祈る」という基準をお示しになりまし

た。そして文字通りの隣人という枠を大きく広げ

て、自分以外のすべての人というかなり普遍的に

近い意味を持たせてくださったのです。

 



  もしも現代の私たちが、旧約聖書が教える隣

人愛の枠の中に留まってしまうなら、それは大き

な間違いです。でも、新約聖書の普遍的に近い隣

人愛を、ある特定の状況の中に適用すると、旧約

聖書の教えにもなるということを理解するのは大

切です。一方、現代の私たちの多くは、たとえク

リスチャンたちでさえ旧約聖書の隣人愛に留まっ

ているという、事実を認めるのも大切です。イエ

ス様がお教えになったような、普遍的人類愛には

たとえクリスチャンといえども到底到達できない

からです。

 



  では到達できないと、はじめから悟り、諦め

てしまうのでしょうか。そうではありません。は

じめから不可能だと知りながら、それを追及する

のです。はじめからそんなことは無理だと投げ出

すのではなく、真剣に追及して不可能だというこ

とを身をもって体験し、会得し、理解するので

す。そして自分たちが、神の水準には到達し得な

い罪人であると改めて認め、さらに神の哀れみに

すがり、さらに神の恵みに信頼するのです。する

と、そこに神の赦しが準備されていて、私たちは

神の懐深くに受け入れられるのです。そこで、不

完全であり、神の基準には到達できない者であり

ながら、恵みによって生かされているという感謝

と謙遜の中に生きるようになれるのです。


 


  結婚生活においても同じです。ひとりの男と

ひとりの女が結婚し、最後まで添い遂げるのが、

神の御心であり、結婚の原則であることに疑いは

ありません。人間はそのように造られているので

す。そしてあらゆる困難を乗り越えても、そのよ

うに生きることが、人間にとってもっとも良いよ

うに、本来、造られているのです。


 


  熊本県の出水市には、毎年冬になるとたくさ

んの鶴が訪れます。ある冬のこと、つがいの雌の

ほうが怪我をして、春になっても飛び立つことが

出来なくなってしまいました。雄の鶴は幾度も幾

度も、雌を励ますように翼を広げて見せるのです

が、雌はどうしても飛ぶことが出来ませんでし

た。すべての鶴がシベリアに戻ってしまっても、

雄の鶴は飛べない雌に寄り添い、かいがいしく餌

を運び、何ヶ月も留まっていたそうです。ところ

がとうとう雌の鶴が死んでしまったというので

す。それでも雄の鶴は長い間雌の死骸の周りに留

まっていましたが、やがて諦めたかのように、一

羽だけ北を目指して飛んで行ったそうです。鶴の

夫婦愛の深さに、見守った出水市の人たちは涙し

たそうです。

 



  この話には後日談があります。そのご確か
4

年ほどもして、あの見覚えのある雄の鶴を発見し

たそうです。その傍らには、まだ若い雌の鶴が、

ピッタリと寄り添っていたそうです。それを見た

出水市の人は、だれもが心から喜んだそうです。

自分たちの夫婦のあり方にいたたまれなくなり、

涙した人も、喜んだ人もいたのでしょうね。一夫

一婦の本能を与えられた鶴だからの話です。とこ

ろが、睦まじい夫婦の象徴のように言われている

おしどりは、相手を「とっかえひっかえ」で生活

します。一夫一婦の本能は与えられていないので

す。

 



  人間にも本能があり一夫一婦を望む心があり

ます。ところが人間にはさらに高度な知力と意思

も与えられています。これらが罪によって捻じ曲

げられて、本来与えられた人間としての生き方が

できなくなってしまったのです。どれほど誠心誠

意、結婚生活を保とうとしても、自分の弱さや欠

点、我儘や理解の不足から、離婚しないではおれ

なくなることもあるのです。また様々な社会的要

因や環境の問題によって、結婚を守り通すことが

出来なくなっているのです。


 


  離婚は本来神の御心ではありません。ですか

ら、離婚は罪です。神の御心に反しているので

す。ところが、モーセは離婚を認めています。な

ぜでしょうか。人間の弱さに、神が付き添ってく

ださったからです。いわば、神の妥協です。イエ

ス様も、それを認めておられます。

 



  罪を犯さないでは生きていけないのが人間で

す。それを理解することによって、初めて、本当

の意味で神の救いの必要を悟るのです。クリスチ

ャンになっても同じです。自分は聖書の律法を守

ることが出来ている、立派なクリスチャンだなど

と思っている人は、神の救いの意味が分からない

のです。神の救いを受け、聖霊の助けを受けてい

ながら、自分の不完全さと弱さに泣いて、始め

て、神の憐れみの豊かさが分かるのです。律法は

人を罰するためにあるのではなく、人に救いの必

要性を認めさせ、神の恵みの大きさを理解させる

ためにあって、高い基準をしめしているのです。


 


  現代の社会は、以前にもまして、一夫一婦を

守り、生涯添い遂げることが難しくなっていま

す。神の救いを受けた後でも、それは同じです。

聖霊の励ましがあってさえずいぶん難しいので

す。クリスチャンなのに離婚をするという人を、

教会に来させないようにしたり、聖餐に与からせ

ないようにしたりするのは、「立派な教会の立派

なけじめ」ですが、聖書の教えではありません。


 


  私たちの神は、罪人を救おうとされる神で

す。そのために、キリストを罰することさえして

くださった神です。神が御求めになるのは、キリ

ストが捧げてくださった犠牲に加える、さらなる

犠牲ではなく、憐れみです。モーセの時代、人間

の弱さに付き合って離婚を許してくださった神

は、いまの時代の混沌とした世界に生きる私たち

をも哀れみ、離婚をする者をお赦しくださるに違

いありません。離婚しなければならなくなったク

リスチャンは、自分の至らなさ、弱さ、罪深さを

さらに深く知って、神の恵みの大きさに感謝を捧

げることができるのです。クリスチャンが完全に

なるのは、やがて主にまみえるときなのです。









posted by まさ at 12:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

おおらかな日本の性風俗と教会



  私の住んでいる長崎県は、経済や産業、ある

いは賃金などに関わることでは、常に47都道府

県の最下位に近いところにいます。ところが数年

前、ある統計で、長崎県がダントツに一位だった

ことがあって、目を見張りました。それは
10代の

女性の堕胎率です。しかも良く見ると、私の住ん

でいる佐世保市を除いては、どの自治体もみな平

均に近いのです。佐世保市だけが突出して、長崎

県全体の数字を日本一にしているわけです。確か

に、私の小さな働きにも、それに関わる問題が幾

度かありました。


 


  高校卒業時の女子の性体験率が、東京ではま

だ50%になっていなかったのに、長崎県では

70%近くになっていました。これは今後もます

ます加速していくのだろうと思います。社会にお

ける性産業の隆盛、学校における性教育のあり方

など、たくさんの問題が関係していますが、いま

私が取り上げようとしている問題は、このような

状況の中にあって、私たちの教会はどう対応して

いくかと言うことです。


 


   17
世紀の厳格な清教徒や敬虔派の流れを汲む

キリスト教。あるいは、
18世紀のしっかり者のメ

ソジストの精神を受け継ぐキリスト教。さらに
19

世紀の、「罪罪罪罪」と厳しく罪を糾弾し続け

た、ホーリネスの伝統を引き継いだキリスト教。

それが私たちのキリスト教です。ある意味でそれ

は素晴らしいことでしたが、様々な弊害もありま

した。

 



  なにもかも罪と断定し、排斥して寄せ付けな

いのが、私たちの教会のイメージになってしまっ

たのも、弊害の一つです。なかでも性の問題は

「嫌らしいもの」「汚らわしいもの」「触れては

ならないもの」「隠しておくべきもの」として、

教会は忌み嫌ってきました。明治の時代、下級武

士の倫理を受け継いだ「男女
7歳にして席を同じ

うせず」の道徳は、このキリスト教と「仲良し」

になることが出来ました。そのため、キリスト教

には清廉潔白のイメージが付きまとって来たので

す。

 



  ところが、「男女
7歳にして」の倫理は、も

ともと性に関しては非常に「おおらか」であっ

た、悪く言うと「しまりのなかった」日本の文化

の中では、武士階級の建前として僅かの期間存在

しただけで、深く根を張ったものではありません

でした。ですから、ひとたび上から押さえつける

力がなくなると、たちまちのうちに、元のおおら

かでしまりのない性文化に戻ってしまったので

す。現代の日本の性風俗は、そういう意味ではこ

とさら嘆くべきものではありません。ただ、教会

は保守的です。それに命をかけているほどです。

頑固に自分の伝統を守り続けているために、現在

の日本の性風俗の中にあって、対応できないでい

るのです。

 



  教会が性風俗に対して厳格な立場を保持して

いるのは、悪いことではありません。それは必要

でしょう。しかし問題は、教会が正しい聖書の理

解と解釈に立ってそのようにしているというよ

り、ただ自分たちの伝統を守っているに過ぎない

ことです。もう少し言うと、聖書には確かに性に

対して非常に厳しい教えがある一方、あたかも日

本古来の性風俗のように、「おおらか」で「しま

りのない」面も記されています。そのしまりのな

い性風俗を、厳格な神が許し、赦しておいでにな

ったという事実を見逃してはならないのです。。

 



  現在の私たちの教会の多くが神の厳格さを教

え、自分たちの教会もその神のご意思に従って、

厳格な立場を保持していると信じていながら、現

実には、氾濫する性に関わる問題には対応できず

に、ただ糾弾するだけに終わるか、目を背けて逃

避してしまっているのです。伝統に立つあまり、

本来自分たちが立つべき聖書を横に置いてしまっ

たのです。いま、どれほど多くの日本人が、性に

関わる問題で悩んでいることでしょう。教会に相

談に行って、牧師に叱られ、拒絶された人がたく

さんいます。はじめから牧師には相談できない

と、あきらめているクリスチャンがたくさんいま

す。

 


  伝統を大切にしている教会は、私たちの神が

罪に対しては限りなく厳しい神でありながら、あ

くまでも寛容な神であるということを理解できず

にいるのです。神の厳しさと神の寛容の接点が分

からないのです。伝統的に、神の厳しさを教える

ことが出来ても、聖書に立って神の寛容を教える

ことができないのです。

 


 性は、神によって造られた大切なものです。こ

れをどのように取り扱うべきか。いまの日本の実

情の中で、教会はどのように教え指導すべきか、

おいおい考えて行くことにしましょう。

 

                 つづく







posted by まさ at 09:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

聖書が教える性 (1)



 「聖書の神は、性をどのように見ておられるの

だろう?」 このようなことを考えたり言ったり

すること自体が、そもそもクリスチャンらしくな

いと、白い目で見られそうです。



 

一般に、クリスチャンたちの多くが性をタブー

視して、この問題に触れたがりません。ほとんど

の牧師たちも、これを避けて通ります。ですか

ら、教会で性の問題を扱うことは滅多にありませ

ん。「情欲を持って女を見るものは、すでに心の

中で姦淫を犯しているのである」という、キリス

トの教えの間違った解釈に捉われて、(マタイ
5

2730)性欲があることそのものに罪責感をも

って、うじうじと悩んでいるクリスチャン男性が

たくさんいます。私は、どこの誰かは知らない

「クリスチャン」から、よく、電話相談を受けま

すが、その中の多くは、性の問題、特に性欲の処

理に関するものです。クリスチャン同士で話し合

えないし、牧師に相談すると叱られそうだし、と

いうわけで、声だけでどこの誰かを言わずにす

む、電話相談に頼るようです。



 

私も少しばかり常道を逸した牧師ですので、そ

んな相談にはそれなりの答え方をします。先日

も、「自分はクリスチャンなのに、歳頃の女性を

見ると我慢ができなくなる」と嘆く相談者に言い

ました。もちろん、この場合の相談者は男性でし

た。最近はややこしい相談者もいるため、断りを

入れなければなりません。「イエス様は、右目が

罪を犯すならえぐり出して捨てなさい。右手が罪

を犯すなら切って捨てなさいとおっしゃったのだ

から、そうしたら良いでしょう。ついでにあなた

の男性のシンボルを切って捨てたら、もっと良い

かも知れませんね」 しばらく声も出せずにいた

相談者は、ポツリと言いました。「そうですか・

・・・」



 

そこで、続けて言いました。「あなたにそれが

出来ますか?」「・・・・・。・・・・できませ

ん」消え入るような声が帰ってきました。「そ

う。出来ないでしょう? 出来ないからあなたに

は救い主が必要なんですよ。イエス様が十字架で

死んでくださったのは、あなたやわたしのよう

に、どうしょうもない人間のためなんです。せっ

かくクリスチャンになれたのに、まだ情欲を持っ

て女を見てしまうあなたさえも哀れんでくださる

神様に、感謝しながら生きることです。『ありが

とうございます』と、お礼を言いながら生きるこ

とです」



 

性の問題をことさら避けて通ることは間違って

います。性の問題をことさら罪悪視するのも、正

しくありません。先入観を持たず、聖書を広く読

んでみることです。

 



 聖書には性に関わる出来事や問題が、それこそ

たくさん記されています。避けては通ることがで

きない人間の性(さが)だからです。そこに現れ

てくる私たちの神の、性に対する取り扱いには二

つの局面があります。一方はとてもおおらかで、

穏やかで、緩やかなものです。そしてもう一方は

物凄く厳しく、情け容赦のない、ぴりぴりと張り

詰めたものです。どうも私たちの神様は、情け容

赦なく厳しい神として見られることが多いようで

すが、特に、性の問題についてはそれが極端で

す。



 

聖書の神は完全に聖い神です。そのために、ど

んなに立派な人間の高潔さも、神の前では汚れに

汚れたものです。これについて聖書は、かなりど

ぎつい言い方をしています。それは女性が生理の

ときに用いて汚れた布切れのようだと表現されて

いるのです。当時、女性の生理は汚(けが)れた

ものとして忌み嫌われていましたので、これは強

烈な言葉でした。

 



 それにもかかわらず、自分は立派なものである

と思い込んで高慢な態度をとっている人間を、神

は「お前の聖さは汚れた布切れだ」と、徹底的に

賤しめられたのです。キリストが自他共に高潔な

人と認めるような人物には、峻烈な厳しさをもっ

て対応したのは、彼らに、自分たちの汚れを悟ら

せるためだったのです。性の問題に関しても同じ

です。性に関しての神の厳しさは、人間に罪の深

さを悟らせ、彼らにも、自分たちには神の憐れみ

と救いが必要であると、分からせるための手段で

もあったのです。

 


 一方、キリストは自分の罪を自覚し、嘆き、悲

しむ人には、これまた徹底して優しく、彼らを慰

め、受け入れ、彼らのためにこそ神の救いがある

事を示してくださっています。いまさら彼らに罪

を自覚させる必要はなかったからです。性の問題

で罪悪感を持ち、罪意識にさいなまれている人

に、それは罪だと言う必要はないのです。神は罪

人を救うためにキリストを十字架に付けてくださ

ったのですから、救いはあなたのために準備され

ていますよと、教えて上げればよいのです。



 

神にとっては、どれほど清く、高潔な人間で

も、まったく救いに値しない罪人なのです。また

神にとっては、どれほど醜く汚れた人間であって

も、絶対に滅ぼしたくないと思っておられる愛の

対象なのです。どれほど立派でも、救いに値する

ほど立派な人間はなく、どれほど惨めでも、滅び

に入れたいと願われるほどの罪人はいないので

す。ですから、その片一方だけを強調するのは正

しくないのです。

 



 また、罪の問題の中で、性に関することだけを

特別扱いして、ことさら深刻に取り扱うのは良い

ことではありません。他の多くの罪と同じです。

ただ、人間性に非常に強く繋がっていて、取り扱

いの難しいものであることは事実です。そういう

意味では、注意深い取り扱いが必要なだけです。


 



 いま一つ、明らかにしておきたいのは、クリス

チャンたちの性に関する罪悪感の多くは、自分た

ちの文化に根ざした先入観を、教会の教えである

とか聖書の教えであるとか、勘違いした結果だと

いうことです。あるいは牧師も勘違いして教えて

いるかもしれません。特に、独身の女性牧師の場

合にはその傾向が強いようですが、これにはしょ

うがないという面もあります。


 



 ですから、聖書の教えに立った性の理解が必要

です。まず、聖書は性欲を罪悪視していないとい

う事実に、気付いてほしいものです。たとえば先

にも触れた、「情欲を抱いて女を見る」というキ

リストのお言葉は、正しくは「他人の妻を自分の

ものにしたいという欲望を抱いて見る者は」とい

う意味であり、性欲を非難しているのではなく、

むしろ、所有欲に関わるものです。もちろん、性

欲も関わってはいますが、性欲そのものを罪悪視

するのではなく、性欲を誤った方向に持っていく

ことを語っておられるのです。これはモーセの十

戒の中の教えと共通するものです。(出エジプト

2017) またダビデ王が、部下のウリヤの妻

バテシバを横取りしたときに、受けた神のお叱り

にも通じるものです。神は、他に女が欲しければ

与えたものを、なんでよりによって他人の妻を盗

んだのかとおっしゃっているのです。(サムエル

U
1111215


 

性は本来、神が定められた大切なものです。そ

れが正しく用いられるならば、美しく素晴らしい

ものであり、人間に幸せをもたらすものです。と

ころが、罪に捻じ曲げられた人間性のために、性

が誤って用いられるようになり、多くの混乱を生

み出しているのです。


 

神様は食欲を与えてくださったように、性欲も

与えてくださいました。食欲がなくては、人間は

生きて行けませんし、幸せにもなれません。しか

しこの食欲をコントロールすることが出来なくな

り、誤って用いてしまうと、当人にも周囲の人た

ちにも大きな不幸をもたらします。同じように、

神様は性欲を与えてくださいました。これを正し

く用いているなら、それは人間の幸せのために、

非常に大きな役割を果たすものです。ところが間

違って用いると、大きな不幸と混乱をももたらす

のです。

 



 では、神が人間に性を与えた下さった目的はな

んでしょう。性を正しく用いるとはどういうこと

でしょう。おいおい考えて行くことにしましょ

う。














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2010年10月22日

聖書が教える性 (2)



 歴史が始まってこの方、人間はずっと性の問題

に振り回されてきました。人間性のもっとも奥深

くに関わることだからでしょう。したがって、人

間の罪と救いについて語る聖書にも、性に関係す

る問題がくり返し語られています。ただ、聖書の

記述には、性に関わる出来事の記録が多く、性そ

のものを取り上げて教えるというものはわずかで

す。そのためか、教会はこの問題についてかなり

誤った理解を持ち続けてきました。



 

特に、すでに幾度も述べてきたことですが、日

本の教会の多くが、ピューリタンやメソジストあ

るいはホーリネス系のものである上、儒教の倫理

の受け皿で理解したために、性に関しては、伝統

的に厳格な立場を採ってきたと言えます。これら

の教会の教えは、聖書の教えというよりも、一種

の「キリスト教文化」と考えるべきでしょう。そ

してこの文化は、性というものを、ともすれば恥

ずべきもの、汚らわしいもの、隠して置かれるべ

きものとして取り扱ってきました。そのために、

真正面からこれを取り扱うことが出来ないで来ま

した。



 

一般社会が個人の自由を謳い、性の開放を叫

び、性産業が隆盛を極めるようになっても、教会

はまだ「恐る恐る」という感覚なのです。そのた

めに、現実の問題に対応できず、性の問題に捉わ

れている人たちを的確に取り扱うことが出来ない

でいます。



 

教会がはっきりと理解しなければならないこと

は、性は神によって造られたものであるという事

実です。性は、人間の堕落によって、あるいは罪

によって人間の中に入ってきたものではなく、は

じめから神の創造の一部として存在したことで

す。したがって、性は本来良いものであると考え

なければなりません。人間の知・情・意が、神に

よって与えられたものであり、本来、良いもので

あるのと同じです。問題は、その良いものを誤っ

て用いることです。人間は本来良いものである知

・情・意を間違った方向に用いて、たくさんの悲

劇を作り上げてきました。同じように、本来良い

ものである性を捻じ曲げて使ってきたために、非

常に多くの苦しみを作り出してきたのです。



  一般社会においては、様々な性の取り扱い方が

論じられています。
1960年代のアメリカでは性の

開放が謳いあげられて、小中学校でも具体的な性

教育が行われ、避妊が教えられ、避妊具が配られ

るようになりました。その結果、アメリカでは非

常な性の混乱が起こりました。ところが
1980年代

の終わりになると、アメリカの社会では性に対す

る「保守化」が始まり、いわゆる「道徳教育」が

徹底し、性に関する社会問題はひところの
4分の1

まで減ったという報告もあります。その背後に

は、保守的キリスト教会が真面目に性の問題を考

えて、行動に移したという一面もあります。
 





 色々な意味でアメリカの数十年後を歩んでいる

日本では、アメリカが性に関しては保守化する時

代になって、逆に、アメリカに倣えとばかりに性

の自由化が進みました。性については生物学的に

教えるべきだとか、性は個人の自由に任せるべき

だと主張する「擬似アメリカ文化」の団体が作ら

れ、日本の学校教育にも大きな力を持つようにな

りました。あるいは明治政府に始まる儒教的性教

育からやっと解放されて、日本古来の緩やかな性

観念にもどり、外面だけは近代的な装いを身に着

けたとも言える理現象です。すでにだいぶ前か

ら、小学
34年生頃に図解や人形をつかった性教

育を始め、避妊の方法まで教える学校が多くなっ

ています。ただし、性が人間性の中でどのような

意味を持ち、家庭や社会の中でどのように機能す

るかというようなことには、あまり関心がないよ

うです。そのために、いまの子どもたち、あるい

は若者たちの間では、セックスは個人の自由だと

いう感覚が強いのです。中学生や高校生の間で

も、互いに好きだったら、セックスはしていいと

いうのが普通です。
20歳で性体験のない男女は、

かえって「普通でない」と見られることが多いの

です。



 

こういう日本の現状にあって、私たちの教会

は、聖書の教えに立った性の理解を持って、対応

して行かなければなりません。その第一歩が、性

というものから「汚い」「不潔」というマイナス

のイメージを払拭し、本質的に良いものであると

いう認識を持つことです。その良いものをいかに

正しく、よい方向に用いていくべきかという問題

が論じられ、誤って用いてしまった人や、誤りを

容認している社会にどう対応するべきかが論じら

れるべきです。

 



 性が神によって作られた美しいものであると認

めて、そこから話を進めましょう。聖書は性につ

いてかなりおおっぴらに語っているのですから、

私たちも隠す必要はありません。


 



 神がお造りになったものには目的があります。

当然、性にも目的があります。人間以外の動物の

性は、ごく一部の高等動物を除いては、繁殖のた

めです。そして教会は、伝統的に性を繁殖のため

のものであると理解して、繁殖を目的としない性

行為を積極的に評価することはありませんでし

た。それを端的に現したのが避妊の禁止です。い

まだにカトリック教会では公式に避妊を禁止して

います。それは、繁殖を目的としない性行為を禁

止していることです。避妊というのは性行為の本

来の目的を曲げ、ただ快楽のために用いようとす

ることだと、非難しているのです。



 

確かに、多くの動物の性と性行為からの類推に

よると、繁殖が性の目的であるかのように考え

られます。ただし、それが唯一の目的か、あるい

は第一の目的かと考えると、一般の動物の世界

からも聖書の記述と教えからも、はてなマークが

つくのです。ちなみに、つい最近までは、人間以

外のすべての動物には発情期というものがあっ

て、一定の期間だけ性欲が起こるようになってい

ると言われていました。人間以外のあらゆる高等

動物の性行為は、繁殖のためであると考えられて

いたのです。しかし、サルの仲間を観察してきた

人たちは、発情期以外にも性行為を日常的に行う

サルがいることに気付きました。繁殖とは関わり

のないもので、むしろ「挨拶」に近いものだと考

えられています。


 



 サルの話はどうでもいいといえばどうでもいい

のです。神はそのサルをそのサルとして造り、そ

のサルにふさわしい行動をお与えになったに過ぎ

ません。神は人間にも発情期というものを与え

ず、基本的に、適齢期になるといつでも性行為が

出来るようにお造りになりました。人間が造られ

て間もなく、神は人間を祝福し、「生めよ。増え

よ。地に満ち」とおっしゃったことは、性が繁殖

を目的としていることを強く示唆しますが、人間

に発情期がなくいつでも性行為が出来るというの

は、この祝福に関係があるのかも知れません。




 

ともあれ、性が繁殖を目的としているという理

解は、聖書の教えから言っても誤りではないと認

められます。子どもが生まれたという単純な出来

事を言うのに、聖書はあえて男が女を「知って」

という表現で、性行為があって子どもが生まれた

という事実を、繰り返して記しています。ここか

らも、繁殖に繋がる性行為が重要視されていたこ

とがうかがわれます。ただ、それが唯一の目的で

あると言い切ることができない点に、注意が必要

なのです。









 
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2010年10月31日

聖書が教える性 (3)


  
 性は神がお造りになったものです。ですからク

リスチャンはこれを罪悪視したり、不浄視したり

せず、真面目に、まっすぐに向き合って取り扱わ

なければなりません。特にこれは人間の歴史の中

で、もっとも混乱し、罪悪を生み出し、社会を混

乱に陥れてきた、大きな要因ともなっているから

です。



 
では、真面目に聖書を読む限り、性についての

記述をどのように読み取ることできるでしょう

か。神は、性をいかに取り扱っておられるのでし

ょうか。不充分ながら、調べてみましょう。
  




T.性の目的


 

 神は人間を男と女にお造りになり、「生めよ。

増えよ。地を満たせ」とおっしゃいました。(創

世記
128) これで明らかなように、性の大切

な目的、あるいは機能は、繁殖のためだと言うこ

とができます。動植物の繁殖の仕方は実に多様で

す。でも、いわゆる高等な動植物のほとんどには

性があります。性を持っていながら無性生殖をす

るものもあれば、成長の過程で雄になったり雌に

なったりするものもあります。雌雄同体というの

もあれば、栄養状態で雄にもなり雌にもなるもの

もあります。生物の繁殖は本当に神秘です。とは

言え、たとえば哺乳類のような高等な動物は、み

な、性を持ち性行動で増殖をすます。人間も同じ

ように、性行動によって増殖するように造られて

います。



 
 

 このように観ると、人間の性も繁殖のためであ

ると結論付けてしまいたくなります。ところが、

聖書を見ると、そのようには言えないことがわか

ります。また、人間の性行動を見るとそうではな

いことが分かります。

 



 聖書の記述を読むと、性は繁殖を目的として用

いられているとは言い切れないのです。むしろ、

性は人間の喜び、楽しみとして用いられていま

す。それがちょっと間違うと、快楽のため、欲望

のためとなってしまうわけです。



 

 たとえば、聖書の中にも売春や強姦の問題が論

じられ、いくつもの例が記録されています。これ

は性が、繁殖を抜きにした快楽のために用いられ

て来たことを、聖書も認めていることを示してい

ます。人間は古くから、繁殖のためだけに性を用

いてきたのではないのです。繁殖のためだけなら

ば、神は人間にも、ほとんどの高等動物に与えら

れている、繁殖期をお与えになったはずです。繁

殖期を持たないで、何時でも繁殖行為が可能なの

は人間だけなのか、他にもそのような動物がいる

のか、良く知りませんが、人間は繁殖期を持たな

いで、極めて特殊な性行動をする動物だというこ

とは確かです。



 

 また、聖書が性行為を表現するのに、「知っ

た」という言葉を用いていることには、強い示唆

があるように思います。人間の性行為は「知る」

ことだったのです。知るということが性行為の大

切な目的、あるいは機能だったといえるのです。

知るとは、人間の交わりの中でとても大切な、中

心的な要因です。特に、この知るという行為が男

女の仲で行われることは、男女の非常に深い交わ

りを意味しています。一組の男女が、会話や付き

合いの中で互いに知り合い、精神的なつながり、

心の絆を強くするだけではなく、肉体的にも繋が

って、「知る」という深みの交わりを築き上げる

わけです。



 

 ここに、人間という動物が単に多くの動物と同

様の、ふつうの動物ではなく、特殊な動物である

ことがうかがわれます。人間は肉体と霊とがしっ

かりと結びついた存在なのです。単に動物的な生

命、それを魂と呼ぼうと心と呼ぼうと結構です

が、動物的な知・情・意以上のものを持っている

という証です。聖書を読むと、人間だけが他の動

物と異なった造られ方をしているのに気づきま

す。土を捏ねて形造られ、そこに神の息吹(原語

では霊と同じ言葉)を吹き込まれて、生きる存在

になったのです。人間は霊である神に似せられ

て、霊的な存在ともされているのです。


 


 とはいえ、人間はあくまでも動物です。血と肉

と骨と多くの物質による体を持った存在です。神

に似せて造られてはいても、神のように肉体を持

たない霊だけの存在ではないのです。死後、一時

的に肉体を離れた存在として生きることがあった

としても、やがて甦りのときに完全な肉体を与え

られて、元の、肉体を持つ存在に戻されるので

す。


 


 その肉体的存在でもある人間が、単に精神的

な、あるいは霊的な理解や交流だけによるのでは

なく、肉体的な交わりをも通しても知り合うとこ

ろに、社会を形成する最小単位である結婚が成立

するのです。互いに深く知り合う結婚によって、

社会の基盤が築かれるのです。本来、夫婦間の性

交渉は人間としてのもっとも深い交わりであり、

他のことでは築くことができない性質の交わりで

す。人間の性の営みは、繁殖するという動物的な

目的だけではなく、精神的にも肉体的にも、「一

つ」を形成するための、深く「知り」合う行為な

のです。

 



 人間は、男女が性的にも結合することによっ

て、初めて神がもくろまれた「一つ」になること

ができるのです。「知る」と表現された性行為が

あって、一組の男女が「一つ」と認められる結合

体とされるわけです。それが結婚です。人間は、

やがて天のみ国に迎えられるまでは、つまりこの

世界で生きていく限り、男女が一つとなり夫婦を

基本単位とした世界で生きるのです。そのような

基本単位が不要とされ、繁殖が不要とされる天に

おいては、男女も結婚も存在しなくなるというの

が、イエス様の教えです。

 

 


 姦淫や強姦や婚外交渉の記事がたくさんある旧

約聖書を読むと、「知る」ということが結婚とし

て扱われていることがわかります。たとえ、社会

制度としての結婚は成立しなくても、神の創造の

目的からすると、知ることと結婚は不可分の事柄

なのです。新約聖書のパウロの教えを読んでも、

同様です。パウロは遊女と交わるものは遊女と一

つになると言って、遊女との性交渉が、神の目的

から見ると結婚を成立させることとなると教えて

います。



 
 

 したがって、聖書によると、性交渉は単なる繁

殖の手段ではなく、一組の男女がひとつとして生

きていく上で、欠くことができない交わりを作り

あげる、「知る」という行為なのだと分かりま

す。日常の会話、日常の付き合い、日常のふれあ

いでは到達できない次元での、知ること、より深

い交わりを達成することなのだと理解できます。

結婚とはそのような男女の結びつきなのです。人

間の繁殖は、そのような夫婦間の「知る」行為の

結果として、達成されるべきものだったのです。



 
 

 こうしてみると、聖書によると、性とは結婚生

活のための基本部分を形成するものだと、考えら

れます。結婚とは互いに深く結びつき、協力して

生きていくことです。そこにおいて、知るという

行為が非常に大切な役割を果たすのです。そして

それだけ重要な機能と目的を持った性であるため

に、神は性に快感をお与えになり、性がないがし

ろにされたり、捨て置かれたりせず、知るという

喜びが保たれるようにされたのでしょう。

                   
                 つづく







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2010年11月13日

聖書が教える性 (4)




 性交渉を表現するために、聖書が主に用いてい

る主な言葉は、「知る」であることはすでに述べ

たとおりですが、聖書には、多分この言葉の意味

と関わりがあるだろうと思われる、面白い記述が

あります。


 

最初の人間であるアダムとエバが神に逆らっ

て、食べてはならないと命じられていた木の実を

食べてしまったとき、彼らは自分たちが裸である

ことに気付き、木の葉で腰の周りを被ったと書か

れています。なぜ、腰の周りを被ったのでしょ

う。隠すなら、木の実を食べた口か、木の実を採

った手であるべきです。



 

キリスト教を騙(かた)るえせ団体には、アダ

ムとエバが腰の周りを被った、つまり性器を隠し

たことをもって、彼らの罪は性に関係するものだ

と言って、独特の性倫理を主張し、団体の中で奔

放な性行為を推奨しているものさえあります。教

祖などの高位の者たちが、人間の罪は性行為から

生まれているのだから、罪のない教祖や高位の者

たちとの性行為によって、罪が取り除かれるのだ

と教え、多数の信徒たちを毒牙にかけているわけ

です。



 

神に背く罪を犯したアダムとエバが、本能的に

取った行動は神から隠れることでした。つまり、

知られたくなかったということです。腰の周りを

被って互いに隠したのも、知られることを恐れる

ようになったためだと考えられます。性行為は

「知る」と表現されているように、互いの人間性

の奥深くまで知り合うことですが、罪を犯してし

まったアダムとエバは、互いに自分たちの奥深く

まで知られることを恥じ、恐れるようになったわ

けです。それで、「知る」ことと関係する性器を

隠すに至ったのでしょう。反対に考えると、当初

の性行為は、単に肉体的な結合で終わるものでは

なく、本当の意味で知り合うという、深みがあっ

たのでしょう。アダムとイブはそれを感じていた

のです。だからこそ罪を犯した彼らは、罪が暴か

れるのを恐れ、知られるのを嫌ったのでしょう。



 

現代の私たちは、あらゆる罪に染まってすっか

り鈍感になり、アダムとエバほどのナイーブささ

えも失ってしまいました。だからこそ、木の葉で

腰を覆ったアダムとエバの行為が、まるで、子供

向けの話のように他愛なく、滑稽に思えてしまう

のです。



 

そういうわけで、聖書が教える性の目的は、た

だ単に繁殖のためだけではなく、一組の男女が社

会の基盤を構成していく結婚を、成立させる機能

を持っていたということです。一組の男女が肉体

的にも繋がりあい、それを通して精神的にも繋が

りあうことであったのです。ただ、罪のために無

感覚になった人間は性を軽んじ、性行為で築かれ

る深い人間的つながりそのものを、破壊してしま

ったと思われるのです。



 

U. 性の間違った用い方




 神は子孫を残す手段として性をお造りになりま

した。また人間の場合は、結婚を成立させ、一組

の男女が深く理解しあい、二人としてではなく、

一体として協力して生きて行くためには、なくて

はならない心の繋がりを作り上げるための、大切

な要因としてお造りになりました。



 
 

 ところがその性が、人間の罪のために人間の心

が歪んでしまった結果、誤った目的のために使わ

れるようになってしまったのです。



 
 

快楽のための性

 



 間違った性の用い方の第一が、快楽だけを目的

とした性行為です。性行為には快感が伴います。

美味しいものを食べると美味しいと感激するのと

同じです。ただし、食べ過ぎるのは間違いです。

人間にはエネルギーと栄養が必要です、そしてそ

の必要を満たす食べるという行為に、神は喜びを

付加し、団欒の要素さえ与えてくださいました。




 神は子孫を増やし、結婚をより親密なものとす

るために性を与え、そこに大きな喜びを加えてく

ださいました。しかし食べる目的をすこしだけは

きちがえ、肥満になる人たちがたくさん出てきた

ように、性の目的をすこしばかり軽んじて、結婚

とは関係なく、快感だけを追い求める人々が、た

くさん出てきました。しかも、食べすぎには豊か

さが必要ですが、性行為には豊かさは関係なくい

つでも可能なのです。快感を得るための、もっと

も身近な手段となったのです。

 


 そのために、人類の歴史は性の歴史であったと

さえ言えるほどになったのです。夫婦間の性だけ

ではなく、結婚とは関わりのない性が氾濫し、人

間社会をそれなりに形作ってきたのです。性は、

人間社会に数多くの混乱と悲劇を生み出してきま

した。しかし憐れみに富む神は、そのような人間

の過ちを厳しく攻め立てて、悲劇だけには終わら

せることは避けてくださったのです。

                                   つづく








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2010年12月07日

聖書が教える性 (5)


  (長い間、ブログを更新できませんでし
  た。多くの読者の方々にご心配をかけた
  ことをお詫びします。単に、とても忙し
  かっただけです。これから、すこしずつ
  書き足していきます)





 売買のための性

 

 売春は人類最古の生業の一つであるといわれる

ように、性の売買は時と場所を問わず、人類の歴

史上ずっと続いてきたようです。聖書にも幾度も

記されていますが、売春婦については創世記34

章31節が最初の記述で、ヤコブの子どもたちが

成人していた当時、売春婦が良く知られていたら

しく、ずいぶん早い時期です。(聖書では、ふつ

う売春婦を「遊女」と訳しています)



 

 聖書を注意深く読むと、性が子孫を残すための

手段として、また、結婚をした一組の夫婦が互い

に深く知り合い絆を強めるための手段として、良

いものとして神に与えられたことは明白です。と

ころが罪に支配された人間は、この性の自然な用

法、つまり神に与えられた用法を誤って、自分た

ちの欲望を満たすために用いるようになってしま

ったのです。



 

 悪いのは性ではありません。性を目的どおりに

正しく用いることができなくなった人間の欲望

と、その欲望を制御できなくなってしまったとこ

ろが問題なのです。また性の目的を見失って、間

違ったことに利用し始めたことが悪いのです。人

間の罪のもっとも根深いところにあるのは、自分

の欲求を抑えられなくなってしまう弱さです。欲

求自体は自然のものです。でもちょっと油断する

と、それは欲望となり、押さえ切れない強い衝動

になってしまうのです。その衝動が特に激しく現

れるのが性欲と言えそうです。



 

 その押さえ切れない欲望を満足させようという

試みが、結婚という社会制度に結びつかない性の

営みであり、なかでも用の東西を問わず広く知ら

れているのが、現代日本では性産業などと呼ばれ

ている売春です。性の快楽を求める欲望は、しば

しば他の感覚的な快楽と結び付けられ、同時に行

われます。昔から、恍惚感を呼ぶことができる深

い飲酒や激しい舞踏、あるいは今で言うドラッ

グ、つまり興奮剤と共に売春が行われて来たとお

りです。

 



 そこにはまた、宗教的恍惚感も容易に仲間入り

することが出来ました。ですから、世界中の多く

の宗教が性的興奮を重要な要素として取り入れ、

秘儀あるいは奥義といわれるものの中に、性行為

を含んできたわけです。日本にも、昔からそのよ

うな宗教がずいぶんありました。特に、ヒンズー

教の影響を強く残した密教と呼ばれる仏教は、チ

ベット、中国、モンゴルとわたり、日本にも真言

密教の一部としてもたらされてずいぶん物議をか

もしました。

 



 聖書に目を向けると、モーセの時代からパウロ

の時代にいたるまで、イスラエル周辺の異邦人の

間では、神殿娼婦あるいは神殿男娼といわれるた

ぐいの、宗教と結びついた性産業が盛んだったこ

とがわかります。そのような中でイスラエル人

は、神殿娼婦や神殿男娼になりことが禁じられ、

売春から得た儲けを神に捧げることも禁じられて

います。



 

宗教の中に性行為が大切なものとして取り入れ

られたのには、他にも重要な理由があります。人

類の多くがまだ農作物を育て、家畜を養って生き

ていたころ、もっとも大切なことは豊穣でした。

彼らの宗教の多くが豊穣を重んじ、豊穣に関わる

性行為を神聖化して行くのも、ある意味で自然の

成り行きでした。またそのようにして生まれた子

を犠牲にして捧げることにより、豊穣のために命

を捧げるという名目になっていたことすらありま

した。聖書の中にも、豊穣を祈願する人身御供を

示唆すると思われる記述が残され、そのような慣

わしに対する、天地をお造りになった神の怒りと

嫌悪が記されています。



 

神は原則的に、性行為を結婚関係の中で行われ

るものとしてお造りになったのですが、強姦があ

ったり女性からの誘惑があったり、原則どおりに

行かないのが罪に陥った人間の世界です。(創世

34239718)その生身の人間たちの姿

を、隠すことなくそのまま記している聖書は、ど

んな名高い小説よりも人間性を深くえぐった、ま

さに読み応えがある書物です。



 

多くの人が勘違いしているようですが、私たち

の神、天地をお造りになり、人間をお造りになっ

た神は、罪を犯した人間を罰することよりも、む

しろ彼らを助けお救いになることに大きな関心を

持っておられます。性に関する罪も同じです。日

本に伝えられたキリスト教は、ともすれば性に関

する罪を厳しく取り扱うようですが、聖書の神は

意外に物分りの良い、優しく懐の深い神なので

す。



 

売春は神に喜ばれないもの、忌み嫌われるもの

です。売春で得たもうけを神への捧げ物にしては

ならないと言われている通りです。ところがその

一方で、神は売春婦に対してもとても哀れみ深い

お方です。売春婦になるまでには多くの苦しみや

悲しみや、人にはわからない辛いことがあること

を、神はご存知です。血筋で言えばイエス・キリ

ストの先祖に当たる、ラハブという異邦人の女は

売春婦でした。そのようなことが起こるのを、神

はあえてお許しになったのです。



 

イエス・キリストは、売春婦たちに非常に優し

く接し、もっとも救いに近い人たちとして、大切

にお取り扱いになりました。キリストは、それが

当時の貴族や宗教家たちから疎まれ、蔑まれ嫌わ

れて、十字架に付けられる原因の一つになること

をご存知だったのに、決して売春婦たちをおろそ

かにはなさいませんでした。



 毅然として性的過ちに陥らない態度と、性的な


過ちに陥った人や、性的弱さを抱えながら一所懸

生きている人に対し、どこまでも優しく付き合う

態度が大切なのです。
 







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2010年12月18日

聖書が教える性 (6)


 

一夫多妻

 

 神が人間をお造りになったとき、男1人と女1

が性的に結ばれて、夫婦になるようにお定めにな

りました。神の人間に対するご計画は、いわゆる

一夫一婦制です。(創世記
21824



 

 ところが、一般の歴史を見ても聖書の記述を見

ても、一夫一婦制はどこでもあまり守られて来な

かったことが明らかです。一夫一婦制が守られな

かったと言っても、そこにはいくつかの形があり

ます。



 

 第一は、社会制度として一夫多妻制を採ってい

る場合です。現代では多くの先進国が一夫一婦制

を採っているために、私たちは一夫一婦が当たり

前だと思っていますが、回教徒の国では一夫多妻

が一般的ですし、回教徒の多い国では回教徒だけ

は一夫多妻が認められているという例もありま

す。また回教徒だけではなくても、独自の文化と

アイデンティティを持っている小部族は、属する

国が一夫一婦制度を採っていても、彼らだけは一

夫多妻が認められている場合も多いようです。私

も、そのような部族の中で働いた経験がありま

す。



 

 旧約聖書を読むとすぐ気付くことですが、イス

ラエルの人々は周囲の人々と同じように一夫多妻

を習慣としていました。神は、元来一夫一婦を原

則として人間をお造りになったのにもかかわら

ず、一夫多妻を許容なさっているのです。それは

罪に陥った人間の道徳心の弱さだけではなく、罪

のために荒れてしまった自然の中で耕作し、(創

世記
31719)生活を営み、社会を機能させて

いく上で、一夫多妻をも認めてやらなければなら

ないところがあったのでしょう。これは弱い人間

への神の歩み寄りです。

 



 産業がある程度発達し、生活が豊かになり、女

性にもそれなりの生活力が認められるようになっ

た社会では、女性の地位だとか権利だとか平等だ

とかいう問題が、大きく取り上げられました。も

ともと、神は男女を平等にお造りになったのです

から、それはそれでよいことですが、社会制度が

未発達で、生産性が低く生活も厳しかった時代や

文化では、男尊女卑とも受け取られる一夫多妻

も、やむをえなかったと言えるのです。

 



 第二は、制度としては一夫一婦制を採っていな

がら、実際生活の上では、一夫多妻制になってい

るという場合です。実際のところはこれが非常に

多いと言えます。以前に、神が結婚とお認めにな

るのは、性交渉の成立だとお話したことがありま

すが、それを思い出してください。たとえ制度的

には結婚していなくても、性交渉が成立すると神

の本来の目的からすると、それは結婚と認められ

てしまうということです。(創世記
11824

Tコリント
616

 



 ただし、旧約聖書の律法を読むと、人間の罪深

さから来る弱さのために、この点においても神が

歩み寄ってくださっているところが、そこかしこ

に見ることができます。たとえば、モーセを通し

て与えられた律法によれば、結婚前の処女が男に

騙されて性交渉を持ってしまった場合、それは必

ずしも制度的結婚に結びつかなくても良いように

決められています。(出エジプト
221617

また、強姦の被害者も結婚したとは認められませ

んでした。(申命記
222529 この律法から

推し量ると、性的な問題に対して律法を実際に適

用するに当たっては、かなりの幅が認められてい

たと考えられます。

 



  また国の制度としての結婚と、事実上の結婚が

あります。たとえば現在の日本では、いわゆる同

棲があります。以前には足入れ婚という習慣も、

かなり多くの土地で行われていました。子どもが

できて、あるいは跡取りができて、始めて、結婚

が成立したと考えられるのです。このような土地

柄においての性道徳あるいは性に対する感覚は、

「男女七歳にして席を同じうせず」の、国家に強

制された性道徳とはかなりかけ離れたものでし

た。明治から昭和初期にかけての男女教育は、徳

川時代の武士階級に向けた儒教教育の名残に過ぎ

ないのです。ですから、日本の歴史の大部分で、

性に対する感覚はとても緩やかでおおらかなもの

だったのです。

 



  三行半(みくだりはん)を手にした女は、自由

に別の男と結婚することができました。三行半と

いうのは、ふつう考えられているような、夫が嫌

になった妻を追い出すための手段ではなく、妻が

夫から解放されて、自由に新しい男を物色するた

めの許可証のようなものだったのです。江戸時代

の銭湯がみな男女混浴であったと聞いて、驚く人

が多いのですが、日本は実におおらかだったので

す。どこの世界でも、制度としての結婚はしてい

なくても、事実上結婚していると認められる場

合、あるいは社会通念上結婚と認められた場合

が、たくさんあったのです。



 

聖書を読むと、基本的に、神は男女の性交渉を

結婚の成立と見做しておられたとしても、社会的

には結婚に至らない場合を認めておられることが

分かります。現実には処女ではない独身女性が、

結構存在したのです。寡婦となった女性、離婚さ

れた女性、無知のために騙されたりして性体験を

してしまった女性、強姦の被害者となった女性な

どです。また、男性側にも似た存在があったこと

でしょう。このような人たちに対して、厳しい一

夫一婦制を押し付けて、二度と結婚生活が出来な

くなるようにするのは、神の律法の目的ではあり

ませんでした。神が喜ばれるのは犠牲ではなく憐

れみです。神は案外、罪深い人間生活の酸いも甘

いもご存知の方なのです。

 



  制度が整った社会では、結婚が公に認められる

ためには婚姻届というものを出し、それが受理さ

れて結婚が成立するのですが、制度が整っていな

ければ、結婚の事実が周囲の人々に認められれ

ば、それが結婚として受け入れられました。イス

ラエルの律法でもそのようなものでした。男女が

交わって結婚が成立したと認められたのです。多

分、未婚の男女が一緒に一つの天幕に入ること

が、結婚の成立と見做されていたと考えられま

す。(創世記
2467



 

日本でも、男女の性交渉が成立することを結婚

と認めていた土地では、「聞き届け役」が襖の隣

で初夜の成立を確認して、親族一同、めでたしと

祝ったという風習が続いていたと言われていま

す。プイバシーを重んじる現代の私たちからする

と、なんとも珍妙な風習ということになります

が、性を淫卑なものと考えずに、かえって人間生

活の基本で大切な一部分と認め、また結婚を単に

男女の結びつきとも考えず、血族社会や地域社会

の重要な出来事をして認めて、祝うという習慣と

考えると美しいものです。

 



  一般に、ピューリタン的傾向を持っている宣教

師たちが、一夫多妻制度の土地に行って起こした

色々な問題が、記録に残っています。クリスチャ

ンになった男性に、第一夫人以外の夫人をすべて

離婚させるように教えたために、離婚させられた

夫人たちはみな生活ができずに、子どもたちもろ

とも路頭に迷う羽目になってしまったとか、そん

なことにはしたくない夫たちと、離婚させられた

くない妻たちが、キリスト教にこぞって反対した

とか、聖書の教えは信じるけれど、宣教師は信じ

ないと宣言する人たちが出てきたと言うことで

す。



 

5人の妻を持っていた族長が宣教師を嘲笑しま

した。「西欧のキリスト教国では、何回も離婚し

ては結婚をくり返している男女が沢山いるようだ

が、それは時間差一夫多妻、あるいは時間差一妻

多夫に過ぎないではないか。俺たちを批判するの

はおかど違いもはなはだしい」



 

私たちはできる限り、神の人間創造の原則に近

い生き方をすべきです。しかし、罪のために弱く

なった人間が作り出した、この混乱した社会に生

きる人々に、もう少し寛容な態度を持ちたいもの

です。神様のように、罪深い人間生活の酸いも甘

いも知って、それらの人たちがより神に喜ばれる

生き方ができるように、願い、助けてあげるべき

なのです。







 
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2011年01月02日

聖書が教える性 (7)

 


性と差別


 

 人間の歴史を見ると、どこにおいても差別がありました。神はあらゆる意味で人間の間に違いをお造りになりました。本来それは多様性、バラエティであったはずなのですが、すぐさま、人間の罪とそのために混乱した社会のために、差別となって現れてきました。それらの差別の中で、もっとも深刻なものの一つが性差別です。旧約聖書の記述や律法を読むと、性差別はいたるところに見られます。



 

 キリスト教には性差別がないだろうなどと、善意の先入観をもって旧約聖書から読み始めると、いたるところに一夫多妻の話が出て来る上、なにかにつけ女性たちが酷く差別されている状況に驚きます。ちなみに、アブラハムと周辺の女たち、ヤコブを取り巻いた女たちを見るだけで、充分でしょう。それは当時の人たちの間違った習慣だろうなどと、また善意をもって読み進むと、神に与えられた律法までが、また、明らかに男性に有利なように作られているのです。たとえば律法は、明らかに父系社会を保てるように結婚を定めています。一夫多妻は認められていますが、一妻多夫は認められていません。旧約聖書は性差別に満ちた書物です。キリスト教の神は、性差別を認めておられるように考えられます。



 

ところが新約聖書まで読み進むと、まったく異なっているのに驚きます。キリストの教えも行動も、かなり女性を大切にしたものです。ともすれば男性に有利に用いられた離縁状も、キリストは禁止しておられます。(マタイ53132 一夫一婦が基本であることも、認めておられたと読み取ることができます。(マタイ1946)さらにパウロの教えに至ると、男女平等の感覚はもっと進んで、(参照・Tコリント7116、エペソ52233 少なくても原則的には、男も女も平等であるということがはっきりと語られています。(Tコリント111112) とは言え、実際生活への適用においては、パウロもかなり女性に差別的な習慣を認めています。(Tコリント143335、Tテモテ2915



 

これらのことから、聖書に出てくる性差別の容認は、当時の社会の中で広く行われていた性差別に対する神の歩み寄り、神を離れて無知と弱さの中で生きる人間に対する、神の妥協であることが分かります。性差別がまったく行われていない白紙状態のところで、性差別をしてはいけないと教え、それを実効させるのはあまり難しいことではありません。しかし、すでに社会そのものが性差別の上に成り立っているとしたら、性差別を取り除くことは、たとえ男女平等の原則を適用することであるとしても、社会を混乱させ、多くの人間を不幸に陥れます。それよりも、性差別の実情を許容しながら、穏やかに性差別を取り除くほうが現実的です。



 

キリストが離婚を禁じたとき、「モーセは離縁状を渡せと命じているではないか」とそれに疑問を投げかけた人々に対し、モーセが離縁状を渡せと命じたのは、その当時の人々の心がかたくなだったために、それを許したのだと説明しておられます。神はモーセを通して律法をお与えになったとき、心のかたくなな人々に歩み寄って、社会の機能が停止しないように配慮してくださったのです。一夫多妻制にしても、あるいは奴隷制度にしても、神は現実にそのような制度の上に動いている社会を無視して、原則を生のまま適用するようなことはなさいませんでした。だからと言って原則を放り投げてしまったのではありません。あくまでも原則を保ちながら、社会の実情に合わせてその原則を適用しておられるのです。



 

パウロが「女は教会で黙っていなさい」などと差別的なことを言ったのも、あくまでも、社会的実情に適した教えとして語ったのです。奴隷は奴隷として主人に仕えるように命じているのも同じことです。人口の半分以上が奴隷であったと考えられる社会で、奴隷制度は差別である、神のみ心に反していると筵旗(むしろばた)をあげても、それはただ反社会的行為として潰されてしまうだけです。とは言え、そのような状態の中でも、パウロは原則を放棄せず、かえって原則に言い及ぶことによって、ゆったりと力強い、奴隷制度廃止運動を呼び起こす原動力を据え、男女平等の大きな流れを作り出す、源流を掘っていたのです。



 

 私たちは現在の私たちの社会的通念から、歴史の出来事を裁いてしまいます。しかし、ある特定の社会の中で起こったことは、まず、その社会情勢の中で裁かなければなりません。現在の私たちの社会情勢だからこそ、多くの不公平が許されています。真面目に生きている人が損をするような仕組みがたくさん残されています。世界中で、毎年1千万ほどの人たちが飢えで死んでいるかと思うと、片方では大富豪家たちが食い散らかしています。それが、立派な現代の法律で擁護されているのです。時代が変わってから今の世界を振り返ってみる人たちは、この世界をどのように判断するでしょう。



 

 その贅沢に喰い散らかしている人たちの多くは、プロテスタントのキリスト教を信奉している人たちであり、クリスチャンが少ない日本人もその仲間に入っていることに、痛みを感じないでしょうか。

 

                            つづく





 
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2011年01月21日

聖書が教える性 (8)

 

キリスト教と離婚

 

 キリスト教は離婚を禁じていると思い込んでいる人が多いようです。確かに離婚を禁じている教会が多いのは事実ですが、禁止したからと言って、離婚が無くなるわけではありません。世の中はそんなに単純ではありませし、その混迷した世界に与えられている聖書の教えも、そんなに単純明快ではあり得ません。キリストが離婚に言い及んだ記事を読んでも、それはかなり複雑であったことがわかります。(新約聖書マタイの福音書5313219311 また、使徒パウロの記述を読んでも、それは明らかです。(コリント人への手紙第一71017



 

 聖書の教え、つまり、キリストやパウロや、古くはモーセの律法などを読むとき、気をつけなければならない点がいくつかありますが、その一つは、これらの教えや律法が、罪を犯して惨めな状態にある人間と、その社会に対して与えられているということです。

 



 車や複雑な電気機器を購入すると、マニュアルが付いてきます。どのように使ったらよいか、「あまり親切ではなく」説明してあります。でもあれはまだ新しく、磨り減ってもいない、故障もしていない完全な製品に対する説明で、何か不具合を生じたら修理を頼むように書かれています。

 



 ところが聖書は人間と神との正しい関係を始め、人間同士の関係、社会生活について書かれていて、ある意味で、新製品のマニュアルのようでありながら、大きな違いがあるのです。それは聖書が、断ち切られた神との関係の中、混沌とした社会に生きなければならない、罪によって破壊された人間に対し、そのような実情の中でどう生きるべきかと、教え導く書物であるということです。 

 



 聖書は、一方では神のように完全に生きることが、本来の人間の生きる道であることを教えながら、他方では、それは絶対に不可能であり、この世界に生きる限り、不完全さと罪の中に悲しみ苦しみながら、生きなければならないことを教えているのです。

 



 結婚に関しても、聖書は本来の結婚のあり方がどのようなものであったか、わずかに示していることは示しているのですが、むしろ、断ち切られた神との関係と、壊れた人間関係、そして罪に牛耳られている人間の性質という、現実に対処した結婚のあり方を教え、その中で、離婚の問題も取り扱っているのです。

 



 ですからそれは、油が切れ部品が磨り減り、金属疲労を起こしてしょっちゅう故障する車でも、あそこをとっかえ、こっちをひっかえ、なんとかより良く走らせようと努力するようなものなのです。そんな車の苦労は、今の日本ではあり得ませんが、私がフィリピンの山岳奥地で宣教師をしていたころ、とても道とは言えないような道を
40万キロも走った三菱ギャランは、そのようにして使っていたのです。車を設計した人や実際に製造した人たちが見たら、腰を抜かすような対応と修理をしながら使っていたものです。

 



 聖書は、過酷な悪路の中で長年にわたって無理やりに乗り回された、車の使い方を教えた指導書のようなものなのです。ですから、本来離婚などはあり得なかった人間が、離婚せざるを得ないような状況の中で、いかに離婚を少なくし、より良い結婚を作り上げ、より幸せな家庭を築き、より平和で住みやすい社会にしていくかということなのです。

 


 
 それに対し、離婚は絶対に駄目、離婚は聖書の教えに反している、クリスチャンが離婚をするのは神に対する裏切りである、離婚したものは教会から追放するというような主張をするのは、「分かっていないなー。(ため息)」ということです。どんなに真面目に生きていても、離婚しなければならない状況に、追い込まれることがあります。どれほど立派なクリスチャンでも、離婚が避けられないこともあります。それが浮世です。そのような人たちを裁くのが、聖書の与えられた目的ではありません。

 



 人間は神を神として認めず、神の祝福を失った中で、なおも神を求めて生きずにはおれません。罪のために、本来の理想的人間像は失ってしまいながら、自分の良心に従い、理想に駆られて生きようとします。それは、たとえ罪を犯して神から離れてしまったとは言え、神によって造られたときの「神に似せて造られた人間」本来の姿を、ことごとく失ってはいないからです。

 



 そのような人間に対して、神は聖書を与えてくださったのです。人間が、いくらかでも本来の人間の生き方に近く生きることができるように、そして、本来の神との関係に近づくことによって、神からの新たな命と力をいただいて、まったく新たに作り変えられた者となり、永遠に生きる望みを持つことができるようにと、聖書は与えられているのです。

 


 聖書を、単なる「してはならない」「やってはならない」の羅列のように考えるのは、深刻な間違いであり、大きな損失です。






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2015年10月22日

天地創造の神と日本人の信仰心


 天地創造の神と日本人の信仰心




                          2015年9月25日

    西九州伝道所 佐々木正明


はじめに


プロテスタント・キリスト教が日本に入ってきてから、もう150年以上になりました。私がクリスチャンになってからでさえ、すでに半世紀をすぎています。でも、とても不思議なことがあります。日本人は何でも上手に、自分たち合うように改良しているのに、キリスト教だけは、ほとんど日本人の手が加えられないまま、ここまで来ているのです。


確かに、一所懸命に福音を日本化しようとして、本来の聖書の教えから少しばかり離れてしまった、無教会主義の試みがありました。死者への想いを大切にする日本人の心に配慮するあまり、本来の聖書の教えをわずかばかり歪めてしまった、原始福音の努力もありました。他にも、日本の文化や宗教に適応しようとして、シンクレティズムの傾向を強くした例もあります。


ところが、聖書を誤りのない神の言葉として真剣に学び、その教えを忠実に保持することを絶対の条件としながら、日本の文化と宗教、そして日本人の宗教心を学び、日本人的な創造性をもって考え、日本人のためのクリスチャン神学を構築し、日本人的なクリスチャン信仰の形態について説こうとする働きが、まだあまり興っていないのです。筆者は、日本の宣教の行き詰まりの大きな原因の一つが、ここにあると考えています。日本人は宣教150年を経てもまだ、西欧人の築き上げた神学を一方的に学ぶだけで、日本人として、自分の目で聖書を読み、理解しようとしていません。日本人のための福音の理解、日本人のための神学の構築が、まだできていないのです。


福音は本来普遍的なもの、全世界のすべての民族を対象としたものです。神は福音を普遍的にするため、イスラエル民族を選び、その中に、救い主を生まれさせられたのです。福音が、イスラエルの文化の折に閉じ込められて、単なる民族宗教に留まってしまいそうになったとき、神はパウロという人物を起して、福音の普遍性を明らかにしてくださいました。福音の普遍性とは、神の救いの計画のはじめから、全民族の救いが目的とされていたことです。日本人の救いも、最初からそこに含まれていたということです。


日本人はイスラエル民族への救いの神学にも、西欧人の救いと信仰形態のための神学にも、留まる必要はないのです。日本人はイスラエル人の救いの「おこぼれ」を頂いて、感動していてはならず、西欧人のために作り上げられた神学の「お古」をもらって、いつまでも喜んでいてはならないのです。福音は、初めから日本人に対するものでもあったからです。だから日本人は、福音を日本人的に理解する必要があるのです


 ただし、ここでもういちど明白にしておきたいのは、日本人のキリスト教を作るということは、聖書の教えを離れて、擬似キリスト教を作ることではありません。日本の文化や宗教の「いいとこ取り」をして、シンクレティズムに陥ることでもありません。あくまでも正当なプロテスタント主義として、聖書の正しい読み方をし、その聖書の読み方の許容範囲内で、キリスト教の日本的なあり方を考えるものです。


この問題について、筆者は今まで様々な機会に語り、また書いてきました。しかし、まだまだ理解されていません。ですからこれからも角度を変え、視点を変えて語り続け、書き続けなければならないと感じています。



T. 日本人の躓き


 日本人がキリスト教に躓いてきた理由はたくさんありますが、その最大のもののひとつは、キリスト教の非寛容性だと思います。日本の文化と宗教に対して、殆どの宣教師、牧師そしてクリスチャンたちは、敵対的な態度を取ってきました。その理由は、聖書が教えるところによれば、神がもっとも忌み嫌われるものが偶像礼拝であり、日本の宗教は、その偶像礼拝に当たるからだというのです。その上、日本の文化と宗教は切っても切れない関係にあるから、日本の文化自体が偶像文化であり、変えられなければならないと主張し、日本人の多くを敵に回しているのです。これは聖書のまったくの読み違いであり、欧米キリスト教の間違いです。でも、今や世界中のキリスト教が、この欧米キリスト教の間違いを、鵜呑みにして受け入れています。そして、多くの国々で不要な軋轢を生み出しているのです。 


18世紀から20世紀初頭までのイギリスやアメリカには、キリスト教文化至上主義という、とんでもない独りよがりの感覚があって、世界中をキリスト教文化に変えてしまおうという、鼻息の荒い宣教師たちも少なくありませんでした。宣教を主目的としていなかった欧米人の多くも、鼻から、日本の文化は下等な文化、劣った文化、神に嫌われる文化と決めつけて、それを学んでみようなどという、奇特な人間はまさに希少生物でした。なかでも、伝統的な千年期後再臨説をとっていた者たちは、世界中がキリスト教文化となった暁には、もっともっと良い世界が実現し、そこにキリストが王として再臨してくださると考えたのです。


宣教に熱心な宣教師はさらに過激で、神道も仏教もそれらに関係する新興宗教もみな、十把一絡げに偶像教として憎み、排斥しようとしました。そのようなキリスト教に、日本人は躓いてしまったのです。さまざまな文化的障害を乗り越えて、やっとキリストを救い主として受け入れることができた日本人たちも、日本の文化と宗教、伝統と習慣の中で、自分の信仰を貫いて生きることには、並大抵ではない困難を感じています。実際、一度キリスト教信仰を告白した日本人の多くが挫折し、心ではキリストに親しみを感じながらも、教会生活を離れてしまったのです。 


U. 基本的な聖書の読み違い

 では、欧米キリスト教は、どのように聖書を読み違えてしまったのでしょう。それは非常に単純な間違いなのですが、あの旧新約聖書という非常に厚い書物を、正しく理解することは困難だという当たり前のことのほかに、そうならざるを得なかった素地もあったのです。


聖書の教えに立つと主張するプロテスタント・キリスト教が発生し、印刷機が発明されて大量の聖書が印刷され、多くの人々が聖書を読めるようになったのは16世紀になってからのことです。それにいたるまでの長い期間に、聖書の教えとはかなりかけ離れたキリスト教、しかもヨーロッパ諸国を支配する程の強大なキリスト教が、すでに出来上がっていたのです。聖書を唯一の権威とするプロテスタント主義が生まれたからといって、彼らの聖書の読み方自体が、決定的に、当時の伝統的キリスト教、聖書の教えとはかなりかけ離れたところがある、それまでのキリスト教の強い影響を受けていたのです。


聖書の権威を主張するプロテスタントの人々は、聖書という書物を、神が、自分たちに与えてくださったものとして、読み解こうとしました。その態度は完全に間違っていたわけではありません。確かに聖書は「広い間接的な意味」では、全人類に与えられたものだからです。もう少し狭めた意味では、クリスチャンたちに与えられたとも言えなくはありません。しかし「直接的には」つまり、正確な宛先は、違います。旧約聖書が与えられたのは、直接的には、あるいは厳格な意味では、あくまでもユダヤ人というひとつの民族だったのです。


新約聖書は、多分ルカ文書を除いては、すべて、ユダヤ人をも含むクリスチャンに向けて書かれたものです。ルカ文書も、同じだと考えても差し支えありませんが、もしかすると、クリスチャンになりかけていた、テオピロというひとりの人物の可能性もあるという程度です。


こういうことを無視して、聖書はすべて全人類に与えられた神の教え、神の戒め、神の命令だと受け取ったのが、ヨーロッパのプロテスタントであり、それをそのまま受け継いだのがアメリカのプロテスタントです。そしてそれが、なんの疑いも持たれないまま、日本に輸入され、そのまま教えられているのです。もちろん、厳密な学問の世界では、聖書に含まれているそれぞれの文書の宛先は注意深く研究されて、「全世界の人々」ではないことがはっきりしています。ところが日常のクリスチャン生活の分野、一般のクリスチャン信仰の世界、あるいは宣教という場では、聖書は「全世界の人々」に与えられた書物なのです。厳密な聖書の研究者であってもそうなのです。


その結果、旧約聖書の峻厳な神のイメージが、そのままキリスト教の神のイメージとなってしまいました。それで多くの日本人に、「優しい日本人の精神風土には合わない」と指摘されているのです。「私のほかに何者をも神としてはならない」と、厳しく命じ、厳重な罰則を適用する神は、八百万の神々を分け隔てなく敬う、おおらかな日本人の宗教心にはふさわしくないと、退けられているわけです。


これはまさしく、とんでもない誤解です。日本人が誤解したのではなく、西欧キリスト教が聖書を読み違え、その読み違えた教えを持ち込んだために起こった、日本人の誤解なのです。偶像礼拝の禁止、ただ、天地を創造した神だけを拝めという命令は、常識をもって、自然な態度で、普通の読解力で、先入観を排して、しっかりと聖書を読むならば、エジプトの奴隷生活から解放されたばかりの、ユダヤ人に向けて語られているということは、明々白々です。


「わたし以外に何者をも神としてはならない」というのは、出エジプト記20章3節の命令ですが、その命令に先立って、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という言葉が(新改訳)、2節に記されている通りです。


つまりこの命令は、400年間に及ぶエジプトでの奴隷状態から助け出された、ユダヤ民族に対して、奇跡に次ぐ奇跡をもって彼らを助け出した神が、お命じになった言葉なのです。「私があなた方を救い出した神だ、だから、あなた方は私だけを礼拝しなさい」という意味です。創世記から始まる、人類とユダヤ民族との関係をよく読み取った上で、出エジプト記を読み、この十戒の部分を読むならば、誰でも、当然、そのような結論になるはずです。


 旧約聖書全体を読むと、イスラエル民族はこの神の命令に背き、しばしば偶像礼に陥っていたことが分かります。神はそのたびに厳しく罰しながらも彼らを赦し、受け入れていかれたのです。この神とイスラエルの関係は、ホセアとその妻ゴメルの実物レッスンとして描かれています。ホセアは神の命令を受け、自堕落な生活をして見るも哀れな状態に陥った女、ゴメルを助け出し、彼女と結婚するのですが、ゴメルは元の生活を捨てきれず、ホセアを捨てて他の男に走り、奔放な生活をくり返しては惨めな姿に陥ります。そんなゴメルを再三にわたって贖い出したホセアは、彼女に言うのです。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫したり、他の男と通じたりしてはならない。私もあなたにそうしよう。」(ホセア3:3) これが偶像礼拝をくり返す民族に対する神の言葉です。ゴメルはあくまでもイスラエル民族です。日本人ではありません。ホセアのこの言葉は、他のどの女にも語られてはいません。ただ、ゴメルにだけ語られたのです。

ところがプロテスタント・キリスト教は、「聖書、聖書」と言いながら、聖書を正しく読んでいないのです。カトリック時代の権威主義を継承して、キリスト教は絶対の宗教である、ほかの宗教はみなダメな宗教、嘘の宗教であると断定してしまってから、その先入観でこの十戒も読んで、日本人にそのまま適用しているのです。その高飛車な態度が嫌われているのです。


素直に聖書を読むならば、旧約聖書が、ユダヤ人に与えられたものであることははっきりしています。そこに書かれている命令や戒めは、直接的には、すべてユダヤ人に向けて書かれているのです。もちろん、それを広く解釈して、いまの私たちにも適用することができる場合があると認めたとしても、直接的には、あくまでもユダヤ人であるという事実を、ないがしろにしてはいけないのです。


創世記から聖書全体を読んで行くと、ユダヤ人という民族は、神の救いを全人類にもたらすための器として、神ご自身によって選び出されたことがわかります。旧約聖書、つまり律法は、そのユダヤ民族が、全人類に神の救いをもたらす器として、ふさわしいものとなっていくために与えられた、教育の書物なのです。神のことも、人間としての生き方も知らなかった、まさに右も左もわきまえていなかった民族を、神の御用に向けて立派に育て上げるための教導書なのです。


旧約聖書、つまり、律法を与えられたユダヤ民族と、律法を与えられていない異邦人の違いは明白です。これを理解しないで、「クリスチャン文化」の中に生まれ育った自分たちを、あたかもユダヤ人であるかのように誤解して作り上げたのが、欧米の神学なのです。彼らは、自分たちこそ、霊的なユダヤ人、真実なユダヤ人であると単純に考えたのかもしれません。霊的なユダヤ人は、血筋によるユダヤ人とは違うのです。霊的ユダヤ人と血筋によるユダヤ人をまったく同一視する神学に、私たちは同調しません。旧約聖書、つまり律法は、血筋によるユダヤ人と、ユダヤ教に改宗して、ユダヤ人として認められた人々に与えられたものであって、霊的ユダヤ人であるとひとりよがりに自認した、欧米キリスト教文化に生まれ育った人々に、与えられたものではありません。


V. パウロが教える律法


パウロは、律法を与えられた者だけに、律法が適用されるということを、しっかりと心得ていました。彼は「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」と語っています。(ローマ2:12)律法を与えられている者と、律法を与えられていない者とには、大きな違いがあるのです。彼はまた、「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われている」とも言っています。(ローマ3:19)


律法を与えられたユダヤ民族と、律法を与えられていない異邦人との間には、明白に、神の異なった取り扱いがあるのです。数々の奇跡を通して、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエル民族は、その体験から、モーセが語り聞かせた神、昔から自分たちの先祖の名を被せて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言い習わして来た神が、ほかのどのような神々よりも力強いと理解しただけでなく、その神に強い恩義を感じたはずなのです。


それが、人間としての当然の心の動きだったはずです。その恩義から、ユダヤ民族はモーセが語った「わたしはある」と自己紹介された神を、自分の神としようと考えて当然です。ところが十戒はさらに一歩踏み込んで、「わたしだけを」礼拝しなさいと命じています。実際のところ、神と呼んで礼拝すべきものなど、他には存在しないのですが、モーセの時代にも、多くの人々は様々な神々を想定し、たくさんの偶像を作って礼拝していました。天地創造の記事が入っている創世記は、この十戒の付与の出来事から少し後に、この神こそ唯一絶対で、ほかの偶像の神々とはまったく次元の異なる、無限の神であることを教えるために書かれたのです。いわば、神の自己紹介です。「わたしはある」とおっしゃるだけでは、とても理解してもらえなかったからです。


 モーセが教えた神が唯一絶対の超絶したお方であり、ほかの神々とは次元の異なるお方だということは、エジプトの奴隷生活からの開放という奇跡的出来事と、天地創造という桁外れの物語を通してやっと理解されるもので、民族として、奴隷解放の奇跡体験をしておらず、天地創造の物語も与えられていない日本人にとっては、理解不可能なことなのです。


 その日本人に、いきなり、「キリスト教の神だけを礼拝せよ」、「偶像礼拝をしてはいけない」などというのは、まったくの見当違いです。ましてや、偶像礼拝を罰する恐ろしい神の裁きを、旧約聖書の物語から語っても、反感を買うのが関の山です。旧約聖書すなわち律法は、ユダヤ民族が神の役にたつ民族になるために、ユダヤ民族に与えられた教導書であって、異邦人である日本人の宗教を裁き、卑しめ、叱責し、破壊するための、断罪の書ではないのです。


 旧約聖書の命令あるいは教えは、それが普遍的な性格を帯びている場合は、当然、現在の日本人にも及ぶものです。しかし日本人は旧約聖書を知らないし、知っていても正しく教えられてはいないのです。日本人に、旧約聖書が教えている罰則が適用されることはないのです。日本人はユダヤ人ではないのです。そういう意味では、キリストがお語りになった、ゲヘナでの裁きも、聞き手がユダヤ人であるという背景で、天地をお造りになった神を信じ、神が絶対に正しいお方であるとも、よく理解していたことを前提にお話になったのですから、日本人に適用されるべきものではありません。


 パウロは「律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅びる」と語っています。旧約聖書という律法なしに罪を犯している日本人は、旧約聖書の律法によらずに、別の律法によって裁かれ、滅びるのです。救われるのではありません。全ての人間は罪人であり、滅びに定められていることに変わりはないのです。キリストの贖い以外に救いはないのです。


 では、日本人を罪に定め、滅びにいたらせる律法はどこにあるのでしょう。それをパウロは「自分自身が自分に対する律法である」と語っています。(ローマ2:14)律法を持たない異邦人を罪に定めるのは、彼ら自身という律法なのだと、パウロは言うのです。日本人が罪に定められるのは、旧約聖書の律法によるのではなく、日本人自身なのだと言うのです。


 パウロはそう語ったあとに、「良心」を持ち出していますが、良心が律法になるのではなく、どうやら、良心もその律法の裁きに関与すると行っているように、読み取ることができます。(ローマ2:15)わずか一回だけの言及ですので、想像に立った解釈をあまり深めるべきではないと思いますが、少しだけ、神学的かつ哲学的な論を進めてみたいと思います。


W. 自分自身の律法となる人間の本性


 プロテスタント神学では、徹底して人間の罪悪性を教えますので、少し違和感を持つ人も多いかと思いますが、人間の本性は、それほど堕落してはいないと考えたほうが、聖書全体の記述に合致します。人間は、自分の能力では「見えない神」を正しく理解することも、正しく信じることも、救いに到達することもできません。そういう意味では、人間の本性は罪のために、救いに対してまったく無力になっています。しかし、神に似せて造られたという本来の人間の姿が、完全に破壊されてしまったのではありません。神の姿をことごとく失い、悪魔の姿になってしまったというのでもありません。


聖書全体を読んで総合的に判断すると、人間には、神に似せて造られた姿が、まだまだ、かなりしっかりと残っています。聖書自体がその事実を前提として書かれ、それを前提として与えられているのです。人間に、神に造られた本性がまったく残っていないとするならば、旧約聖書を正しいものと理解することもできなかったことでしょう。つまり人間は、本能的に善悪の判断をすることも、教えられるならば、正しい神を正しく認識することもできるということです。


人間には神に似せて造られたという、人間の本性がしっかりと残っているのです。神の愛と正しさに似せて造られた人間には、本源的に、あるいは本性的にというべきか、本能的がふさわしいかはともかくとして、人間の本来の性質としての愛と正しさを持っているのです。これはすべての人間に備わっているものであり、人種や文化を問いません。すべての人間が優しい愛の心を持ち、憐れみを感じます。すべての人間が公正を求め正義を追求します。


ところがこの人間の本性は、生まれ育つ環境の中で具体的な姿を現します。日本という国で生まれ日本の文化の中で育つと、日本的な良心を持つようになり、アラブの国で生まれ育つと、アラブ的な良心を持つのです。そして、日本的な良心とアラブ的な良心は、かなり異なったものとなります。それでも、その良心を深く掘り下げていくと、すべての人間に共通な、神に似せて造られた人間性に行き当たるのです。


この、すべての人間に共通な人間の本性、神に似せて造られた人間本来の性質こそが、異邦人の律法なのです。そしてこの律法はまた、ユダヤ人にも共通なものであり、モーセを通して与えられた律法に先立つ、根源的なものであると言えます。モーセの律法も、この万人に共通の律法を前提として与えられているのです。


人間の本性の具体的現れは、生まれ育つ環境や教育といった後天的なものによって、異なった表現をしますし、たびたび、ひとつの文化の良心が他の文化の良心とが衝突し、争うに発展してしまうこともあります。ですから異邦人は、良心によって裁かれるのではなく、良心よりも根源的な人間の本性によって、神に似せて造られている部分によって裁かれるのです。これが、パウロの言う、自分自身ということだと理解するものです。[1]


X. 日本人の良心と神意識


 人間が神に似せて造られたということには、もう一つ非常に重要な局面があります。それは人間が神に似た霊的な存在として造られたという事実です。神に似せて霊的な存在として造られた人間には、霊的なものごとを感じ、霊的な事柄について理解することができるという、ほかのどのような動物にも与えられていない、特別な能力、特殊な本能を与えられています。そして日本人の良心は、この日本人の神意識と深くつながっています。


 日本人の倫理観は、世界中の国々の中で、非常に高いと誰にも認められています。政治的にも社会的にも宗教的にも、実に様々な考えが渦巻く中で、これほど治安が安定し、犯罪が少なく、人々が安心して暮らせる国は珍しいと、世界事情に明るい人たちは口を揃えています。安定したプロテスタントの文化的土台がある、スカンジナビアの国々にさえ劣らないのが、非キリスト教国の日本なのです。


 日本人の何から何まで素晴らしく、日本文化のことごとくが美しいとは思いませんが、たしかに日本人の倫理観は高く、優雅な文化に覆われています。それは、日本人の良心が研ぎ澄まされているからだと言えるでしょう。日本という文化の中で、日本人の良心が育成され、高度な倫理観となっているのです。その日本人の良心を育んだものは、日本人の心の奥に色濃く残っている人間の美しい本性、神に似せて造られた姿です。どこの国の人々にもこれは残っているはずですが、日本人には特にしっかりと残っているからです。


 それは、日本人の心の奥底にある宗教観に、深く関わっています。日本古来の宗教である神道には、本来、偶像がありません。ローマ書1章18〜32節において、パウロは、偶像礼拝に陥った人間に対する、神の激しい怒りと厳しい裁きを記しています。それによると、偶像礼拝に対する神の裁きの結果、人間の本性、神に造られた本来の姿が酷く傷つき、損なわれ、堕落してしまったのです。この堕落は、アダムの罪による堕落、いわゆる原罪に関わる堕落ではりません。アダムの罪のために堕落した人間でも、神に似せて作られている霊的感覚と知性を働かせるならば、当然理解できることなのに、それを理解せず、永遠の神の栄光を朽ちる偶像に代えてしまったことに対する、神の裁きの結果としての堕落です。この倫理的堕落はまさに人類の第二の堕落と言えるものです。


 ところが、いにしえからの日本人の宗教である神道には、本来、偶像は存在しないのです。偶像を作らずこれを拝まない神道的感覚の日本人は、神の偶像礼拝に対する厳しい裁きから、まぬがれているのではないでしょうか。もちろん、日本人の宗教意識に偶像礼拝がまったくないとは言いません。たしかに仏教が入ってきてからは、仏教的な偶像礼拝が浸透しました。しかし、日本人の宗教心への影響は表面的なものにすぎません。ですから神は、日本人に対する裁きを、ほかの民族に対する裁きほどには、厳しくなさらなかったのだと思います。それがために日本人の倫理観は、比較的、高く保たれているのです。もちろん、このような考え方を、聖書の記述から断定することはできませんが、かなりの確率でそのように言えそうです。


 ともあれ、日本人の神道的神意識は、普通に考えられているよりも遥かに高度なものです。実は、日本人が持っている「神感覚」と言うには、言葉上の問題があります。日本人が本当に心の奥で感じ、感謝し、崇め、讃えているのは、「神」ではないからです。神という「下等な表現」では表せない、尊く気高いお方なのです。だから、日本人は平気で「神など存在しない」と言い、冒涜的な言葉も吐きます。通俗化した神道の意識である八百万の神々や、古事記や日本書紀に出てくる神話の神々を、「愚かなもの」として退けます。それでいながら、自分を含めた人間の宗教心、すなわち目に見えなく、気高く、大きく、恵みと、優しさに富み、あらゆる良いもので取り囲み、自分を生かしていて下さるお方を感じている宗教心をことのほか大切にし、宗教の悪口を言うことは控えるのです。


 日本人は神よりも、神々よりも高い存在を感じて、密かにそのお方を崇め、尊び、感謝しているのです。それは、なかなか表に現れてこない感覚で、日本人自身でさえ気づかないでいることが多く、ましてやとても説明できないものです。ところが、多くの日本人と親しく話してみると、これが大多数の日本人の宗教感覚だということが、よくわかります。


 普通の日本人の多くは、神でも神々でもなく、もっと気高く大きな存在を心に感じながら、それを説明できないものと感じています。絵でも像でも言葉でも説明できない存在として、静かに崇めているのです。絵や像による偶像はもちろんのこと、「言葉によって描き出す偶像」とも言える神学さえ排除して、人間の思考能力の及ばない気高く大きなお方を、あえて説明する愚かさを避け、心の感覚のままに崇めているのです。


 日本人は、この気高いお方が、すべての自然物の中に潜んでおられると感じています。その意味では汎神論的ですが、わずかでも通俗化すると、八百万の神々になってしまいます。ところが多くの日本人と話してみると、彼らが感じているのは、すべての自然物に(あるときは人造物にさえ)潜んでおられるお方であり、たくさんの、あるいは複数の存在ではなく、ひとつの、あるいは唯一の存在なのです。


 神道には偶像がありません、言葉の偶像ともなり得る神学もありません。はじめから、大きく気高い存在者を、人間の知力と言葉で説明することなど、不可能だと知っているのです。ですから、日本人は自分の宗教感覚をことばで説明することはしません。神学をとても大切にするプロテスタントから見ると、まさに下等で未発達な宗教と言えますが、本当は非常に高い宗教感覚なのです。低く卑しい存在である「神」を持ち出し、その神を、不完全で足りない人間の知恵と知識と言葉でもって、あたかもまな板の上の鯉のように切り刻み、解剖医のように分析してみせるキリスト教は、まさに下等な宗教なのです。


そのような高度の神感覚をもって、日本人は依代(よりしろ)として神社を建て、祠を作ってきました。ひとたび、依代ではあっても目に見えるものを作ってしまうと、そこからさらに堕落した宗教感覚に陥り、様々な名前の神々が祀られるようにもなりました。しかしそのような神社に詣でる時さえ、日本人はそこに祀られている神々、をあくまでも依代として見て礼拝の対象とはせずに、その背後におられる大きな存在を崇めているのです。そのために日本人は、どこの神社に詣でても、そこに祀られている神々にはほとんど無関心で、自分が感じている大きく気高い存在に向かって、手を合わせるのです。西行法師が伊勢神宮で、そこに祀られている天照大神を拝む代わりに、その背後に存在される目に見えないお方を想い、「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌ったのは、そのような宗教心の現れだと考えられます。


 たしかに神社や祠などを建てる日本人は、かなり偶像に近づく危険を犯しています。御神体などという言葉さえあって、あたかも、偶像となるものがそこに祀られているかのように言われますが、そこにあるのがなんであれ、(普通は何も置かれていませんが、米粒だったり、鏡だったりすることがありました)あくまで依代に過ぎません。依代とは、それを通して神の臨在を示すもので、礼拝の対象となる偶像とは異なっています。この依代は旧約聖書でも認められています。たとえばひと組のケルビムが乗せられていた契約の箱は、半歩間違えば偶像にさえなり得た依代です。中に入れられていたモーセの杖も、マナも、十戒が刻まれた石も、偶像になりやすいものでした。神殿も、かなり危険な依代です。しかしそれらは、あくまでも依代として留まり、神の臨在を示し思い起こさせるものではありましたが、礼拝の対象とはなりませんでした。神道の神社や祠なども、本来はあくまでも依代としての存在なのです。


 私の高校時代の友人のひとりは、お寺の跡取りでした。非常にできた男で、当時すでに父親に代わって檀家を周り、お経をあげ、様々な仏事を執り行っていました。熱心な欧米的キリスト教の信徒であったわたしは、しばしば彼と議論をしたものです。それで私が、「仏教は仏像を拝む偶像礼拝だ」と指摘すると、彼は、「通俗仏教では、たしかに弱い人間性を認容して、仏像を拝むことも許しているが、本当は、仏像はそれを拝む対象にする偶像ではなく、あくまでも依代に過ぎない」と答えたものです。「その仏像に表現された見えない仏の実像を背後に見て、それを拝むのだ」という主張でした。彼の言うことが、仏教本来の教えなのか、彼のお寺の宗派の説くところだったのか、彼というひとりの人間だけの仏教だったのか、残念ながら、大学生になってすぐに亡くなった彼と、話し合いを続けることはできなくなってしまいました。でも、いま思い直すと、彼が感じていた「仏像の背後の見えない仏」は、どうも、仏教のいう仏よりも、なんとなく、日本人の宗教意識にある気高く尊い存在のように感じるのです。


 ともあれ、日本人は、常にこの気高く尊い存在を感じながら生きてきました。しかも、旧約聖書に現された怒りの神、いつでもどこでも、悪い奴はいないかと見張っている恐ろしい神、罪を罰してやまない神としてではなく、優しく美しい自然をもって私たちを包み、あらゆる良いもので私たちを覆って下さる、めぐみ深いお方が、ご覧になっていると感じてきました。そしてこのお方の前に、このお方に喜ばれる正しい生きかたをようと願ってきたのです。それが日本人の良心です。心の奥深くに隠された感覚です。説明のできない感覚です。でも日本人は、何につけ、この感覚によって行動してきたのです。地震の時も、津波の中でも、洪水の場合でも、この良心が行動の規範になったのです。


 日本人は、自分たちも天と地を造られた神に似せて、造られているという事実を知りません。しかし偶像礼拝をせず、神の厳しい裁きをあまり受けておらず、神に似た美しい本性をより多く残しているために、その美しい本性を活かして、非常に良心的に生きているのです。日本人ひとり一人の中にある、律法がそのようにさせているのです。[2]


 日本人の宗教意識の特徴の一つに、礼拝する対象とお願いする対象が異なることが多いとう、面白い事実があります。お願いするのは、人間より少しばかり力がありそうな神、なにかの点においては人間より秀でていると思われる神々です。しかし、それらに祈りを聞いてもらったと思える時でも、感謝こそすれ、礼拝することは少ないのです。人間が礼拝できるのは、目に見えず、絵でも像でも言葉でも表現しきれない、尊く気高く大きく、情け深く、恵みと憐れみに富むお方なのです。ですから、たとえば大伊勢神宮では願い事をしてはならず、ただ、礼拝をするのです。


 「願い事は一段低い神々に、礼拝は気高いお方に」です。気高いお方を感じている場合は、祈願するよりも、祈念する意識が強くなるようです。対象に願うのではなく、気高いお方の前で念じ、誓い、決意をするのです。こうして、曖昧な神の概念から、無神論の感覚に近づいて行くのです。日本人に無神論者が多いのは、唯物的思想からくる無神論に、このような感覚的な無神論が加わるからではないでしょうか。単なる唯物的無神論は、無道徳な生き方につながりますが、日本人の無神論は無道徳につながらない、高い倫理的側面を備えた無神論なのです。


Y. 日本人の裁き

 パウロは、ユダヤ人に与えられた律法によって、日本人が裁かれることはないと、はっきりと語っています。日本人の裁きは、日本人に与えられている律法に照らし合わせて行われるのであって、旧約聖書の教えによってではありません。日本人を出エジプト記20章の十戒で裁くのは間違っています。ところがそれを容赦なくやり続けてきたのが、日本のキリスト教です。西欧で、西欧人の感覚で読まれた聖書から、西欧人の考え方と生活に都合よく組み立てられたキリスト教を、直輸入したままのキリスト教です。


 昔、日本の自動車がアメリカで大量に売られるようになった背後には、日本の自動車メーカーの大変な努力がありました。アメリカの道路状況、交通法規、家族事情などあらゆるものを考慮し、それに合うように改良し続けた結果、それが可能になったのです。ところが、一時は日本人のステータス・シンボルになっていた、大きくて重い豪奢なアメリカの車が、どんどん売れなくなってしまったことがありました。自分たちの車は高品質だと言い、これを買わないのは買わない日本人が悪いと考え、日本の道路事情や交通法規、家族の事情や必要性などをいっさい考慮しない、押し付けだったためです。


 日本に入ってきたプロテスタント・キリスト教は、すでに150年以上経過しているのに、まだ、昔のアメリカの車のように、独りよがりを押し通しているのです。日本の事情をまったく考えず、日本人をまったく学ぼうとせず、西欧の宗教を押し付けようとしているのです。キリスト教は西欧の宗教です。間違った聖書理解で、日本人を高圧的に裁く宗教です。


 西欧キリスト教が、間違った聖書理解で日本人を裁いている事など、日本人は知りません。殆どの日本人クリスチャンも知らないことです。それがキリスト教だと思っています。そして、普通の日本人の多くは、そのようなキリスト教を受け入れることはできないと、判断しているのです。それが、日本人にはクリスチャンが少ないという、明らかな結果となって現れているわけです。たとえ、キリストの教えの高い倫理に感動し、キリスト教神学の高度さに驚いたとしても、自分がクリスチャンになろうなどとは思いません。


 キリスト教以外の宗教をすべて否定し、日本の文化を蔑み、日本人の生活習慣を断罪するようなキリスト教は、日本にあっては、反社会的宗教なのです。地域の宗教行事には参加せず、お葬式にも出ないクリスチャンが、「偶像礼拝に勝った」と証しするごとに、自分は絶対にクリスチャンにならないと決心する日本人がたくさん起こり、自分の身近な者がクリスチャンになることも絶対に許さないと考える日本人が、大勢、現れるのです。


「何をしてもかまわないが、他人(ひと)様に迷惑をかけることだけはするな」というのが、大方の日本人の父親が、子供に与える唯一の教えらしい教えです。他人に迷惑をかけることを最大の悪と考える、「思いやり」の文化にあって、キリスト教は思いやりを欠く宗教として、嫌われるのです。


 とは言え、日本人は自分たちに与えられている律法、神に似せて造られた姿によって、救われるのではありません。律法は生き方を示し、道を教えるものであり、救いをもたらすものではありません。かえって、これに反するものには裁きをもたらすのです。日本人は、日本人に与えられている心の律法によって裁かれます。絶対に救われません。だからこそ、日本人にも福音が必要なのです。

Y. キリストによる救い


 日本人の良心がどれほど研ぎ澄まされていても、日本人の倫理観がどれほど高くても、日本人も罪の中にあり、キリストの贖いを必要としているのです。キリストの贖いの業がなくては、一人の日本人も救われることはありません。そして、日本人が救われる条件は、パウロの時代のユダヤ人が救われたのと、同じ条件です。条件として求められるのは「信仰」です。それ以外にはありません。ユダヤ人もギリシヤ人も奴隷も自由人も、みな、同じ信仰によって救われるのです。


 ところで、ユダヤ人以外の人も、「キリストを信じる」ことによって救われるのでしょうか。新約聖書を読むと、たしかにそのように書いてあります。ところが、そのキリストを信じる信仰によって救われるという、普遍的福音の奥義を説明していたパウロは、突然、話をアブラハムに転じ、アブラハムも信仰によって救われたという事実に、読者の目を向けさせています。アブラハムは信仰によって義とされました。信仰によって救われたのです。


ところが、パウロはなんの説明もしていませんが、アブラハムは、「キリストを信じる信仰」によって救いを得たのではありません。彼の時代には、キリストはもちろん、ユダヤ民族さえまだ存在していなかったのです。アブラハムはユダヤ人でもイスラエル人でもなく、ヘブル人でした。つまり厳密に言うと、アブラハムは律法を与えられたイスラエル人でもユダヤ人でもなかったのです。彼は、律法を与えられていない異邦人と同じ立場にいたのです。


 アブラハムはキリストを知らず、十字架を知らず、罪も、悔い改めも知りませんでした。彼が信じたのは「キリスト」ではなく「神」でした。もしそうだとしたら、いま、異邦人としての日本人、律法を与えられていない日本人も、キリストを知らずに救われることはできないのでしょうか。旧約聖書と新約聖書を通して脈々と流れているユダヤ人の感覚、ユダヤ人の神知識、ユダヤ人の律法の知識、ユダヤ人の罪の意識を前提とした教えは、はたしてそのまま、異邦人に適用されるべきものでしょうか。


 異邦人への使徒パウロは、このユダヤ人と異邦人の狭間で悪戦苦闘しながら、聖霊の導きによって、異邦人のための神学・・・というよりも、普遍的福音の神学を打ち立てました。ところが彼が活躍していた世界は、グレコローマンという大きな枠で括られる文化でした。たしかにユダヤ人と異邦人が対比されたのですが、大きく括ると、グレコローマン文化の中なのです。


 その上、彼が直接伝道した対象のほとんどは、ユダヤ人もしくはユダヤ化した異邦人でした。パウロは神学的にはたしかに異邦人の使徒であり、異邦人のための福音の神学を打ち立てたのですが、彼が採った宣教の手段は、地方の大都市を訪れ、ユダヤ教の会堂を訪ね、そこにいるユダヤ人に説教するというものでした。彼が取り扱った異邦人の大部分は、そのユダヤ人の会堂に来ていた、すでにユダヤ教に強い関心を持ち、ユダヤ教を受け入れてユダヤ人になることも考えていた人たちでした。現在の私たちの宣教対象である日本人のように、ユダヤ教の背景も影響も知識もまったくない文化に育った人たちではないのです。もちろんパウロは、時間さえあればアテネやコリントやエペソでやっていたように、会堂以外の場所でも福音を語っていたのですが、現在の私たちのように、語る相手が常に異邦人という状況とは異なっていました。


 キリストを信じる信仰の話から、なんの前触れも説明もないまま、突然神を信じる信仰の話に飛躍しても、議論が通じる人々を主な相手として伝道していたパウロの理屈を、日本人に当てはめても無理なのです。もちろん思慮深いパウロのことですから、たとえばアテネでの出来事のように、まったくの異邦人に向けて話すときには、それなりに、かなりの考慮をしていることがうかがわれます。


アテネにおいてのパウロは、いつものように「イエスと復活」のことを語っていましたが、語る相手が完全な異邦人群衆であることを見て取ると、話のもって行き方を変えて、イエスについてでも甦りについてでもなく、天地の造り主である神についてから話を始めています。(使徒17:16〜34) ルステラで、ギリシヤの神のひとつであるヘルメスと間違われたときには、積極的に伝道していたわけではありませんが、まったくの異邦人の群衆を目の当たりにして、やはり、天地の創造者である神についてから、話を始めています。(使徒14:8〜18)


 このように異邦人を相手にしていても、ある程度の回心者を得ることができたパウロは、さすがだと思いますが、さらに徹底した異邦人の中では、さしものパウロも、まったく回心者を得ることができませんでした。ローマに連れて行かれる船旅の途中、嵐にあった一行はマルタという島に漂流し、そこでひと冬、3ヶ月を過ごす羽目になってしまいました。御霊に溢れていたパウロはここでも多くの癒しを行い、島の人々から非常な尊敬を受けたと記録されていますが、ひとりの回心者も出ていないようです。はたしてパウロは、マルタ島でもキリストと甦りの話をしたのでしょうか。それとも、天地を造られたお方の話をしたのでしょうか。ユダヤ的な信仰心や物の考え方をまったく持っていない、異邦人に福音を理解してもらうことは、聖霊に満ちたパウロをもっても困難なことだったのでしょう。


 徹底したユダヤ教徒であったパウロは、クリスチャンになったときにユダヤ教を捨てたのではありません。ユダヤ教の理解の上に救い主キリストを理解し、その理解の上にまた、普遍的福音を理解したのです。パウロにとって、キリストを信じる信仰と神を信じる信仰は同じものであり、そこにはなんの亀裂も乖離もなかったのです。パウロの手紙を読んだ初代のクリスチャンたちにとっても、それは理解できたことだったのでしょう。ところが、私たち日本人にとっては、まったく異なるものです。


Z. 神を信じる信仰


 ユダヤ教徒が信じていた天地創造の神を、日本人が信じるのは案外やさしいことであると思います。いままで、それが難しいものとされてきたのは、クリスチャンたちが神の話をする前に、キリストの話を持ち出してしまうことが多かったために、話が神に至る前に、日本人を躓かせてしまったのでしょう。次に、神の話をする場合でも、聞いている日本人の神意識、日本人の宗教心をまったく理解しようとせず、一方的に西洋的福音を語っていたためでしょう。旧約聖書の律法が、誰に対して与えられたのかという、極めて初歩的なことを誤解して、まったくの見当違いに気づかないまま、めったやたらに非難と侮蔑を振り回し、「日本人は偶像礼拝者である」と、叫び続けて来たためでもあるでしょう。


 異邦人宣教には、私たちほどの経験を持っていなかったパウロでさえ、まったくの異邦人聴衆を前にしたときには、キリストの話からではなく、天地創造の神から話を始めています。私たちもそれに倣うべきなのです。キリストの話を最初に持ち出すと、異邦人である日本人の宗教感覚や神意識と、共通部分が非常に少ないために、話がとても難しくなるのです。どうしてもキリストの話を持ち出したい時には、キリストの高い道徳律や愛についての教えを語り、日本人の高度な倫理観との共通土台に立つべきです。十字架の贖い、罪の許しなど、日本人に馴染みのない、不可思議なことについて話し出すと、際限のない混乱の中に踏み込むことになります。


 ところが同じ異邦人でも、神意識、宗教心という意味では、日本人はパウロが宣教したどの民族よりも、高度なものを持っているのです。日本人は、既に述べたように、神道の神学を持っていません。それは神道が低級だからではなく、高尚だからです。日本人の心の奥底にある宗教心は、下等な「神」に対するものではなく、目に見えない、尊く気高く大きく優しく、強く憐れみ深く恵みに富む「存在」に向けるものなのです。ユダヤ民族が、自分たちの神として天地の創造主を礼拝しだした当初は、「神」という言葉を、周辺の民族の宗教の中から探し出し、借用していました。それ以外に方法がなかったからです。数々あった神々の中から、より天地の造り主にふさわしい名前を選び出し、「とりあえず」、「間に合わせ」として用いたのです。それが年月を費やして、よりふさわしい名に変えられて行ったわけです。


 すでに述べたように、「神」という日本語は、何かにおいて人間より幾分高い能力を持っているだけの意味で、日本人が心の奥に感じている、気高く尊い存在を言い表す言葉ではありません。ひとたび「神」と表現されると、それは八百万の神々や神話の神々となり、人間が本当に崇め尊ぶ存在ではなくなってしまうのです。日本人には、心の中に感じ、崇め、恐れ、尊んでいる存在を言い表す言葉、お呼びする言葉がないのです。それにもかかわらず、日本人の宗教心を表す言葉は神道であり、「神」なのです。ですから、それがどのような神であっても、「神」と呼ばれたならば、あくまでも目に見ることも口で説明することもできない、真に尊き存在の依代に過ぎないのです。日本人の多くはおぼろげながら、この気高き存在が、あらゆる自然物の中に潜んでおられると感じ、すべての自然物が依代であるかのよう思っています。あるときはそれらの依代を拝むような間違いさえ犯しています。しかしその実、それらの依代の背後におられる気高い存在を、ほとんど、唯一の存在であるかのようにも感じているのです。言い方を変えると、日本人の宗教心にある存在者は、旧新約聖書に示されている神の姿に、非常に近いということです。


 それは私たちクリスチャンが、欧米で発達した「他宗教排斥」の高圧的キリスト教の態度を捨てて、相手の立場を尊重し、寛容な態度で話し合いを試みるならば、理解してもらえることが多いのです。この日本人の高度な神意識を共通土台にして、私たちは天地創造の神を語り、日本人が心に感じ、良くは分からないままに尊んできた存在こそ、この天地創造の神、絶対の神、聖く、気高く、大きく、強く、恵み深く、憐れみに富む、聖書が教える神であると語ればいいのです。昔から日本人が崇め、祀り、手を合わせてきたお方は、実はこのお方だと教えてあげればいいのです。


 私たちは外国から輸入されてきたキリスト教の神を語るのではなく、昔から日本人が感じてきた優しく恵みにあふれたお方を、改めてしっかりと認識して、感謝しながら、その大きな力と慈しみに信頼すれば良いのだと、語ってあげるのです。すると、多くの日本人は懐かしい気持ちで、あたかも長いあいだ離ればなれになっていた親にでも出会ったかのように、なんの抵抗もなく、違和感も持たず、天地の創造主をあがめるようになるのです。「神」という言葉は、あくまでも翻訳上の仮の名前であって、本当は、口に出すのももったいないお方なのですと説明すれば、日本人の神観にぴったりなのです。


 日本人は、キリストを信じる信仰を理解するには、非常に長い情緒的、感覚的、そして理知的な距離を歩まなければなりません。しかし神に信頼し、崇め、尊び、その恵みと優しさに感謝することならば、本当に、半歩踏み出すだけでいいのです。


 アブラハムは「神を信じて」義とされました。アブラハムはキリストを知らず、十字架についても聞いたことさえありませんでした。しかしアブラハムは、このキリストの十字架の贖いの故に救われたのです。ただ、その救いはアブラハムがキリストを知っていたとか、十字架の意味を理解していたとか、自分の罪を悔い改めたとかいうことには、一切関係なく与えられました。アブラハムがキリストを知らなかったとしても、神がキリストとその贖いのみ業をご存知でした。アブラハムが十字架の事実と意味を知らなくても、神がご存知でした。アブラハムは、自分の罪を悔いて告白したから義とされたのではなく、神を信頼した、神に頼ったから救われたのです。キリストについて理解したからではなく、神に頼ったから救われたのです。救いとは知識の問題ではなく、信頼の問題なのです。神への信頼に対する神からの答えなのです。知識や理解ではなく、暖かい信頼関係が問われているのです。


 ところが、律法を与えられ、千年を超える長い年月をかけて、神に教え導かられて来たユダヤ人に対しては、救い主であるキリストに対する信仰と従順が要求され、キリストの十字架と甦りの後は、十字架の意味の理解と悔い改めが条件とされたのです。より高度に教えられた者には、より高度な条件が加えられたのです。


[. キリストの救いを受け取る


 使徒の働きや書簡を読むと、ペテロやパウロを始めとする弟子たちも、キリストの十字架についての理解と罪の悔い改めを、救いの条件にしていたように理解されます。しかし初代の教会の福音宣教の中にも、福音の理解の進展が見られ、必ずしもキリスト昇天直後に語られた福音の内容が、まったく同じように、いつまでも語られていたのでもないようです。とくに、パウロを通して普遍的福音の奥義が語られると、その理解はもっと深められ、さらに巾の広いものとなっていきました。


 キリストの死と甦りが記憶に新しかった当時は、当然、それが宣教の力であり「売り」でもありました。福音を聴く者の多くも、ユダヤ人かユダヤの宗教を背景に持っていた人々でした。しかし、教会の中に異邦人の数が増え続け、やがて異邦人の数の方が多くなるような事態の中では、強調点が変わっていったのは当然です。まだまだキリストと十字架と復活が福音の中心であり、悔い改めが強く勧められていたとしても、教会の外の宣教の場では、だんだん、天地万物をお造りになり、人に命を与えて生かしていて下さる、大きく、めぐみ深い神の存在と、その神に信頼するべきことに、話の中心が移行していったと考えられます。


 パウロのアテネでの説教はその良い例です。パウロはここでもキリストの死と甦りについて語っていますが、そこに至る前に、天地万物の創造者について語っています。ただ、甦りという福音の中核に話が及ぶと、人々は去ってしまいました。パウロは先を急ぎすぎたのです。


またパウロはここで、「悔い改め」を勧めたかのように言われていますが、(V30)これは少しばかり誤解ではないかと考えます。なぜなら、ここで「悔い改め」と訳されている言葉は、たしかに、紀元前2世紀頃に訳された70人訳で「悔い改め」という意味で用いられ、その後の、ユダヤ人の宗教的文脈では「悔い改め」を意味するようになりました。新約聖書もそういう意味で用いています。ただ、パウロがアテネを訪れたころ、ユダヤの宗教文化に馴染みのない人々の、普通のギリシヤ語では、まだ「悔い改め」という強烈な意味にはなっておらず、もともとの意味の、「考えを変えて」という程度の言葉でした。パウロもここでは、それほど早く悔い改めを持ち出したのではなく、ギリシヤ人たちに、曖昧もことした神意識を横に置いて、つまり「考え方を変えて」、明確な天地の創造者を信じなさいと勧めたと考えたほうが、前後関係に良く合います。


わたしは、イエス・キリストを語らなくても良いと、言っているのではありません。十字架も復活も、罪の悔い改めも、福音の中核です。しかし異邦人に対しては、最初からキリストの話をするよりも、まず、天地万物の造り主である神について知ってもらい、このお方がどれほど豊かに私たちを恵み、太陽を昇らせ、雨を降らせ、作物を実らせ、家畜を育てて私たちを育んでくださったかを、知ってもらうほうが先だと言っているのです。特に日本人はこのようなお方を心の奥底に感じ、良くはわからないままに崇め、尊び、感謝し、祀ってきたのです。


このお方に生かされてきた、ありがたいという実感を強くし、その感謝の気持ちを、誰かわからないお方にではなく、天地の創造者であられるお方にしっかりと向けてもらうことが、何よりも先に大切なのです。食事をするとき、多くの日本人は「いただきます」と言いますが、その言葉を、料理を作ってくださった人や給仕をしておられる人だけにではなく、背後にいる見えない人にも向けて言っています。そして大切なのは、背後にいる見えない人に対してだけではなく、背後におられて作物を実らせ、動物を育て、魚を養ってくださった、目に見えない恵み深いお方に向けて言っているのです。このお方を、天地創造の神と理解し、このお方に向けて、「いただきます」と言えば良いのです。


このお方の恵みをより強く感じ、理解してもらうと、その恵みに対して、はたして自分たちは、ふさわしい感謝と礼拝をしてきただろうかと、反省してもらうこともできます。自分たちの感謝が足りなかったことは、誰でも容易に認めることができます。また、いろいろな方法で僅かながらでも表した感謝の気持ちも、はたして、本当に喜んでもらえ、受け入れてもらえるものであったか、思い巡らせてもらうことも可能です。そして、自分たちの感謝が曖昧であり、余りにも少なかったと思い当たることになります。天と地を造り、私たちに命を与え、良いもので恵み、生かし続けておられるお方に対する感謝としては、いささかおざなりであったことがわかります。自分たちのことばかりにかまけて、大切な天地の創造者をなおざりにしてきたことも、すぐに理解できます。


ですから私たちは、この天地の創造者に謝ること、お詫びをすることを勧めます。充分に感謝しなかった不義理を詫びるように教えます。豊かな恵みに対して冷淡であったことを、親不孝を詫びるように、お詫びをするようにと勧めてあげます。天地を造り、生かしてくださっていたお方に「不孝をくり返してまいりました」と、赦しを乞うことを教えて差し上げます。このようなお詫びの気持ちは、誰かに生かされていると感じ、どなたかに「ありがとうございます」と言いたいと感じている人ならば、だれでも持つものです。それをはっきりと確認して、心の中で感じて来た気高く尊いお方に、申し上げるようにと勧めれば良いのです。欧米から渡ってきたキリスト教では、このことを「罪を悔い改める」と言うのかもしれませんが、伝統的な日本語で言うならば、不義理をお詫びし、不孝を謝るのです。


そこまでお話すると、キリストの必要性、仲保者の必要性もわかってもらえます。日本人は罪の意識よりも、恥の意識を持っていると言われてきましたが、宗教感覚としては、罪や恥よりも、穢れの意識が強いと感じます。目に見えなく気高く聖く大きなお方の前に出るには、自分はふさわしくないと感じる心です。そのため、神社には浄めを象徴する水が置かれています。


ここまで分かってもらうと、キリストの十字架についても、非常に話しやすくなります。キリストの十字架が、なぜ必要だったかということも、それがなぜ、神の愛の最高の表現なのかも、無理なく説明できます。そして、キリストの復活がどれほど素晴らしいことであるかについても、語ることができるようになります。神が整えてくださった救いの道、キリストが完成してくださった救いのみ業を、感動をもって聞いてもらえるようになります。新約聖書的な悔い改めが、日本人にもできるようになるのです。親の財布から100円玉を盗んだことを思い起こさせて、罪の告白をさせるようなやり方ではなく、罪の本質に触れて、罪の告白をさせることができるようになります。


神を信じることで、昔のアブラハムが救われたように、異邦人である現在の日本人が救われるかどうかという問題は、私が本当に論じたいことではありません。実際上、それはあまり重要なことではありません。私たちがどの時点で救いに入るのか、神を信じて救われるのか、キリストを信じて救われるのか、神のみがご存知のことです。


ただ重要なことは、異邦人である日本人には、日本人の宗教心を理解して、まず、天地創造の神について語り、このお方に感謝し崇め信頼することを教えたほうが、キリストの話から話を始めるより、よほどよく理解してもらえるということです。結局そのほうが、圧倒的に早くキリストの十字架の話にも到達でき、正しい悔い改めに導くこともできるということなのです。


普通の日本人に、キリストの十字架と贖い、神の絶対的聖さと人間の罪、悔い改めと赦しなどという理屈を教えても、頭を混乱させるだけで納得してはもらえません。議論に終わってしまうのが関の山です。しかし、日本人が本能的に持っている宗教心に訴え、誰もが感じている目に見えない大きなお方について、情緒的に、感謝と信頼という情の問題として語ると、とてもよく納得してもらえるのです。



結び


今年の春頃になって、私は、このような聖書理解をもとにした伝道を始めました。信徒たちに対しては既に数年前から、少しずつ、これまでの社会に敵対するようなクリスチャン信仰ではなく、社会の妨げにならない信仰生活、家族親族の中で受け入れられる信仰のあり方について語り続けてきました。それはそれで、小さな教会ながら成果を上げてきたと思います。ただ、伝道という面では信徒たちの日常の証に期待するだけで、私自身がこのような聖書理解に立った伝道に、直接取り組む機会はあまりありませんでした。


ところが昨年の末ころから、私に個人伝道の機会が訪れてきました。相手はと言えば、ほとんどが普段教会に来ることができない、病人やお年寄り、あるいは日曜日にも仕事をしなければならない、地方都市とその周辺に住むごく普通の方たちでした。みな、いわゆる過疎化の中で、何につけても保守的な感覚で生きてきた、言うならば、かなり難しい伝道相手で、教会の集いに出席するなどということは、あり得ない類の人たちでした。ところが、キリストを最初に持ってこない私の個人伝道法は、今までとはまったく違う結果をもたらしたのです。


個人伝道をしている6人のうち5人が、まだまだ弱いとは言え、「キリストを信じる信仰」を持つようになりました。先日はそのうちの二人が洗礼を受けました。80歳と78歳の夫婦です。このふたりの洗礼(滴礼)を家で見ていた二人の娘さんたちが、強い興味を持ち、一人は洗礼を受けることさえ考え始めています。これは実現するかどうか、まだ確実ではありませんが、おおいに望みがあります。他にも二人が洗礼を受けようとしています。これらの場合、今までの伝道とは異なって、非常に良く理解してもらえ、受け入れてもらうことができたのです。躓きや妨げになるような議論は、まったく起こりませんでした。


またつい最近、80歳をかなり超えてから救いにあずかり、教会には出席できないまま天に召された、93歳の男性の葬儀を行いました。キリスト教式の葬儀だとは知らずに、数珠を手に参列した300人近くの年配者に向けて、私は語りました。


「ご列席の皆様の中には、○○さんの葬儀がキリスト教式で行われることに、驚いておられる方も多いかと存じまず。また○○さんがいつの間にかクリスチャンになっていたことに、なにか、自分たちの知らない外国の神様を信じて、遠くに行ってしまったかのような違和感を持ち、寂しさを感じておられる方もいらっしゃるかと思います。しかし○○さんは、皆様が知らない神様を信じて、皆様から遠く離れてしまわれたのではありません。


ご存知のように、○○さんは士官学校を出て大陸にわたり、数々の戦闘をくぐり抜けて陸軍大尉にまでなられた方です。終戦後は故郷に戻り、身を粉にして家族を養い、地域の発展のために尽くされたと伺っております。その様な典型的な日本人だった○○さんは、80歳をかなり超えてから、クリスチャンになられました。幼い頃から心の中で密かに感じていた、太陽を昇らせ、雨を降らせ、穀物を実らせ、あらゆる良いもので自分を恵み、祝福してくださっていた、目に見えない大きなお方のことを、聖書という書物を通して、はっきりと知ることができるようになったからです。自分に命を与え、生かしてくださっていると心の奥深くで感じ、良くはわからないまま、密かに手を合わせ、感謝をささげてきた、強く、優しく、気高いお方が、実は、聖書が教えている天と地をお造りになった神様であると、はっきりとお分かりになったのです。そこで、改めてそのお方を自分の神様として認め、『天と地をお造りになった神様、私を生かし恵んでくださったことを感謝申し上げます』と、お祈りするようになっただけのことです。


○○さんは、外国から連れて来られた知らない神様を信じたのではありません。昔から多くの日本人が心の奥深くで感じ、祀り、崇めて来たお方を、改めて、『天の父なる神様』とお呼びして、お祈りを捧げるようになったのです。まるで幼い時に別れたままになっていた、お父さんに出会ったかのように、とても懐かしい気持ちで、『天のお父様』とお呼びしたのです。ですから、○○さんは皆様と違う神様を信じて、遠く離れた人になってしまったのではありません。皆様も昔から、良くはわからないけれど、心の深くに感じて、『ありがとうございます』と手を合わせておいでになった、そのお方を、改めて理解し、信頼し直しただけなのです。


○○さんは、天と地をお造りになった神様をはっきりと信じ、感謝を捧げる人となりました。そしてこの神様から、ご褒美として永遠の命を頂いて、今はもう、苦しみも悲しみも痛みもない、天のみ国に招き入れられて、大喜びをしていらっしゃいます。ですから、○○さんのために悲しまないでください。しばしの別れで、寂しくまた悲しく感じることはあっても、大いに喜んで上げてください。『○○さん万歳』と叫んでください。いま○○さんが残念に思っていることがあるとしたら、それは、最後に皆様にお会いする機会がないまま、旅立ってしまったことです。いま、天のみ国で○○さんが願っておられることは、懐かしい皆様が、同じように天地をお造りになった神様から、永遠の命をいただいて、同じ天のみ国に来てくださることだと思います。」


私が語ったのは、極めてまっすぐな福音です。でも、遺族の方々はとても喜んでくださいました。清楚で短い葬式だったというだけでなく、福音のメッセージに感動されたお年寄りも多かったと伺いました。躓いたり腹を立てたりした人は、「まったくいなかった」とも聞かされました。初七日の代わりに行った「偲ぶ会」でも、同じ観点からお話をしました。遠くから来ておられた長男ご夫妻がとても感動し、次の日曜日には、わざわざ帰宅を遅らせて、私たちの礼拝会に出席してくださいました。この方は、キリスト教にはむしろ強い反感を持っておられたということでした。


私はここで、自慢話をしようとしているのではありません。たまたま、ひさしぶりに伝道が上手くいって、舞い上がっているのでもありませ。また単に、「効果がありそうだから」とお勧めしているのでもありません。本題はどのように聖書を読むかということです。わたしの願いは、聖書が教える本物の福音、普遍的な神の救いについて、より分かりやすく、もっと受け入れてもらえるように語りたいだけです。異邦人である日本人も、はじめから、神の福音の対象者と定められています。日本人も、西欧的な福音理解、ユダヤ的な聖書の理解から脱した、真に聖書的なキリストの福音を聞かされるべきなのです。ユダヤ人のための福音の、「おこぼれ」に与るようではいけないのです。西欧の人々のための福音の「お古」で、満足させられていてもならないのです。






[1]近代に至って、いわゆる伝統的キリスト教文化と言われてきたヨーロッパ諸国における、「キリスト教離れ」が急激に進んでいます。彼らはキリスト教文化の良心が、人間の本性から直接沸き上がってくる、自分たちの良心に合わないことに気づいたのです。本源的人間性から芽生えた彼らのヒューマニズムが、ユダヤ民族に与えられた旧約聖書に基づく、キリスト教の戒律や倫理に調和しないことに葛藤する一方、まったく異なったアジアやアフリカあるいは南アメリカの人々の、本源的人間性から発するヒューマニズムに、より良く調和することを見出したのです。人間にとって心の律法は、モーセが与えた律法よりも基本的であり、原則的であり、本源的なのです。モーセの律法は、ユダヤ民族という枠の中にあってこそ、本来の機能を果たすのです。





[2]日本人の多くが、同じヨーロッパ諸国の人たちでも、しっかりとしたクリスチャン信仰を告白する人たちよりも、キリスト教に縛られないヒューマニストたちに親しみを覚え、共に生きていくことができると感じます。それは、どちらも、本源的人間性を大切にするからです。本源的人間性を大切にする人ならば、どのような社会的、文化的、あるいは宗教的背景に生まれ育った人たちとも、かなりの共通意識を持って、理解し合うことができるのです。旧約の律法がユダヤ民族に与えられたものであり、キリスト教はユダヤ民族の宗教背景から生まれてきたことを正しく理解するクリスチャンは、絶対の神を認めるヒューマニストとして、このようなヒューマニストたちと心を通わし、神について語り合うことも可能です。



posted by まさ at 09:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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