2010年10月15日

離婚?

 


  私はもう老齢年金を受けています。コンピュ

ーターを使いこなせないで悔しい思いをしてい

る、頭の固い種族の一人です。そのような私で

も、キリスト教会(界)の頭の固さというか、時

代錯誤にはため息が出ます。文化というのは地域

や国家という地理的隔たりだけではなく、時代の

隔たりにも大きく支配されています。



 

  先日、取り返しのつかないところまで離婚の

話しが進んでしまった、クリスチャン夫婦の夫

が、悩みながら、旅行先で見つけた教会の牧師に

相談したそうです。ところが話を聞いた牧師は、

彼が聖餐にあずかることを禁止し、再び教会を訪

れることさえもお断りしたそうです。クリスチャ

ンでありながら、離婚とはなにごとかということ

でしょうか。たぶんこの牧師は、自分は聖書の教

えに従っているという確信と、聖書に従う教会を

建てようという意気込みをもっておられるのでし

ょう。でも、時代錯誤もはなはだしいと感じま

す。

 



  このように言うと、聖書の教えは時代や場所

によって変えられるべきではないと、たちまち反

論されそうですが、たとえ聖書の教えそのものは

変わらないとしても、その聖書を理解する人たち

の理解力、背景、体験、そして文化によって、解

釈がずいぶん異なるのです。それは文化に妥協す

るという危険な一面を持ち合わせながらも、実

は、文化の中で聖書を理解し、聖書の教えに立つ

といういう、大切なことでもあるのです。



 

 離婚は絶対にいけない。離婚をする者は教会か

ら破門、離婚をしているものは教会には加入させ

ないなどという取り扱いが、当然だった時代や場

所もありました。ピューリタン信仰やホーリネス

信仰が盛んだった頃のアメリカには、そういう感

覚もありました。あるいはその教えを受け入れた

日本人クリスチャンの大部分は、かつては下級武

士階級に属し、貞操を重んじた儒教の教えで育て

られてきた人々でしたから、同じような感覚を持

っていたことでしょう。



 

  正しかったか間違っていたかは別として、聖

書の教えが、文化の中で読まれ、文化的な適用を

されていたわけです。
21世紀の現代に生きる私た

ちも、当然
21世紀の現代の聖書理解をします。そ

して
21世紀の日本という文化の中で、聖書の教え

に出来るだけ忠実に従おうとします。大切なの

は、その聖書の理解の仕方が正しいか、また適用

の仕方が間違っていないかということです。


 


  聖書はすべて、
2,000年以上も前に異なった

土地の異なった事情の中で書かれたものです。当

然、その教えの大部分は当時の社会状況に向けて

語られたものであり、時代と場所を超越した普遍

的原則そのものが、直接そのまま語られている場

合は非常に少ないのです。したがって、いま聖書

を読む私たちは、まず、当時の社会的状況に合わ

せた教えを通して、その土台となっている普遍的

理念に辿り着かなければなりません。それから、

その普遍的理念を現在の状況に正しく適用するの

です。


 


  これは簡単な作業ではありません。しかしこ

の作業をはしょってしまうと、とんでもない教え

を続けることになり、現代社会にまったく意味を

持たない教えに執着し続けることになるのです。

 



 分かりやすい例を挙げてみましょう。いまから

3500年ほども前に書かれたと思われるレビ記には

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさ

い」という、有名な教えが記されています。そし

て現代では、この教えはあたかも普遍的原則であ

るかのように語られています。つまり、時代と場

所を越えて、すべての人類に与えられているも

の、普遍的人類愛と考えられています。

 



  ところがレビ記をよく読むとそうではないこ

とが分かります。ここで言われている「隣人」と

は、文字通りの隣人であって、せいぜい広げて

も、「イスラエル民族とその中に寄留している人

々」程度であり、敵対している周辺諸民族、脅威

になっている周辺諸国の人々は含まれていないの

です。ですからイスラエル人は、イエス様が引用

したように、「隣人を愛し敵を憎め」言って、隣

人ではない人々、「敵」を想定していたのです。

 



  ただしイエス様は、「隣人を愛する」という

教えよりもさらに高度な、「敵を愛し迫害するも

ののために祈る」という基準をお示しになりまし

た。そして文字通りの隣人という枠を大きく広げ

て、自分以外のすべての人というかなり普遍的に

近い意味を持たせてくださったのです。

 



  もしも現代の私たちが、旧約聖書が教える隣

人愛の枠の中に留まってしまうなら、それは大き

な間違いです。でも、新約聖書の普遍的に近い隣

人愛を、ある特定の状況の中に適用すると、旧約

聖書の教えにもなるということを理解するのは大

切です。一方、現代の私たちの多くは、たとえク

リスチャンたちでさえ旧約聖書の隣人愛に留まっ

ているという、事実を認めるのも大切です。イエ

ス様がお教えになったような、普遍的人類愛には

たとえクリスチャンといえども到底到達できない

からです。

 



  では到達できないと、はじめから悟り、諦め

てしまうのでしょうか。そうではありません。は

じめから不可能だと知りながら、それを追及する

のです。はじめからそんなことは無理だと投げ出

すのではなく、真剣に追及して不可能だというこ

とを身をもって体験し、会得し、理解するので

す。そして自分たちが、神の水準には到達し得な

い罪人であると改めて認め、さらに神の哀れみに

すがり、さらに神の恵みに信頼するのです。する

と、そこに神の赦しが準備されていて、私たちは

神の懐深くに受け入れられるのです。そこで、不

完全であり、神の基準には到達できない者であり

ながら、恵みによって生かされているという感謝

と謙遜の中に生きるようになれるのです。


 


  結婚生活においても同じです。ひとりの男と

ひとりの女が結婚し、最後まで添い遂げるのが、

神の御心であり、結婚の原則であることに疑いは

ありません。人間はそのように造られているので

す。そしてあらゆる困難を乗り越えても、そのよ

うに生きることが、人間にとってもっとも良いよ

うに、本来、造られているのです。


 


  熊本県の出水市には、毎年冬になるとたくさ

んの鶴が訪れます。ある冬のこと、つがいの雌の

ほうが怪我をして、春になっても飛び立つことが

出来なくなってしまいました。雄の鶴は幾度も幾

度も、雌を励ますように翼を広げて見せるのです

が、雌はどうしても飛ぶことが出来ませんでし

た。すべての鶴がシベリアに戻ってしまっても、

雄の鶴は飛べない雌に寄り添い、かいがいしく餌

を運び、何ヶ月も留まっていたそうです。ところ

がとうとう雌の鶴が死んでしまったというので

す。それでも雄の鶴は長い間雌の死骸の周りに留

まっていましたが、やがて諦めたかのように、一

羽だけ北を目指して飛んで行ったそうです。鶴の

夫婦愛の深さに、見守った出水市の人たちは涙し

たそうです。

 



  この話には後日談があります。そのご確か
4

年ほどもして、あの見覚えのある雄の鶴を発見し

たそうです。その傍らには、まだ若い雌の鶴が、

ピッタリと寄り添っていたそうです。それを見た

出水市の人は、だれもが心から喜んだそうです。

自分たちの夫婦のあり方にいたたまれなくなり、

涙した人も、喜んだ人もいたのでしょうね。一夫

一婦の本能を与えられた鶴だからの話です。とこ

ろが、睦まじい夫婦の象徴のように言われている

おしどりは、相手を「とっかえひっかえ」で生活

します。一夫一婦の本能は与えられていないので

す。

 



  人間にも本能があり一夫一婦を望む心があり

ます。ところが人間にはさらに高度な知力と意思

も与えられています。これらが罪によって捻じ曲

げられて、本来与えられた人間としての生き方が

できなくなってしまったのです。どれほど誠心誠

意、結婚生活を保とうとしても、自分の弱さや欠

点、我儘や理解の不足から、離婚しないではおれ

なくなることもあるのです。また様々な社会的要

因や環境の問題によって、結婚を守り通すことが

出来なくなっているのです。


 


  離婚は本来神の御心ではありません。ですか

ら、離婚は罪です。神の御心に反しているので

す。ところが、モーセは離婚を認めています。な

ぜでしょうか。人間の弱さに、神が付き添ってく

ださったからです。いわば、神の妥協です。イエ

ス様も、それを認めておられます。

 



  罪を犯さないでは生きていけないのが人間で

す。それを理解することによって、初めて、本当

の意味で神の救いの必要を悟るのです。クリスチ

ャンになっても同じです。自分は聖書の律法を守

ることが出来ている、立派なクリスチャンだなど

と思っている人は、神の救いの意味が分からない

のです。神の救いを受け、聖霊の助けを受けてい

ながら、自分の不完全さと弱さに泣いて、始め

て、神の憐れみの豊かさが分かるのです。律法は

人を罰するためにあるのではなく、人に救いの必

要性を認めさせ、神の恵みの大きさを理解させる

ためにあって、高い基準をしめしているのです。


 


  現代の社会は、以前にもまして、一夫一婦を

守り、生涯添い遂げることが難しくなっていま

す。神の救いを受けた後でも、それは同じです。

聖霊の励ましがあってさえずいぶん難しいので

す。クリスチャンなのに離婚をするという人を、

教会に来させないようにしたり、聖餐に与からせ

ないようにしたりするのは、「立派な教会の立派

なけじめ」ですが、聖書の教えではありません。


 


  私たちの神は、罪人を救おうとされる神で

す。そのために、キリストを罰することさえして

くださった神です。神が御求めになるのは、キリ

ストが捧げてくださった犠牲に加える、さらなる

犠牲ではなく、憐れみです。モーセの時代、人間

の弱さに付き合って離婚を許してくださった神

は、いまの時代の混沌とした世界に生きる私たち

をも哀れみ、離婚をする者をお赦しくださるに違

いありません。離婚しなければならなくなったク

リスチャンは、自分の至らなさ、弱さ、罪深さを

さらに深く知って、神の恵みの大きさに感謝を捧

げることができるのです。クリスチャンが完全に

なるのは、やがて主にまみえるときなのです。









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2010年10月07日

親ばかの神


 「やさしく暖かく、豊かな自然に包まれて生きてきた日

本人には、やさしく暖かく包み込むような神、母なる神

が必要であり、厳しい自然条件の中で生まれたたキリ

スト教の神は、日本人にはふさわしくない」



 こんなコメントを読むことがあります。でも、自然の環

境によって生まれる神が異なるというのは、おかしな見

解です。自然環境が人間の理解に影響を与えるのは

確かですが、自然環境が神を産み出すわけではない

からです。



  確かに、ヨーロッパの人々が理解してきた神には、

厳しい一面が強調され過ぎたところがあるでしょう。彼

らの多くは、数千年にわたって厳しい自然と戦い、陸

続きの異民族と絶え間ない抗争をくり返してきたので

す。だから、ヨーロッパの人々が語る神は日本人に合

わないといわれても、仕方のないところがあるのです。

でも聖書の神は、本当は、まさに親ばかとも言えるほ

どの、優しい神なのです。





  もうずっと前に聞いた話でうろ覚えなのです

が・・・・・・。

 


 若い頃家を飛び出した金持ちの息子が、遊蕩に

財産を使い果たし、知人を騙し、友人を傷つけ、

始めた商売では失敗して多大の借金を残したかと

思うと、詐欺まがいの事件を起こして逮捕され、

ついには執行猶予の期間に強盗をしでかして実刑

をうけるという有様でした。

 



 こんな男でも
40を過ぎて、惚れた女と所帯をも

ち、やっと少し落ち着いた生き方を始めました。

ところが内気だった長男が突然ぐれ始め、
15歳に

なったとき、ちょっとした親子喧嘩が最後、ふっ

と消えてしまったのです。はじめのうちこそ、す

ぐに戻ってくるだろうとたかをくくっていました

が、いつまでも行方知れずのままでした。

 



 このときになって初めて、男は自分が生きてき

た道を振り返って見たのです。自分の息子を失っ

て、同じように息子を失った父親のことを、考え

ないわけにはいかなかったのです。一つひとつの

できごとが、なつかしく思い出されました。それ

ばかりか、良く考えてみると、すっかり尾羽を打

ち枯らしてしまったとき、友人ともいえない年長

の男が、少なからぬ金を黙って貸してくれた。そ

のまま、返すこともなく終わってしまったけれ

ど、あの金は父が出してくれていたに違いない。



 

友人や知人を利用して大きな迷惑をかけたとき

も、訴訟にならずにすんだ。父が手を回してくれ

ていたに違いない。商売で失敗してどうしょうも

ないほどの借金を作ったとき、負債者がどこまで

も追いかけて来ることはなかったのも、父が弁償

してくれたからに違いない。執行猶予の判決を受

けたときも、実刑判決を受けたときも、依頼もし

なかったのに有能な弁護士がついたのは、父の差

し金だったと考えるとつじつまが合う。

 



 居ても立ってもおられなくなった男は、ほとん

40年ぶりに故郷の土を踏み、死の床にある父を

訪ねました。おりよく、こん睡状態から覚めた父

は、手を差し伸べる力もないまま、やさしい眼で

見つめ、ひとこと言いました。「やっと帰って来

てくれたか。お前は私の息子だ」それから再びこ

ん睡状態意陥り、そのまま息を引き取ってしまい

ました。

 



 この父親が、どんな気持ちで息子を待ち続けた

か、息子を失ったことのある人でなければ、分か

らないかもしれません。親と言うだけで、馬鹿な

話です。

 



 ところで、聖書の神はもっともっとひどい親ば

かです。まさにとんでもない親ばかです。自分を

無視し、裏切り、逃亡し続け、あらゆる悪事を重

ねている人間を、自分に似せて造ったというだけ

のことで、愛し続け、跡をたどり、追いかけ、探

し、悪事の「尻拭い」をし続けておられるので

す。あるときは悪態をつき、あるときは嘲笑し、

あるときは罵倒し、あるときはわざと嫌われ憎ま

れることをしでかしながら、どこまでも逆らい逃

げようとする人間を、忍耐の限りを尽くして助

け、救おうとされるのです。

 



 人間と言う動物が、いかに身勝手をし続け、互

いに傷つけ合い、争いあって生きてきたかを考え

てください。愛し合い、いたわり合い、助け合っ

たこともありました。良いことをしようとして良

いことを遣り通すことができず、悪い人間になっ

てやろうと決心しても、悪人になりきれない悲し

いものでもありました。教育が普及すれば人間は

よくなる、科学が発達すれば社会はよくなると言

われ続けて
21世紀になりました。でも20世紀ほ

ど、たくさんの人が殺され、たくさんの人たちが

餓死した世紀はありませんでした。そして、
21

紀は
20世紀よりも良くなる保証はないのです。



 

このように、神を捨て、逃亡し続ける人間が犯

した罪は、神にとって絶対に許すことができるも

のではありません。しかしその罪の結果の刑罰

を、神は独り子キリストに負わせてくださいまし

た。十字架の上でのキリストの処刑は、人間の罪

の刑罰だったのです。神は単に面倒くさくて、人

間の罪を見逃してくださったのではありません。

キリストの命という身代わりの犠牲を払ってま

で、赦すことができるようにしてくださったので

す。

 



 これを親ばかといわずに、何と言うべきでしょ

う。他にどんな表現があるでしょう。出奔した息

子が、どんなに大きな罪を犯し、どんなに落ちぶ

れ、どんなに迷惑をかけ、どんなに逃亡し続けよ

うが、父親は、ただ父親だと言うだけで、息子を

探し出し、助け、救い、自分の許に取り戻そうと

するのです。父親は息子がやってのけたあらゆる

失敗と悪の後始末を、すでに済ませてくださって

います。父親は、もうはじめから息子を赦して、

帰ってくるのを待ちわびているのです。

 



 聖書の神は、どうしょうもない親ばかの神で

す。あきれて物も言えないほどの親ばかです。そ

れなのに、なぜ日本人の多くは、「聖書の神は父

なる神で厳しい神だ。やさしい自然に育まれて生

きてきた日本人には、やさしく包み込んでくださ

る、母なる神がふさわしい」などというのでしょ

う。聖書の神が読めていないのです。聖書の父な

る神は、どんな母なる神よりも優しく、慈愛に富

む神なのです。

 



 聖書の神は人間の罪を問わず、人間の失敗を問

わず、人間の愚かさを問わず、人間の過ぎこし方

を問わず、何も言わずに受け入れ、許し、引き寄

せ、抱き寄せてくださる神です。そのようにする

ことを妨げているあらゆる障害は、神がご自分で

痛みをもって犠牲を払い、すでに取り除いてくだ

さっているのです。罪の代価の支払は済み、汚れ

を清める手段も準備されています。ですから、人

間は何にもしなくて良いのです。ただ神を信頼し

て、「神様よろしくお願いします」と神の許に行

くだけでいいのです。神のことが良く分からなく

てもいい。神のことを初めて聞いただけでもい

い。助けて欲しいとみ許に行く人は誰でも、「よ

く帰ってきたな」と迎えいれられるのです。








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2010年10月06日

ルリタテハ



 かからむ 
    
     芋虫あまりに おぞましく
 

          
             たれか知るらん 明日の姿を
 


  しばらく前、我が家の庭にルリタテハが訪れて

きました。少しの間たゆたっていましたが、風に

乗って姿を消してしまいました。タテハチョウ科

の蝶はみなとても美しいのですが、ルリタテハは

その名のとおり、瑠璃色の羽の鮮やかさのために

愛されています。



  私の故郷、北海道にもいました。成体で冬を越

す、つまり冬眠をする蝶として知られています

が、熱帯のフィリピンにも生息します。広く分布

していながら、個体数がすくない上に敏捷に飛び

回り、なかなか捕らえられないために、比較的珍

しい蝶と思われています。
ところが、この色鮮

やかな蝶の幼虫はあまりにも毒々しく、おぞまし

い姿をしています。これを出っくわすと、たいて

いの女性は身を縮めて「キャー」と叫んでしまい

ます。



 わが家の庭にあの蝶が訪れてからしばらくする

と、庭のかから(サルトリイバラ)の葉にたくさ

んの芋虫が這い出したのです。そしてこの芋虫、

毎日のように色を変え、20日ほどでさなぎにな

り、しばらくすると、親と同じ美しい蝶に変化し

ました。いまも、わが家の庭には八匹の幼虫が幼

虫からさなぎになりかけていますので、つぎつぎ

と美しい姿が見られそうです。(芋虫と毛虫は基本

的に同じですが、毛が生えているのを毛虫と呼んでいま

す。ルリタテハの場合はご覧のように毛ではなく、突起

のようです)
。成虫になりたての一匹が、私の指

に泊まっています。



 わが家の庭には、ほかにも今、何種類もの芋虫

がいます。金柑にはアゲハチョウの芋虫、トマト

には良く分かりませんが10cm近い物凄く太い奴

が生息しています。みな、やがてまったく違う姿

に変化して行くことでしょう。
蝶などの昆虫が、

このように変態を繰り返していくように、神様が

お造りになったのです。本当に不思議です。さな

ぎの中で変化するときなどは、全体が一度、どろ

どろの液体になってしまうそうです。



  ところがもっとすばらしく不思議な変態があり

ます。それはわたしたちクリスチャンが体験する

変化です。わたしたちはみな、一度死にます。わ

たしたちの体は朽ち果てます。土葬のとき
 は土に

返り、火葬のときは煙になります。でもそれで終

わりではありません。わたしたちには甦りがあり

ます。クリスチャンは新しい、さらに勝った命に

甦るのです。


 
 そのとき、わたしたちは一大変化を遂げます。

芋虫を蝶に変えてくださる神様は、わたしたちの

体を、もう、病気にも、怪我の後遺症にも苦しま

ない体にしてくださいます。弱いところ、不完全

なところ、痛むところはみな消し去り、完全に作

り変えてくださるのです。
 それだけではありま

せん。わたしたちの心まで完全に作り変えて、醜

い性質、悪い性質を取り除いてくださいます。



 だから甦ったわたしたちは、欲望に悩まされる

ことがありません。憎しみや怒り、嫉妬や猜疑心

に振り回されることもありません。すべてのクリ

スチャンの心は、主であるイエス様の心に似たも

のと変えられるのです。
また、甦りによって身も

心も変えられた私たちは、永遠に生きることにな

ります。



 わたしたちの体は、もはや年をとって弱ること

も、衰えることもないのです。
神様はまた、今わ

たしたちが住んでいる世界をまったく造り変えて

くださいます。今の天と地は滅ぼされ、新しい天

と地が現れるのです。それは天変地異も病もない

完全な調和の世界です。



 その調和の世界に、美しく変えられたわたした

ちが入れられ
、永遠に生きるのです。わたしたち

が変化することは、芋虫が美しい蝶に変化するよ

りも、もっともっと確かなことです。絶対に失敗

も心変わりもしない神様がそのように定め、わた

したちに約束してくださったのです。



 だからわたしたちは、今のこの世界で、どのよ

うな困難なことに出会おうとも、失望も落胆もし

ないのです。わたしたちには確かな未来があるか

らです。

美しいルリタテハの写真、幼虫の写真、さなぎの

写真を挿入しようとしたのですが、うまく行きませ

んでした)






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2010年10月05日

それは非常によかった



         それは非常によかった

    創世記 1:31

   


 聖書の最初の書物である創世記の1章31節には、

次のように記されています。

「そのようにして神はお造りになったすべてのも

のをご覧になった。みよ。それは非常によかっ

た。」
  




 これは、神様が天と地をお造りになった物語の最

後の部分、いわばまとめの言葉です。神様はご自分

がお造りになった、すべてのものをご覧になって、

それはとてもよかった。非常によかったとおっし

ゃったのです。




 
 聖書に記されている、天地創造の物語は、今から

およそ3500年も昔に、その当時生きていた人々に

向かって書かれたものです。現代科学の知識にあ

ふれている人々を対象に、書かれたものではありま

せん。ですから、現代科学の知識など一切持ってい

なかった、3,500年前の人々に、最もわかり易い方

法で、天地創造にかかわる大切な事柄、当時の人々

の信仰生活に、最も必要なポイント、信仰の要を教

えたのです。そういうわけですので、現代の私たち

は、今から3,500年前の人々になったような気持

ちで、この部分を読まなければ、聖書の言っている

本当の意味が、理解できません。


 
 

 そういうことを知って、今の箇所を読みますと、神

様は、ご自分がお造りになったすべてのものをご覧

になって、それをとても良いと、判断されたことが解

ります。神様は完全な自然をお造りになったのです。

人造物ばかりがあ
ふれている都会から、一歩はなれ

て、自然の豊かなところに来ると、今でも、神様が非

常に良いとおっしゃった、神様の創造物が、たくさん

目に入ってきます。もちろん、今の自然は、人間の罪

の結果、ずいぶん醜くなってしまいましたが、それ

でも、神様がお造りになった美しい姿を、たくさん

留めています。




 
 自然といえば、私は、日本の自然が、格別に美し

いと思っています。多くはありませんが、いろいろ

な国を回って、それぞれの国の、自然の素晴らしさ

に、感動したものですが、四季折々で変化を見せ

る、日本の自然が織り成す美しさは、特別なもので

す。日本人は昔から、この自然を愛で、自然と一体

になって生きるのを、ひとつの理想としてきたとこ

ろがあります。最近はすっかり破壊されてしまった

とはいえ、まだまだ自然の素晴
らしさは残っていま

す。
 



 青い空、白い雲、緑の木々、どこまでも広がる水

平線、色とりどりの花々、木漏れ日のきらめき、小鳥

たちの歌声、虫たちのささやき。飛び回る昆虫や、

土の中に住む虫、あるいは水の中に住む、さまざま

な生き物までが、みな、自然の不思議を隠していま

す。よく観察すると、ウワー綺麗だな。素敵だな。す

ごいなーと、まさに、驚きと感動がいっぱいです。

このような素敵な自然をお造りになったのが、神

様です。このような、美しい自然、その微妙な調和

を見て、感動しない人はいません。このような素晴

らしいものをお造りになった神様は、素晴らしい神

様です。素晴らしい神様だから、素晴らしいものを

お造りになったのです。




 
 この自然には、素晴らしい神様の素晴らしさ、美

しい神様の美しさ、力強い神様の力強さが、見事に

表現されているのです。人間が作る歌や詩の中に

は、作った人の性格と言うか、性質が表れます。絵

画の中には画家の性格が映されています。神様が

お造りになった自然には、お造りになった神様の性

格、性質が反映されているのです。




 
 私たち人間も、神様に造られた自然の一部とし

て、素晴らしいものです。そればかりか、この自然

を、感動を持って見ることが出来る、目と心を与え

られているのです。先ほど読みました聖書の箇所

の少し前、27節には、「神はこのように、人をご自

身の形に創造された」と、記されています。




 
 人間は、神様の姿にかたどって、創造されたと

いうのです。これは驚くべき事実です。人間は、特

別に、神様の姿に似せて造られたのです。これは

顔や手や足の話ではなく、心と言うか、霊と言う

か、命と言うか、人間の本質の部分が、神様に似せ

て造られたということです。ですから人間はほか

のあらゆる動物たちと違って、神様によって美しく

造られたものを、また神様のように、美しいと感じ

る心を持っているということです。神様は、ご自分

がお造りになった美しいものを、美しいと感動して

喜ぶ、人間をもお造りになり、その美しいと感動す

る人間を、お喜びになるのです。そういう意味で

は、昔から自然に感動して生きてきた日本人は、神

様に喜ばれてきた人々だとおもいます。
 



 また、神様に似せて造られたということは、神様

と心を通わせることが、出来るということです。言

い換えると、人間には、神様を感じる心の部分、本

能があるということです。そのために、すべての人

間は宗教心を持ち、祈りをささげ、礼拝をしてきまし

た。人間とは、まさに、祈る動物のことです。他のど

のような動物も、祈ることはしません。生物学的に、

人間に最も近いといわれる動物も、ペットとして何

千年も人間と共に暮らしてきた犬や猫も、祈ること

はしません。神様に似せて造られてはいないため

に、霊的な存在である神様を感じることが出来な

いからです。
 



 自然の美しさや調和、あるいはその恵みを素直

に認めて、感謝を捧げる日本人の姿は、美しいもの

です。「なにものが おわしますかは しらねども

ありがたさにぞ 涙こぼるる と歌う日本人の姿

は、非常に尊いものです。春には、若葉で覆われる

山々、夏にはさんさんと輝く太陽、秋には豊かな実

り。日本人はその自然の中に神様を感じ、良くはわ

からないまま、崇め、祈りを捧げてきたのです。




 ただ、この日本人がぜひとも知らなければなら

ないのは、「なにごとの おわしますかは しらね

ども」といって 感謝を捧げてきた神様は、実は、

天と地をお造りになった、神様だということです。

その神様は、石でもなく木でもなく、山でもなく海

でもなく、あるいは太陽や月でもなく、それらすべ

てのものをお造りになった、天の神様であるという

ことです。私たちは、知らないまま、神様を礼拝し

続けるのではなく、礼拝の対象をはっきりさせて、

天地をお造りになった、神様を礼拝して行きたいも

のです。「どこのどなたか知りませんが、ありがと

うございます」と祈るのではなく、「天と地を造り、

私たちをも造ってくださった神様。ありがとうござ

います」と祈りたいものです。




  
そのように、天地を創造された神様を礼拝する

とき、私たちはこの神様からの豊かな祝福を、さら

にたくさん受け止めて、感動と、喜びに満ち溢れた

毎日を、送ることになるのです。
  












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2010年10月04日

感謝のある生活



  

 いまの私たちの生活は、貧しいとは言えずいぶん

豊です。でも、豊かさというものを満足度で計るとす

ると、今の私たちの豊かさは、とても貧しいものにな

ってしまいそうです。「このお菓子美味しくない」と

言って食べ散らかしている日本の子どもたちより、野

良仕事のあと、茹でた一本のタピオカを兄弟で分け

合って、目を輝かせながら食べていたフィリピンの山

奥の子どもたちのほうが、よほど豊に見えました。贅

沢な日本の子どもたちには、感謝も喜びもなく、ぼろ

ぼろの汚れたシャツを着たフィリピンの子どもたちに

は、感謝と生きる喜びがあふれているように感じまし

た。
感謝をすることが出来る生活は豊かな生活です。

でもどうしたら感謝が出来るようになるのでしょう。
 




T. 思い上がらないこと 
 


 思い上がりは感謝を奪い取ります。自分が何物か

であるように思い込んでいると、当然、その何物か

に応じた対応を求めます。賃金も、もてなしも、食べ

物も、すべて、「立派な自分」にふさわしいものを求

め、それが当然だと考えます。そしてそれが与えら

れないときには、たとえ美味しいものでも美味しく

なくなり、美しいものも美しくなくなり、手厚いもて

なしもぞんざいに思えてしまうものです。





 いまの日本人の多くは、自分が何物かであるか

のように、思い込まされているようです。少子化の

ため、家庭の中で大切に大切に甘やかされて育っ

たものたちが大勢います。自分が一番大切だと思

っています。自分が美味しいものを食べ、高価なも

のを身にまとい、贅沢に暮らすのは当然だと考え

ています。それは自分の権利だと思っています。で

すから、そのような生活に感謝はありません。そし

てそれが奪われると、怒り悲しみ落胆するのです。





 この世に生を与えられたすべての人には、生きる

権利があります。でも、権利の主張ばかりしている

人たちには、不満と憤りと、恨みとねたみが沸き起

こるだけです。






 ところが、自分を低く見ている人は小さな親切に

感動し、わずかな食べ物に感謝し、粗末な着物にも

喜びます。感動と感謝と喜びを持つことができるの

は、豊かな人です。自分がたまたま生を与えられた

小さな存在に過ぎないと感じている人は、感謝を大

きくすることが出来るのです。旧約聖書に登場する

ダビデ王は豊かな人間でした。それは王としてあら

ゆる物を手にしていたからではなく、自分は虫けら

に過ぎないと自覚していたために、どのような環境

にあっても豊かだったのです。





 
U. 神の子として生きる  


 昔、木村清松という伝道者がアメリカに渡ったと

き、ナイアガラの滝に連れて行ってもらいました。感

動していると、案内のアメリカ人が尋ねたそうです。

「どうだ。凄い滝だろう。日本にはこんなに凄いもの

はあるか」すると清松は答えました。「これは私の父

の所有物だ」それから、清松の行くところ行くところ

すべてで、「来たる!ナイアガラの滝の所有者の子

息」と、新聞で報じられたということです。北九州シ

オン教会の創立者であった力丸博牧師は、生前良く

言っていました。「国鉄も西鉄も、全部僕が有してい

るんだ。JALも日本郵船も、この世にある者はみん

な僕のものだ。でもそこで働いている人たちにも生

活があるから、自分が利用するときはわずかの金を

払うようにしているし、自分が使わないときでもみ

んなが利用できるように、いつでも営業させている

んだ」ふざけたことを言う牧師だと思って聴いてい

たものですが、力丸牧師は、自分の父は神である。す

べてのものの所有者であるということを、肌で感じ

ていたのでしょう。ですから、開拓伝道の貧しさの中

でも、堂々とおおらかに生きることができたのです。
 



 一方、自分は神のみ前に小さな小さな存在に過ぎ

ないと自覚して、生かされていることそのものに感

謝をして生活をするのです。自分が所有しているもの

で、与えられたものでないものはなく、自分が消費し

ているもので、与えられたものでないものはないと

いうことを、良く自覚することです。神のみ前に小さ

なものであると自覚すると、すべてのことに感謝を

することが出来るようになるのです。すると、自分の

失敗や間違いや罪や嫌な思い出までが、自分を小

さく保ってくれる大切なものであることも分かるの

です。パウロは自分の肉体的欠陥を、自分を謙遜さ

せる大切なものであると自覚していました。天地万

物をお造りになった大きなお方が、私のようなちっ

ぽけな存在を愛し、心を遣ってくださるのです。





 
V. 感謝を伝染させる  


 悲しみやいらいらや、怒りや失望落胆の気持ち

が、知らないうちに隣の人たちに伝染するように、

感謝や喜びの、生き生きした心もまた伝染します。

それに感染した人たちはまた、次に感染させるの

です。それが強ければ、怒りや悲しみの伝染を、食

い止めることも可能です。





 
それだけではなく、私たちの感謝、喜び、平安が

どこからやってくるのかも、伝えていくことが出来

るのです。私たちの感謝は、自分の小ささの自覚だ

けではなく、その小さなものを深く愛してくださっ

ている、大きな神にあることを伝えることが出来る

のです。私たちは言葉で神様のことを伝えると共

に、感謝の気持ちで神様を伝えることが出来るの

です。多くの贅沢なもので囲まれながら、感謝も喜

びもない生活をしている人たちの中にあって、贅

沢ではなくても、質素で単純な生活をしていても、

いつも感謝をしていることが出来ると、夜空に輝く

星のように輝くのです。小さな光ですが、多くの人

の目を奪うのです。




 そのとき、私たちはより効果的に、私たちの感謝

の生活について語り、その根源になっている私たち

の神について、お話をすることが
出来るのです。









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2010年10月03日

緊張の中の信仰



緊張の中の信仰
マタイ24:1〜25:46 


 夜中の2時、まさに丑三つ時(うしみつどき)に、ある牧師に電話

がかかってきました。「先生。どうかいま、私に説教をしてくださ

いませんか!?」いつも面倒を起こしている女性の信徒です。

「えっ、 こんな真夜中にですか?」 「はい。どうしても眠ら

れないんです。でも先生のお説教を聴いていると、いつもとても

良く眠られるものですから、先生どうかよろしくお願いいたし

ます」 




 もうひとつ・・・・・・。説教を聴く信徒たちが、みんな眠りこけるの

に悩んだ牧師が、どうしてそうなるのか、自分の説教を録音し

て聞いてみることにしました。月曜日の朝、書斎に閉じこもっ

てしばらく・・・・・・・。奥さんが10時のコーヒーをもってドアを開ける

と、牧師は録音を聞きながら、すっかり眠り込んでいました。




 クリスチャン信仰は平安の信仰です。うちの教会でも、牧師の

説教は平安に満ちたものですから、信徒たちはやすらかに居

眠りをします。そんなことを気にしていては、牧師は務まりませ

ん。日ごろ一生懸命働いて、せっかくの休みにも教会までやって

来る、それだけで立派な信徒です。何しろ雷に打たれて死んだ

としても、永遠の命をいただいているのですから、心配は要りま

せん。




 とはいえクリスチャン信仰は、のんびりと平安に過ごすだけの

ものでもありません。緊張という一面も非常に強いのです。そ

れが、マタイの福音書24章と25章のテーマです。なぜ緊張する

かと言うと、イエス様がいつお帰りになるか分からないからで

す。天にお帰りになったイエス様は、再びおいでになるのです。

そして私たちを天に引き上げてくださいます。私たちはこの

世の雑踏と苦しみを下に見ながら、イエス様と共に、天がける

のです。そして私たちより先に死んでいた人たちも甦らされ、

空中で一緒になり、喜びを分け合うのです。
 



 ここで大切なのは、イエス様が戻って来られるときも、忠実な

信仰を保っていることです。怠けたり、さぼったり、忘れてしまっ

てはいけないのです。クリスチャンに与えられた大切な働きを、

なおざりにしてはならないのです。そのようなクリスチャンは、

天に引き上げられない可能性さえあるからです。(最終的には

救われますが)




 マニラの聖書学校に、怠け者の学生がいました。授業はサボ

るし作業には出てこない。朝寝坊して食事に顔を見せないの

も、いつものことでした。ある日の朝の食堂で、突然、校長が宣

言しました。「今日は授業を休んで、みんなでピクニックに行きま

す!!」ずいぶん前から職員たちと一緒になって計画し、食料

もたっぷりと準備し、学生たちを驚かせてやろうと、秘密にして

いたのです。




  すっかり舞い上がった学生たちは、準備されたバスに乗り込

んで出発してしまいました。日が高く上って暑くなり始めたこ

ろ、のこのことベッドから這い出した、あの怠け者の学生はびっ

くり仰天しました。広い校舎も庭もガランとしてだあれもいない

のです。瞬間、彼は大声で泣き始めました。自分が惰眠を貪って

いる間に、イエス様がおいでになって、学生も、先生も、みんな

天に引き上げてしまわれた。自分だけが残されたと思ったので

す。
 



 主がおいでになるとき、忠実に信仰を保ち、熱心に主に任せら

れた仕事を遣り通しているところを見られる人は幸いです。そし

てこの、主がおいでになる日、再臨の日はいつか分からないの

です。今日かも知れないし、1000年後かもしれません。新約聖

書全体を通して、主の再臨に対する期待と、緊張が流れている

ので
す。




 この主の再臨という信仰は、インドまでもたらされ、仏教にも

影響を与えたと思われます。(仏教の最初の経典、阿含経が完

成したのは、はなはだ不確実ですが、キリストの時代より200

ほど後の事というのが有力な説です)その阿含経に弥勒信仰の

芽生えがあるのです。でも、弥勒菩薩がおいでになるのは56

700万年後、あるいはそれを10倍にした567000万年後と

いうことですから、緊張感はありません。




 クリスチャンは死を恐れません。しかし、主であるイエス様が

いつお帰りになって、私たちを迎え入れてくださるかという、

緊張と期待感を持ち続けるのです。




 わたしたちは、ときどきICA(英語部)と合同のパトラックラン

チをします。これは単なる食事会ではありません。再臨の主に

よって天に挙げられた私たちが、天においてイエス様と一緒に

いただく食事会を思い起こすものなのです。天の食事にはどん

な料理が出るのでしょう。時代と民族、国家と文化によって食事

は違います。尾頭付きの鯛とヒラメの刺身が出るか、カブトムシ

の幼虫のムニエルが出るか。考えるときりがありません。天のみ

国では、みんな、どんな食べ物でも美味しく食べることが出来

る人に、変えられるのだと思いますよ。









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2010年10月02日

神の妥協 私たちの妥協



神の妥協 わたしたちの妥協 
     ピレモンへの手紙 


 一般的に、クリスチャンは妥協をいさぎよしとしま

せん。どこの国のクリスチャンも、妥協を嫌う頑固さ

があるようです。多分、ローマ人への手紙12章2節の

「あなた方はこの世と妥協してはなりません」とい

う言葉が、間違って理解されたのだと思います。「こ

の世」が、世のなかの習慣とか文化という意味に取

られてしまったのでしょう。





 いつでも人の顔色をうかがって、大切なところで

妥協してしまう日本人の中にあって、かたくなに自

分の信仰を守って、日本の習慣や文化に逆らい通す

クリスチャンは、ある意味で立派です。でもそのため

に、キリスト教全体のイメージが、独りよがりの反社

会的宗教と思われるのは残念です。




 クリスチャンたちのかたくなさは、彼らの潔癖さ

からくるものです。そしてその潔癖さは、神の潔癖

さからくると思われています。聖書の神は完全に聖

い神、潔癖な神で、穢れや罪はたとえ爪の垢ほど

でもお嫌いになるからです。




 ところが、聖書の神は、聖く潔癖な神でありなが

ら、妥協の神でもあるのです。私たちクリスチャンも

また、聖く生きようとする反面、妥協の生き方もしな

ければならないのです。妥協と言う言葉の定義の

問題だと言ってしまう前に、もう少し聖書に目を注

いで見ましょう。





 
T. 神の妥協  


 確かに、神の厳しさは聖書のいたるところに見る

ことができます。でも神は、罪深い人間を赦し、ご自

分のみ許に引き寄せるために、キリストを犠牲として

捧げてくださった神です。妥協できないから、キリス

トを犠牲にしなければならなかったと見るか、罪と

穢れと妥協してでも罪人を受け入れたいと願い、キ

リストの処刑という大きな犠牲をさえ、忍んでくださ

ったという言うべきかです。




 人間は、神に定められた道をはずれ、とんでもな

い方向に進んでしまいました。でも、神は人間を見捨

てず、殺さず、滅ぼさず、あくまで救おうとして、妥

協しながら付き合い続けてくださったのです。



 神は、一夫一婦であるように人間をお造りになり

ました。ところが人間は、たちまち性的に乱れ、一夫

多妻の社会を造り出してしまいました。離婚は神の

御心を外れていました。しかし神は、罪のための人

間の弱さを哀れみ、これをもお許しになりました。
 




 あらゆる人間を基本的に同等にお造りになって

いながら、神は人間たちが差別を設け、奴隷制度

を作り上げて行くのを許し、奴隷制度の社会さえ受

け入れてくださいました。パウロがピレモンへの手

紙を書いたときも、奴隷制度が社会の土台でした。

今の日本では、中小企業で働く人々がいなければ

社会が成り立たないように、奴隷がいなければ当

時の社会は機能しなかたのです。




 
U. ピレモンの手紙の背景 

 
 ピレモンはパウロの働きによって救われたクリス

チャンでした。多くの奴隷を抱える金持ちだったと

考えられます。その奴隷の一人がオネシモという若

者でした。ところが彼はどういうわけか、主人に迷

惑をかけて逃亡し、流れ流れて遠く離れたローマに

辿り着いたのです。ところがそこでもさらに悪事を

重ねて捕らえられ、牢に閉じ込められたようです。

どうやら彼はその時パウロに出会い、教えを聞き、

キリストを信じるものになったらしいのです。奇遇と

いえば奇遇、奇跡といえば奇跡です。



 キリストを信じたオネシモは、名前の通り「役立つ

人間」に変わり、かいがいしく年老いたパウロの世

話をしていたようですが、その信仰がある程度成

長したときに、パウロは彼を遠くの主人、ピレモンの

許に送り返すことにしました。



 当時の逃亡奴隷に対する処罰は厳しいものでし

た。たとえ主人もクリスチャンになっていたとは言

え、逃亡奴隷を許すことは社会制度の崩壊につな

がり、奴隷の持ち主たちの間の約束事があり、簡単

に許すことが出来るようなものではありませんで

した。世事に通じていたパウロがそれを知らないは

ずはなく、オネシモもそれを忘れたことはないはず

です。それなのに、パウロは彼を主人の許に送り返

し、オネシモは途中でまた逃亡することもなしに、

主人の許に行ったのです。




 
V. パウロの妥協 


 パウロは、すべての人間が神の前に平等である

と教えています。当時の世界にあっては、まさに時

代を先取りした驚くべき教えです。ですから当然、

奴隷制度が基本的な人権を無視したものであり、

神の御心に反していたことも知っていました。とこ

ろが、「奴隷制度反対」を叫んでムシロ旗を挙げて

戦うようなことはしなかったのです。一方では、奴

隷制度を根本的に覆すような教えでピレモンを諭

し、オネシモを愛する兄弟として迎えるように勧め

ながら、もう一方では、その悪い制度に従ったので

す。パウロは妥協したのです。



 これは悪い社会の中に生き、邪悪な制度やしきた

りの中で生活しなければならない、クリスチャンた

ちのあり方を示しています。また、異教文化のなか

で生きていかなければならない、日本のクリスチャ

ンたちの採るべき態度を示しています。正面切って

悪と戦うだけが、クリスチャンの戦いではないので

す。悪と妥協しながら、悪と戦う生き方が大切です。

悪い制度の中で、神のみ心、本来の人の生き方を求

めて生きるのです。



 いま、私たち社会に奴隷制度がないのは幸いで

す。とはいえ、それに類似したものはたくさんあり、

それよりもっと悪いものも少なくありません。たと

えば、資本主義の自由経済社会があります。自分た

ちの利益のためにこの制度を創り、正当化し、欲望

をむきだしにしてこれを悪用する人々のために、い

ま世界では、子供だけで13万人以上の餓死者が

出ているのです。



 自分たちの手では、大根一本、麦一粒も生産せ

ず、ねじくぎ一本も作り出すことをしない人たちが、

コンピュータの画面を操作するだけで世界の金を動

かし、貧しい国の人々をますます貧しくし、死に追い

込んでいるのです。アフリカの人々を狩り出して、奴

隷として売った人々の非人道的行為は、歴史のなか

で厳しく非難されています。しかし現代の金融界の悪

は、奴隷制度に勝る巨悪でなくてなんでしょう。


                                    
 私たちはいま、この制度の中で、この制度に妥協

しながら生きて行かなければならないのです。しか

も、自分の信仰において、自分の信念の行動におい

ては、断じて妥協しない生き方をしなければならな

いのです。



 非キリスト教国日本で生きている私たちは、毎日

異教の習慣や偶像に取り囲まれ、戦いをしなければ

なりません。でも、いま私たちが戦わなければならな

い最大の敵は、そのようなものではありません。むし

ろ、私たちの教会の中でも活発に活動している、「富

の神」です。キリストが「富と神に同時に仕えることは

できない」と仰ったときの「富」です。」これは単なる

富ではなく、「富の神」を意味する言葉です。金を追

い求めるうちに誰しも陥る、拝金主義の危険を教え

てくださったものです。




 パウロは「むさぼりが、そのまま偶像礼拝である」

と、厳しく拝金主義を叱責しました。ところがいま、偶

像を壊せ、仏壇を焼けと騒いでいる戦闘的キリスト教

会の多くが、この富、「マモン」と言われる神と仲良く

なり、これを崇拝して止まない、偶像礼拝の罪を犯し

続けているのです。繁栄の福音などと言うまがい物

を、福音と言いくるめる神学さえあるほどです。世界

中で、年間1000万を遥かに越える餓死者を出し続け

ている、現代最大の偶像礼拝にどっぷりと浸りきっ

ているのです。



 この、富の神と呼ばれる偶像と戦うことこそ、い

ま最も重大な戦いです。しかも私たちは、その神を

崇める社会制度の中に生きながら、戦わなければ

ならないのです。その富の神に目と心を奪われてし

まった、私たち自身とも戦わなければなりません。

どのように戦うべきか、奴隷制度の中に生きなが

ら、その制度に対してムシロ旗を立てて戦うこと

をせず、かえってその制度の土台である差別の精

神を打ち壊すように、愛をもって戦ったパウロの

ように、上からの知恵が必要です。
 

                  おわり





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2010年09月30日

復活に生きる


  

 人はみな死にます。肉体は朽ち果てて消滅し、

人々の記憶からも失われ、やがては、生きていた

証さえ拭い去られて、永劫の彼方に忘れられてし

まいます。そう考えると、人生は虚しいもので

す。せっかくの楽しみも喜びも、色あせてしまい

ます。ならばとばかりに、太く短く生きようとす

る人たちの姿は醜いものです。反対に、だからこ

そ人生を大切にと言いながら、生に執着している

姿も美しいものではありません。延命処置で管

だらけになて寝かされている人を、正視できるも

のではありません。



 

復活の力に生きる


 私たちクリスチャンの生き方は違います。わた

したちは復活の信仰に立って生きているからで

す。クリスチャンは、二千年以上も昔に生きてい

た方を懐かしんで、手本にして生きているのでは

ありません。いま私たちと共に生き、いま私たち

を助け、いま私たちの内に住み、いま私たちの生

きる力となっていてくださる方によって、生きて

いるのです。私たちはいま、キリストの復活の力

によって生かされているのです。




 復活されたキリストが、私たちの内で力となっ

て、私たちをふつうの人間ではない者にしてくだ

さっているのです。私たちは弱く頼りない人間で

す。でも復活のキリストを、内に宿した人間で

す。復活のキリストが内に住んでいてくださるか

ら、私たちは内側からキリストの姿に似せられて

いくのです。やがて、キリストを信じる前の自分

とは、大きく異なった自分が作り上げられていく

のです。




 以前の私たちは、なんでも自分が第一でした。

すべて自分の益のため、自分の得のため、自分の

名誉のため、自分の面子のため、自分の幸せのた

めでした。何でも自分を中心に考え、自分を中心

に判断し、自分を中心に選択してきました。それ

が当然だと思っていたのです。その結果、人と争

い、人を蹴落とし、人を傷つけ、人を利用し、人

を騙し、人を陥れてきました。それが、意識的に

そうしたのではなく、自分を第一とした生き方の

もたらした副作用でした。それでいて自分は決し

て幸せでなく、かえって自分自身が嫌になって落

ち込んでいました。そんな自分をどうすることも

出来ずに、悲しくなり、惨めになり、どうにでも

なれと投げやりになってきました。




 でも、復活のキリストを心の内にお迎えしてか

ら、私たちは変わりました。自分を第一にする生

き方から、いつの間にか他の人を大切にし、自分

のことを二の次にすることさえ出来てきたので

す。それが一生懸命努力して、何が何でもと頑張

った結果ではなく、いつの間にか出来るようにな

ってきたのです。自分の内に復活のキリストが生

きておられると知って、そのキリストの力を信じ

頼って祈っていたら、いつの間にか変わってきた

のです。




 自分が人の助けになることができる、自分も人

の役に立つことができる、自分が人に喜んでもら

うこともできると気付いて、嬉しくなったので

す。生きることが楽しくなり、生きることに充実

感がもてるようになったのです。自分がどれほど

損をしても、裏切られても、傷ついても、十字架

にかかって苦しんでくださったキリストが内に住

んでいて、それを乗り越えさせてくださるので

す。金銀を儲けても、永遠の国に持っていくこと

はできないけれど、キリストと共に苦しむ苦しみ

は、永遠の栄光をもたらす宝だと知ったのです。



 
復活の望みに生きる



 復活のキリストが、私たちの内に住んでいてく

ださるという事実は、毎日の生活の中で不否定で

きない現実です。この明白な現実が、まだ見てい

ない私たちの復活への希望をも現実のものとし、

固く大きくしてくれます。キリストの復活は、私

たちクリスチャンの復活の初穂であり、保証だか

らです。死を打ち破って甦ってくださったキリス

トは、私たちをも甦らせてくださるのです。





 困難の中で喘いでいるとき、苦難の中でもがい

ているとき、ちょっと手を止めて目を閉じ、心の

中で自分に約束されている復活と、それに続く輝

きに満ちた命を思い浮かべてみましょう。パウロ

先生と一緒に、「いまのこのときの苦しみは、や

がて現されようとしている栄光に比べるならば、

言うに足りない」と断言できるはずです。私たち

の人生は死で終わるのでなく、さらに勝った命へ

復活をするのです。さらに優れた肉体を与えら

れ、キリストの心に似た心を与えられ、やがて痛

みも涙も叫びもない世界、神ご自身が、私たちの

目の涙をまったく拭い取ってくださる世界に、永

遠に住まわせていただくのです。





 キリストの復活は、私たちの望みです。いまは

まだ、すべての物事が薄ぼんやりと見えているだ

けです。聖書に教えられているあらゆる真理も、

まだまだ、霧の彼方にあるもののようにしか見え

ていません。神様との交わりも復活のキリストの

力も、実のところ、まだまだほんの少しだけ体験

しただけなのです。でも、やがて現される現実、

私たちの復活の向うの現実は、こんな小さなもの

ではありません。こんなに薄ぼんやりしたもので

もありません。すべてのことが明らかになり、す

べてのものが完成され、たとえようもなく大きな

祝福が、私たちを取り囲み覆いつくすのです。




 このような望みを持ったわたしたちクリスチャ

ンの歩みは、世の中の人々の歩みと同じであるは

ずがありません。大きな望みは大きな力をもたら

すからです。行く手の光は、足もとの闇の不安や

孤独を消し去ってくれます。




 キリストの復活を祝うイースターの季節です。

キリストの復活こそ、クリスチャンの勝利の象徴

であり、勝利を現実にする力なのです。









posted by まさ at 20:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

救いに伴って私たちに起こったこと (3)


 7.           共同体としての成長 
 

 ところで、クリスチャンの成長というものは、

個々のクリスチャンがそれぞれ独自に成長するも

のではありません。孤高のクリスチャンを作るの

ではないのです。隠遁の聖人を作るのでもないの

です。むしろ、共同体として、教会全体としての

成長こそが成長の目標です。キリストの満ち満ち

た身丈にまで成長し、頭なるキリストに達するよ

うになり、愛のうちに建てられることを期待され

ているのは、個人のクリスチャンではなく、共同

体としての教会なのです。(エペソ書
411

16




 
 自分だけが非常に立派なクリスチャンになるの

ではなく、自分と一緒に生きている弱いクリスチ

ャン、幼いクリスチャン、わがままで、自分勝手

なクリスチャンも、一緒に成長することが大切な

のです。彼らがいくらかでも強くなり、少しでも

成長し、わずかでもわがままが抜け、ちょっとで

も自分勝手が消えるように、自分の成長の速度を

落としてもいいのです。極端に言うと、そのため

には、今日の聖書の勉強の時間を縮めても、明日

の祈りの時間を削っても良いのです。
 




 中学生のときの全校マラソン大会で、私たちの

クラスはビリケツになりました。女子が最低だっ

たのです。もともと丈夫でなかった女の子が途中

でくじけそうになったのを、みんながかばい、励

まし、力づけ、最後までひとかたまりで走り続

け、小一時間も遅れてゴールしたのです。その日

の終わりのホームルームで、担任の先生が、お前

たちはビリケツだったけれど、最高のクラスだと

言いました。次の日の朝礼で、私たちのクラスの

女の子たちは、校長から特別賞を貰いました。そ

のあと、健康優良児でもあったクラス委員の女の

子が、くじけそうになった女の子に小さな花束を

手渡しながら言いました。「○○ちゃんがいてく

れたから、私たちも一つになって頑張れたのよ。

○○ちゃんありがとう」

 



 これはキリストの愛も、キリストのみからだも

知らない、異邦人の女の子たちの中で起こったこ

とです。私たちの教会にも、この程度のことは起

こって欲しいものです。強いものが弱いものを助

けてあげる機会を与えられ、感謝をするのです。

弱いものがいなければ、強いものの強さは何の役

にも立ちません。

 



 すべての人が、それぞれの生まれや背景を越え

て、キリストにあって一つとなった教会は、互い

に弱さをかばいあい、醜さを被いあい、悲しみと

喜びを一緒にしながら生きるのです。それがキリ

ストに似ることです。もちろん、このようなこと

を実際に行うのは、容易なことではありません。

教会にはあらゆる意味で、弱者の世話をする部門

をつくるべきです。一つの地域教会では無理なら

ば、いくつかの教会が協力し合うべきです。すべ

ての弱者に効果的に手を差し伸べるのは不可能だ

としても、そういう意識を作り上げ、見過ごしに

しない、無視しない態度を持つべきです。

 



 エルサレムの教会は経済的な弱者に対して、積

極的に手を差し伸べ、そのための組織作りにも乗

り出しました。パウロはその精神を他の教会にも

広げ、国と地域を越えた教会間の助け合いにしま

した。現在の私たちの教会は、大方、経済的には

恵まれていません。だからといって、互いに助け

合うことが出来ないと決め付けるべきではありま

せん。たとえば、国や公的機関の福祉厚生につい

てよく知っている人がいれば、その知識を大いに

活躍させてでも助け合うべきです。知恵や立場を

生かして助け合うべきです。

 



 弱い人たちの中には、弱さに甘えている者もい

ることでしょう。そのような人を励まし、諌め、

教え、指導することも大切です。パウロは厳しく

叱りながら励まし指導しています。厳しく指導す

ることによって立ち直る人には厳しい指導、厳し

さにはついて行けないほど弱い人には、その弱さ

に合った取り扱いも必要です。日本の教会は、日

本人の性格上、厳しく取り扱うのが苦手のようで

す。臭いものには蓋でごまかし、問題を大きくし

て解決できないところまで行ってしまってから、

相手を責めて自分は安全圏に避難するというのが

一般的です。きちっと厳しく取り扱い、しっかり

と優しく抱き寄せる対応が必要です。

 



 三位一体の神は、天地創造の前、永遠の昔か

ら、三位の中で互いに愛し合う、愛の神として存

在しておられました。そしてその愛の表現として

愛の対象となる人間をお造りになりました。人間

は神の愛の対象として、神に似せて造られまし

た。つまり愛し合うべき存在として作られまし

た。神は、すべての人間が神だけを愛し慕うよう

にはお造りにならず、人間同士が愛し合うように

もお造りになりました。人間同士が互いに愛し合

うのを、神はお喜びになるのです。罪のために互

いに愛し合うことが出来なくなった人間は、愛に

よって贖われ、愛によって作り変えられ、愛によ

って結び合わされて、キリストのみからだに属す

るようになって、再び互いに愛し合うものとされ

たのです。




 
8.共同体の目的 



 神が人を救い、キリストのみからだにバプタイ

ズし、聖霊を飲むものとして聖霊の内住を体験さ

せ、愛し合うことが出来るようにしてくださった

のは、救われた人々が神の力によって幸せになる

ためだけではありません。神が幸せにしようとし

ておられるのは、限られたわずかの人々だけでは

なく、もっと多くの人々です。

 



 神はあらゆる異なった人々を召して救いに入

れ、その人々のあらゆる能力や資質をその人々も

ろともに贖い、清めてご自分のものとして、キリ

ストのみからだに組み入れてくださいました。そ

の上、それらを有機的に機能させて、キリストの

み体の一部とされた人々が、互いに助け合ってキ

リストの恵みの中に成長していくようにしてくだ

さいました。



 

とは言えキリストのみ体は、決して自分の益だ

けのために存在するものではありません。教会は

教会のために、教会の自己充足のために存在する

のではないのです。キリストは神の姿を捨ててこ

の世に降り、十字架の贖いを通して私たちを救っ

てくださいました。いまや私たちは、そのキリス

トに倣うものとなり、そのみからだである教会に

バプタイズされているのです。キリストのみ体

は、キリストが地上を後にされてからも、キリス

トの霊である聖霊を宿して、その聖霊の力によっ

てキリストのお働きを継続するのです。

 



 キリストの救いのみ業を継続することこそ、教

会という共同体がこの世に存在する目的、存在理

由です。キリストのみ体にバプタイズされたとい

うことは、この目的、この存在目的のために、キ

リストのみからだの一部として組み込まれたとい

うことです。キリストのみからだが継続するキリ

ストのお働きとは、人々の救いです。教会は人々

の救いのために働くのです。それこそが教会に与

えられている使命です。

 


 ですから私たちは、私たちの救いと幸せのため

に召されたのではありません。それ以上の使命の

ために召されているのです。それは世界の人々の

救いです。私たちははじめから、世界の救いの働

きのために救われたのです。また、世界の人々の

救いは世界の人々の幸せのためだけではありませ

ん。それ以上の使命があるのです。それは、世界

中の人々が神を崇め、神を礼拝するためです。私

たちの救いの究極の目的は、すべてのものの造り

主である神の栄光を、心と声を一つにして褒めた

たえることです。

 



 いわゆる伝道者として召されたり、牧師として

召されたりした人たちだけが召されたのではあり

ません。本来、召しとは救いの一面です。救われ

た人すべてが召されているのです。福音宣教とい

う使命を遂行するために、召され、教会にバプタ

イズされているのです。教会の中では、それぞれ

の賜物、能力、資質、力、背景などに応じて、教

会全体のためにそして使命遂行のために尽くすの

です。

  



 くり返しますが、私たちが救われたのは、私た

ちのためだけではありません。私たち以外の人た

ちの救いのためです。それは愛の神の愛のみ業、

罪人の救いの働きに役立つということです。そし

て、すべての膝が神のみ前でかがめられ、すべて

の口が神の栄光をほめたたえるためです。究極的

に、私たちは神の栄光のために存在し、神の栄光

を崇め、神の愛の中に喜び、神を慕いながら、互

いに愛し合って生きるのです。私たちが救われた

ということは、そのような共同体の中に入れられ

たということなのです。













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救いに伴って私たちに起こったこと (2)


 4.       聖霊を飲むものとされた

 

 ところでパウロは、私たちはみなキリストのみ

からだにバプタイズされたと言った後、すぐに、

聖霊を飲むものとされたとも語っています。聖霊

を飲むという表現も、五感では感知できない霊的

体験を、あたかも五感で感じ取ることが出来る、

日常の体験のように語ったものです。そのように

語らなければ語る方法がなく、理解される手段も

ないからです。



 

 聖霊が満ちていてくださるキリストのみからだ

に、バプタイズされるという表現も、聖霊を飲む

という表現もとても絵画的描写です。まるで、満

々と溢れる水の中に投げ込まれて、その水を飲み

込んでしまった体験を語っているようです。この

ときパウロは、多分、伝道旅行中に海難事故に遭

い、海に投げ出されたときの体験を思い起こしな

がら、語ったのではないでしょうか。前後左右上

下まったく水に取り囲まれ、鼻からも耳からも水

が入り込もうとする。もちろん口を開けようもの

なら、容赦なく口の中にも入り込もうとする体験

です。この体験をクリスチャンになったという出

来事の、霊的次元での体験と重ね合わせたので

す。クリスチャンになるということは、聖霊の海

の中に投げ込まれて、その中にぶくぶくと沈み、

腹の中にまで聖霊が浸わたってくるという体験な

のです。



 

 クリスチャンになるということは、聖霊を内に

宿すことだと言われてきました。それはそれで間

違いではありません。ところがそれは、パウロの

表現によると、まず、キリストのみからだにバプ

タイズされることによって起こるのです。キリス

トのみからだが聖霊に満ちているからです。それ

はキリストを信じたら最初に起こることではな

く、時間的にはともかく、理論的にはキリストの

みからだにバプタイズされることに引き続いて、

その後に起こることなのです。

 



 キリストを信じて聖霊の内住を得た個々人が、

任意に集まって教会を形成するのではありませ

ん。かえって聖霊によって、有無もなく教会にバ

プタイズされることによって、聖霊を飲むものと

なり、聖霊の内住が可能となるのです。ここに、

キリストの救いに与かることと、教会に連なるこ

との重要な関係が明瞭に示されています。西欧個

人主義に影響された多くのクリスチャンが、信仰

とは自分と神との個人的関係だと理解し、教会に

加入することは益になるかもしれないけれども、

必ずしも重要ではないと考えていますが、聖書

は、キリストを信じる信仰と教会に連なることを

不可分のものとして語っているのです。

 



 ですから、クリスチャン信仰と教会生活とは、

絶対に切り離して考えたり論じたりしてはならな

いものです。教会生活のないクリスチャン生活は

本来あり得ないのです。ところが個人主義の文化

の色眼鏡で聖書を読んだ人たちは、教会の位置を

非常に低く見積もってしまいました。まだ個人主

義があまり強くなかった日本においてさえ、救い

ということを永遠の命、あるいは神との関係の修

復、儒教的な高尚なクリスチャン生涯というよう

な、個人的要素の強い角度からだけ捉える傾向の

あった人たちは、教会を無用の長物としてしまい

ました。

 



 またパウロのこのような表現は、あくまでも霊

的な次元での出来事を、私たちの日常体験の中で

の出来事のように言い表したもので、字義通りに

理解してはならないものです。パウロが言い表そ

うとしていること、パウロが伝えたかったのは、

染料の液の中に浸けられたような体験でも、水を

がぶがぶ飲み込むような体験でもなく、そのよう

にしか表現できない、霊的次元での体験なので

す。つまるところ、キリストを信じたその瞬間か

ら、すべてのクリスチャンは聖霊との非常に密接

な、あるいはとても親密な関係にはいったという

ことです。この関係を妨げるものはないのです。

 



 一人ひとりのクリスチャンは聖霊との親密な関

係にはいり、聖霊の命、キリストの命、聖霊の力

キリストの力などと表現される、復活のキリスト

の命と力をいただいて、甦ったもの、新たに生ま

れたもの、神の国に生きるものとして生きること

ができるようになったのです。罪のためにゆがみ

本来の命と力を発揮することが出来ないでいた、

神に似せて造られた人間性は、このキリストの甦

りの力によって再び活発に活動できるようにな

り、本来の生き方に近づいて生きるようになるの

です。



5.
      
五感の支配する
     
日常の生活の中で
        
霊的事実を体現する

 


 パウロは、「御霊によって生きているなら、御

霊によって歩こう」と語っています。(ガラテヤ

51626)これは、「御霊のよって生きている

かどうかは、良くはわからないけれど、もしも御

霊によって生きているなら」という意味ではなく

「御霊によって生きているのだから、御霊によっ

て生きているという事実があるのだから」という

意味です。つまり、御霊によって生きている、生

かされているという事実が歴然としてあるのだか

ら、その事実を体現して、具現化して、誰にでも

それは事実だと分かるように生き方をしようとい

うことです。

 


 ここで御霊によって生きているというのは、霊

的な次元での事実です。その霊的事実を、私たち

の目で見、体で体験できる日常的な次元の中、そ

の生活の中で「事実」として表現していこうとい

うことです。それは、私たちは神の子となったの

だから、神の子らしく生きようというのと同じで

す。罪から開放されているのだから、罪から開放

された生活をしようというのと同じです。霊的な

事実、霊的次元での歴然とした事実を、日常の生

き方の中ではっきりと現していこうということで

す。



 

 私たちがキリストのみ体に、すなわちキリスト

にバプタイズされたという霊的事実は、洗礼とい
う儀式によって表現されています。それによって

一人ひとりが自分の霊的体験を、日常の感覚で体

感できる体験として持つことができるようにさ

れ、教会として、みんなが公に認めることが出来

るようにされています。

 

 しかし、霊的事実は儀式で表現されるだけでは

足りません。霊的事実には力があるのです。命の

源である聖霊との体験だからです。聖霊に生かさ

れる体験だからです。それはかならず日常の生活

の中に現されてくるべきなのです。すべてのクリ

スチャンは、内に生きていてくださる聖霊の力に

よって新たな生き方をさせられ、新しく生まれた

という表現がふさわしい生活をすることが出来る

のです。

 



 それはまた、聖霊に満ちるという表現とも関係

があります。聖書は聖霊に満ちた人とか、聖霊に

満たされてという言い方をしています。それはク

リスチャンがその時に限って聖霊の満たしを受け

たとか、その人だけが、他の人に比べて豊に聖霊

の満たしを受けているかのように聞こえますが、

実際はそうではないと考えられます。すべての人

は霊的次元の事実、霊的次元の現実として、聖霊

の中にバプタイズされ、聖霊を飲むものとされて

いるのです。その霊的次元の事実を日常の世界で

如実に体現していることが、聖霊に満たされてい

ることであり、その霊的次元の現実をより豊にこ

の目に見える次元で具現している人が、聖霊に満

ちた人だといえるのです。

 



 それが、旧約時代の英雄に聖霊が臨んだといわ

れているのと、異なる点のように考えられます。

旧約時代にも、確かに聖霊は臨み、また離れて行

かれました。しかし新約の預言者(すべての信

徒)は、満ち満ちた聖霊の中にバプタイズされて

いるのです。旧約の時代の聖霊、神の霊は、あた

かも人が大きな神の働きをしようとするとき、あ

るいは神の大きな働きをしようとする人に与えら

れる、神の特別な力でもあるかのように表現され

ています。ですから旧約聖書の記述だけを読ん

で、聖霊が三位の神の第三格位の方だと理解する

ことはまずありません。ところが新約聖書の記述

を読むと、聖霊は単なる神の力ではなく、人との

交わりを有効にし、それを深め強めてくださる神

ご自身であることが分かるのです。

 



 そのような聖霊体験をしている人々の共同体が

教会です。教会は単なる人為的な協同組合のよう

なものとは違います。それに連なる者すべてが甦

りのキリストの霊をいただき、その霊に生かさ

れ、キリストに似るものに作り変えられながら、

互いに愛し合う共同体なのです。すべての構成人

員がキリストの贖いの愛を体験し、その愛に生か

され、その愛に生きる共同体です。そしてそれを

可能にしてくださるのが、全員を取り巻き全員の

中に生きておられるキリストの霊なのです。だか

ら、パウロはいうのです。「聖霊によって生きて

いるのなら、聖霊によって歩もうではないか」

 



 教会は神の家族と言われています。赤ちゃんは

家族の中で愛され、世話を焼かれ、教えられ、育

まれるのです。家庭がなければ、赤ちゃんが正常

に成長するのは困難です。クリスチャンが正常に

そして健康に成長するためには、絶対に、この神

の家族の中にいなければなりません。それは単に

霊的事実として神の家族の中にいるということで

終わることではなく、その霊的事実を具体的に顕

現した地域教会の中で育たなければなりません。

クリスチャンは、地域教会において具体的に交わ

りを共にしてこそ、正しく成長できるのです。き

ちっと地域教会に加わらず、花から花に移る蝶の

ように教会を渡り歩き、勝手気ままな生き方をし

ているクリスチャンは、霊的現実を具体的に体現

することが出来ないために、成長できないままに

終わってしまうのです。

 



 考えて見ましょう。クリスチャンに与えられて

いるもっとも崇高な戒めは、キリストが私たちを

愛してくださったように、互いに愛し合うことで

す。でも、もしもクリスチャンが他のクリスチャ

ンと交わりを持たず、顔も知らない名前も知らな

い生活も知らないとしたら、どのようにして互い

に愛し合うのでしょう。食事の前に、全世界のク

リスチャンたちを祝福してくださいと祈っても、

互いに愛し合っていることにはなりません。具体

的な交わりと助け合いがないところに、本物の愛

はないのです。




 
6.クリスチャンの成長 



 クリスチャンの成長は、上を目指した自分の努

力もさることながら、聖霊によるものであること

を知らなければなりません。多くのクリスチャン

が、自分の中に起こった霊的な出来事、霊的な次

元での体験に気付かないままに生きています。自

分の内に聖霊が生きていてくださるという事実

に、まったく気付かないまま生活しているので

す。長いあいだ罪に縛られて自由を奪われていた

ために、自分には神に喜ばれる生き方はできない

と思い込んでしまい、自分の中に与えられた新し

い命、新しい力、神の可能性に気付かないので

す。

 



 鶏の両足を紐で縛って放っておくと、しばらく

は逃げようとしてもがきますが、やがて無理だと

わかってあきらめてしまいます。
3日間ほどもそ

うしておいてから紐を切ってやると、紐が切られ

たという事実に気付かずに、あきらめたまま歩こ
うとはしません。歩けない、歩くことは出来な

い、歩く力がないと思い込んで、いつまでも座り

込んだままでいるのです。長い間、罪の中にいて

クリスチャンになった多くの人たちも同じです。

歩けないと思い込んでいるために、自由を与えら

れ、力を与えられていても歩こうとせず、歩けな

いで終わってしまうのです。



 

 クリスチャンには、自分が聖霊の満ち溢れるキ

リストのからだにバプタイズされ、聖霊を飲むも

のにされたという、霊的次元の出来事を認識させ

ることが大切です。そしてその事実に立って行動

するように励ますのです。すると、最初はおぼつ

かない足取りでも歩き出すことが出来るのです。

だんだん痺(しび)れもとれ、感覚を取り戻し、

健康な人のように歩き始めることが出来るので

す。

 



 ただこのとき、生まれながらに自分の中にあっ

た力を頼りにしてはなりません。立派な生活をし

てきた人、尊敬されるような生き方をしてきた

人、自分の能力に自信を持っている人ほど、自分

の力に頼って失敗することが多いのです。頼るの

は、あくまでも、内に住んでくださった聖霊の力

です。聖霊にお願いし、その力に頼り、その約束

に信頼して歩き出すと、歩くことが出来るように

なるのです。具体的には、今までできなかった生

き方をさせてください、愛することが出来るよう

に、赦すことが出来るように、我慢をすることが

出来るように、腹を立てないで済むように、にこ

やかに対応することが出来るように、欲望に打ち

勝つことができるように、劣等感に勝利をするこ

とが出来るように、無力感を払いのけることが出

来るようにしてくださいと、自分には出来なかっ

たことをひとつひとつ、祈りながら試していくこ

とです。そして、少し出来たら感謝、もう少し出

来たら大いに感謝、出来なかったときにも失望せ

ず、心配もせず、それでも愛し続けていてくださ

る神様に感謝して、もう一度、試させてください

とやり直すのです。するとかならず、出来るよう

になっていくのです。

 



 クリスチャンの成長は、自分は聖霊を飲んだの

だ、聖霊が自分の内に住んでいてくださるのだと

いう霊的事実を確認し、その聖霊に信頼し、聖霊

の力を期待し、祈りながら、自分には不可能だっ

たキリストに倣う生き方を、ひとつひとつ実行し

ていくことによって達成されるものです。聖霊は

日々私たちを作り変え、キリストに似た者に作り

上げてくださるのです。

                 つづく







  





 
posted by まさ at 20:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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