2010年09月13日

癌告知のできない日本人



 友人の女性が、舌に異常を感じて精密検査を受

けました。結果が出る日、彼女は主治医に会って

話を聞いて欲しいと、私に頼むのです。このよう

な場合、夫では信頼できないと考えたからです。

彼女はときどき教会に来るだけで、まだクリスチ

ャンではありませんでしたが、本当のことを知り

たいと望んだのです。




 主治医は、「だいぶ進行している舌癌です。で

きるだけ早く手術をするべきです」と言うのです

が、案の定、夫は「それを彼女に告げるのは酷だ

から、少し待ってほしい」と顔を曇らせました。

「彼女が牧師であるわたしを一緒にお医者さんに

会って欲しいと言ったのは、すぐに本当のことを

知りたいからです。牧師は本当のことを言ってく

れると信じているんですよ。癌ならできるだけ早

く手術をするのがいいのです。遅らせるべきでは

ありません」 隣に座っていた私は、夫を促しま

した。

 

結局、妻に癌の事実を告げることが出来ない、

「情けない」夫に代わって、私が隣の部屋で待っ

ていた友人に告げました。それで彼女は
2日後に

は福岡の病院に行って、手術を受けることができ

たのです。その手術も驚くほど旨く進んで、回復

も早く、一週間後には退院して来ました。舌の奥

のほうを直径
2cmほど切り取ったとの事ですが、

発音にも、食事にも、まったく影響がありません

でした。



 

 いくらかでも聖書の話を聞いていた彼女は、少

しばかり自己を確立した人間になっていたと思わ

れます。それに比べると、夫は極めて日本人らし

く癌の告知をしないで、隠し通そうとしたのです。

その結果、みんなが嘘をつき続け、苦しみ続ける

ことを選ぼうとしたわけです。共に苦しみを担う

という、日本人独特の考え方が背後にあるのだと

思います。思いやりと言う名の甘えを、みんなが

共有しているわけです。このある種の共同体感覚

の甘えが、日本人の自立を阻んでいるとも言えそ

うです。



 

 日本人は、自己確立が出来ていないと、つくづ

く感じることがあります。いつも他人の目を気に

して、こそこそと生きている。ほかの者の意見を

心配して、自分の考えを言うことができない。な

にごとも自分で選択決定が出来ない。周囲の者の

言うことに振り回されるというようなことが、と

ても目に付くのです。日本人の中だけで生活して

いると、それは当たり前で気付くこともありませ

んが、外国人たちと生活と仕事を一緒にすると、

日本人は非常に特異だと感じるのです。



 

 どうやら、自分をしっかり持っているというこ

とと、個人主義は強く繋がっているようです。も

ちろん日本人の中にも、昔から自分勝手と呼ばれ

る個人主義はごくふつうに見られました。でも、

自分を確立しているという意味での個人主義には、

まだなっていないように思います。



 

とはいえ、個人主義のすべてがよいわけではな

く、自己の確立がいつも良いほうに現れるわけで

もありません。私などは日本人の共同体感覚に、

とても美しいものを感じるのです。ただ、私たち

が聞いてきた西欧回りのキリスト教は、非常に個

人主義傾向が強いキリスト教で、日本独特の共同

体感覚に根ざした日本人の心理、考え方、感じ方、

習慣、家族、親族、社会制度などに、旨くかみ合

わないのです。

 

ですからクリスチャンになると、倫理道徳とい

う意味では立派な人間になるのに、社会に反する

人間、家庭や地域でうまく立ち回れない者になり、

はた迷惑で面倒くさい奴になってしまうのです。

日曜日の行事には参加しない。お祝いの席で乾杯

も出来ない。盆が来てもお墓参りにも行かない。

葬式があっても線香も上げない。挙げればきりが

ありません。

 



 西欧回りのキリスト教は、そのようなことに頑

固に立ち向かうことが、クリスチャンとして欠く

ことができない重要事項と考え、それができてこ

そ確立した人間の確立した信仰と考えてことさら

に強調し、それができたクリスチャンを賞賛する

のです。でも、はっきり言って、聖書もキリスト

もそんなことは教えていないのです。







posted by まさ at 17:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

外車は意外に売れなかった


 外車が垂涎の的だった頃がありました。今では

ちょっと考えられません。若い娘など、外車と見

ただけで「きゃー」と叫んで集まって来たと言わ

れるほどです。ところが、その外車が、実は意外

に売れていなかったのです。高価だったからだけ

ではありません。他にもたくさん理由があったの

です。

 



 外車の多くは左ハンドルでした。これは不便で

す。でも、わざわざ日本のために右ハンドルにし

てくれる会社は、まだありませんでした。「俺た

ちのほうが正しいんだ。お前たちが直せ」という

態度が見え見えだったのです。図体が大きくて、

狭い日本の道を運転するには一苦労でした。車体

が低く、日本のデコボコな砂利道を走るのは辛い

ことでした。車内が広いのは良いとしても、小さ

な日本人には、足が届かないために余計な劣等感

を抱かせただけでなく、何もかも使い勝手が悪か

ったのです。日本の道路交通法に合わないライト

だとかシグナルだとかが付けられていて、買って

から付け直さなければならなかったことさえあり

ました。でも、「先進国」の自動車会社は、「後

進国日本」のために(当時は開発途上国とは呼ん

でいなかった)、それをわざわざ変えようなどと

は思わなかったのです。


 

最近輸入される外車の多くは、日本仕様に作ら

れていて、ずいぶん変わりました。そうしなけれ

ば売れないからです。



 

とても良いものなのに、アメリカやイギリスか

ら輸入されているために、いまだに日本では良く

売れないものに「キリスト教」があります。「日

本人のクリスチャンはなぜ少ないのだろう?」 

これは牧師や宣教師たちの悩みであるだけではな

く、多くの社会学者たちが不思議に思って調べて

いることです。なにしろ、まだ誕生
100年にもな

っていない私の属している団体だけでも、世界の

信徒数は6千万人と言われるほどになっています。

ついこの間までは
5千万人と言っていたのに大変

な勢いです。それなのに、日本ではわずか
1万人

を少し上回るだけなのです。


 

キリスト教はもともとアジアで興った宗教です

が、長い間ヨーロッパで成長したために、その考

え方や習慣や神学などは、決定的にヨーロッパ的

です。ですから、多くの日本人はどうしても馴染

めないのです。たしかに欧米化した都会型の人、

あるいは保守的な自分の土地を離れた若者たちの

間では、このようなキリスト教もいくらかは受け

入れられています。また、留学や仕事で海外生活

をしている多くの日本人が、郷に入らば郷に従え

でクリスチャンになっています。でも自分の故郷

に帰ると、そこでも郷に入らば郷に従えで、あっ

さりクリスチャンを捨ててしまいます。



 

私がまだ宣教師としてフィリピンの未開部族の

間で働いていたとき、カナダからやってきたフィ

ンランド人の同僚がいました。彼の家を訪ねると

必ず、わざわざカナダから持ち込んだ大きな車の

修理をしていました。カナダの気候に合わせて寒

冷地仕様にされていたシェビーのバンは、熱帯の

フィリピンではどうしても旨く走らないのです。

結局彼は、フィリピンの生活に合わず数年で帰国

したのですが、寒冷地仕様に装着された、簡単な

コンピューターシステムを取り扱うことができず

に、滞在期間のほとんどを、車の修理に費やして

しまいました。



 
 聖書の教え自体は日本人にも非常に有益です。

キリストの教えは日本人にピッタリと来るもので

す。でもそれらが西欧の人々の生活習慣、考え方

や文化に合わせて構築されたのが、いわゆる「キ

リスト教」です。それが日本人に合わないのは当

然です。日本人の考え方、感じ方、社会の構造、

生活習慣に当てはめると、大きさが微妙に違う歯

車のように、軋んで、どちらかが壊れてしまいま

す。



 大切なのは西欧文化に適応されたキリスト教で

はなく、「キリスト教」という西欧文化を取り除

いた、「聖書が教える教え」、「キリストが教え

る教え」です。伝統を重んじ変化を嫌うのが大き

な宗教の特徴です。それも重要ですが、いつも正

しいとは限りません。日本に輸入されたキリスト

教も、変化を憎みます。でも、勇気をもってオリ

ジナルの姿に戻ることが必須なのです。

 


 西欧の人々のために作り上げられたキリスト教

を、日本人に無理に買わせようとしている。それ

こそ、日本でキリスト教が受け入れられない、大

きな理由の一つに間違いありません。








posted by まさ at 10:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

民族舞踊


 バリ島で民族舞踊を見ました。女の子たちは飾り

立てられた金色の冠を被り、原色の糸でつむいだ

巻きスカートのようなものをつけ、ぴかぴかの装

飾をたくさん施した胸当てで乳房を覆っていまま

したが、くねくねと曲がる体と際限がないほどよ

じれねじれる腕と指は、女性の曲線の美しさを強

調していました。民族も宗教も違い、踊りの意味

も異なっているとは思うのですが、カンボジアや

タイ、ミャンマーでも同じような踊りを見てきま

した。



 

フィリピンの女性の民族舞踊はまったく違って

いて、からだをくねらせて曲線の美しさを出すよ

うなものは見たことがありません。文明が遅れて

いた小部族の集まりに過ぎなかったこの国は、ス

ペインに統治されて、舞踏や音楽までもスペイン

的な服装とスペイン的なリズムに変わってしまっ

たようです。



 

ブラジルのカーニバルでサンバを踊る女性たち

はまた、まったく別です。全身ほとんど裸に近い

大勢の女性たちが、わずかにからだを覆う部分を

大げさに飾り立て、激しいリズムで躍動します。

肉体の美しさをそのまま謳歌しています。


 

南太平洋の小島に住む、アフリカ系民族の舞踏

を見ました。小さな腰蓑だけで真っ白な砂浜で踊

る、豊かな真っ黒なからだは軽やかに弾み、生き

ることの喜びを思いっきり発散させているように

見えました。これは、私の観たあらゆる踊りの中

で、もっとも感動的でした。



 

北欧やロシアの民族舞踊の女性たちは、国家や

民族がちがってもかなり共通しています。皆美し

く着飾って、極めて大きなからだの動きをします

が、肌が露になるようなことはまずありません。



 

日本の舞踊はといえば、高価ではあってもあま

りけばけばしくない、どちらかといえば落ち着い

た着物を着て、極めて様式化された身のこなしで

ゆっくりと踊ります。ここでも、肌が出るような

ことはありません。

 



 肌が露で、セクシーさをアピールするかのよう

な踊りをする女性たちが、特別に猥らだというこ

とはありません。優雅にまたしとやかに踊る日本

人女性も、肌を見せない北欧の女性も、結構猥ら

なところがあり、あまり変わりはありません。

 



 肌が出るか、裸に近いか、全身着物で隠されて

いるか。それは倫理観によるよりも、灼熱の国か

酷寒の国かによるものです。マイナス
30度にもな

る土地で、サンバの格好で踊れはしません。アス

ファルトが溶けて流れ出す国で、きちっと帯を締

め、トンテンシャンと静かに踊っていたのでは、

たちまち倒れてしまいます。


 

私たちが受け継いできたキリスト教は、長い間

北欧で育てられたキリスト教です。いまでこそ状

況は変わりましたが、ずいぶん長い間、膝小僧ど

ころかくるぶしが見えるだけで、はしたない、猥

らだと叱られる環境でした。その中でももっとも

厳格な、メゾジストというキリスト教の流れを汲

み、さらに清教徒と呼ばれる人たちの考え方を受

け継ぎ、その上に、清潔を強調するアメリカのホ

ーリネスという仲間の影響を、強く受けてきたの

が私たちのキリスト教です。

 



 北欧で育てられ、北欧で組み立てられたキリス

ト教の考え方は、同じキリストの教えを理解し、

同じ聖書の教えを解釈するのでも、北欧の環境、

北欧の生活に合うように育てられ、組み立てられ

ています。それが自然のなりゆきです。それが新

大陸アメリカの自由の精神の中で、ある意味で爛

熟し、日本に入ってきたのです。」


 

日本に入ってきた北欧とアメリカ周りの厳しい

キリスト教は、廃藩置県で行き所がなくなってい

た下級武士階級に歓迎されました。彼らは儒教の

倫理を学んでいたために、厳しいキリスト教を儒

教に勝る教え、儒教の完成として喜んで受けいれ

たのです。でも、儒教とはあまり関わりの無かっ

た一般庶民は「高潔なキリスト教」を見上げるだ

けで、自分たちのものにすることは出来ませんで

した。


 

それで、「キリスト教は立派だ」「でも俺たち

には無理だ」「キリスト教だって一皮向けば中身

はおんなじさ」、ということになってしまいまし

た。裸でサンバを踊る女性も、しとやかに見える

日本の女性も同じ女性。確かにそんなところがあ

ります。


 

大切なのは、文化的表現、文化的飾り、文化的

適用、文化的解釈というものを一旦横において、

できるだけ素直に、キリストの教え、聖書の教え

を理解しようとする心です。表面に現れる文化的

装い、適用などを排除して、キリストの教えその

もの、聖書の教えそのものに、目を注ぐことだと

思うのです。








posted by まさ at 08:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

文化のはざまで(1)





 アメリカ人たちと持ち寄りの食事会をしまし

た。きれいに飾り立てたケーキも、フルーツサラ

ダもそれなりに楽しいものでした。でもケーキは

「物凄〜〜く甘く」 一切れ食べるのにも苦労し

ました。フルーツサラダは、なんだかきつい香り

が付いていて、・・・・・悪いですが・・・・石

鹸をかじっているような・・・・・・・。

 



 すっぱい胡瓜のピクルスも、たまには悪くあり

ません。でも私にはやっぱり、その横の有田焼の

器に盛られた浅漬の胡瓜と、波佐見焼きのお皿に

乗っていた沢庵のほうがずっと口に合いました。

いつも食べているのになつかしくさえ感じたので

す。大きなガラスのボールに一杯作られた琥珀色

のゼリーより、小さな器にひっそりしている水羊

羹のほうに手が出ました。



 

結構、長い間海外生活をし、色々な国の人たち

とずいぶん広く付き合い、彼らの素晴らしさ、そ

の文化の豊かさ、食べ物の美味しさ、そうそう、

かなり変わった食べ物にも慣れているはずです

が、少し年齢を重ねると、回帰現象が起こるので

ょうか。日本のものが肌にも口にもとても良く合

うようになってきたのです。



 

同じ材料を使っても、まったく違うものに仕上

がります。味も違えば歯あたりも異なる料理とな

り、色合いも形も違う物となります。



 

私は日本人です。日本人のクリスチャンです。

クリスチャンになりたての若い頃、西欧から入っ

てきたキリスト教に、新鮮な魅力を感じました。

でもその西欧臭さが、どうにも鼻についてくるよ

うになりました。ピクルスの胡瓜よりは浅漬けの

胡瓜です。

 



 自分がずっと食べ続けてきたキリスト教が、実

は西欧で味付けられた宗教であって、必ずしも、

キリストが教えてくださった教えそのものではな

いと気付いたのは、宣教師として海外の未開部族

の中で働いて、だいぶ歳を重ねてからのことでし
た。

 


自分が信じて実践してきた聖書の教えも、かな

りのところ、西欧流に読まれ、西欧流に解釈さ

れ、西欧流に適用されたもので、聖書そのものの

教えとは少しばかり違うところがあると思い始め

たのも、宣教師をやめて日本の片田舎にもどり、

小さな教会を始めてからの事です。ずいぶんと理

解の遅い人間です。

  

 

いまの私の願いは、聖書を日本人的感覚で読み

直し、日本人的見方で理解しなおすことです。本

質的なものに変わりはないでしょう。牛肉は牛肉

です。でも料理の仕方で好き嫌いが出来、とても

食いつけない代物にもなるのです。多くの日本人

がキリスト教をちょっとだけかじって見て、眉を

ひそめて吐き出すのは、素材であるキリストの教

えが悪いのでも、聖書の教えがまずいのでもあり

ません。料理の仕方、味付けの仕方が、日本人に

合わず、日本人の文化と社会に馴染まないだけの

ことです。



 


 これからしばらくの間、そのような「文化的つ

まずき」とでも言うべきことを、ぶつぶつとつぶ

やいて行きたいと思っています。日本人にも、キ

リストの教え、聖書の教えを美味しく食べてもら

いたいからです。








posted by まさ at 18:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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